2024年1月 画像やブロックの書式を更新しました。
当サイト誕生直後の記事だったので,読みにくい箇所が多数ありましたが,随分と改善され,今までよりも読みやすくなったと思います!
細部の情報の修正や,新しい情報の追加もしました。
よろしければご覧ください!
ショパンの生涯 マリアとの破局,ジョルジュ・サンドとの出会い
1836年:ショパン26歳
◆主な出来事◆
3月,マリーエンバートへの旅を計画。4月,エラール・ホール (サル・エラール) での演奏会。
7月,マリーエンバートへヴォジニスキ家を訪ねる。その後ドレスデンへ移動する。9月にマリアに求婚するが,ヴォジニスカ夫人の助言もあって,秘密にする。
パリへ戻る途中,ライプツィヒでシューマンと会う。
パリでは新しいアパートへ移る。
リストとの交流が頻繁になる。
11月,リストとマリー・ダグーが一緒にアパートを借りていた,オテル・ド・フランスにて,ショパンとジョルジュ・サンドが初めて出会う。
◆作品◆
バラード ヘ長調 Op.38 ※1839年完成エチュード 嬰ハ短調 Op.25-7
マズルカ ハ短調 Op.30-1
マズルカ ロ短調 Op.30-2
マズルカ 変ニ長調 Op.30-3
マズルカ 嬰ハ短調 Op.30-4
ノクターン ロ長調 Op.32-1
ノクターン 変イ長調 Op.32-2
プレリュード ト長調 Op.28-3 ※1836-38年
プレリュード ニ長調 Op.28-5 ※1836-38年
プレリュード ロ短調 Op.28-6 ※1836-38年
プレリュード イ長調 Op.28-7
プレリュード 嬰ヘ短調 Op.28-8 ※1836-38年
プレリュード ホ長調 Op.28-9 ※1836-38年
プレリュード ロ長調 Op.28-11 ※1836-38年
プレリュード 嬰ト短調 Op.28-12 ※1836-38年
プレリュード 嬰ヘ長調 Op.28-13 ※1836-38年
プレリュード 変ホ短調 Op.28-14 ※1836-38年
プレリュード 変ニ長調『雨だれの前奏曲』Op.28-15 ※1836-38年
プレリュード 変ロ短調 Op.28-16 ※1836-38年
プレリュード 変イ長調 Op.28-17
プレリュード ヘ短調 Op.28-18 ※1836-38年
プレリュード 変ホ長調 Op.28-19 ※1836-38年
プレリュード ハ短調 Op.28-20 ※1836-38年
プレリュード ト短調 Op.28-22 ※1836-38年
プレリュード ヘ長調 Op.28-23 ※1836-38年
プレリュード ニ短調 Op.28-24 ※1836-38年(一説では1831年に着手)
歌曲「指輪」 Op.74-14
歌曲「舞い落ちる木の葉」 Op.74-17
◆社会的・芸術的な出来事◆
ポーランド,ポアチエ宣言。ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世),権力獲得に失敗。
パリの凱旋門完成。
テキサス州独立。
マイヤベーア『ユグノー教徒』
ディッケンズ『ピクウィック・ペイパーズ』
シューマン『幻想曲 ハ長調』
マリアへの求婚
1836年の夏,ショパンは避暑のためにマリーエンバートに滞在しているびヴォジニスキ伯爵家と再び休暇を過ごしました。
この夏は,メンデルスゾーンからデュッセルドルフで開かれるライン音楽祭への招待状が届いており,その手紙にはシューマンからの追伸もついていました。
しかしドレスデンへマリアに会いに行くことを優先し,デュッセルドルフへは行きませんでした。
また,ドレスデンへの旅費のため,ピアノ協奏曲ヘ短調を出版します。
この協奏曲は初恋の人コンスタンツィアを想って作った曲でしたが・・・
さらには,この曲はポトツカ夫人に献呈されています。
初恋の人コンスタンツィアを想って作った曲を,愛するマリアに会いにいくための旅費として出版し,ショパンの憧れの女性ポトツカ夫人に献呈するフレデリック。
コンスタンツィアへのほのかな初恋は,すっかり過去のことになっていたようです。
デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
ポトツカ夫人は,ショパンと同じポーランド人同士で,特に親しい友人の一人でした。
ショパンより3歳年上で,夫の財産家の伯爵とは別居し,パリに住んでいました。
ショパンの死の直前にもショパンのもとを訪れ,彼のための歌を歌っています。
恋愛関係にあったという説もありますが,根拠となるものは残っていません。
ポトツカ夫人は絶世の美女で,美声の持ち主でした。
1832年にはショパンの弟子となり,ショパンはピアノを教えたり,歌の伴奏をしたりしました。
ポトツカ夫人には1836年にピアノ協奏曲ヘ短調を献呈し,さらに後年,小犬のワルツ(子犬のワルツ)Op.64-1も献呈しています。
マリーエンバートでは,マリアたちと高級旅館に宿泊しますが,長旅で疲れたショパンは体調を崩してずっと旅館に籠もっていました。
マリーエンバートでは,マリアが水彩画でショパンの肖像画を描いたり,ショパンがピアノを教えたりして過ごしました。
このときはショパンのエチュードOp.25-1と2をレッスンしたとのことです。
その後マリーエンバートからドレスデンに移動します。
なかなか言い出せなかった優柔不断なショパンですが,いよいよパリへ戻る直前,ショパンはマリアに求婚します。
マリアも求婚を受け入れました。
1836年9月6日の夕暮れ,フレデリック26歳,マリア17歳のことでした。
マリアの母ヴォジニスキ夫人は,一応は婚約を認めたものの,ショパンの健康状態の悪さから婚約の公表は無期限の延期を告げられます。
そして,ヴォジニスキ家の主治医にショパンを診させて,夜は遊び歩かず11時には寝ること,ウールのくつ下をはくなど,健康に気をつけて生活を送ることを約束させ,約束が守られているか数カ月間テストをすることを結婚の条件としました。
また,テストに合格するまでは,婚約のことを世間に知らせないように約束させられました。
フレデリックはこの婚約の前途を楽観していたようで,彼は幸福でした。
しかしこの時を最後にマリアとは再び相見ぬ運命でした。
9月10日にドレスデンを出たショパンは,12日にライプツィヒを訪れて,1年ぶりにシューマンと再会します。
シューマンはショパンのバラードト短調,ノクターン,マズルカ,エチュードOp.25の演奏を聴き,歓喜しました。
特にバラードト短調はシューマンのお気に入りの曲となりました。
ジョルジュ・サンドとの出会い
1836年冬,すでに友人となっていた作曲家リストの招きで,リストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のパーティーに行きます。
ここで,ジョルジュ・サンドとして知られる女流作家・男女同権運動家のアマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン,デュドヴァン男爵夫人と出会っています。
ジョルジュ・サンドとリストはもともと友人で,リストが逗留しているスイスにサンドが遊びにいったり,サンドのノアンの別荘にリストとその愛人マリー・ダグー夫人を招いたりしていました。
サンドはリストからショパンの天才ぶりを聞かされており,ショパンに興味を持ち,ショパンに会いたがっていました。
そこで,リストの手引により,ショパンとの出会いを果たしたのでした。
ジョルジュ・サンドは過去に数多くの文化人との浮名を流していましたが,いずれも彼女の永続的な愛情の対象とはなりませんでした。
また,スカートではなくズボンを履き,葉巻をふかす,前衛的な女性でした。
ショパンよりも7歳年上になります。
ショパンは当初「なんて不快な女だ。本当に女性なんだろうか。疑ってしまうよ」と嫌悪感を抱いていました。
しかしサンドはショパンに一目惚れ。ろうそくの光にほのかに照らしだされたピアノの前に静かに目を伏せて,囁くような夢見るような柔らかいタッチで,心に迫る演奏をするショパンの横顔に見惚れます。
サンドは,ショパンとの共通の友人グジマワ伯爵へ長文の手紙を送りその気持を書き綴っています。
手紙の中で,サンドはショパンとの関係を始めるために現在の恋人と分かれるべきか思案しており,またショパンとマリアの関係が今はどうなっているのか,ショパンとマリアの関係が今も続いているのならば邪魔はしたくない,といった気持ちを書いています。
このときサンドには2人の子どもがいました。兄モーリスと妹ソランジュです。
また,サンドの息子モーリスの家庭教師だったマルフィーユと付き合っていました。
夜遊びを続けるショパン
パリに戻ったショパンは,マリアとの新婚生活を思い描き,豪華で広い部屋へ引っ越します。
家具にもこだわり,花を飾り,家の中をエレガントに整えて結婚生活を夢見ていました。
マリアの母テレサ夫人からは,ショパンの健康を心配し,夜遊びを控えて早寝をすることなど,約束を守っているのか,疑うような手紙が届きます。
そして,実際にショパンは約束を守らずに,頻繁に夜会に出かけていました。
おしゃれなショパンはウールのくつ下なんてぜったいに履きませんでした。
だまっていれば分からないと思っていたショパンですが,テレサ夫人はパリにいる友人にフレデリックの様子を探らせます。
そして,相変わらず頻繁に夜会に出入りし,あげくの果には何度も体調を崩して倒れていることなどを知ります。
テレサ夫人からショパンへの手紙はどんどん冷淡なものになっていきました。
1837年:ショパン27歳
◆主な出来事◆
悪性のインフルエンザにかかる。マリア・ヴォジニスカ,婚約を破棄する。
