ショパンの手紙 8才~15才

シャファルニア新聞 ショパンから家族に宛てた手紙だが,新聞スタイルになっている。実際の「ワルシャワ通信」という新聞と書体や体裁がそっくりだという。 ショパンの手紙
シャファルニア新聞 ショパンから家族に宛てた手紙だが,新聞スタイルになっている。実際の「ワルシャワ通信」という新聞と書体や体裁がそっくりだという。
エルスナー
エルスナー

フレデリックは日記や評論のたぐいは書きませんでした。

ショパンの生涯,人となり,音楽観,思想などを知る上で,ショパンの遺した手紙が重要な資料になります。

ショパンの遺した手紙を年代別にまとめていきます。

ショパンの手紙~ショパンのはじめての手紙~

  • 日付;1818年12月6日 *ショパン8才
  • 宛先;父ニコラス
ニコラス
ニコラス

フレデリックが6才のとき,7才のときにも誕生日の祝辞をもらっています。

それらは韻文でした。

この手紙はフレデリックが散文で書いた手紙のうち,後の世に遺っているものの中で最も古い手紙になります。

愛するお父さま!

音符で言えるものなら,ぼくの気持ちをもっと簡単に表せたのですが,よい音楽会さえもお父さまへのぼくの心を十分に示すには足りません。

だから,かんたんな言葉で,ぼくのこの上もない感謝と,心からの愛情をささげます。

1818年12月6日
F・ショパン

ショパンはこのときすでに,はじめての作品を出版し,はじめての公開演奏会も経験していました。

※7才のときにト短調のポロネーズを,ポーランド国内のローカル出版でしたが,すでに出版していました。
※1818年2月,8才の誕生日直前に,はじめての公開演奏会を成功させています。

ワルシャワの貴族社会では神童としてもてはやされ,第二のモーツァルトとして未来を嘱望されるようになっていたフレデリック。

そんなフレデリックだからこそ「よい音楽会さえ,足りません」という言葉が,最大限の愛情表現となっています。

ショパンの手紙~旅行先のシャファルニアから友人への手紙~

  • 日付;1824年8月19日 *ショパン14才
  • 宛先;ウィルヘルム・コールベルグ
    • ショパンの友人の一人です。
      ショパンが祖国を去るときには,変ロ短調のポロネーズ(通称『別れのポロネーズ』)を贈っています。
      ロ短調のワルツOp.69-2も贈られています。
  • 書いた場所;シャファルニア

懐かしいウィルス!

ぼくを覚えていてくれてありがとう。
同時に君がたったあれぽっちしか書いてくれないのでぼくは憤慨している。君はひどくいまいましい奴だ。
紙やペンがなかったのかい?
それともインクが惜しかったのかい?
きっとなぐり書きをする暇だけしかなかったのだろう!
ええ? そうだろう!
君は乗馬に行き,楽しく過ごしてぼくを忘れる。
・・・・・いいよ。
僕にキスをしてくれたまえ,ゆるしてあげるから。

君が健康で愉快にやっているのは嬉しい。
ぼくも愉快に暮らしている。
乗馬をするのは君だけではないんだよ。
ぼくだって乗れるんだ。
馬が勝って気ままにのろのろと歩いてゆく程度だ。
ぼくはまるで熊の背中にのった猿のようにのっかっている。
ぼくはまだ落馬しない。
なぜなら馬がまだぼくを落とさないから。
しかし落とそうと思えば,いつかはぼくも落馬するだろう。

君には興味があるまいから,ぼくのことで邪魔はしたくない。
ハエが時折ぼくの高い鼻の上にとまるが,それは重要なことではない。
なぜというに,それはこのうるさい虫の習性なんだから。
アブもぼくを刺すがこれも構わない。
鼻の上ではないから。
ぼくは庭を走り,森を散歩する。
あるときは森へ乗ってゆく,馬ではなくて馬車に,しかもいつも堂々と後ろの座席で,決して前の席には座らない。
きっとぼくはもう君を退屈させたのだろう。
そうでなければ折り返し返事をくれたまえ。
そしたらぼくはまた手紙を続けよう。

懐かしいウィルス,お大切に,4週間後にはまた会えるのだね,ぼくは心から君を抱擁する。

君の誠実な友
F・ショパン

ショパンは1823年に,ワルシャワ中等学校に入学します。
ワルシャワ中等学校では,父ニコラスがフランス語の教授をしていました。

ショパンはこのときすでに,ワルシャワの新聞雑誌に「リストを凌駕する天才がワルシャワにいる!」「リストのいるウィーンをうらやむ必要はない!」と賞賛される存在になっていました。

しかしショパンが入学したのは,音楽の専門学校ではなく,ワルシャワ中等学校でした。

聡明な父ニコラスは,音楽ばかりに熱中するのではなく,正規の学業にも励むように言っていました。
そしてショパンは音楽だけでなく学業も優秀で,ワルシャワ中等学校では賞状を2回もらっています。

