ショパンの生涯 晩年・最期1848年38歳~1849年39歳

フランス画家フェリックス・ジョセフ・バリアス『ショパンの死』 奥で手を握っているのが姉ルドヴィカ,手前で泣き崩れているのがジョルジュ・サンドの娘ソランジュ,ピアノを弾きながら歌っているのがデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人。 年表
フランス画家フェリックス・ジョセフ・バリアス『ショパンの死』 奥で手を握っているのが姉ルドヴィカ,手前で泣き崩れているのがジョルジュ・サンドの娘ソランジュ,ピアノを弾きながら歌っているのがデルフィナ・ポトツカ伯爵夫人。
ショパンの生涯-略歴幼少期青年期パリ時代サンドとの生活-晩年-死後

ショパンの生涯 晩年・最期

1848年:ショパン38歳

◆主な出来事◆

2月,フランショーム,アラールと3人で,パリでの最期のリサイタルを開く。 健康状態は更に悪化し,咳と,それに加えて神経痛に苦しめられる。
4月,スターリングの招きでイギリスに向かう。 ヴィクトリア女王の前で,御前演奏を行う。 喀血に悩まされながらも各地で演奏会を行い,11月,パリに戻る。
11月16日のポーランド難民のための演奏会が,最期の公開演奏となる。

◆作品◆

ワルツ ロ長調

◆社会的・芸術的な出来事◆

ポーランドのポズナニとガリツィアで,民族運動勃発。
2月22日,パリで2月革命。
ルイ・フィリップが退位し,ルイ・ナポレオンがフランス共和国大統領となる。
シシリーで暴動。 デュマ・フィス『椿姫』 ワーグナー『ローエングリン』

ポーランド亡命社会センター

サンドと別れた後のショパンは,ポーランド亡命社会センターに頻繁に通うようになります。
このセンターを仕切っていたのはアダム・チャルトリスキ公で,フレデリックがパリにきたときから世話になり,長くつきあいが続いていました。

ポーランド亡命社会センターはチャルトリスキ公の居宅にもなっていました。

アダム・チャルトリスキ公の甥の妻であるマルツェリーナ・チャルトリスカは,ポーランドの名家ラジヴィウ家出身で,ショパンの弟子の中でも特に秀でた才能の持ち主の一人でした。
ウィーンではチェルニーの指導も受けており,ショパンの演奏スタイルを忠実に受け継いていると言われていました。

サンドと別れてからは,フレデリックは特にチャルトリスキ公とその家族と親密になり,センターの行事に頻繁に出かけて,パーティーでのダンスの伴奏も引き受けていました。
あのショパンがダンスの伴奏をしている!と驚かれたようです。

パリで最後の演奏会

1848年2月16日,6年ぶりにショパンはパリのプレイエル・ホールで演奏会を開きます。
そしてこれがショパンのパリで最後の演奏会となりました。

ショパンがサロンで弾くような気分になれるように,舞台には絨毯が敷き詰められ,美しい花が飾られました。
チケットは20フランと変わらず高額で,300席のチケットは一般販売はされず,コネのある人しかチケットを買うことはできませんでした。

フランショームとアラールの3人でモーツァルトのピアノ三重奏,フランショームと2人でショパンのチェロソナタト短調,歌曲が3曲,そしてショパンのソロでノクターン,舟歌,エチュード,子守歌,プレリュード,マズルカ,ワルツが演奏されました。

体調の悪いショパンによる力を振り絞っての演奏で,演奏後楽屋ではフラフラで気を失いそうになるほどだったとのことです。

この日の演奏会はチケットを購入できなかった人が多く,追加演奏会を望む声が上がり,予約名簿には600人以上の名前がありました。

昨年からまるで作曲ができなくなってしまっており,たくさんの弟子を教える体力もなかったフレデリックの財政面を憂えて,よき友人たちが計画したこの試みは大成功でした。
年に何度かこういった催しをすることで生活の保証が得られる安心をフレデリックに与えました。