7月,プレイエルと共にロンドンへ向かう。
◆作品◆
アンプロンプチュ 変イ長調 Op.29マズルカ 嬰ト短調 Op.33-1
マズルカ ハ長調 Op.33-2 *多くの版ではOp.33-3となっている
マズルカ ニ長調 Op.33-3*多くの版ではOp.33-2となっている
マズルカ ロ短調 Op.33-4
ノクターン ハ短調 BI.108 KK.IVb-8
スケルツォ 変ロ短調 Op.31
ソナタ 変ロ短調 Op.35 ※第3楽章 葬送行進曲のみ
変奏曲「ヘクサメロン」より第6変奏 ホ長調 BI.113 KK.IIb-2
ラルゴ 変ホ長調 BI.109 KK.IVb-5
歌曲「私のいとしい人」 Op.74-12
◆社会的・芸術的な出来事◆
ヴィクトリア女王,イギリス王位を継承。モールスによる電信の発明。
ディッケンズ『オリヴァー・ツイスト』
カーライル『フランス革命史』
ベルリオーズ『レクイエム』
リスト『巡礼の年』
フンメル,ワイマールで死去。
◆日本の出来事◆
大塩平八郎の乱生田万の乱
モリソン号事件
マリアとの破局
1837年に入って,いつもマリアの母の手紙に添えられてくるマリアの手紙が,恋する少女の手紙から,いつしか単なる友情のみの儀礼的なものに変わりつつあることを感じていました。
そして,あんなにも心楽しく夢想していた結構生活への期待が,空しくくだけてゆくのを静かに見つめていました。
マリアに,歌曲を8曲と嬰ハ短調のノクターンを送りますが,その返事も形式的な心のこもっていないものでした。
結局ヴォジニスキ家はショパンの健康状態への懸念から婚約を破棄します。
当時,フレデリックの周囲には,伯爵夫人でその美貌と美しい声を謳われていたデルフィナ・ポトツカ夫人をはじめ,彼とのロマンスを噂された女性が多くいました。
戯れの恋の相手には不足しなかったことと思われます。
しかしマリアとの破局は,純粋な彼の魂を深く傷つけ,この恋の打撃からは長い間回復しなかったことでしょう。
コンスタンツィアとの恋は思春期の少年の恋でした。
しかしマリアとの恋は,芸術家として独り立ちして生活力をもった大人が,幼少のころから神聖なものとして心に秘めてきた家庭をつくりたい,という切なる夢の実現を目指した恋でした。
失恋後もショパンはヴォジニスキ家の人々との友情を大切にし,手紙も大事に保管していました。
ヴォジニスキ家からの手紙をまとめて,かつてカールスバートでマリアから贈られた枯れたバラの花とともにリボンで丁寧に結ばれた包みが,ショパンの死後に発見されています。
その包みにはポーランド後で「我が哀しみ」とショパンの筆跡で記されていました。
「我が哀しみ」と書かれた包は第二次世界大戦中に紛失しており,現在残っているのは複製されたものになります。
ロンドンへ傷心旅行
フレデリックは,並外れて精神状態が体調に影響します。
マリアとの婚約が破棄されたことで,健康が急速に衰弱していたフレデリックに,友人たちは気分転換のためロンドン行きをすすめました。
そして,ピアノ製造業者で友人でもあったプレイエルと一緒にロンドンに赴きました。
プレイエルと同じピアノ製造業者のブロードウッドの晩餐会に,プレイエルに連れていかれたショパンは「フリッツ」という名前で招待を隠しましたが,食事の後にピアノを弾いてしまい,正体がばれてしまったそうです。
また,モシェレスの演奏会をお忍びで聴きにいっています。
ジョルジュ・サンドからの熱烈なアプローチ
マリー・ダグー伯爵夫人のパーティーでショパンと出会ったジョルジュ・サンドは,たちまちショパンに深い興味を抱くようになっていました。
1837年の春には,ノアンにあるサンドの別荘に,リストとリストの愛人ダグー伯夫人を招いた際に,「ぜひともショパンを連れてきほしい」とリストに懇願しています。
フレデリックは,二つの悲しい恋の経験によって女性の誠実に対して失望していました。
彼はますます孤独と隠遁にひかれて,むしろ女性を嫌悪し女性の心に触れまいとする気持ちになっていたことでしょう。
サンドはショパンの好みとは正反対のような人格でした。7歳も年上であらゆる人情の機微を心得た,精力的で知的で同時に官能的な女性でした。
サンドは偉大な女性であり,豊かな極めて包容的な性格の持ち主でしたが,ショパンが夢想していたような純潔で愛らしい少女ではありませんでした。
しかしサンドは相手の気持ちを労って自己の感情を抑えるような女性ではありませんでした。
サンドは決断力と実行力と,何事も意のままにせずにはおかぬ逞しい意欲に溢れており,フレデリックに対しても積極的にアプローチします。
この年,ショパンはリスト主催の,ベッリーニの主題による『ヘクサメロン変奏曲』の合同作曲に参加し,最後の第6変奏を担当しています。
ショパンの生涯 マジョルカ島への旅
1838年:ショパン28歳
◆主な出来事◆
失恋の痛手から立ち直ると共に,サンドとの間が急速に親密さを増してくる。3月,アルカン主催の音楽会,並びにポーランド難民救済のための音楽会に出演。
10月,サンドと共に,マジョルカ島に静養に向かう。しかし悪天候のため,却って病状が悪化する。
前奏曲集の完成に力を注ぐ。
◆作品◆
マズルカ ホ短調 Op.41-1 *多くの版ではOp.41-2となっているノクターン ト短調 Op.37-1
ポロネーズ イ長調 Op.40-1「軍隊ポロネーズ」
ポロネーズ ハ短調 Op.40-2
華麗なるワルツ ヘ長調 Op.34-3
歌曲「春」 Op.74-2
春 ト短調 ※歌曲「春」のピアノ編曲版 Op.74-2
プレリュード イ短調 Op.28-2 ※一説には1831年に着手
プレリュード ホ短調 Op.28-4
プレリュード 嬰ハ短調 Op.28-10
プレリュード 変ロ長調 Op.28-21
◆社会的・芸術的な出来事◆
メキシコがフランスに宣戦布告。イギリス軍によるアデン占領。
フランクフルト・アム・マインに,ドイツ・モーツァルト財団が設立される。
シューマン『子供の情景』『クライスレリアーナ』
サンドからのアプローチ
1838年春,サンドとショパンは1年3ヶ月ぶりに,マルリアニ伯爵夫人のサロンで再会します。
そしてサンドとショパンは,サロンでしばしば会うようになります。
サロンでフレデリックに短信を送るサンド。
あなたを熱愛する人がいます。
ージョルジュ・サンド
私もよ,私もよ,私もよ!
この手紙をショパンはとても気に入り,サンドから初めてもらったというこの短いメッセージをアルバムに貼って生涯大切にしました。
知り合ってみると,サンドはなかなか母性的で,フレデリックも徐々に惹かれていきます。
フレデリックは同じ亡命ポーランド人実業家の友人のグジマワにサンドとの恋愛を相談する手紙を送ります。
そして同時期に,こんどは長々と32枚もの手紙がサンドからグジマワに届きます。
このやりとりで,サンドはショパンとマリアが破局していることを知り,一気に積極的な行動に出ます。
そして,とうとうショパンの心を射止めたのでした。
1838年3月3日にはショパンと,ショパンの弟子のグートマン,アルカン,アルカンの師であるピエール・ジメルマンの4人で,アルカンのピアノ8手用編曲でベートーヴェンの交響曲第7番が演奏されています。
マジョルカ島へ
1838年の夏には,ショパンとサンドの関係は公然の秘密となりましたが,大きな問題が残っていました。
サンドの前の愛人マルフィーユはまだサンドに未練があり,サンドにしつこくつきまとっていました。
サンドとショパンの仲を知ったマルフィーユは,ショパンの部屋の前で待ち伏せし,出てきたサンドを追いかけたりしました。
また,男色家であるキュスティーヌ侯爵からフレデリックはしつこく旅の誘いを受けていて,サンドとショパンの仲を知ったキュスティーヌ侯爵は,サンドのことを「吸血鬼」「食人鬼のような女」と呼んで,対抗心を燃やしていました。
気の弱いショパンは,マリフィーユから直接何かをされたら,どうなってしまうことか心配でした。
また,ショパンの健康も気になりますし,息子のモーリスも急性のリウマチのため温かい土地で療養させたかった。
マルフィーユから逃れるため,そしてショパンの健康のため,空気がきれいで日光に恵まれたリゾート地である地中海スペインのマジョルカ島へ長期滞在することにしました。
ショパンは旅費のため,前奏曲集Op.28を2,000フランでプレイエルに売ることとし,前金500フランを受け取り,知り合いの銀行家からは1,000フランを借りています。
マジョルカ島
1838年11月8日から1839年2月13日まで,ショパンとサンド,そしてサンドの2人の子ども,兄モーリスと妹ソランジュ,そしてサンドの小間使いたちをつれて,マジョルカ島に滞在します。
人目をはばかって,ショパンとサンド親子は別々にパリを出発し,一行はスペイン国境近くで10月30日に落ち合ったのですが,それでもパリでは二人の旅行のウワサで持ちきりだったそうです。
11月2日にバルセロナに入港,11月8日にマジョルカ島パルマに到着しました。
バルセロナからパルマへ向かう蒸気船での情景が,ショパンのノクターンOp.37-2に映されているとされています。
パルマは以前にアラブ支配が長く続いたことからアラブ風の建物が多く,異国情緒あるれる街の様子にショパンは感激しました。
サンドたちはパルマのちかくの田園地帯に別荘を借りてしばらく滞在します。
この別荘を「風の家」と呼んでいました。
ショパンの悪化する健康状態の改善を願って,気候が良いことで知られたマジョルカ島へ来たわけですが,上陸した3週間後には雨季となり,天候が大荒れで悲惨な冬を過ごすこととなりました。
ショパンは体調を崩し酷い風邪にかかります。