さらに父ニコラスは,フレデリックの才能を金儲けの道具には決してしませんでした。
慈善活動での演奏会の出演には積極的に応援しますが,金銭を受け取るような演奏会は認めませんでした。

翌年の1824年の夏。
フレデリックは夏休みを利用して,ポーランドの田舎,シャファルニアへ旅行します。

旅行先のシャファルニアから友人へ宛てた手紙から,少年ショパンの屈託のない,陽気な性格が伺われます
時を経て,病弱で神経質な芸術家となるショパンですが,少年時代には野原で乗馬をするような活発な少年だったのです

少年時代のショパンは,仲睦まじい両親・姉妹に囲まれ,幸福に包まれていました。
頭のよく働くいたずらっ子で,たくさんの友人に囲まれて,皆から愛されていました。

ショパンの手紙~シャファルニア新聞~

ショパンはポーランドの田園を楽しみながら,その土地の方言で書かれた『シャファルニア新聞』を発行してワルシャワの両親に近況を面白おかしく報告していました。
この新聞はクリエル・ヴァウシャフスキ紙というワルシャワの新聞のパロディとして書体や体裁を真似て作られており,「ベッター氏がピアノ演奏を披露。思い入れたっぷりのその演奏は,音符が巨大なお腹から出てくるような迫力があった」など,大変ユーモラスで楽しい内容でした。

この新聞の中には「ビジョン氏(ショパンの綴をもじったフレデリックの匿名。ChopinをPichonとひっくり返した。)」がカルクブレンナーのピアノ協奏曲を演奏して,拍手喝采を受けた記事が残っています。

農民たちの民族音楽に興味を持ったフレデリックは,祭りや婚礼などたくさんの行事に参加し,大量の民話や民族音楽の歌詞,旋律などをこの「シャファルニア新聞」に記録していきました

ショパンの手紙~ショパンが気に入ったお菓子~

  • 1825年夏 *ショパン15才
  • 宛先;ヤン・マトゥシンスキー
    • ショパンが学生時代に,特に親しかった友人の一人
      後年,ヤンが結核で苦しみぬいて死んでいく最期を看取っています。
  • 書いた場所;シャファルニア

懐かしい愛するヤーシャ!

こんなに思いがけなく君の手紙を受けとったぼくの喜びはセヴィニエ夫人(17世紀フランスの女流作家)でさえも描写できないだろう。
この驚きよりも自分の死のほうが,ぼくにはまだしも考えられるほどだった。
本の虫で,シラーの詩篇に鼻先をつっこんでいるような君が,ラテン語の本をまだ1ページも読まず,ともかくも君の豊かさの十分の一にでも肥りたいものと,まるで残飯を食っている豚の子のように不景気な少年に手紙を書いてくれるとは,ぼくは夢にも思わなかった。

さて,以上は前置きでこれから本文に入る。
君はプワヴィーでいったい何を見物したのかい?
シビリエでコペルニクスの誕生の家から移した煉瓦を見たかい?
ぼくは家屋敷を全部見物したんだ。
むろん現在は荒れ果てている。
ヤーシャ,考えてもみたまえ,あの有名な天文学者が生を享けたその同じ場所に,今はドイツ人のベッドが置いてある。
そのドイツ人はおそらくじゃがいもを食いすぎて,時々柔らかな息を吐くことだろう。
そしてプワヴィーにご大層にして運ばれた煉瓦には,南京虫がいっぱい這い回っていたのだ。

コペルニクスの話はそれとして,トルンのお菓子のことを話そう。
当地の菓子屋の習慣で,お菓子屋さんは皆小屋掛けなんだ。
棚に各種のお菓子が何ダースもしまってある。
これは君の「アダシオラム・ヒリァーデス(紀元前ローマの詩人ホラティウスの作品)」の中には疑いもなく見あたるまいが,ぼくは君のお菓子への関心を知っているから,きみがホラティウスを訳すときに意味が解らない句にぶつかった折に役立つことと思って報告する。
いずれ直接会って話せることと思うが,現在お菓子がぼくに一番強い印象を与えているということができる。

この町の四方の要塞を作部まで,ぼくが見学したのも事実だし,砂を運搬する見事な機械も見た。
その他十字軍の騎士が建てたゴジック式の寺院や,その一つは紀元1231年の建立だが,傾いている塔,壮大な市庁舎の内外等を見学した。
1年間の日数ほどの窓と,1年の月の数ほどの広間と,週の数ほどの部屋があって,建物全部がゴシック式で精緻をきわめている。
しかしこれらの一切がお菓子には劣っているのだ。
1個ワルシャワに送ったよ。

たった今座ったがばかりなのにもう最後の頁だ。
愛するヤーシャ,今は10時だ。
皆が寝るのでぼくも寝なくてはならない。
ではワルシャワで22日に。
懐かしいヤーシャ,君を心から抱擁し,はるか20マイル彼方から君にキスをして,また会う日までお別れする。

君の最も誠実な親しき友
F・ショパン

ぼくはどんなにか君に会いたいだろう。
本当に会えるなら,2週間ピアノを弾かないでもよい。
この手紙は人に見せてはいけない。
恥ずかしいから,読み返さないので意味が通っているかどうかわからないから。

