最終更新;2021.12.04 ショパン作品一覧の更新を進めています。まもなく全258曲の作品一覧が完成します!

ショパンの生涯 パリ時代1831年21歳~1835年25歳

ポーランドの大貴族,ラジヴィウ家のサロンにおけるショパンのコンサート 年表
ポーランドの大貴族,ラジヴィウ家のサロンにおけるショパンのコンサート
ショパンの生涯 ブックマーク

ショパンの生涯-略歴幼少期青年期-パリ時代-サンドとの生活晩年死後

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ショパンの生涯 パリ時代

1831年:ショパン21歳

◆主な出来事◆

タールベルクの演奏会を聴く。
ウィーンで演奏会も開けないまま無為に日々を送るが,ニデツキら,ポーランド人音楽家や,マルファッティ医師らと親交を結ぶ。
4月頃からパリ行きを計画するが,なかなか出国できない。
7月20日,ミュンヘンに向かう。シュトゥットガルトを経て,9月末ないしは10月はじめにパリに到着する。
カルクブレンナー,ロッシーニらの音楽家に会う。
シューマンの主催する「音楽新報」に「ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲」を絶賛する批評が掲載される。

◆作品◆

バラード ト短調 Op.23
エチュード ハ短調『革命』Op.10-12
スケルツォ ロ短調 Op.20
華麗なる大円舞曲 変ホ長調 Op.18
華麗なるワルツ イ短調 Op.34-2
歌曲「悲しみの川」Op.74-3
歌曲「許婚者」Op.74-15
歌曲「リトアニアの歌」Op.74-16
華麗なる大ポロネーズ Op.22 ※アンダンテ・スピアナートの部分は1834年

◆社会的・芸術的な出来事◆

1月,ポーランド議会が独立宣言するも,革命軍はロシア軍に鎮圧され,11月蜂起は挫折する。
リヨンをはじめ,ヨーロッパ各地で暴動が起きる。
エジプト軍,シリアに侵入。
ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』
ベリーニ『ノルマ』
マイヤベーア『鬼のロベール』
21歳のショパン。クレヨン,パステル,水彩絵の具を混用している。作者不詳。
21歳のショパン。クレヨン,パステル,水彩絵の具を混用している。作者不詳。

ウィーンを出発

1831年7月20日,ショパンは友人クメルスキーとともにウィーンを発ち,まずはミュンヘンへ向かいます。

ショパンは1ヶ月ほどミュンヘンに滞在しました。

自作のホ短調の協奏曲や『ポーランドの旋律による幻想曲』を演奏したりしてパリまでの旅費を稼ぎ,9月にはシュトゥットガルトへ向かいます。

ミュンヘンでの演奏は雑誌に評論が掲載され「高度なテクニックと繊細な魅力」「モチーフの独特な処理が注目された」「見事なでき」「満場の拍手を浴びた」などと称賛する記事となっていました。

9月8日,シュトゥットガルトで,ついにロシア軍による総攻撃にワルシャワが陥落し,蜂起が失敗に終わったことを知ります。

ショパンは家族や友人,知人たちの生死もわからないまま,とりあえずパリを目指します。
ショパンは家族や市民の安全が脅かされることや,女性がロシア兵に乱暴させることなどを憂慮します。
ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪い,神がロシア軍の行いを許したことに幻滅しました。

こうした心の叫びは,革命のエチュードOp.10-12やスケルツォOp.20などに昇華されます。

流されるようにパリへ

ショパンは9月中旬にパリへ向けて出発しました。

ロシア軍に蹂躙されているであろうワルシャワに向かうこともできず,たとえウィーンと同じ残酷な運命が待っているとしても,パリ以外に向かうべき先が見つかりませんでした。