そして往診した医者に「結核」の診断を下されます。はじめて「結核」の診断をされたショパンですが,ショパンもサンドもその診断を信じませんでした。
当時,結核の治療はメスで腕や足を切って大量に出血させる瀉血(しゃけつ)と,下剤を飲ませて断食させるという手段が主流で,この治療により命を縮め,命を落とす患者もたくさんいました。
結核の診断を信じなかったサンドは瀉血や断食をすすめる医者を拒否し,ショパンに栄養をとらせるようにしました。
もしもサンドがいなければ意思の弱いショパンは医者の言うなりになってしまい,ここで命を落としていた可能性もあります。
風の家では,体調を崩す中,ショパンは「マズルカOp.41-1ホ短調」,「プレリュードOp.28-4とOp.28-2」を作曲しました。
これら3曲は「パルマ,11月28日」と記された五線譜に書かれています。
当時,結核は悪事を働いた悪者への天罰だと忌み嫌われており,不治の伝染病として恐れられていました。
サンドたちが滞在していた村でも,フレデリックが肺結核だというウワサが広がり,滞在していた「風の家」の家主からは,家の消毒代とショパンが使用したベットを焼却して買い換える代金の請求書と退去命令が届きます。
ヴァルデモーザ修道院
こうして一行は「風の家」を追い出され,いったんはフランス領事の家に泊めてもらい,さらには予約しておいたヴァルデモーザ修道院へ向かいます。
ヴァルデモーザ修道院は膨大な規模の石造りの建物で,12の僧坊と12の礼拝堂を備え,3つの修道院からなっていました。
その中でも最も古い修道院は15世紀の建物で,壁の厚さが1mもありましたが,数百年の風雨にさらされて荒廃していました。
各庵室の前にはそれぞれ付属の花園があり,山から清水が流れ,ザクロ,レモン,オレンジ,バラの繁みがありました。
サンド一行が住んだのはその中でも最も新しい修道院の一部で,明るく広々として換気もよく,3室からなる僧坊でした。
サンドやサンドの子どもたちにとっては,この不思議な魅力に包まれた異国情緒豊かな僧院での生活は楽しいものでした。
夜に顔をあげれば,庵室の天窓から,オレンジの木に降り注ぐ雨の中に,月影が輝き,サンドは歴史や哲学書の読書や創作に励みます。
マジョルカに来て早々に健康をとりもどした息子モーリスは庭いじりをたのしみ,娘ソランジュはたわわに実ったオレンジの木の下で勉強します。
サンド親子は古い僧坊や礼拝堂,廃園に探検に出かけ,窓からのぞく埃にまみれた中世の家具や彫刻,絵はジョルジュの想像力を刺激し,子どもたちをおとぎ話の世界に誘います。
パリという大都会での暮らしに慣れていたサンド親子ですが,19世紀地中海での不便な暮らしも決して厭わしいものではなく,魅力的な毎日を送ります。
しかし,文化的で洗練された生活を愛するフレデリックは環境の変化に対応できません。
最初こそ新鮮な刺激を喜んでいましたが,激しい気温の変化や食事など生活の不便さはフレデリックの健康をさらに悪化させます。
フレデリックは早々にフランスに帰ることを望むようになりますが,まずは航海に耐えられるまでに体力が回復しなければなりません。
さらに冬の地中海は時化る危険があります。
村人たちは街にやってきた一行を快く思いません。「あれは夫婦ではないらしい」「女がズボンを履いていた」「男は肺病らしい」「女がタバコを吹かしていた」と奇怪に感じて,村人は一行を避けるようになります。
食料や日用品にも法外な値段をふっかけられて,買い物にも苦労します。
良き医者は見つからず,栄養に富んだ食料の確保も難しい,そんな中,二人の子どもの面倒を見ながら,神経質な病人の看病までしなければならなかったサンドの心労は大変なものでした。
そんな逆境にあっても,栄養のある食事でショパンの面倒を見て,作家としての仕事で稼ぐ,たくましいサンドでした。
雨が激しく降る日は,特にフレデリックを不安にさせ,独りでいることを極度に恐れるようになります。
激しい雨の中に勢いよく流れていく雲,間断なく僧院の庭先に打ちつける荒波の音,嵐の合間に鋭く鳴き叫びながら飛んでいく鳥の群れ,突然すべてを包んでしまうような濃霧。
サンドにとっては「この僧院を世界中で一番ロマンティックな所にするもの」と書いているこれらのすべては,フレデリックにとっては恐怖の世界でした。
中々届かないピアノ
ショパンは愛用のプレイエルのピアノを輸送しようとしていましたが問題を抱えていました。
12月20日にはパリから到着していたのですが,税関で止められてしまっていました。
税関はピアノを受け渡すために高額を請求しています。
しかたなく,ショパンはガタガタのピアノを借りて,それで練習をし,作曲を行っていました。
体調の悪化
12月には本格的に体調が悪化しました。
ショパンはマジョルカ島の医師に不満を呈しています。
「この2週間,私は病にかかっている。3人の医者が往診に来た。1人目は私が死ぬと言い,2人目は今吸っている息が最後になると言い,3人目は私がすでに死んでいると言った」
1839年:ショパン29歳
◆主な出来事◆
健康状態が思わしくない。パルマを離れる決心をし,バルセロナ経由でフランスに向かう。2月,マルセイユに上陸し,そこでしばらく静養したあと,5月ノアンに移る。
秋,パリで新しい家を見つける。
◆作品◆
3つの新しい練習曲 BI.130 KK.IIb-3アンプロンプチュ 嬰ヘ長調 Op.36
マズルカ ロ長調 Op.41-2 *多くの版ではOp.41-3となっている
マズルカ 変イ長調 Op,41-3 *多くの版ではOp.41-1となっている
マズルカ 嬰ハ短調 Op.41-4 *多くの版ではOp.41-1となっている
ノクターン ト長調 Op.37-2
プレリュード ハ長調 Op.28-1
スケルツォ 嬰ハ短調 Op.39
ソナタ 変ロ短調 Op.35 ※第3楽章「葬送行進曲」は1837年
オクターヴのカノン ヘ短調(未完成)BI.129B KK.IVc-1
◆社会的・芸術的な出来事◆
中国とイギリスの間で,アヘン戦争が始まる。ベルリオーズ『ロミオとジュリエット』
スタンダール『パルムの僧院』
ダーウィン『ビーグル号航海記』
ヴェルディ『サン・ポニファチオの伯爵オベルト』
◆日本の出来事◆
蛮社の獄プレイエルのピアノがついに届く
1839年1月4日,ジョルジュ・サンドが300フラン(要求額の半分だった)を支払うことを承諾し,ショパン愛用のプレイエルのピアノがようやく税関を通過し,1月5日にはショパンの元に届きました。
ショパンは待ちわびたピアノに喜び,元気が出ます。
精力的にたくさんの作品を完成させました。
『前奏曲集Op.28』『スケルツォOp.39』『マズルカOp.41』『ピアノソナタOp.35』『ヘ長調のバラードOp.38』『ポロネーズOp.40』など傑作が多く完成されました。
マジョルカ島を脱してフランスを目指す
マジョルカ島の冬の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼしました。
フレデリックは喀血を続けています。
慢性的な肺の疾患からショパンの生命を救うためには一刻も早く文化的な街へ行く必要がありました。
肺病に対する島民の迷信的な恐怖は異常になってきており,彼らはショパンが地獄に落ちる運命であることを信じて,このまま死ぬことがあっても島内に埋葬することは許さぬとサンドを脅します。
天候が回復するとマジョルカ島とバルセロナの定期船の就航が再開します。
サンドは決心し,必死の介抱でいくらか快方に向かっていたフレデリックをフランスまで連れて帰ることにします。
ショパン愛用のプレイエルのピアノは急な帰国の邪魔になりましたが,サンドはなんとかそのピアノをフランス人夫婦,カヌ夫妻に売却しました。
カヌ夫妻の子孫はマジョルカ島でショパンの遺品などの博物館の管理人をしているそううです。
馬車を貸してほしいと村人に頼みますが,肺病がうつってしまうからと,誰も貸してくれません。
しかたなくスプリングのない荷車でパルマまで下りますが,パルマに着いたときには,フレデリックはひどく喀血してしまいます。
パルマから船で出港しますが,ここでもフレデリックが結核だからと,一番悪いベッドしか与えられません。
船のデッキには百頭のブタが積み込まれていて,悪臭もひどかったとのことです。
翌日の2月14日にはバルセロナへ入港。
サンドは停泊していたフランス軍艦の艦長に助けを求めて,衰弱したフレデリックを船医に診てもらい,2月22日にフランスの蒸気船でバルセロナを出港して2月24日にマルセイユへ到着しました。
マルセイユでは数ヶ月滞在してショパンの回復を待ちました。
マルセイユではサンドの旧友の名医コーヴィエル博士の診察を受け,非常に危険ではあるが適切な養生をすれば決して絶望ではないとの診断を受け,サンドは安堵します。
サンドはノアンの別荘に帰ることをいったん延期して,マルセイユに家を借り,フレデリックの看病にあたります。
春近い南仏の港町の温和な気候のおかげで,フレデリックは次第に健康を取り戻します。
マジョルカ島の旅では,税関からピアノを受け取るための費用,船やホテルでショパンが使用したベッドの焼却と買い替えの代金など,予想外の出費が多く,お金が底をつきかけていました。
ショパンは出版商に曲を高く買ってもらうように,パリにいる友人フォンタナに手紙を書きまくります。
そしてフォンタはフレデリックのため,出版商との交渉に奔走します。
一方,体調の良くなったフレデリックはサンドとイタリア,ジェノヴァへの旅行を楽しんだりして優雅な生活を送っていました。
ショパンの生涯 ノアンでの生活
ノアン
1839年5月,サンドの別荘で夏を過ごすためにフランス中部のノアンを目指します。
6月1日,ノアンに到着しました。