しかしパリの2月革命があり,追加公演が行われることはありませんでした。

ショパンとサンド,最後の出会い

サンドの娘ソランジュは娘を出産していました。
そして,3月4日に偶然にもショパンとサンドが再会します。

サンドとフレデリックの共通の友人であった,マルリアニ伯爵夫人邸の玄関で,フレデリックが帰ろうとしたところに偶然サンドが夫人宅を訪ねてきたのでした。

ソランジュが娘を出産したことを知らなかったようすのサンドにそのことを告げ,フレデリックはその場を立ち去ります。
これが2人にとって最後の出会いとなりました。

ソランジュの一人目の娘は生後1週間で亡くなってしまい,3月7日に葬式が行われます。

長くは生きなかったこの生命は,母ソランジュと祖母サンドの手を握らす役目を果たすために天から遣わされたかのようでした。

幼い尊い命は,母と娘の確執を柔らかく溶かすのでした。

ジェーン・スターリング嬢

貴族など上流階級のお金持ちの夫人や令嬢にピアノを教えていたフレデリックですが,その弟子の一人に大変裕福なスコットランド人のジェーン・スターリング嬢がいました。

ジェーン・スターリング嬢はサンドと同じ年齢でフレデリックより6歳年上。
フレデリックに明らかな恋心を抱いていました。
それは周囲にもわかるほどでした。

ショパンは1844年に2つのノクターンOp.55をスターリングに献呈しています。

裕福な彼女は,死期近いショパンに献身的に尽くしました。
物質的な援助も惜しまず,秘書のようなこともこなしました。
死後は多くの遺品を買い取っています。

彼女のショパンへの愛情は完全な片思いでしたが,サンドと別れた後のショパンの支えとなりました。

2月にパリで始まった革命騒ぎは各地に飛び火します。パリでの革命はヨーローッパ中に影響を与え,ウィーン,ベルリン,ハンガリー,イタリアでも革命が起きていました。
フランスに亡命していたポーランド人たちにも,祖国を取り戻す好機の訪れを感じさせました。フレデリックの愛国心も燃え上がります。

しかし,パリは革命の影響で政情不安,社会混乱が続き,上流階級も音楽どころではなく,パリから避難しはじめており,夜会やレッスンもほとんどなくなってしまっています。
フレデリックは革命に参加するどころか,パリで生活を続けることも不可能になります。

フレデリックの熱狂的なファンで,何かと世話をやきたがるジェーン・スターリング嬢は,フレデリックを彼女の故郷イギリスへ誘います。
イギリスには革命騒ぎはなく,サンドとの思い出もありません。

フレデリックはスターリング嬢の手引でイギリスへ行くことを決めます。

ジェーン・スターリングにはキャサリン・アースキン夫人という姉がいました。
1811年に金持ちと結婚しますが,その5年後に夫に先立たれ,未亡人として暮らしていました。
そして,ショパンに熱烈な恋心を抱く妹ジェーン・スターリングを応援していました。

この旅行に必要な準備から旅費や宿泊先の提供まですべてスターリングと姉アースキンが整えました。
ショパンがロンドンで滞在する部屋を用意し,ショパンの好物のチョコレート(ココア)やショパンのイニシャルの入った便箋などを取り揃え,ショパンに気に入ってもらえるように準備しました。

ロンドンへ

1848年4月19日,フレデリックはパリを出発してロンドンへ向かいます。

当時のイギリスはすでに全土に鉄道網がはりめぐらされていました。
1837年にマリアに振られた傷心旅行でロンドンを訪れたときは馬車の旅でしたが,今回は汽車の旅となりました。

翌日20日にはロンドンのブリッジ駅に到着しています。

姉妹が心をこめて準備した部屋でしたが,ショパンは気に入らなかったようで,「ポーランド友の会」のロンドン支部事務局長をしていたポーランド人のカロル・シュツチェフスキと親しくなり,彼に頼んで,1週間後には別の部屋に引っ越してしまいました。

ショパンはここでもポーランド人にしか心を開かず,姉妹には感謝しつつも,姉妹の熱心なおせっかいを厭わしく感じるのでした。

スターリングとアースキンの姉妹は,フレデリックのためにと「大芸術家がパリから来たる」と新聞広告を出します。
そしてレッスン生を募り,演奏会の準備に入ります。
さらには,フレデリックにたくさんの人々を次から次へと紹介します。

フレデリックにとって,この姉妹の積極的な善意は億劫でした。

友人への手紙には「つまらないことに時間を費やしている。ピアノを弾く時間もない」と愚痴をこぼしています。

6月2日にグジマワに宛てた手紙には「善良なるスコットランド人の姉妹に振り回されている。山ほどの名刺の束を抱え,全員をぼくに紹介したいらしい。彼女らはロンドン中を馬車で回っても何ともないらしいが,ぼくは疲れて死にそうだ」と書いています。

7月8日には「わがスコットランド人の姉妹は,親切ですが,時にはおそろしいほど退屈なのです」と書いています。

間もなく,フィル・ハーモニー協会から演奏の依頼がきます。
これは大変名誉なことでしたが,広い会場で弾くことを苦手としており,ましてやオーケストラと共演するほどの体力はなく,自分の繊細なピアノの音などオーケストラにかき消されてしまいます。
ましてや,フィル・ハーモニーは繊細というよりは,派手なボリュームで演奏する楽団でした。
さらに,リハーサルがたったの1回きりで,しかもそれを公開するとのこと。完璧主義のショパンにはとても耐えられない条件でした。

ショパンは健康上の理由ということでこれを断ります。
依頼を断ったことをロンドンの新聞は悪く受け取り,ロンドンの人々に悪い印象を与えてしまいました。

ヴィクトリア女王の前で,御前演奏

5月15日,ヴィクトリア女王の親友で女官長だったサザランド公爵夫人が自宅で内輪の宴会を催します。
そこにはヴィクトリア女王とその夫アルバート殿下,他にも王族など名士を招き,ショパンも招待されます。