両親や友人の生死さえ不明な不安を抱えながら,運命に服従するように流されるようにパリへ向かいます。

途中で友人クメルスキーはベルリンへ向かったため,苦悩と旅に疲れ切っていたショパンは一人孤独でした。

そして9月末には,有力者への紹介状もなく,旅銭も心もとない青年は,不安を胸にパリに到着します。

パリでは,ワルシャワの家族や友人の無事が分かり,ひとまず安心しました。
それから出版社や劇場,音楽家などに挨拶廻りをして演奏会の準備にとりかかります。

パリではロッシーニやケルビーニ,カルクブレンナーに会いました。
中でもカルクブレナーとの出会いは印象的だったようです。

当時パリで最高の名声を誇っていたカルクブレンナーは,ショパンのパリデヴューへ向けて尽力しました。

当時のパリは亡命してきたポーランド人もたくさんおり,大変慰めになったようです。

ポーランドの占領側であったウィーンでは反ポーランドの風潮でしたが,そんなウィーンと対立するバリでは亡命してきたポーランド人に好意的でした。

そんな亡命者をとりまとめていたのがチャルトリスキ公でした。
ワルシャワ蜂起で一時樹立された国民政府の首相だった人間で,蜂起失敗後はパリに亡命していました。

パリにはロシアの弾圧から逃れてきたポーランド人が大勢いたため,チャルトリスキ公はそんなポーランド人亡命者社会の総帥でした。

ショパンとチャルトリスキ一家とは,ショパンが亡くなるまで親しく付き合い,最後にショパンの葬列の先頭をつとめたのも,年老いたチャルトリスキ公でした。

また,後にショパンが愛用することになるプレイエルのピアノとの出会いもありました。

ショパンとシューマン

12月には,ショパンの「ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲」がロベルト・シューマンをいたく感動させ,有名な「諸君帽子をとりたまえ,天才だ!」の一句を含む,ショパンの紹介記事が掲載されました。

この紹介記事は作品の解釈が見当違いも甚だしく,ショパンは苦笑したらしいですが,ポーランド出身の無名の若者の決して傑作とは言えない初期の作品を見て,ショパンの天才を見抜いたことや,記事にして音楽社交界に広くショパンの名を知らしめたシューマンの功績は讃えられるべきでしょう。

「ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲」はポーランド外で印刷出版された初めての作品でした。

シューマンの賛辞だけでなく,保守的な批評家の酷評も音楽誌に掲載され,若きポーランドの作曲家フレデリック・ショパンの名は西洋の音楽愛好家に広く知れ渡りました。

このときショパンを酷評していた評論家の中に,高名な音楽評論家のルートヴィヒ・レルシュタープがいました。

彼はベートーヴェンのソナタを「湖の月光の波に揺らぐ小舟のようだ」と評したことで,そのソナタが「月光」と呼ばれるようになったことで知られています。

とくにショパンのマズルカに対してはひどく扱き下ろしていました。

このレルシュタープも,数年後にはすっかりショパンの曲に魅せられ,1843年にはわざわざショパンの元を訪れて謝罪しています。

ショパンのマズルカは古代的旋法を用いて民謡的で独特なモチーフや和音で,他の人にもなかなか理解されませんでした。

ショパンを高く評価していたモシェレスやメンデルスゾーンでさえ,当初,マズルカは理解できなかったようです。

後にショパンとシューマンは度々交流します。

ショパンはシューマンからの称賛と敬愛をありがた迷惑に感じているふしがありましたが,シューマンはショパンの音楽に深く魅せられました。

シューマンはたびたびショパンを称える批評を書き,1834年作曲の『謝肉祭』の中に『ショパン』という曲を忍ばせ,1838年作曲の『クライスレリアーナ』はショパンに献呈されました。

ショパンは『クライスレリアーナ』のお返しには,前奏曲集Op.28をプレイエルに献呈し,フォンタナに2つのポロエンーズOp.40を献呈したあとの,”余り物”のバラードヘ長調Op.38を贈り,しかもシューマンの名前の綴りを間違えて,1840年に献呈しました。