ノアンのサンドの別荘は,サンドが祖母から相続した大邸宅で,部屋数が20もある瀟洒な建物でした。
現在も博物館として保存されています。
フランスの田園の中のノアンの別荘は,晩春の光と静けさに満ちていて,フレデリックの疲れた神経をやわらげました。
館には,間もなくショパンお気入りのプレイエルのピアノがサンドによって届き,静かなノアンでフレデリックは作曲に専念します。
フレデリックの健康はサンドによって厳格に管理され,サンドの子どもたちと同じ時間に床につかされ,栄養のある食事を与えられ,フレデリックの体調はどんどん回復していきます。
でも,ショパン自身は単調で刺激のない生活に飽きてきて,パリの夜会を恋しく思うようになります。
フレデリックは静寂を愛し,孤独に憧れていました。
しかし性格は都会的で田園の生活を長く続けるのは退屈でした。
都会の喧騒を嫌い,自然豊かな土地での心静かな生活に憧れながら,それでいていざ田舎暮らしが実現すると都会での生活を恋しく思い,人恋しく感じるのでした。
単調な暮らしに退屈しているショパンのため,サンドはフレデリックの友人であるグジマワに,ノアンに遊びにくるように誘いました。
しかしノアンはパリから遠く,30時間以上の長旅になるため,フレデリックより17歳も年上のグジマワにとってはノアンまでの遠出はなかなか大変なもの。
グジマワの腰は重かったですが,サンドからの繰り返し熱心な招待に,ついに重い腰を上げてノアンにやってきます。
グジマワはノアンに2週間滞在し,ショパンは同じポーランド人であるグジマワと思いっきりポーランド語で話すことができて,大変楽しく過ごすことができました。
ノアンには他にもたくさんの友人を招待しましたが,毎年ノアンに招待していたリストとその愛人マリー・ダグー夫人は,この年は招待しませんでした。
マリー・ダグー夫人がサンドの悪口を言っていることを,知人から知らされたことが原因でした。
ダグー夫人はサンドとショパンの恋愛について「どうぜ一ヶ月も一緒に暮らせばケンカしてダメになるわ」と周囲に言っていたそうです。
リストだけノアンに招くわけにもいかず,今年はリストもダグー夫人も招待しないことにしたのでした。
ノアンでの贅沢な暮らしは財政的にも大変で,サンドは,昼は子どもたちとフレデリックの世話をやき,夜は執筆に精を出すという大変な生活を送っていました。
健康面もリューマチや胃の痛みで眠れない日もあったとか。
献身的なサンドの介抱のおかげで,ノアンでの夏,特に1839年から1843年にかけては,ショパンにとって静かながらも創造的な日々となります。
1839年の夏のノアンでも,変ロ短調のソナタOp.35や嬰ハ短調のスケルツォOp.39など多くの作品を生み出しました。
サンドとフレデリックの関係ですが,マジョルカ島に旅立つ前は,おそらく結婚生活を前提とするようなものではなかったと思われます。
しかしマジョルカ島でのフレデリックの病気の悪化により,引き続きノアンでも同棲生活が続いており,潔癖で上品なフレデリックは,正式な結婚によらぬ同棲生活に後ろめたさを持っていました。
サンドは,フレデリックの天才を尊敬し,彼の伴侶である現在の立場に満足していましたが,彼女は独立した社会人であり,作家であり,また母であることに誇りを持っていました。
サンドにとって恋愛は熱狂であり耽溺するものでした。
フレデリックにとって恋愛とは穏やかな家庭を築くことでした。
もともとの恋愛観にこれだけ違いがありながら,サンドは母性愛と友情を深め,フレデリックはその愛情にすがりつくように,二人は離れられなくなります。
サンドの献身的な愛情に守られたノアンでの夏の日々は,フレデリックの健康を回復させ,再びパリに戻って音楽家生活を始める力をもたらしました。
パリの新居
夏が過ぎ,秋にはパリに戻ることにします。
パリでは最初はゴシップを避けて離れて暮らしていました。
このとき,サンドとフレデリックの部屋探しをしたのは,またもやフォンタナでした。
いつものように,フォンタナには家賃や家具,内装,変な臭いはしないか,周囲の住人のことなど,細かな注文を送りつけます。
フォンタナのおかげで希望通りの住居が決まり,1839年10月11日には1年ぶりにパリに帰ってきました。
ショパンがパリに帰ってきたことはたちまちニュースとなり,ピアノの弟子入り希望のご婦人たちにとり囲まれたそうです。
ショパンはピアノ教授の仕事に精を出し,1日に5,6時間,8人を教えることもあったといいます。
「青白い顔をして,咳をよくしていた」「それでも熱心に教えていただいた」という弟子の記録が残っています。
ショパンはサロンにも熱心に通っていました。
サンドの家には友人がたくさん訪れ,画家のドラクロワなどが遊びにきていました。
ドラクロワはショパンと「芸術について」議論するのを楽しみにしていたとのことです。
ドラクロワは画家を目指すサンドの息子モーリスに絵を教えていました。
他にもグジマワ,バルザック,歌手のポーリーヌ・ヴィアルドなどが遊びにきました。
ポーリーヌはショパンもその才能を認め,歌の伴奏をしたり,一緒にオペラを観に行ったりしています。
フレデリックは弟子のレッスンが終わるとサンドのアパートで一緒に過ごすようになり,結局フォンタナに苦労して探してもらったアパートはピアノのレッスンをするためだけの部屋となってしまいます。
間もなくその部屋は友人に譲ってしまい,結局はサンドのアパートで一緒に暮らしているショパンでした。
サンドは『わが生涯の歴史』の中で,彼への同情から母親役として犠牲になる決心をしたと書いています。
1839年10月から1842年11月まで二人は一緒に暮らし,1842年には隣同士の建物に引っ越します。
この期間,夏季のほとんどはノアンで過ごしました。
モシェレスと新しい3つの練習曲
1839年の秋に,モシェレスがパリのショパンを訪れます。
モシェレスはショパンの曲を敬愛していて,ショパンに会うためにパリを訪れたのでした。
ショパンは自分のアパートでモシェレスに「ソナタ変ロ短調」を披露しています。
モシェレスは日記に「ショパンはピアニストの中で,世界でも稀有な存在だ」と書いています。
それから数週間,サロンや国王の宮殿で共演しました。
国王からは黄金の杯と皿を賜っています。
そして,モシェレスがパリを発つ前に,ショパンにピアノ練習曲を注文しました。
それが『新しい3つの練習曲』です。
1840年:ショパン30歳
◆主な出来事◆
サンドとダグー夫人との仲が悪くなる。夏はノアンには行かず,パリで過ごす。
ハイネ,ドラクロワらと過ごすうちに夏も去り,出版に,レッスンに,忙しい日々を送る。
◆作品◆
バラード 変イ長調 Op.47マズルカ イ短調「エミール・ガイヤール」 BI.140 KK.IIb-5
ポロネーズ 嬰ヘ短調 Op.44
ワルツ 変イ長調 Op.42
歌曲「ドゥムカ」 BI.132 KK.IVb-9 ※歌曲「あるべきものなく」Op.74-13の第1稿
ソステヌート(ワルツ)変ホ長調 BI.133 KK.IVb-10
◆社会的・芸術的な出来事◆
ヴィクトリア女王,アルバートと結婚。ルイ・ナポレオン,クーデターに失敗。
シンドラー『ベートーヴェン伝』
シューマン『詩人の恋』
シューマン,クララ・ヴィークと結婚。
パガニーニ死去。
ノアンに行けない夏
すでにサンドと険悪になっていたリストの愛人マリー・ダグー夫人ですが,彼女のヒステリーに辟易していたリストとの仲がうまくいっておらず,ダグー夫人は仲のよいサンドとフレデリックをますます憎らしく思っていました。
マリー・ダグー夫人は「サンドはショパンを捨てようとしているわ」「ショパンはピアニストとしてリストに嫉妬しているらしいわ」などと悪口を言いふらします。
そんなことにはお構いなしで,サンドとフレデリックはますます愛を深めます。
サンドとフレデリックはまるで正反対の二人でしたが,だからこそ互いに補い合いうまくいっていました。
フレデリックは,控えめで礼儀正しく,慎重で完全主義者,優柔不断,神経質,まじめ,贅沢が好きで,あまり本音を言わずでも皮肉は言う。
サンドは庶民風でおおらかで,決断力や行動力があり,大雑把で慎重さに欠けていて,あけっぴろげでズバッとはっきり意見を言う。
ショパンは作曲には時間をかけて推敲に推敲を重ね,消しては書きの繰り返しで完璧主義でしたが,サンドは推敲はほとんどせず速筆の作家でした。
病弱で気の弱いフレデリックはサンドのたくましさに助けられるのですが,サンドが苦しいときにはフレデリックが優しく慰めます。
サンドは1840年春に「劇作で収入を得てはどうか」と進められ「コジマ 愛の中の憎悪」を書いて上演しますがこの公演が失敗に終わり経済的打撃を受けます。
そのため,1840年夏はノアンに行くことができずパリに留まることになります。
そんなときもフレデリックがサンドの心の支えとなり,二人の愛はますます深まっていきました。
モーツァルトのレクイエムを聴き,感銘を受ける
12月12日,サンドと共に音楽院のホールでモーツァルトの『レクイエム』のリハーサルを聴き,深い感銘を覚えます。
ショパンはレクイエムのスコアを手放さないようになります。
臨終の際には「葬儀では敬愛するモーツァルトのレクイエムを演奏してほしい」ことを遺言していて,その葬儀では遺恨に従ってモーツァルトのレクイエムが演奏されました。
1841年:ショパン31歳
◆主な出来事◆
4月,プレイエル・ホール (サル・プレイエル) で久々の演奏会を開く。曲目は「バラードヘ長調」「ポロネーズイ長調」など自作品ばかり。夏はノアンで過ごす。
同郷の親友,ヤン・マトシニスキが結核で重態となる。
バッハのパリ版の校訂をする。
◆作品◆