ショパンはサザランド公爵夫人からヴィクトリア女王へ紹介され,自作のマズルカやワルツなど数曲を演奏しました。

女王からショパンは2度言葉を賜ったといいますが,残念ながらショパンの演奏は女王にはあまり印象に残らなかったようです。

ヴィクトリア女王はメンデルスゾーンの音楽を愛しており,1847年にメンデルスゾーンを亡くしたばかりで,他の作曲家には興味が持てなかったのかもしれません。
ショパンは後日バッキンガム宮殿に招待されて公に御前演奏ができると期待していましたが,結局声がかかることはありませんでした。

ロンドンデヴューコンサート

6月23日,サートリス夫人の自邸で,ショパンのロンドンデヴューコンサートが開かれます。
ショパンはサートリス夫人とパリで知り合っており,サートリス夫人は有名な歌手でした。

この演奏会はショパンの強い希望で,ホールではなく個人のサロンで開催され,座席は150人だけ。
チケットは高額でしたが,チケットは完売。

アンダンテ・スピアナートOp.22,エチュードOp.25-1,Op.25-2,バラード2番Op.38,マズルカOp.7-1,ワルツOp.64-1などを弾きました。

演奏会の批評は「言葉では説明できない優雅さ」「風変わりで面白いリズム」「作曲も演奏も独特」「繊細さ,詩情にあふれ,憂愁漂うメロディ」「テンポ・ルバートを自在に扱う」と大絶賛でした。

この6月23日にはパリで暴動が起きており,ショパンはパリにいる友人知人を心配しましたが,みな無事でした。

ロンドンでの2回目の公演

7月7日にはロンドンでの2回目の公演を,ロード・ファルマス伯爵のサロンで行います。
ロード・ファルマス伯爵は音楽愛好家で,裕福な独身貴族でした。ショパンはファルマス伯爵の姪とパリでの知り合いでした。
この音楽会ではロンドンで売出し中の友人ポーリーヌも歌手として出演しています。

ショアンは,スケルツォ2番Op.31,エチュードOp.25-1,2,7,子守歌,ノクターン,バラード,プレリュード,マズルカを演奏しました。ポーリーヌもショパンのマズルカを編曲して歌ったそうです。

この演奏会もサロンでの開催ということで,客は150人だけでしたが,高額のチケットは完売で,前回の公演とともに,フレデリックにとって大きな収入となりました。

新聞に載った批評も「独創的」「個性際立つ」と今回も大好評で,「バッキンガム宮殿へ呼ばれたらしい」「女王が密かにショパンのレッスンを受けているそうだ」といううわさまで流れました。

当時のロンドンは産業革命によって中産階級が振興し,中産階級をターゲットにした大衆的な娯楽が流行しつつありました。
音楽においても,超絶技巧,大音量といった派手で見世物的な音楽がもてはやされるようになっていました。
ロンドンでは上流階級の個人的な催しは少なく,演奏依頼されることも多くはありませんでした。
また,英語の話せないショパンは,ショパンに対してはフランス語で話をしてくれたようですが,やはり打ち解けることはなかったのでした。

そんなロンドンでも,芸術を深く理解する批評家も残っていて,ショパンの演奏を「力強さや超絶技巧よりも繊細で詩情にあふれる音楽」「技巧を見せびらかせる演奏ではなく,難しいことをそうとは感じさせずにスムーズにやってのけてしまうテクニック」「ピアノ上級者でなければ,その演奏の真の難しさに気づかない」と的を射た論評を残しています。

ショパンの例えば同じ指を鍵盤から鍵盤へ滑らせるような独特な指遣いに注目した記事も残っていて「他のピアニストは指の力を均等にしようと,弱い指を強くしようと練習に励むが,ショパン氏は人間の指の力が本来均等でないことを利用して音楽を奏でる」と書かれています。

ロンドンでのレッスン

ロンドンでもショパンはレッスンに励みます。
しかしロンドンの生徒たちはあまり熱心ではなかったようです。

ショパンからレッスンを受けたことを自慢したいだけのような生徒も多く,レッスン料が高額だったこともあり,継続的にレッスンを受けるというよりは,記念に1~2回だけレッスンを受けにくる生徒がほとんどでした。
また,レッスンが予定されていても旅行などで簡単にキャンセルする生徒も多く,ショパンはロンドンでのピアノ教授には失望していました。

日に2~3人だけレッスンをしていたようですが,それでもレッスン料が高額だったため,けっこうな収入になりました。
しかしロンドンの物価は高く,贅沢に慣れているショパンは生活に不安を感じていました。

ロンドンは霧や曇の日が多く,天候に体調を左右されるフレデリックは憂鬱でした。
また工業先進国のロンドンでは工場や汽車の煙で空気が悪く,肺病のショパンは辛かったようです。
さらにイギリスは,フランスともポーランドとも文化や価値観がまるで違います。
ショパンはいつまでもロンドンでの生活を楽しめずにいました。