ショパンを熱狂的に支持するシューマンに対して,ショパンは何故かいつもシューマンに対して大変失礼なのでした。

ロベルト・シューマン アドルフ・フォン・メンツェルによる肖像画
ロベルト・シューマン アドルフ・フォン・メンツェルによる肖像画

1832年:ショパン22歳

◆主な出来事◆

2月に,パリでデビュー・リサイタルを開く(2月26日)。リスト,メンデルスゾーンらが聴きにくる。
経済的に行き詰まり,将来に不安を感じる。アメリカへの移住を考え始める。
ロスチャイルド家の夜会を転機に,演奏会やレッスンの依頼が来はじめ,経済的問題は一挙に解決する。
パリとロンドンで初めて楽譜を出版する。
ベルリオーズ,フィールドに会う。

◆作品◆

エチュード ホ長調「別れの曲」 Op.10-3
エチュード 嬰ハ短調 Op.10-4
エチュード ハ長調 Op.10-7
エチュード イ短調 Op.25-4
エチュード ホ短調 Op.25-5
エチュード 嬰ト短調 Op.25-6
エチュード 変ニ長調 Op.25-8
エチュード 変ト長調「蝶々」 Op.25-9
エチュード ロ短調 Op.25-10
マズルカ 変ロ長調 Op.17-1
マズルカ ホ短調 Op.17-2
マズルカ 変イ長調 Op.17-3
マズルカ イ短調 Op.17-4
マズルカ ニ長調 BI71
マズルカ 変ロ長調 BI73
ロンド 変ホ長調 Op.16
演奏会用アレグロ イ長調 Op.46 *元々ピアノ協奏曲として作曲されたが,第1楽章のみピアノ独奏曲として1841年に完成。

◆社会的・芸術的な出来事◆

秘密結社「若きイタリア」が結成させる。
フランス軍,アントワープを占領。
イギリスで選挙法改正。
ゲーテ『ファウスト 第2部』完成。
ゲーテ,ヴァイマールで死す。
バルザック『風流滑稽譚』
サンド『アンディアナ』
メンデルスゾーン『ピアノ協奏曲 ト短調』

パリデヴューリサイタル

ショパンのパリデヴューリサイタルは様々な障害のため,1831年の12月25日,ついで翌年の2月15日と何度も延期され,ついに実現されたのは1832年2月26日でした。

プレイエルの好意で準備されたプレイエル・ホールには亡命のポーランド人や,パリの一流の音楽家や芸術家が集まりました。

その中には,ショパンより1ヶ月遅れで12月にパリに到着し,またたく間に社交界の人気者となったメンデルスゾーン,すでにパリでスーパー・スターとなっていたフランツ・リストもいました。

いつも控えめなメンデルスゾーンが気が狂ったように拍手をおくり,リストもこの演奏会を大絶賛,3ヶ月も間をあけず,5月20日には第二回の演奏会が開催されました。

このとき演奏されたのはホ短調のピアノ協奏曲Op.11で,ホ短調の協奏曲を先に発表したことで,ホ短調が協奏曲「第1番」となり,それより先に作曲されていたヘ短調が協奏曲「第2番」となりました。

残念ながら,このときのショパンの手紙は残っていません。
しかし,ウィーンでの苦い経験や祖国の情勢から,覚悟を持ってこの演奏会に臨んだことが想像されます。

ここには経済的な不安もありました。
革命の最中にある家族へ送金を求めることはできません。
祖国に戻ることもできません。
パリ以外に行き先もなく,どうしてもパリで自活していくしかありませんでした。

パリでの2回の公演は芸術的には大成功でしたが,経済的には失敗でした。
ショパンは絶望のあまり,生活のためにアメリカに移住することも考えていたようです。

ピアノ教授で自活

5月の演奏会は慈善音楽会で,社交界の人々が集まっていました。

そしてこの日のフレデリックの上品で好ましい印象は,またたく間にフランス貴族社会で評判となり,上流階級の夜会に招かれるようになります。

ショパンの繊細な演奏は,大きなホールでは「音が貧弱」などと批判されてしまうこともありましたが,サロンの部屋の中でのフレデリックの演奏は上流階級の御婦人方をメロメロに魅了します。