マズルカ ト長調 Op.50-1マズルカ 変イ長調 Op.50-2
マズルカ 嬰ハ短調 Op.50-3
マズルカ イ短調 「ノートルタン」BI.134 KK.IIb-4
ノクターン ハ短調 Op.48-1
ノクターン 嬰ヘ短調 Op.48-2
プレリュード 嬰ハ短調 Op.45
幻想曲 ヘ短調 Op.49
ワルツ ヘ短調 Op.70-2
フーガ イ短調 BI.144 KK.IVc-2
タランテラ 変イ長調 Op.43
歌曲「美しき若者」 Op.74-8
◆社会的・芸術的な出来事◆
音楽版権法がドイツ連邦会議で可決。ポオ『モルグ街の殺人』
3年ぶりのパリ演奏会
大きなホールで演奏するのが苦手なショパンは演奏会から長く遠ざかっていました。
しかし友人知人たちからしつこくねだられて,ポスターはなし,プログラムもなし,という条件で,1841年4月26日,プレイエル・ホール (サル・プレイエル) で3年ぶりにパリで演奏会を開くことになります。
ショパンが自作をホールで演奏するのは6年ぶりのことでした。
演奏会恐怖症となっていたフレデリックは,演奏会が近づくと心配で神経質になり,あまりの怖がりぶりに,サンドは「聴衆のいないところで,音のしないピアノで弾けば?」と言ったそうです。
フレデリックはバッハに傾倒しており,演奏会の練習にはバッハの平均律を用いました。
演奏会が中止にならないかと願うショパンでしたが,チケットは高額にも関わらずあっという間に完売。
ついに久しぶりの演奏会が実現します。
ショパンは自作のマズルカ,ノクターンなど小品を数曲と,ヘ長調のバラードOp.38,ポロネーズOp.40,変ロ短調のスケルツォOp.31を演奏しました。
当時オペラの最高の席が12フランのところ,この演奏会のチケット代は,15フランと20フラン(一説では30フラン)で,当時の音楽会としては破格の最高額でした。
友人知人,上流階級の人々や名士で会場は埋まり,チケットは完売。
ショパンは6,000フランという大金を手に入れます。
これにより1841年の夏は優雅に遊んで暮らすことができるようになりました。
演奏会の批評文はリストが筆をとり,「粒選りの家柄,財産,才能,そして美のあらゆる社交界の名流」が燈火に明るく照らされ,美しい花の香りただよう会場に集った。
みな「甘い悦びと深い物思いに恍惚として帰っていった」と賞賛しました。
しかし,このリストの批評がショパンには気に入らなかったようで,二人の関係が冷めていくきっかけとなりました。
ノアンへ
演奏会が成功に終わり大金を手にしたサンドとショパンは,6月1日にノアンへ発ちます。
前年はノアンに行くことができなかったので,2年ぶりのノアンでした。
ノアンに到着まもなく「タランテラ Op.43」を書き上げます。
7月5日に地震が起こり,神経質なショパンの怖がりようは大変なものだったそうです。
8月には歌手のポーリーヌ・ヴィアルドが遊びに来ています。
秋にパリに戻るまでにはプレリュード嬰ハ短調Op.45など作曲に励み,2つのノクターンOp.48も書き上げて,フォンタナに送っています。
ノアンにはマリ・ド・ロジエール嬢も来ることになっていました。
ロジエール嬢はショパンの弟子の一人で,ショパンの紹介で,サンドの娘ソランジュのピアノの先生としてノアンに来ることになっていたのです。
ロジエール嬢の欠点はとにかくおしゃべりで,あることないこと言いふらすこと。
よりによってロジエールは,フレデリックの元婚約者マリアの兄である,アントニ・ヴォジニスキと愛人関係になります。
アントニはショパンを連れ回して豪遊したあげく,ショパンからの借金を踏み倒したお調子者です。
ショパンはノアンにロジエールがやって来ることが不安になります。
そんなショパンを見ていたサンドは気を利かせて,ロジエールに,アントニは連れてこないように手紙を送ります。
それを知ったショパンは,余計なことをするなと怒ります。
サンドとフレデリックの間に初めて起きた不和でした。
後日アントニとロジエールは別れることになり,ショパンとロジエールは師弟関係として元の親しい関係に戻ります。
この時期,ショパンはロジエール嬢の件以外にも,ノアンに届いたプレイエルのピアノに文句をつけて交換させたり,下男を解雇したり,友人にヒステリーな手紙を送ったりと,精神的にイライラしていたようです。
サンドは「彼は気が狂ったのではないか」「彼のような怒りっぽい人に,どうすればよいかわかりません」「疑い深い性格になっていくようです」などと手紙に書いています。
11月3日にノアンを後にしてパリに戻ります。
1842年:ショパン32歳
◆主な出来事◆
2月,プレイエル・ホール (サル・プレイエル) でリサイタルを開いたその夜,ワルシャワでは,ジヴニーが亡くなる。4月,マトシニスキが死亡する。 この頃,精神的につらい時期を過ごす。
夏,ノアンに行く。精神的安定を回復し,作曲への意欲が湧く。この夏書かれた作品には,中期の代表作が多い。
◆作品◆
バラード ヘ短調 Op.52即興曲 変ト長調 Op.51
ポロネーズ 変イ長調「英雄ポロネーズ」 Op.53
スケルツォ ホ長調 Op.54
◆社会的・芸術的な出来事◆
アヘン戦争終結。パリのマドレーヌ寺院完成。
グリンカ『ルスランとリュドミラ』
テニスン『アーサー王の死』
ゴーゴリ『死せる魂』
ニューヨークに,フィルハーモニー協会が設立される。
◆日本の出来事◆
天保薪水給与令プレイエル・ホール (サル・プレイエル) で演奏会
1842年2月21日,再びプレイエル・ホール (サル・プレイエル) にて演奏会を開きます。
ショパンは変イ長調のバラードOp.47の他,プレリュート,ノクターン,エチュード,マズルカを数曲ずつ演奏しました。
友人のポーリーヌ・ヴィアルドやチェリストのフランショームも賛助出演し,演奏会は前回と同じく大成功でした。
演奏会にはサンドの娘ソランジュと,後にサンドの養女となる従姉妹のオーギュスティーヌも連れてきていました。
音楽誌に「光り輝くリボン,精緻な水色の薄もの,ゆれる真珠の首飾り,新鮮なバラと木犀の花,一口にいえば何十という最も美しく明るい色彩の集まりであった。開会最初の成功者はマダム・ジョルジュ・サンドであった。二人の魅力ある令嬢を伴って彼女が現れるや否や,彼女はすべての人の注目を惹いた。まるで空の星のように彼女にむけられた視線に,他の人々ならば困惑したことであろうが,ジョルジュ・サンドはうつむきかげんに微笑みつつ満足していた」と書かれています。
ヤン・マトゥシンスキの死
5月,ショパンの学生時代からの友人だったヤン・マトゥシンスキが亡くなります。
ヤンはフレデリックと同じ結核を患わっていて,3月には危篤,フレデリックはヤンのもとにかけつて苦しみぬいて死んでいくヤンの最期を見守りました。
ヤンと同じ結核に罹っていることをうすうす分かっていたであろうフレデリックにとって,自分にも同じ運命が待っていることを切実に感じたに違いありません。
ヤンの死にショックを受けたショパンは5月のあいだずっと床に伏したままだったということです。
ノアンへ
サンドとショパンは休養をとることにし,5月5日にパリを離れてノアンへ赴きます。
そして6月にはドラクロワがはじめてノアンに遊びにくることになり,ショパンは元気を取り戻します。
7月にはドラクロワは帰っていき,いろいろな人がノアンを訪れる中,いよいよロジエール嬢もノアンにやってきました。
フレデリックがまだ怒っているかも,とおそるおそるノアンにやってきたロジエールでしたが,すでにマリアの兄アントニと別れていたので,フレデリックも機嫌よくロジエールを迎え入れます。
画家のドラクロワは同時代の芸術家の中で最もショパンの音楽の本質を理解しており,深い愛情を持ってショパンの音楽を絶賛していました。
他人の影響を受けることのめったになかったショパンも,ドラクロアからは多くの刺激と影響を受けています。
この年のショパンの作品は,技巧的な余分なものが徹底的に排除されて,あくまで簡潔に処理されていながら,より大きな構想のもとに綿密に組み立てられ,細部にまで分析的な心遣いが示され,驚くばかりに豊かで強烈な印象深い作品を作り上げています。
これはドラクロアからの影響も大きかったと考えられます。
この夏,英雄ポロネーズOp.53,ヘ短調のバラードOp.52,ホ長調のスケルツォOp.54,変ト長調のアンプロンプチュOp.51など中期の傑作の数々を生み出しています。
新居へ
そして,9月28日にはパリに戻りました。
ここでサンドとフレデリックは新居に移ります。
サンドの親友だったマダム・マルリアニの住宅を挟んで,サンド,マルリアニ,フレデリックが3軒隣り合わせでの生活が始まります。
フレデリックの家では作曲と弟子のレッスンに集中し,食事は揃ってマルリアニの家でする習慣になっていました。
11月に,フレデリックはワルシャワの恩師エルスナーに短い便りを書いています。
「私は先生の息子として,昔の息子として,昔の友として,今も先生を愛しております」という言葉で終わっています。
名実ともに世界的な大音楽家となったショパンの,幼い日の恩師に対する変わらぬ敬愛の情には美しさを感じます。
1843年:ショパン33歳
◆主な出来事◆
4月,再びノアンに行く。この年は小品の作曲が多い。結核が進行し,見るからに衰弱する。
年末に,一時危篤状態となる。
◆作品◆
マズルカ ロ長調 Op.56-1マズルカ ハ長調 Op.56-2
マズルカ ハ短調 Op.56-3
ノクターン ヘ短調 Op.55-1
ノクターン 変ホ短調 Op.55-2
子守歌 変ニ長調 Op.57
モデラート(アルバムの綴り)ホ長調 BI.151 KK.IVb-12
ワルツ イ短調 BI.150 KK.IVb-11