カルダー邸へ

8月5日,スターリングに招かれて,スターリング家が所収するスコットランドのエディンバラ近郊のカルダー邸に滞在しました。

フォンタナ

8月にはアメリカに行ってしまっていた友人フォンタナがロンドンに来ていました。しかしフレデリックはロンドンまで会いに行く元気が出ないほど体力が衰えていました。

マンチェスターでの演奏会

大きなホールでの演奏会を頑なに拒んでいたショパンですが,冬をこすための収入をえるために,8月28日,煤煙のひどい工業都市マンチェスターでの演奏会に出演します。

1500人ほどの聴衆の前での演奏会でしたが,聴衆は中産階級の人々がほとんどで出演料はロンドンでの演奏会の半分。
そして心配していた通り,大きなホールではショパンの繊細な演奏は効果が上がらず,さらに体調の優れないショパンの演奏は,よく聞こえなかったなどと批判され,マンチェスターの聴衆にとって期待はずれなものでした。

当日,ショパンがパリにいたときからの友人のピアニスト,オズボーンが歌の伴走者として会場に来ていました。
ショパンは「あなたに今日のぼくの演奏は聞いてほしくない。どうか僕の演奏は聴かないでください」と頼みます。
しかしショパンを知る芸術家にとって,ショパンの演奏を聴くチャンスを逃すことはできません。
オズボーンは会場の隅で隠れてショパンの演奏を聴いてしまいます。
しかしショパンが言っていたようにその音は弱々しく,気の毒に感じるほどでした。

批評記事も「華麗,優雅,緻密」「洗練されている」「独創的」と評価しつつも「雄大さ,力強さにかける」「室内楽向き」「一流のピアニストには及ばない」と書かれました。

ジョンストン城へ

9月,フレデリックはマンチェスターからスコットランドのグラスコー近郊にあるジョンストンへ向かいます。
ジョンストンにはジェーン・スターリング嬢の姉のアンナ・フーストンが立派な城に住んでおり,ジョンストン城と呼ばれていました。

フレデリックは3週間ほどここに滞在します。
素晴らしく立派な城での生活でしたが,ここでも退屈な日々を送ります。

フレデリックは家族への手紙の中で,この冬はどうしてよいかわからない,と生活上悩みを打ち明けています。
それまでどんなときでも前向きな話題しか故郷へ報告してこなかったフレデリックにとって,初めてのことでした。それほどフレデリックは気弱になっていました。

グラスコーで演奏会

9月27日,グラスコーで演奏会を行います。
チケット代はロンドンの半分でしたがそれでも破格の高いチケット代で,客はそれほど集まらず,上流階級の人たちが集まりました。

演奏は好評でしたが,「ショパン氏の音楽は斬新な上に難解」と批判する記事もありました。
この演奏会には愛弟子チャルトリスカも夫と子どもを連れてきていました。
チャルトリスカ家は心ゆるせるポーランド人で,ショパンは元気づけられました。

キア・ハウスへ

10月,フレデリックはさらに別のところへ連れて行かれます。
スターリング嬢の父方の親戚の館,キア・ハウスに滞在します。
館の主はまだ若い独身で芸術を愛好していました。

ショパンを熱愛し,親切心からあちこちにフレデリックを連れ回すスターリング姉妹ですが,そのおせっかいにフレデリックは疲れ果て,作曲する気力も起きません。

フレデリックの体調はいよいよ回復不可能なほど悪くなっていきます。

最初で最後のソロコンサート

10月3日,エディンバラへ戻り演奏会を開きます。

この時代の演奏会は複数の演奏家で共演するのが普通でしたが,この日は手配が間に合わなかったのか,フレデリックにとって初の,そして最後のソロ・リサイタルとなりました。

エディンバラではショパンの名はまだあまり知られておらず,チケット代も高かったため,気を回したスターリングがチケットを大量に買って知人友人にくばったという話も残っていますが,演奏会は大好評で,高い評価を得ました。

スターリング嬢

スターリング嬢がフレデリックに想いを寄せていることは周囲にも明らかであり,スターリング嬢とショパンが間もなく婚約を発表するという噂が広がります。
そのウワサはパリにまで届いていました。

スターリングは明らかにショパンに好意を寄せていましたが,ショパンは彼女に恋愛感情を持っていませんでした。
フレデリックは「あたなには友人として感謝しています。友情以外のものはありません」とはっきり言っていましたが,スターリング嬢は姉からの応援を受けて諦めずにアタックを続けます。

その積極的すぎる愛情と親切が,余計にフレデリックを疲弊させていきます。

フレデリックの書簡から一方的に感じるスターリング嬢の印象は,ただ親切で人が良いだけの退屈な人間に思えます。

しかし残された肖像画は,彼女がきわめて美しい女性であったことを証明しています。

フレデリックに学び得るほどの音楽的才能にも恵まれ,教養もあり,心のやさしい淑女であったと伝えられています。

彼女の無欲で献身的な純粋な愛情を受け止めることができないほど,フレデリックの精神は枯れてしまっていたのかもしれません。

もともと古いつきあいの友人や,長年愛用してきた品をいつまでも大切にし,新しい出会いには慎重で簡単には心を開くことをできないフレデリックは,極限まで体力も心もすり減ってしまった今となっては,新しい恋に心を動かされることはなかったのです。