フレデリックは教養ある父ニコラスからしつけられていたおかげで,マナーも良く,紳士的で品を感じさせ,その控えめな性格も相まって一気に社交界の寵児となります。

名家の夫人や令嬢がショパンのレッスンをこぞって求めるようになりました。

貴族たちが取り決めたレッスン料は1回45分で20フランという大変な高給で,ショパンの経済的な問題は一気に解決しました。

生活のための収入をレッスンによって得ることができることを見出したのでした。

ショパンのピアノレッスン

ショパンのピアノ教授法は,手の柔軟性を強調し,フォルテでも叩きつけずにやわらかく演奏することを求めました。

また歌うような演奏を求め,イタリアオペラを聴きに行くように言っています。

さらにはバッハを敬愛し,バッハの平均律で練習するように言い,テンポ・ルバートやペダリング,指遣いやタッチなど,とかく細かな指導をしていたようです。

ショパンの1回のレッスン料は45分で20フラン。
現在の日本円に直すと10万円ほどになります。

レッスンの日は,1日に5,6人を教えていたそうで,それだけで相当の収入になりました。

フレデリックはすぐに社交界での交友関係を楽しむようになります。

生来の上品な振る舞いや容姿もあり,白い手袋をはめて,馬車を乗り回す姿は,あたかも昔から社交界の人間だったかのようでした。

浪費家のショパン

レッスンで稼ぎまくっているショパンでしたが,オペラの観劇や,社交界に出入りするための”おしゃれ代”としてどんどん消えていきました。

服はもちろん,帽子に靴,ステッキ,白い手袋,時計,香水,カフスボタン,櫛など小物類は全て一流品で,調度品も高級家具をとりそろえ,さらにはかっこいい自家用馬車など,”おしゃれ”には大変こだわっていたようです。

召使いを雇ったりもしており,これは当時の音楽家たちにとっては前代未聞のことだったそうです。

またショパンは花も好きで,部屋にはいつも花が飾られており,その花代もかかりました。

これだけの稼ぎがありながら,父ニコラスに仕送りをお願いする手紙を書いていたりします。
そんなフレデリックに「ぜいたくはせずに節約して蓄えなさい」とお叱りの手紙を返しつつも仕送りをよこしてくれる優しい父親でした。

こういった努力のおかげで,当時の音楽家はサロンの裏口から出入りするのが当たり前でしたが,ショパンは自家用馬車で乗りつけ,サロンの玄関から堂々と出入りするのでした。

おしゃれで優雅なショパンはご婦人方にモテまくり,やがては流行の手本にまでなりました。

とにかくモテまくりのショパンですが,性に関してはとてもマジメで道徳的・保守的であったといいます。

後に華々しい男性遍歴で有名なジョルジュ・サンドとつきあい始めたときには,周囲は大変驚いたそうです。

このころ,初恋の人コンスタンツィアが結婚したことを知りますが,さほどショックは受けなかったようです。

ショパンの手紙の焼失

現在,パリに到着してから,マリア・ヴォジニスカと恋,そしてジョルジュ・サンドとの恋に至る,ショパンの生涯で最も劇的だった十数年間の,ショパンから両親への書簡が全て失われています。

これらの貴重な資料は,妹イザベルの手で保管されていましたが,1863年のワルシャワ1月蜂起の歳,ショパンのピアノ等とともに焼滅してしまいました。

ショパンゆかりの建物で生活したことのある,詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィトは,後に1863年の1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して『ショパンのピアノ』という詩を詠んでいます。