◆社会的・芸術的な出来事◆
イギリス,ナタル(アフリカ西南部)を併合。ワーグナー,ドレスデンの宮廷楽長となる。
メンデルスゾーン,ライプツィヒ音楽院を創立。
ワーグナー『さまよえるオランダ人』
ドニゼッティ『ドン・パスクワーレ』
ディッケンズ『クリスマス・キャロル』
グジマワ
フレデリックが特に仲の良かった3人の親友のうち,ヤン・マトゥシンスキは亡くなり,フォンタナはアメリカに行ってしまい,フレデリックの側に残ったのはグジマワのみとなりました。
フレデリックの秘書係はグジマワ一人が引き受けることとなります。
グジマワの体調が悪いときは,チェリストのフランショームにお遣いを頼んでいました。
リスト
1843年4月には,リストはワルシャワで演奏会を開き,父ニコラスもリストをもてなしました。
父ニコラスからショパンへは「お互い友情を保つことは素晴らしいことだ」という手紙を書いています。
少々疎遠になってしまっていたリストとショパンですが,リストはこれをきっかけにまたショパンと親しくなりたいと期待していたようです。
ノアンへ
5月22日,今年もサンドとショパンはノアンで暮らします。
そこではポーリーヌ・ヴィアルドの生まれたての娘ルイーズもいました。
ポーリーヌが演奏旅行のため,サンドに娘を預かってもらっていたのでした。
フレデリックもルイーズを大変かわいがり,心穏やかに暮らします。
この夏は,子守歌Op.57,2つのノクターンOp.55,3つのマズルカOp.56など穏やかな小品をたくさん作曲しています。
ショパンはOp.56のマズルカのことを「小さな物語」と言っています。
この夏もドラクロワやポーリーヌ・ヴィアルドが訪れて,楽しい夏を過ごしたのですが,徐々にサンドがフレデリックの面倒を見るのに疲れ始め,友人への手紙などで愚痴をこぼすようになります。
この夏はショパンが先にパリに帰り,サンドの帰りは1ヶ月あとになりました。
この間は,マダム・マルリアニやロジエール嬢がショパンの様子を見守ったとのことです。
サンドは子どもを遠くにやった母親のように,マルリアニやロジエールにフレデリックの面倒を細々と頼んでいる手紙を書いています。
フレデリックの自尊心と負けん気の強さを知っていたサンドは,それとなく口実を作って彼の健康を見守るように頼んでいます。
1844年:ショパン34歳
◆主な出来事◆
引き続き,健康状態が思わしくない。一時期回復するが,歩くのがやっとという状態。それでもアルカン主催の音楽会に出演。5月,父ニコラス死去。結核が原因だとされている。この精神的打撃により,フレデリックの病状が再び悪化。
7月,姉ルドヴィカがワルシャワから到着。これにより元気を回復し,ピアノソナタロ短調に着手。
◆作品◆
ソナタ ロ短調 Op.58◆社会的・芸術的な出来事◆
モロッコでフランス戦争。メンデルスゾーン『ヴァイオリン協奏曲』
ヴェルディ『エルナニ』
ベルリオーズ『楽器法』
デュマ『三銃士』『モンテ・クリスト伯』
◆日本の出来事◆
オランダ国王ヴィレム2世,徳川家慶に親書を送り開国を勧告父の死
1843年にノアンからパリへ戻ってから,翌年1844年の初めにかけて,ショパンは病気でよく寝込んでいました。
しかし,2月にはインフルエンザでサンドが倒れてしまい,このときはフレデリックが看病したといいます。
ようやく体調が戻りかけた春,父ニコラスが亡くなったとの知らせが届きます。
1844年5月3日,74歳でした。
ショパンは再び体調を崩し寝込んでしまいます。
なんとかフレデリックを立ち直らせるため,1844年5月29日,今年もノアンへ向かいます。
ショパンと再び親しく交友したいと思っていたリストですが,父を亡くして傷心のフレデリックに花束と手紙を送ったり,フレデリックのアパートを訪れたりしています。
ですが,フレデリックのアパートに立ち寄ったときには,既にノアンへ旅立ったあとでした。
姉ルドヴィカとの再会
ノアンへ来てもいっこうにフレデリックはショックから立ち直りません。
サンドはフレデリックの様子を伝える手紙をフレデリックの母ユスティナに送ります。
サンドがフレデリックの家族へこのように堂々と手紙を送るのは初めてでした。
フレデリックもサンドのことをワルシャワの家族へ正式に紹介していませんでした。
サンドは「あなたの息子を最大限の努力で看病します」「私の献身をどうぞ信じてください」と綴ります。
すると母ユスティナからすぐに返事が届きます。
「私は心からあなたに感謝しております。どうぞ息子のことをよろしくお願いいたします」
そしてフレデリックの姉ルドヴィカがパリまで会いにくることになりました。
1844年7月,サンドは仕事ためノアンに残り,フレデリックは単身パリへ戻り,姉ルドヴィカとその夫カラサンティを出迎えます。
姉ルドヴィカに会うのは14年ぶりのことでした。
ルドヴィカの夫カラサンティは,ショパンの父ニコラスが経営する寄宿学校の生徒でした。
ワルシャワ大学で法律を学び,農業学校の教授となっています。
カラサンティは科学に興味があり,最先端のパリの製品に目を奪われたといいます。
フレデリックは,姉夫婦に友人たちを紹介し,オペラ座に連れて行ったり,ヤン・マトゥシンスキの墓参りへ行ったりしました。
7月下旬にフレデリックはノアンに戻りますが,姉夫婦は「7月革命記念祭」を見学するためにパリにしばらく残ります。
フレデリックがノアンに戻ってからは,グジマワがルドヴィカ夫婦を案内しました。
そして8月9日には姉夫婦がノアンを訪れます。
姉ルドヴィカとサンドは初めて会い,すぐに打ち解けます。
ルドヴィカ一家と過ごした1844年のノアンの夏は,後にサンドがショパンと暮らした幸福な日々のひとつだったと言っています。
姉夫妻は8月の終わりまで滞在し,ノアンからパリまでショパンも付き添って見送り,ルドヴィカ夫妻はワルシャワへと帰っていきました。
姉ルドヴィカとの再会ですっかりショパンは元気を取り戻し,「貴女は最上のお医者様でした」とサンドも感謝します。
道徳的できわめて保守的だったショパンは,長年にわたるジョルジュ・サンドとの関係も,すでに周知のことになっているにもかかわらず,常にうしろめたさを感じていました。
同時代の多くの芸術家,例えばサンドやリストは自由で近代的でした。
しかしショパンは自制的で保守的でした。
ショパンの潔癖さは,ジョルジュ・サンドの呼び方にも表れています。
彼は人に語るとき,決して彼女をジョルジュのように愛称で呼ばす,マダム・デュドヴァンと本名を正式にいい,親しい友人への手紙でも「彼女」や「この家の女あるじ」「マダム・サンド」と遠回しに彼女のことを表していました。
慎み深いフレデリックは,恋心を抱いた女性には1曲も献呈していません。
あれほど長く一緒に生活したジョルジュ・サンドにも,ただの1曲も献呈していませんでした。
ワルシャワ時代に指輪の交換までしたコンスタンツィアも同様で,彼女のことを思い作曲したと言われているピアノ協奏曲はポトツカ夫人に献呈されています。
パリ時代に婚約までしていたマリアにも曲は献呈していません。
マリアに贈ったとされるワルツ変イ長調はショパンの生前には出版されず,ショパンの死後にフォンタナの手によって出版されており,献呈者の名前はありません。
姉ルドヴィカとサンドが親しくなったことは,フレデリックの呪縛を解くように,彼の心を軽くしたものと思われます。
その後再び9月4日にノアンに戻ったショパンは大作,ロ短調のソナタOp.58を書き上げています。
途中ソナタロ短調の出版のためパリへ出向いてロジエール嬢とお昼を食べたり,ドラクロワと会ったりと,すっかりフレデリックは元気を取り戻して精力的に活動するようになっていました。
11月28日にフレデリックはパリへ戻り,サンドも12月13日にパリに戻りました。
ショパンの生涯 破局へ向かう二人
1845年:ショパン35歳
◆主な出来事◆
健康状態は良好ではない。春,例年通りノアンに行くが,サンドの家の内紛に巻き込まれ,不快な日々を送る。
苦境のなか,後期の傑作を生み出している。
11月,パリに戻るが,風邪をこじらせる。
◆作品◆
マズルカ イ短調 Op.59-1マズルカ 変イ長調 Op.59-2
マズルカ 嬰ヘ短調 Op.59-3
幻想ポロネーズ 変イ長調 Op.61 ※1845-46年
舟歌 嬰ヘ長調 Op.60 ※1845-46年
歌曲「二つの死」 Op.74-11
歌曲「愁い」 Op.74-13
ワルツ 変ニ長調「小犬のワルツ」 Op.64-1 *1846年の作曲かも(1840年ごろから作曲されていた可能性もある)
「2つの作品」から前奏曲 ヘ長調 KK.Anh.Ia-2
「2つの作品」からアンダンティーノ ニ短調 KK.Anh.Ia-3
◆社会的・芸術的な出来事◆
アイルランドで大飢饉。ワーグナー『タンホイザー』
メリメ『カルメン』
シューマン『ピアノ協奏曲』
サンドの息子モーリスとの確執
ショパンの病が進行するにつれて,サンドは恋人というより介護人のようになっていきました。
サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」「小さな天使」「受難者」「愛しい小さな死人」と呼び,ショパンとの関係を維持しつつも次第に第三者への手紙ではショパンへの苛立ちを吐露するようになりました。
サンドはもともと情熱的な恋愛に焦がれる人格でした。
それが,女盛りの長い年月を病弱なフレデリックの面倒に費やし,とうとう40際を過ぎてしまいました。
焦燥するサンドの気持ちも痛いほどわかります。
サンドの息子モーリスは成人し,画家を目指してドラクロワの指導を受けていました。
才能はいまひとつでしたが,サンドは息子に才能があると信じて溺愛していました。