イギリスでは各地でたくさんの人々から歓待と親切を受けましたが,それらイギリス人たちに親しみがわくことも友情が芽生えることもありませんでした。

フレデリックが,この愛情を受け止めることができる体力と気力がわずかでも残されていれば,サンドとは違った女性らしい献身的な彼女の心遣いが,フレデリックの生命をあと数年生きながらえさせていたかもしれません。

体力も精神力も限界

エディンバラでは開業医ウィシュツジニスキ医師のもとで治療も受けましたが,ショパンはあまりにも弱っており,階段の上り下りも一人ではできないほどだったとのことです。

ウィシュツジニスキ医師の家で,ショパンは遺言をしたためます。
万一急死するようなことがあれば,出版していない原稿は全て処分がされるようにしてほしいこと,死んだように見えても本当に死んでいるかわからないから,生き埋めにされるのは怖いので心臓が止まっているかきちんと確かめてほしいことなどが書かれました。

ショパンは徐々に幻覚を見るようにもなり,母や姉と一緒にいるように感じたり,祖国の地で自作の民族音楽を演奏する姿を思い浮かべたりしていました。

スコットランドでの生活に疲れ,もう限界でした。
そんなとき,フレデリックにロンドンで催される在英ポーランド人のための慈善行事への出演依頼が届きます。

フレデリックは逃げるようにスコットランドを後にし,ロンドンへ向かいますが,そこで体調を崩して寝込んでしまいます。
そしてスターリング嬢と姉アースキン夫人が看病のためロンドンのフレデリックを追いかけてやってきます。
お見舞いには愛弟子チャルトリスキとその夫もよく訪れたそうです。

スターリング姉妹は経験なプロテスタントで,親切心から枕元で聖書を読み聞かせ,余計にフレデリックの神経をすり減らします。

生涯最後の公開演奏

1841年11月16日,最後の力を振り絞るようにロンドンのギルドホールで最後の公開演奏を行いました。
これはポーランドの避難民のための慈善演奏会で,無報酬での出演でした。
そして,この慈善演奏がショパンの生涯最後の公演となります。

ショパンの愛弟子チャルトリスカも出演しており,演奏会は成功で大喝采を受けたといいます。

しかし一方で,歌ったり踊ったりすることを目的に参加した参加者が多く,ショパンの芸術には関心をしめさないものも多かったとか。
ショパンは肉体的にも精神的にも苦痛を負います。

瀕死の状態でパリへ戻る

11月の終わりにはパリへ戻ります。

イギリス旅行は,ロンドンでのヴィクトリア女王の御前演奏などは成功したものの,日程の厳しさから体調を更に悪化させた旅行となりました。

パリへの帰途,汽車の中ではけいれんを起こし,船では酔って吐き,途中の宿泊先では発作で眠れず,11月24日にパリについたときには歩くのもままならぬほどのやつれようで,パリで出迎えたグジマワやロジエール嬢など友人や弟子に支えられて自宅に戻り,そのまま病床に倒れます。そして,スターリング姉妹は当たり前のようにフレデリックを追いかけてパリへやってきます。

ショパンは1843年ごろからモラン博士という医者に掛かっていて,非常に信頼していました。モラン博士はショパンがイギリスに滞在しているあいだに亡くなっていました。
フレデリックは次々と医者を替えますが,モラン博士のようにショパンの苦痛をやわらげてくれる医者には出会うことがありませんでした。

ショパンがいつ自分が結核であることを認めたのかは分かっていませんでしたが,死期近いフレデリックは流石に自分が結核だと自覚するようになっていました。
病床で苦しむフレデリックですが,医者の往診は1回で10フランがとんでいきます。
そして今のフレデリックにはレッスンで稼ぐしか生活の手段はありませんでした。

1849年:ショパン39歳

◆主な出来事◆

ロンドン行きですっかり健康を害し,そのため,ほとんど寝たきりになる。回復の見込みはなくなるが,それでも病床で作曲する。
6月に流行したコレラのため,カルクブレンナーが死亡する。
8月,姉ルドヴィカが,再びパリに来る。
9月,ヴァンドーム広場の家に移る。
10月15日,ポトツカ夫人が見舞う。衰弱が激しく,話ができないほど。
10月17日,午前2時,フレデリック・ショパン死亡。
葬儀は,10月30日,マドレーヌ寺院にて行われ,遺言に従って,モーツァルトの「レクイエム」が,パリ音楽院管弦楽団および合唱団によって演奏された。 遺骸は,ペール・ラシェーズの墓地に埋葬される。心臓は姉ルドヴィカの手により故国ポーランドに移され,ワルシャワの聖十字架協会内の壁の中に安置されている。

◆作品◆

マズルカ ト短調 マズルカ ヘ短調

◆社会的・芸術的な出来事◆

パリで内乱続く。
パリでコレラが大流行。
オーストリア軍,ブタペストを占領。
ワーグナー,チューリッヒへ亡命。
フーゴー・リーマン生まれる。
フェルディナンド・ヒラーが,ケルン市の音楽指揮者となる。
マイヤベーア『予言者』