1833年:ショパン23歳

◆主な出来事◆

ベルリオーズ主催の音楽会でリストと共演し,これを機会に,社交界の有名人らと親交を結び,サロンの人気者となる。
ハリエット・スミッソンのための慈善演奏会に出演,リストと共演。
夏はフランショームと共に,トゥレーネで過ごす。
デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人のピアノをレッスンする。

◆作品◆

マズルカ ハ長調 BI82
ノクターン ト短調 Op.15-3
華麗なる変奏曲 変ロ長調 Op.12
ボレロ ハ長調 Op.19
チェロとピアノのための,マイヤベーアのオペラ「鬼のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲 ホ長調 BI70 ※チェロパートはフランショーム作

◆社会的・芸術的な出来事◆

イギリスで工場法が制定され,児童の工場での労働が取り締まられるようになる。
ヨハネス・ブラームス生まれる(5月7日)。
プーシキン『エフゲニー・オネーギン』
サンド『レリア』
メンデルスゾーン『交響曲 イタリア』

◆日本の出来事◆

天保の大飢饉(1833年-1839年)
リストとショパン

この年,練習曲集Op.10を出版,リストに献呈します。

練習曲集を見たリストは初見で弾こうとしますが,上手く弾けなかったとのことです。
これを悔しがったリストは時間をかけて練習し,数週間後には見事な演奏を披露しました。

エチュードOp.10はフランスだけでなく,ドイツやイギリスでも出版され批評家にも好評でした。

しかし,いつもショパンの作品を酷評するレルシュタープは「この曲集を演奏するには外科医が必要だ。指が歪んでしまう」と批判しています。

なお,Op.25の練習曲集はリストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人に献呈されています。

リストは超絶技巧とパフォーマンスで聴衆を圧倒するスーパースターでした。
リストの演奏に興奮した御婦人方がリストの髪の毛をむしりとったとか,リストのおかげでパリの道が渋滞してた,などの逸話が残っています。

シューマンは「リストは聴くだけでなく,まずは見なくてはいけない」と言い,そして「リストに匹敵するピアニストはショパンである」と言っています。

ハイネは「リストに較べればどんなピアニストも見劣りするが,ショパンだけは例外だ」と言い,

バルザックは「ハンガリー人(リスト)が悪魔なら,ポーランド人(ショパン)は天使だ」と評しています。

使用するピアノも,ショパンは軽いタッチで柔らかい音のするプレイエルのピアノを好み,リストは派手で大音量の出るエラール社のピアノを好んでいました。

このようにショパンはリストに唯一対抗しうる存在として見られていました。

大ホールの演奏会では絶大な人気を誇ったリストも,サロンという場においてはショパンにかないませんでした。

リストだけでなく,パリの音楽家仲間たちと表面上は親しくしていたショパンですが,本当に心の底から親しくできるのは同郷のポーランド人だけだったようです。

ショパンは人当たりが良く容易に多くの知人を作りました。

しかし自ら胸襟を開いて人と親しくすることは稀で,本当に心を開くことのできる親友はごくわずかでした。

そして一度心を許した人や物への執着と愛情は深く,友人ばかりでなく,医者や調律師,靴屋,仕立て屋,さらには帽子やチョコレートといった身の回りの品にいたるまで,長年親しんだ人や物でなければなかなか気に入ることはありませんでした。

リストも,ショパンをピアニストとして,作曲家として尊敬し,ショパンと親密になりたがりましたが,ショパンに対して壁のようなものを感じていました。

リストは「ショパンは我々の中では常に異邦人であり続けた」と言っています。

ショパンは当時のロマン主義の音楽家仲間の「音楽と文学・絵画との融合」という考え方を嫌っており,自分の作品が文学的,絵画的に解釈,表現されることを嫌い,標題的なタイトルをつけられることも嫌っていました。