一方で,何かとわがままで反抗的な娘ソランジュには,サンドはいつも厳しく接していました。
しかしフレデリックはソランジュを可愛がり,いつもソランジュの味方をして甘やかします。
そして,この5つ違いの兄モーリスと妹ソランジュは大変仲が悪くなっていました。
1844年から1845年にかけてのパリの冬は寒さが厳しく,サンドは温かい南仏,そしてイタリアへの旅行を計画します。
この計画にはショパンも喜んでいました。
しかしサンドの息子モーリスの反対により,この旅行はなくなります。
モーリスはショパンを大変嫌っていました。
ノアンへ~サンド家のいざこざ~
1845年6月,サンドとその子どもたち,フレデリックの一行は今年もノアンへ行きます。
22歳のモーリスのフレデリックへの敵意は明らかなものになっていました。
フレデリックはモーリスが少年のころから仲良くしようと気遣っていましたが,モーリスにとってフレデリックは気難しい病人で厄介者でした。
愛する母がフレデリックの世話に苦労していることに嫉妬していました。
当時ショパンは,ポーランド人で母国ポーランド語で話のできる召使いヤンを雇っていました。
ヤンは単なる召使いではなく,母国語で話ができる相手として心のよりどころにしていました。
モーリスはそんなヤンが解雇されるしかない状況に追い込みます。
モーリスはヤンのフランス語をからかい,他の使用人もけしかけていじめます。
サンドが雇っていた女料理人スザンヌからも馬鹿にされ,ヤンは怒り,いざこざが絶えなくなります。
そしてヤンは解雇されます。
フレデリックにとって母国ポーランド語で話せる召使いがいなくなるのは精神的痛手でした。
一方,サンドの娘ソランジュは17歳の美しい娘に成長しており,フレデリックになつき,甘えていました。
母サンドは息子モーリスを偏愛し,兄妹喧嘩をすると,サンドはモーリスの味方をします。
ソランジュはフレデリックに助けを求め,フレデリックはソランジュをかばいます。
モーリスを溺愛するサンド,フレデリックに敵意を顕にするモーリス,兄モーリスと仲の悪い妹ソランジュ,ソランジュが甘えソランジュをかばうフレデリック,家族内での敵対関係がかたまっていきます。
9月,サンドの親族の娘オーギュスティーヌがやってきます。
オーギュスティーヌは21歳でした。
当時モーリスはよくノアンに来ていたポーリーヌ・ヴィアルドに憧れ恋心をいただき,ポーリーヌの肖像画をよく描いていました。
しかし夫も子もいるポーリーヌはモーリスを避けるようになります。
モーリスの恋心に気づいていたサンドは,モーリスがオーギュスティーヌと一緒になれば,とも思っていました。
サンドはオーギュスティーヌを養女にしようと考えていました。
フレデリックは,母サンドとうまくいっていないソランジュのことを思い,サンドがオーギュスティーヌを養女にすることには反対していました。
母サンドがオーギュスティーヌを可愛がるので,ソランジュは嫉妬して,賤しい生まれだとオーギュスティーヌをバカにします。
オーギュスティーヌに興味を持ち始めたモーリスはそんなソランジュを責めて激しい兄妹喧嘩になります。
そしてソランジュはフレデリックに訴えてかばってもらいます。
モーリスはますますフレデリックを憎むようになり,オーギュスティーヌも巻き込んでフレデリックに嫌がらせをするようになります。
フレデリックにとって,家族や家庭生活は幼い日の神聖な思い出であり,魂の故郷でした。
そんな彼にとって,このノアンでの生活環境は想像以上に神経を疲弊させたものと思われます。
サンド一家とのいざこざで不快な毎日を送る1845年のノアンでの生活ですが,作曲には精を出し,後期の傑作が多く生まれ,35歳のショパンは作曲家として絶頂期を迎えます。
7月にはマズルカOp.59を書き上げます。
ずっと昔,1828年に作曲したハ短調のソナタOp.4がウィーンのハスリンガー社から出版されることになり,いろいろと手直しをすることになります。
しかしショパンにとっては学生時代の習作であり,時代遅れで,どんなに手直ししても満足がいきませんでした。
秋になると「舟歌Op.60」「チェロソナタOp.65」に着手します。
さらにはショパン自身が題名が思い浮かばない,新しいジャンルの曲に取り組みます。これまでのポロネーズとは違うこの曲は,後に「幻想ポロネーズ」と称されます。
「幻想ポロネーズOP.61」はショパンの作品の中でも最後の大作で,これ以降は小品しか作曲していません。
2010年のショパンコンクールでは,初の共通課題曲となっています。
11月27日にはショパンが先立ってパリへ帰り,サンドと子どもたちは12月9日にパリに戻ります。
オーギュスティーヌは一度母親のもとに返しますが,家庭環境の良くなかったオーギュスティーヌを1月には再び引き取ります。
1846年:ショパン36歳
◆主な出来事◆
5月,ノアンに行き,作曲に専念する。ショパンとサンドとの仲が次第に険悪になりはじめ,10月,ショパンは単身パリに戻り,サンドは1人ノアンに残る。
Op.59から62までを出版する。
◆作品◆
マズルカ ロ長調 Op.63-1マズルカ ヘ短調 Op.63-2
マズルカ 嬰ハ短調 Op.63-3
マズルカ イ短調 Op.67-4
ノクターン ロ長調 Op.62-1
ノクターン ホ長調 Op.62-2
ワルツ 嬰ハ短調 Op.64-2
ワルツ 変イ長調 Op.64-3
ギャロップ「マルキ」KK.IVb-13
ブーレー ト長調 BI.160B KK.VIIb-1
ブーレー イ長調 BI.160B KK.VIIb-2
教会音楽 調性不明 KK.Va-1
教会音楽 調性不明 KK.Va-2
チェロ・ソナタ ト短調 Op.65 ※1845年着手
◆社会的・芸術的な出来事◆
ポーランドでクラコフ蜂起,ガリツィア農民運動起こる。アメリカ,メキシコと戦争。
ベルリオーズ『ファウゥトの劫罰』
メンデルスゾーン『エリア』
サンド『ルクレチア・フロリアーニ』
◆日本の出来事◆
アメリカ使節ジェームズ・ビッドル,相模国浦賀に来航し通商を要求晩餐会
1845年から1846年にかけてのパリの冬は風邪が大流行し,ショパンも外出を控えてピアノ教授に精を出しました。
夜はドラクロワやグジマワなど友人と過ごしています。
5月のはじめ,フレデリックは盛大な晩餐会を自宅で催します。
「音楽,花,食事」とのみ記した優美な招待状に招かれた招待客たちは,その夜のサンドとフレデリックの様子から,来たるべき確執について何の暗示すら感じなかったと伝えられています。
最後のノアンへ
1846年,サンドはソランジュ,オーギュスティーヌと3人で5月5日にノアンへ到着します。
ショパンは5月27日にノアンに到着します。
モーリスは4月半ばから父親のところに行っていて,ノアンに着くのは6月になります。
この夏が,ショパンにとって生涯最後のノアン生活となります。
今年の夏のノアンは猛暑で,神経質なフレデリックはしょっちゅう体を洗い,オーデコロンを体にふりかけていました。
そんな神経質なフレデリックにサンドはイライラします。
モーリスとフレデリックはささいなことで諍いを起こします。
そしてサンドは明らかに息子モーリスの側につくようになっていました。
この頃,二つのノクターンOp.62を書き上げています。
7月,シャルロット・マルリアニ夫人の友人だった,サン=イジドロ伯爵夫人が,サンドのために小犬を探してくれ,ショパンの使用人ピエールが小犬をノアンまで連れてきました。
光沢のある白い毛並みの犬で,サンドもショパンも大変気に入ります。
気品が感じられる,ということで「リスト」と名付けますが,さすがにそれはあんまりだ,ということで,最終的に「マルキ」という名前になりました。
小犬のマルキが自分の尻尾を追いかけ回していたようすから,「小犬のワルツ」ができたと言われています。
この夏に,小犬のワルツを含むOp.64のワルツ3曲が作曲されました。
夏の終り,ソランジュの婚約が決まります。
相手は田舎貴族のフェルナン・ドゥ・プレオでした。
フェルナンは24歳のまじめな好青年で,サンドは「慎ましく,純粋な田舎の紳士」,ショパンは「教養があり,誠実な青年」とフェルナンの好んで受け入れました。
1846年の夏は,例年通り来客も多くありましたが,フレデリックは自分の部屋にこもっていることが多かったようです。
フレデリックはワルシャワの家族宛に「ぼくがいると若い人たちが楽しめないようです」と書いていますが,この若い人たちというのはモーリスとオーギュスティーヌのことでした。
フレデリックは,今やノアンでの生活を楽しむことができなくなっていました。
11月,フレデリックは一人パリへ戻り,ピアノ教授に精を出します。
1847年:ショパン37歳
◆主な出来事◆
パリでインフルエンザが流行する。 次第に,床についていることが多くなる。サンドの娘,ソランジュが,彫刻家のクレサンジェと結婚する。
サンド家の家庭争議で,ショパンがソランジュ側についたため,ショパンとサンドは訣別する。
◆作品◆
歌曲「メロディー」 Op.74-9◆社会的・芸術的な出来事◆
フランスで世情不安が続く。ロシア軍,コーカンドを占領。
メンデルスゾーン,ライプツィヒで死去。
ヴェルディ『マクベス』
E.ブロンテ『嵐が丘』
C.ブロンテ『ジェーン・エア』
ルクレツィア・フロリアーニ
1847年,サンドは小説『ルクレツィア・フロリアーニ』を出版。
そこには主人公の裕福な女優ルクレチアと,体の弱い王子カロルが登場します。
カロルは嫉妬深く,狭量で,気難しい皮肉屋として描かれており,最後は女主人公ルクレチアを苦しませて死に追いやるという内容です。