病床のショパン

冬の間,絶え間なく病に苦しんでいましたが,それでも友人に会うことは続けました。

無法者のクレサンジェもフレデリックには恩義を感じており,見舞いに訪れます。
今は田舎で暮らしていて,子どもを身ごもって身動きの取れないソランジュの様子を知らせてくれます。
なお,ソランジュの二人目の子どもは女の子を身ごもっていました。

このころ,サンドはフレデリックとの絶交を続けていましたが,共通の友人であるポーリーヌにはフレデリックの様子を知らせてほしいと手紙を書いています。

「健康は衰え,吐血し,発作に苦しんでいます。しかし体調の良いときもありレッスンをすることもあります」

返事を受け取るサンドですが,直にフレデリックに会おうとはしませんでした。

ドラクロワは度々フレデリックの見舞いに訪れました。

1849年4月7日のドラクロワの日記には「ショパンの家に行き,気晴らしに馬車で外へ出かけるというショパンに同行した。そして一日中音楽の話をした」という記録が残っています。

ショパンは,和声法と対位法が音楽の論理であり,フーガを勉強すれば音楽の論理の基本原理を知ることができる,モーツァルトの音楽はすべてが調和し,基本原理に則っている,ベートーヴェンは論理性に一貫性を欠いているところがありあいまいなところがる,と語ったとのことです。

完成されなかったピアノ入門書

春,ショパンはピアノ入門書を書き始めていました。

ショパンは作曲家,演奏家としてだけでなく,ピアノ教師としても名声を得ており,多くの優秀な弟子を指導してきました。

しかし6月には病状が悪化し,未完に終わります。

草稿は残っていて,「肘は白鍵の高さに,手は内側外側に傾けずにまっすぐ置き,手首から先だけでなく腕全体を使って」「各指の性質を生かしたタッチの魅力を損なわないように」「音楽とは・・・」「音による思想や感情の表現・・・」「一つの言葉では言語にならないのと同じく,一つの音では音楽にならない・・・」など,ショパンのピアノ演奏に関する貴重なメソードが残っています。

カルクブレンナーの死や,10歳のとき金時計を授かった偉大な歌手マダム・カタラーニの死など,訃報が届くたびにフレデリックの心は暗く落ち込んでいきます。

ジャイヨへ

5月から6月,パリではコレラが流行り,田舎へ逃れる人が多くいました。
フレデリックも医者の勧めで,郊外のジャイヨに引っ越します。

ジャイヨの家は牧場や緑に囲まれた丘の上の2階建ての家で,その家賃も400フランと高額でした。
この家はショパンの弟子のスーツォ公妃の母オブリエスコフ公妃が用意したもので,ショパンには内緒で家賃の半額200フランを負担し,ショパンには「200フランで安く借りることができた」と伝えていました。
オブリエスコフ夫人はショパンのファンで,ショパンへかなりの援助をしていました。

ジャイヨでの暮らしはフレデリックの体調を回復させると期待していましたが,6月21日にはひどい喀血を2度もお越してしまいます。

死期を悟ったのか,フレデリックは家族に会いたいという想いを募らせます。

6月25日フレデリックは姉ルドヴィカへ「どうか会いにきてください」と手紙を書きます。
そこには「お金がないなら借金してでもきてください。具合が良くなったら稼いで返します」と懇願していました。

手紙を受け取ったルドヴィカはパリ行きを計画しますが,当時のポーランドではパリへの旅券は簡単には発行されません。
ショパンの弟子チャルトリスカ夫人などが有力者に働きかけてルドヴィカにパスポートがとれるようにしようとしますが,なかなか許可が下りませんでした。

病気の悪化は,肉体的な苦痛もありましたが,それよりも,何に対しても興味が持てなくなったこと,精神が集中できなくなったこと,心の中から音楽が湧き出てこないことが彼を悲しませました。

グートマンやフランショーム,チャルトリスカ夫人などが見舞いに訪れ,音楽を演奏し,病床生活のフレデリックを慰めました。
ショパンが子守歌を献呈したエリーズ・ガヴァールの弟のシャールはフレデリックのために本を読んで聞かせました。
フレデリックは特にヴォルテールを愛聴していたといいます。

ショパンの絶筆

ショパンはレッスンを行う体力はもはやなく,生活と診療代のために,価値ある家具や所有物を売り払わなければなりませんでした。

それでもショパンは最後まで作曲への熱意が冷めることはありませんでした。

イギリス旅行のころから作曲しようとするも何も書けない時期が長く続いていましたが,最後の気力を振り絞るように病床でマズルカを作曲しています。

そのマズルカOp.68-4がショパンの絶筆となりました。

神童フレデリックは,幼少のころから泉から湧き出るように楽想が溢れ落ちるほどでした。
しかし今や何も湧き出てきません。

ショパンが死期を悟り,最後の一滴まで絞り出したその音楽は,祖国の民謡,マズルカでした。

このマズルカヘ短調はフレデリックの手で清書されることはなく,自筆のスケッチ譜が,フレデリックの死後友人のチェリスト,フランショームの元に届きます。

この自筆譜はショパンの苦悩が如実にあらわれており,書いては消し,書いては消し,大変読みに行くいものでした。

おそらく病床で仰臥しながら書いたものと思われ,手が滑ったのか,ペンが紙の上を滑った後も見られます。

ショパンの自筆スケッチは判別の難しく,中間部分の判読は不可能な状態で,中間部分を省いた状態でフランショームが写譜したものを,フォンタナが校訂してショパンの死後に出版されています。