ショパンの作品を文学的に絶賛するシューマンも苦手だったようです。

やがて,リストやメンデルスゾーンなどパリにいた音楽家仲間たちはしだいにパリを離れていき,生涯最後までパリに残ったのはショパンだけでした。

長生きだったリストは,ショパンの死後もショパンの作品を愛し,演奏会のプログラムには積極的にショパンの作品を加えました。

現在のようにショパンの曲が人々に知られ広まっているのも,ヨーロッパ各地でショパンの曲を演奏してまわったリストの功績が多きいでしょう。

リストは弟子たちにも(リストの弟子には,ハンス・フォン・ビューロー,カール・タウジヒ,モシュコフスキ,ザウアー,ローゼンタール,ワインガルトナー,ダルベールなど錚々たる一流ピアニストだらけで,孫弟子やその弟子まで含めると,世界中の名だたる名演奏家がたくさんいます)ショパンの曲を教え,ショパンの楽曲にはいつも賛辞を惜しみませんでした。

リストは「ショパンは魔術的な天才でした。誰とて彼に比肩するものはない」と述べています。

1833年3月23日の演奏会では,ショパン,リスト,ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲」を共演しています。

1834年:ショパン24歳

◆主な出来事◆

F.ヒラーと共に,メンデルスゾーンの招きで,ライン音楽祭へ出かける。
ジュネーズ滞在中のヴォジニスキ家より,ショパンあてに招待状が来る。
マリア・ヴォジニスカに,新作のワルツを贈る。
12月,ベルリオーズ主催の音楽会で「ピアノ協奏曲 ホ短調」を演奏。
クリスマスには,プレイエル・ホールで,リストらと共に演奏会を開く。

◆作品◆

エチュード イ短調「木枯らしのエチュード」Op.25-11
マズルカ ト短調 Op.24-1
マズルカ ハ長調 Op.24-2
マズルカ 変イ長調 Op.24-3
マズルカ 変ロ短調 Op.24-4
マズルカ 変イ長調 BI85
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66
ポロネーズ 嬰ハ短調 Op.26-1
ポロネーズ 変ホ短調 Op.26-2
アンダンテ・スピアナート ト長調 Op.22 ※ポロネーズ部分は1831年に作曲
カンタービレ 変ロ長調 BI84
プレピュード 変イ長調 BI86

◆社会的・芸術的な出来事◆

スペイン市民戦争。
イギリス,植民地での奴隷制廃止。
ミツキェヴィッツ『パン・タデウシュ』
バルザック『ゴリオ爺さん』
シューマン『謝肉祭 Op.9』
ベルリオーズ『イタリアのハロルド』
シューマン「音楽新時報」を創刊。

◆日本の出来事◆

水野忠邦,老中となる。

誇り高き決断

フレデリックはワルシャワ蜂起よりも前にポーランドを出国していたので,まだ亡命者ではありませんでした。

そんな中,1834年にロシア皇帝が,フランス領内にいるポーランド人に対して,ロシア大使館に出頭するように命令を下しました。
もしも出頭しなければ亡命者となってしまい,ロシアの支配下にあるワルシャワには二度と帰れなくなってしまいます。

ロシア側は,芸術家として名声を高めていたショパンを手に入れたがっていました。

「ロシア皇帝付き主席ピアニスト」という地位や様々な特権(自由に祖国に入ることなど)をショパンに与えるように準備していました。

父ニコラスからも「頼むからロシア大使館に出頭して手続きをしておくれ」という手紙が届きます。

しかしフレデリックは,たとえ二度と祖国に戻れなくなるとしても,ロシアに忠誠を誓いたくないという思いから,自ら亡命者となる選択をします。

1835年:ショパン25歳

◆主な出来事◆

2月,3月と相次いで,エラールとプレイエルのホールで演奏会を開く。
8月,湯治で滞在中の両親に会うため,カールスバートへ赴く。3週間滞在する。
パリへ戻る道すがら,ドレスデンのヴォジニスキ家を訪問する。マリア・ヴォジニスカに魅了される。ドレスデンを発つ日,マリアにワルツを贈る。
ライプツィヒのメンデルスゾーンのもとで,シューマン,クララ・ヴィークに会う。
帰途,ハイデルベルクで喀血。パリではショパン死亡のデマまで流れる。 年末,パリに戻る。