トルンの伝統的お菓子,ピェルニク

トルンはヴィスワ河のほとりにある工業都市で,ポーランド出身の天文学者,コペルニクスの出身地です。

ピェルニクは,香辛料やはちみつ,しょうがなどを混ぜた生地にジャムなどをはさんで焼き上げ,表面にチョコレートや砂糖で飾りを施したお菓子です。

現在では,ショパンのこの手紙にちなんで,「スケルツォ」と名付けられたハート型のピェルニクも作られているそうです。

コペルニクスの生家の形をした箱に入ったものも売られているとか。
コペルニクスの生家は現在のトルン旧市街にあり,「コペルニクス博物館」として公開されています。

前の年に続き,1825年の夏も,ポーランドの田舎,シャファルニアへ旅行しています。
幸福に包まれていた,少年時代のショパンらしい快活な気分に溢れた手紙です

1825年は,15才の少年ショパンが音楽家を目指すことを決意した年でした。

5月,6月と立て続けに演奏会が大成功を収めます。

ショパン一家の友人であったヤヴォーレクが主催する慈善演奏会では,モシュレスの協奏曲を弾いて「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛され大成功を収めました。

ワルシャワに滞在中だったロシア皇帝アレクサンドル1世がフレデリックの評判を耳にして,彼が弾くエアロパンタレオン(オルガンとピアノの中間のような新楽器)に興味を持ち,フレデリックを招いて演奏を楽しまれました。
そして褒美としてダイヤの指輪を下賜しました。

さらには,作品「1」のロンドが,印刷,出版され,自分の作品が印刷され出版させる甘美な悦びに心が満たされました。

フレデリックが将来音楽家になることを,ショパン自身だけでなく,ショパン家の誰一人疑わなくなりました。

ショパンの手紙~故郷に療養で帰ってしまった親友への手紙~

  • 1825年9月~12月 *ショパン15才
  • 宛先;ヤン・ビャウォブウォツキ
    • ショパンの学生時代の親友の一人。

ショパンの親友の一人,ヤン・ビャウォブウォツキが脚を患って(当時は不治の病だったそうです)故郷に帰ってしまいます。
そんなヤンへショパンは4通の手紙を送っています。
以下,抜粋します。

土曜日に「セヴィリアの理髪師」が上演された。
ぼくは大変気に入った。
また,パリからレムビリンスキーという人がワルシャワに来た。
ぼくがかつて聴いたことがないようなピアノを弾く。
真に優れたものを聴けない当地のことだから,ぼくらの喜びがどんなに大きいか想像がつくだろう。
彼の速いなめらかな円熟した演奏について詳しく述べ立てようとは思わないが,きわめて稀にしかないことだが,彼の左手が,右手同様に強いことだけを報告する。
彼の見事な才能を十分に描写するには紙面が足りない。
アデュー,我が生命よ!
どうかぼくに手紙をくれたまえ,ぼくらの手紙がシンコペーションのように飛べるとよいと思う。


「セヴィリアの理髪師」はどこでも非常に賞賛されているし,長い間期待されていた。
「魔弾の射手」も上演される。
僕は「理髪師」をもとにして新しいポロネーズ(*変ロ短調のポロネーズ,通称『別れのポロネーズ』のことです)を書いたが,相当評判がよいらしい。
明日にでも石版印刷に回そうかと考えている。


ルドヴィカ(*ショパンの姉)が素晴らしいマズルカを書いた。
躍動し,楽しく,一口に言えば踊りやすい曲だ。
自慢でなく大変よろしい。
君が訪ねてきたときに弾いて聴かせよう。


ぼくが高等中学のオルガン奏者になったとしたら,ぼくの妻子はぼくを二重に尊敬する理由がある。
ぼくの得意さを思ってくれたまえ。
ぼくは中学で,尊敬する司祭の次に重要な人物ということになる。


父さんとぼくは一昨日ヤヴォーレクから「ラクス」に招待された。
招待状をもらったぼくは最初彼が「下痢(ラクス)」に襲われたので,ぼくにも進呈する気なのかと思ったのだが,ダンチヒから送ってきた見事なラックスが食卓にだされて,それがいかに大きく大勢の人で食えるか拝見するに及んで,それが鮭(ドイツ語でラックス)であったことがわかった。
多くの来客があったが,プラハ音楽院のサック氏というクラリネット奏者がいた。
この人はかつてぼくが聴いたこともないように吹いた。
一息で二つの音を同時に出せると報告すれば,それで十分だろう

他にも「ピアノの上には何百という楽譜がまるで豆とキャベツのようにほうりだされている」「手紙は常にぼくの苦手だ。マカロニ式になるのを赦せよ」など,ショパンは得意の調子で面白おかしく手紙を書いています

ショパンよりも5才年上で,良き相談相手だったヤン・ビャウォブウォツキですが,1827年に22才の若さで亡くなってしました。

今回は以上です!

タイトルとURLをコピーしました