ショパンにとって大変失礼な内容となっていて,サンドやショパンの友人たちは驚き心配しますが,ショパン自身はこの小説を賞賛していました。
2月6日,サンドはソランジュの正式な婚約手続きのためパリへ一時的に戻ります。
しかし気まぐれなソランジュは「やっぱりあんな田舎貴族はイヤ」とわがままが発動し,婚約が延期となってしまいます。
ソランジュの婚約を祝福していたショパンは大変残念がりました。
サンド家の大事件
その後,クレサンジェという彫刻家がサンドに紹介されます。
クレサンジェの評判は,借金まみれで暴力的とウワサされ,そのウワサはフレデリックの耳にも届いていました。
クレジサンジュはサンドにうまくとりいり,サンドとソランジュの胸像を作ることとなり,サンドとソランジュは毎日クレサンジェのアトリエに通うようになります。
そしてクレサンジェはソランジュの心を奪います。
4月5日,サンドとソランジュ,オーギュスティーヌはノアンへ戻っていましたが,それをクレサンジェが追いかけ,ソランジュに求婚します。
クレサンジェの悪いウワサを知るサンドは気乗りしません。
しかし,クレサンジェに妊娠させられたと思い込んだソランジュが冷たい川に浸かっていたことから変なウワサが広まり,サンドは結婚を認めるしかなくなりました。
ソランジュとクレサンジェの結婚は当初はショパンには知らされず,後に結婚することを聞いて,表面上は祝福したものの,本音では大変心配したようです。
この頃,ショパンの病状は悪化の一途をたどり,ずっと寝込んでいるような状態でした。
多忙なサンドに心配をかけたくないということで,サンドには知らせていませんでした。
看病に来てくれる友人や弟子たちにもサンドには知らせないようにお願いしていました。
弟子の一人チャルトリスカ夫人がショパンの病状をサンドに知らせてしまいますが,サンドはショパンが自分の病状を隠したがっていることを察して,知らないふりを続けました。
ソランジュの結婚を知らせるサンドからモーリスへの手紙には「ショパンには知らせないように」と書いていました。
ロジエール嬢への手紙にも「ショパンを一家の長として家族会議をするわけにはいかない」と書いています。
そして結婚式の準備が全て整った5月になってから,ショパンに式のことを知らせます。
そして5月20日,ソランジュとクレサンジェの結婚式がノアンで行われました。
ショパンは5月に入ってからも重い発作に倒れており,式には参加しませんでした。
しかし,たとえショパンの体調が良かったとしても,式に参加していなかったかもしれません。
フレデリックはワルシャワの家族宛の手紙でソランジュの結婚についてサンドは「非常識だ」と非難しています。
サンドもグジマワ宛ての手紙に「私は彼の奴隷になっていました。忍耐の日々を送っていました。私にとって受難でした。この手紙は焼き捨ててください」と書いています。
その後,オーギュスティーヌにも,モーリスの友人のデオドール・ルソーとの結婚話が進んでいました。
しかしテオドール・ルソー宛に匿名の手紙が届きます。
内容は「オーギュスティーヌはモーリスの愛人である」というものでした。
このせいでオーギュスティーヌの結婚話はなくなります。
そして,この匿名の手紙を書いたのはソランジュでした。
6月1日にはオーギュスティーヌの結婚話をまとめるために,サンドはパリに来て2週間ほど滞在していますが,ショパンとは会わずにノアンに帰ってしまいます。
しかしまだこのときは,ショパンは7月にはドラクロワと一緒にノアンへ行く予定でした。
ソランジュの夫クレサンジェには24,000フランもの借金がありました。
クレサンジェはノアンの別荘を抵当に入れたいと言ってきます。
もちろんサンドは拒否しますが,ソランジュも「助けてくれてもいいじゃないの」とわがまま全開です。
そんなソランジュとクレサンジェに対して,モーリスとオーギュスティーヌは反発し,1847年7月11日事件が起きます。
サランンジュの嫌がらせにより縁談がだめになったオーギュスティーヌですが,他に相手が見つかります。
サンドは婚礼用の品をそろえてやりました。
それを見たソランジュは,私たちにまわってくるはずのお金がこんなことに使われるなんて,「泥棒」「陰謀家」とオーギュスティーヌを罵ります。
そしてクレサンジェはオーギュスティーヌの婚礼用の品を入れた箱や部屋の花瓶を金槌で壊します。
それを見たモーリスが「やめろ」とクレサンジェを止めに入ります。
そのモーリスに金槌を振り上げるクレサンジェ。
とっさに間に入ったサンドをクレサンジェは殴ってしまいます。
激怒するモーリス。
「殺してやる」モーリスは母サンドに暴力をふるったクレサンジェに拳銃を向けます。
幸いにも周りの召使いや友人たちが力づくでモーリスを止め,殺人事件にはいたりませんでした。
怒り心頭のサンドはついにソランジュとクレサンジェをノアンから追い出します。
ソランジュとクレサンジェはノアンの館を荒らして金品を物色し,ノアンを出ます。
サンドはこのいきさつをショパンには知らせず,友人らにも秘密にするように頼みました。
ノアンを追い出されたソランジュは妊娠しており体調が優れませんでした。
パリへ行くためにノアンに置いてあるフレデリックの馬車を借りようとしますが,サンドに拒否されます。
ノアンの近くの街ラ・シャトルに着いたソランジュは,「体の具合が悪く・・・」「でも母は馬車を貸してくれません」と助けを求める手紙をフレデリックに送ります。
事情を知らないフレデリックはソランジュからの手紙を受け取ると,サンドは実の娘になぜそんなに冷たいのか,とすぐに馬車をソランジュに貸すようにサンドに手紙を送ります。
フレデリックの手紙を受け取ったサンドは,フレデリックの馬車をラ・シャトルに遣わしてソランジュに貸し与えます。
しかし,これ以上フレデリックから家族の問題に口出しをさせないと決意をかためます。
サンドとショパンの訣別
サンドからショパンへ最後通告をつきつけます。
パリに来るであろうソランジュ夫妻に決して会わないこと,フレデリックがノアンにきた際には娘夫婦の名は決して口にしないこと,もしも娘夫婦を受け入れたら二人の仲は終わることをつきつけます。
このときサンドは,ショパンがサンドの言うことを聞いてくれると思っていました。
フレデリックがノアンに来れば,ショパンのパリの家をソランジュ夫妻が利用してしまうかもしれないから,利用できないよう手を打っておこうとも考えていました。
サンドはパリでフレデリックの世話をしていたロジエール嬢に手紙を書き,フレデリックがパリを出発したらフレデリックの家の鍵を預かり,ソランジュ夫妻には決して鍵を渡さないように言います。
しかし,フレデリックはパリに到着したソランジュとクレサンジェを受け入れ,ノアンには行かないことにしたのです。
1847年7月24日,ショパンはサンドからの最後通告への返事を書きます。
これがショパンからサンドへの最後の手紙となりました。
ノアンでの事件を詳しく知らないショパンは,ソランジュから都合の良い言い分しか聞いていませんでした。
「サンド夫人の娘を見捨てるような行動が理解できない。そもそもクレサンジェのような男との結婚を許したのだから母親として責任を果たすべきだ。いついかなるときも子どもを愛するのが親の宿命だ」といった内容でした。
フレデリックはこの手紙によって,おそらくサンドの逆鱗に触れることになるであろうことはわかっていました。
サンドと別れることを覚悟して送った手紙でした。
手紙を受け取ったサンドは激怒します。
あれだけ私の世話になっておきながら,娘側について私に反対の意をとなえ,あろうことか私のことを諭すかのような内容に,サンドはショパンを許せませんでした。
7月28日,サンドはフレデリックに決別の手紙を書きます。
ごきげんよう 友よ
この9年間の友情にこうした奇妙な終止符がうたれたことに
神に感謝します
二人の関係は終わりました。
この後,互いに友人や家族に,互いを罵る手紙を書いています。
サンドと別れたフレデリックでしたが,ソランジュとクレサンジェとは連絡を取り合い,お金を用立ててやったりクレサンジェの仕事を探してやったり面倒を見ました。
クレサンジェを嫌っていたショパンですが,一緒に食事をする仲になっていました。
サンドもフレデリックとは縁を切りましたが,娘ソランジュとは手紙のやりとりを続けていました。
フレデリックはサンドとソランジュの縁が完全に切れてはいないことを知っており,時間がたてばサンドと寄りを戻せるのではないかと淡い期待を抱いていました。
ノアンに愛用のピアノを置いたままだったショパンは,そのままピアノを置いておくようにソランジュから伝えてもらいます。
しかしサンドはフレデリックにピアノを送り返してきました。
サンドとフレデリックの共通の友人だったポーリーヌは,サンド宛に「ショパンはあなたを憎んではいません。以前のようにあなたを敬慕しています」と手紙を送っています。
サンドやフレデリックの友人たちは,なんとか二人の仲を取り持とうと努力しますが,結局二人の仲が元に戻ることはありませんでした。
相変わらずソランジュは母サンドのことを悪く言っていましたが,フレデリックは同調することなく,母親と和解するように諭していました。
ノアンに行くこともなく,久しぶりにパリで夏を過ごすショパンでしたが,何も浮かばず,全く作曲ができなくなってしまいました。
サンドはショパンと暮らした9年間は女盛りであったにも関わらず,その大半をショパンとのプラトニックな友情関係を続け,その間も他の愛人を持つことはありませんでした。
彼女にとっては非常にめずらしいことでした。
ショパンと別れたサンドは,以前のように次々と男性と浮名を流すようになります。
でもこれまた以前のように,その関係が長く続くことはありませんでした。