その約百年後,ポーランドのショパン研究家で,ポーランドの国家事業である「ショパン・ナショナル・エディション」の編集長であるヤン・エキエル氏が苦労のすえ,ショパンの自筆スケッチを読み解き,中間部ヘ長調のトリオを含んだ完全版を1965年に出版しています。

経済的にも困窮

生涯収入は相当あったはずのフレデリックですが,浪費家のフレデリックは貯金などせず,あるだけ遣ってしまっていました。
ますます体力がなくなり作曲はおろかレッスンをする体力もありません。
それでもジャイヨの家だけでなくパリの家も借りたままになっており,その家賃だけでも大変なものでした。
医者の往診料もかさみます。

フレデリックは友人のチェリスト,フランショームなどから借金をして生活をしていました。
6月には母ユスティナから2000フランを借りたりもしています。

そんな様子に気づいたジェーン・スターリングは驚きます。
3月に2万5000フランをショパンの元に届けたはずだというのです。

7月にスターリングの姉アースキン夫人からの手紙でそのことを知らされたフレデリックは驚くとともに,またもやフレデリックの神経を疲弊させます。

4ヶ月以上も前のことはなぜ今さら・・・

そんな大金を受け取るわけにいかないし,そもそも受け取っていないし,そんな大金がどこに行ったのか・・・

フレデリックの心は乱されます。

結局は,届けるはずだった間に入った人が忘れていただけということが判明します。
スターリングが密かに援助するために,贈り主がわからないように間に人を立てたことが裏目に出たようでした。

このように見つかった2万5000フランですが,そんな大金をもらうわけにはいかないと言っていたフレデリックですが,結局は1万5000フランを借りることになり,経済的に大変助かることになります。

しかし,愛する師の自尊心を傷つけぬように恐る恐る骨を折るスターリングの微笑ましい献身も,フレデリックの心を感化させることはできませんでした。

ソランジュから,夏は一緒に過ごさないかという招待の手紙が届き,フレデリックは悦びますが,とても出かけることができるような病状ではありませんでした。

姉ルドヴィカとの再会

8月9日,ついに旅券の発行された姉ルドヴィカが夫カラサンティと,同じ名前の娘ルドヴィカがフランスへやってきました。
なかなかパスポートが発行されない中での再会に姉弟は涙を流して再会を悦びます。

しかし,フレデリックの病状が悪いのはルドヴィカの目にも明らかでした。

夫のカラサンティは9月末に帰国します。
カラサンティはルドヴィカにも一緒に帰るように促しますが,ルドヴィカは娘と共にフランスに残り,ショパンの最後まで一緒に住んで看病し,臨終にも立ち会っています。
なお,ルドヴィカが自分よりも弟フレデリックを優先することでカラサンティは機嫌をそこねて夫婦仲が悪くなっていきます。

サンドは友人からフレデリックの病状が重いことを知らされていました。
しかしサンドは直にフレデリックに接触することを頑なに避けていました。

ルドヴィカがフレデリックのもとに来ていることを知ったサンドは,フレデリックの病状を知らせてほしいと,ルドヴィカに手紙を書きます。
しかしルドヴィカはサンドの手紙に返事を書かず,フレデリックにも手紙を来たことを黙っていました。

ティトゥス

青年のころ頼りきりにしていた旧友のティトゥスから手紙が届きます。
経営していた砂糖工場の仕事でオランダへ来ているのだといいます。

フレデリックはどうか会いにきてほしいと手紙を送ります。

しかしポーランドでロシア臣民となっていたティトゥスは来仏の許可を得ることは難しく,結局二人が再会することはありませんでした。

献身的にあれだけ尽くしてくれるスターリングには全く心が動かないフレデリックですが,幼少期の思い出につながる人々への想いは切ないほど強くなっていました。

ティトゥスは幼少期からのつきあいで,ワルシャワを一緒に旅立った大親友でしたが,もう二十年間も遠ざかっていた人間です。
それでもフレデリックの心を熱く燃え上がらせます。

フレデリックにとって,過去の美しい思い出,幼少期の幸福な生活への執着と,その想い出につながる人々だけが心の救いになっていました。

最後の引っ越し

医者たちが,この夏は旅行に行かずに日当たりの良い部屋に住んでパリにとどまるべきだと言ったため,9月にはヴァンドーム街12番地にある陽の当たる7部屋もあるきれいなアパートに引っ越します。
その賃料はとてもショパンに払えるものではありませんでしたが,スターリングが肩代わりしました。

引っ越した当初は家具を注文したり,室内コンサートが開けるように計画を立てたりしていましたが,やがて病状は悪化してアパートから一歩も出れなくなってしまいます。
ヴァンドームのアパートにはルドヴィカも一緒に住んで看病にあたりましたが,部屋から部屋へ歩くこともままならないほど衰弱していました。