◆作品◆

エチュード 変イ長調『エオリアン・ハープ』Op.25-1
エチュード ヘ短調 Op.25-2
エチュード ヘ長調 Op.25-3
エチュード ハ短調『大洋』Op.25-12
マズルカ ト長調 Op.67-1
マズルカ ハ長調 Op.67-3
マズルカ 変ロ長調 KK番号Ve-4 *ポーランド国家ドンブロフスキのマズルカの後半部分を編曲したもの。
ノクターン 嬰ハ短調 Op.27-1
ノクターン 変ニ長調 Op.27-2
ワルツ 変イ長調 Op.34-1
ワルツ 変イ長調「別れのワルツ」 Op.69-1
ワルツ 変ト長調 Op.70-1

◆社会的・芸術的な出来事◆

フランスで9月法制定。これによって,不穏な動きや過激な活動が検閲されるようになる。
ドニゼッティ『ランメルムーアのルチア』
シューマン『ピアノ・ソナタ 第1番』『交響的練習曲』

両親との生涯最後の再会

ショパンはポーランド愛国主義者でしたが,フランスではフランス式の名前を名乗り,1835年8月1日にはフランスの市民としてフランスの旅券が発行されています。

亡命者となったフレデリックは,ロシア統治下にあるワルシャワの家族とは簡単には会うことができません。

そんな中,8月に,フレデリックの両親がボヘミアのカールスバートへ来ることになりました。

父ニコラスが医者に湯治をすすめられたためでした。
母ユスティナも一緒でした。

なお,このときには姉ルドヴィカも妹イザベラもすでに結婚していたため,カールスバートにきたのは両親だけでした。

カールスバートはロシアの影響下になく,フレデリックもフランス旅券でカールスバートへ向かいます。

こうして,フレデリックは両親との再会を果たします。

5年ぶりに両親との再会を果たしたフレデリックの喜びはどれほどのものだったでしょう。

しかし,これが生涯で最後の再会となりました。

マリアとの出会い

両親と別れパリへ戻る途中で,ドレスデンへ立ち寄ります。
そこにはポーランドに帰る途上のヴォジニスキ伯爵一家が滞在していました。

ポーランド人貴族のヴォジニスキ伯爵とは,ワルシャワ時代に親交がありました。

ヴォジニスキの3人の息子たちは皆,学生時代は父ニコラスが経営する寄宿舎で暮らしており,フレデリックの遊び友達だったのです。

ショパンの名声はヴォジニスキ家にも届いており,フレデリックは招待を受けたのでした。

5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリアは16歳になっていました。

ピアノも歌も上手で,詩をたしなみ,文学にも通じていました。

知的で芸術の才能にも優れた彼女にショパンはたちまち恋します。

マリアはピアノも歌も絵も上手で,芸術に深い理解があり,育ちが良くて可憐で上品,なんといっても同じポーランド人。

フレデリックは心の故郷であるショパン家と同じような家庭をもつことを夢見ており,理想とする家庭を共に築いていく女性として,マリアはこれ以上ない理想の女性でした。

9月にドレスデンを去る際には,一般に「別れのワルツ」として知られる変イ長調のワルツOp.69-1をマリアに贈っています。

また,パリに戻ってすぐに書かれたエチュード ヘ短調Op.25-2について,これを「マリアの魂の肖像」と言っています。

また,マリアには歌曲も贈っています。

シューマンとの出会い

ドレスデンを発ったショパンは次にライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ねます。
メンデルスゾーンはゲヴァントハウスの指揮者となり栄光に包まれていました。

さらに,メンデルスゾーンの紹介で,ヴィーク家を訪れます。
ヴィーク家では,天才少女ピアニストのクララ・ヴィークと,クララの家に来ていた,後にクララの夫となるロベルト・シューマンに会います。

ショパンを崇拝していたシューマンは,ショパンとの出会いに感激しますが,ショパンはそうでもなかったようです。

このとき,クララ・ヴィークがショパンのエチュードを2曲演奏し,その演奏にショパンはいたく感心したとのことです。

クララ・シューマン
クララ・シューマン

両親との5年ぶりの再会,ドレスデンでの新しい恋,ライプツィヒでのメンデルスゾーンとの再会とシューマンとの出会い。

1835年の夏は,ショパンの短い一生の中でも最も祝福に満ちた楽しい数ヶ月だったと思われます。

マリアの兄アントニ

パリに戻ってくるとマリアからの手紙が届きます。

そこにはフレデリックへの想いがつづられるとともに,マリアの兄でフレデリックの幼友達のアントニの面倒を見てほしい,と書かれていました。

そのアントニはお調子もので金遣いが荒く,フレデリックを連れ回して豪遊したあげく,フレデリックから借金をしまくりました。

この借金は結局踏み倒されています。

ショパン重病説

11月体調を崩したショパンはパリの街にあまり姿を見せなくなり,故郷への手紙も途絶えていました。

12月には「ショパン重病説」「ショパン死亡説」がウワサされ,そのウワサはワルシャワにも届きます。

そんなとき,マリアの父ヴォジニスキ氏がショパンの父ニコラスを訪ねます。

当時マリアたちはドレスデンに住んでいましたが,父ヴォジニスキ氏はポーランドに帰ってきていました。

マリアの母テレサ夫人からマリアとショパンの関係を聞いていたヴォジニスキ氏はショパンの様子を探りに,わざわざ父ニコラスのもとを訪れたのでした。

ステージ恐怖症

パリに来た当初は生活のため何度か舞台に立っていましたが,ピアノ教師としての収入が増え,作品が次々と出版されるようになると,ピアニストとしての活動から身を引いていきます。

自分の繊細な演奏が大きな会場では効果が上がらないことを痛感しており,次第にステージ恐怖症になっていきます。

ティトゥスと疎遠に

ティトゥスから「なぜオラトリオ(宗教音楽)を書かないのだ。オラトリオを作曲したまえ」という手紙が届き,これがフレデリックのカンに触ったようで,しだいにフレデリックはあんなに頼り愛していた友人ティトゥスと疎遠になっていきます。

後にショパンが死の床についたとき,偶然ティトゥスがオランダに出張にきていることを知って,とても会いたがったといいますが,ついに2人が再会することはありませんでした。

リスト vs タールベルク

1835年冬,パリはピアニスト兼作曲家タールベルクの話題で盛り上がっていました。
その超絶技巧ぶりは「まるで3本の手で弾いているようだ」と絶賛されていました。

当時愛人とスイスにいたリストはこのウワサを聞きつけ,パリに戻ってさっそく演奏会を開きます。

パリの聴衆たちは,タールベルクがすごい,いややっぱりリストだ,と大変な話題になったようです。

最終的には「タールベルクは世界一のピアニスト,リストは世界で唯一のピアニスト」という判定に落ち着きました。

「3本の手」のピアノ奏法は,右手,左手の旋律に加えて,両手の主に親指を組み合わせて,あたかも3本目の手があるように聴かせる技術のことで,タールベルク以降も,様々な作曲や編曲に用いられています。

「3本の手」奏法の代表曲といえば,
スーザ作曲「星条旗よ永遠なれ」のウラディミール・ホロヴィッツ編曲。
You Tubeで見つけた動画を貼っておきます。

この動画は演奏もホロヴィッツ本人です。

2:15あたりからが特にすごい!です。映像なしで音楽だけ聴いていると,本当にもう1本手があるようにしか思えません。

しかも,これはライブ録音で,会場の驚きのざわめきも収録されいます。

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