フランショームに宛てた9月17日の手紙が,フレデリックの最後の手紙だとされています。短い手紙で弱々しいながら,相変わらず美しく上品な筆跡だったそうです。
その手紙にはヴァンドーム街12番地に引っ越した顛末が書かれていました。

フレデリックの元には弟子や友人など大勢が見舞いにやってきます。特に貴婦人が多かったそうです。
しかしフレデリックの衰弱は著しく,ごく親しい人以外はあいさつだけ取り次いで帰ってもらっていました。

ごく親しい友人たちが役割を決めてフレデリックの看病にあたりました。
見舞客の対応をする係,医者や薬局へ走る係など仕事を分担し,体格の良かったグートマンはショパンをかかえる係でした。

終油の秘蹟

10月12日,主治医が死が近いと判断し,神父が呼ばれます。
呼ばれた神父はアレクサンダー・イェウォヴィッツキ神父で,ポーランド人でフレデリックの友人でした。

神父はカトリックの儀式「終油の秘蹟」を受けるように勧めます。
「終油の秘蹟」はカトリックの儀式で,死に行く人のベッドの横に神父が立ち,神父と二人きりになって病人がこれまでの罪を告白し懺悔するというものです。

フレデリックは「ぼくはこれまでほとんど教会にいかなかったし,あまりそういうものを信じないから」と儀式を拒みます。
翌日の13日も神父が来て儀式を懇願するので,フレデリックは同意して儀式を受けました。

ポトツカ夫人

10月15日,危篤の知らせを受けてポトツカ夫人が見舞いに訪れます。

病床のフレデリックから「ぜひ,あなたの歌を聴きたい」と請われるポトツカ夫人。

ピアノをフレデリックの寝室に移動させ,ポトツカ夫人はピアノを弾きながら,イタリアの古いアリアを数曲歌いました。

このポトツカ夫人の歌が,ショパンが聴いた生涯最後の曲となりました。

最期の2日間

最後の2日間で彼らは2度ショパンが事切れたと思いましたが,ショパンは再び息を吹き返すことができました。

数日前には「自分は神の存在は信じないから」と信仰告白を拒んでいたのが,突如大きな声で神に祈りをささげたり,
ジョルジュ・サンドが「私の腕の中で息を引き取らせてあげる」と約束していたのにと不平を口にしたり,
ポーランド後で「母さん,可愛そうな母さん」と呟いたりしました。

紙片を要求して「土に押しつぶされるから埋葬しないでほしい。生き埋めになりたくないんだ」と書いたりしました。
この判読し難いほど弱々しく書かれた言葉が,ショパンの絶筆になりました。

10月16日,フレデリックは親しい者たちを呼んで,自分の死後のことをいろいろ頼んでいます。

完璧主義者のショパンは,未出版の曲はすべて焼却するようにと頼みます。
また,葬儀では敬愛するモーツァルトのレクイエムを演奏してほしいこと,心臓を祖国ワルシャワに持って帰ってほしいことなどを遺言しました。

ショパン死す

10月17日の深夜12時過ぎ,医師がショパンの身体に乗りかかって「苦しいか」と尋ねましたが,「何も感じない」とショパンは答えました。

そして午前2時少し前に,ショパンは息を引き取りました。
呼吸困難で,息をひきとる瞬間まで大変苦しんだとのことです。

ショパンの死因は,死亡診断書では肺結核となっています。ショパンの死因について他の説もありましたが,現在ではやはりショパンを長年苦しめたのは肺結核だったとされています。

後に多くの人がショパンの最後に居合わせたと主張するようになりましたが,実際にショパンの死の床に付き添ったのは,姉のルドヴィカ,チャルトリスカ公爵夫人,サンドの娘ソランジュとその夫クレサンジェ,ショパンの弟子グートマン,友人のトーマス・アルブレヒト,信頼を置いていたポーランドのカトリック教会司祭のアレクサンダー・イェウォヴィッツキ神父でした。

夜が明けてから,クレサンジェはショパンのデスマスクを作り,また彼の左手の型をとりました。
遺骸は彼の愛した花で飾られました。

最期の苦痛にゆがむかげがやがて去り,しだいに静かに和らいだ表情が浮かび,清純に満ちた若々しさを取り戻したかのように見えました。

彼の遺言に従い,葬儀の前に心臓は取り出され,壺に納められました。
そして姉のルドヴィカによって1850年に祖国に持ち帰られました。

ショパンの心臓は聖十字架教会のエピタフの下の柱にアルコール(おそらくコニャック)に浸けられ収められています。
ショパンの心臓は第二次世界大戦中に避難されたときを除き,その教会で眠っています。

ショパンの生涯 葬儀

ショパンの葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われることになり,準備が非常に凝ったものとなったため,ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われました。
予定が遅れたため,通常なら出席できないような遠くからたくさんの人々が参列しました。

ショパンの遺言に従って,モールァルトの『レクイエム』が演奏されました。
当時のマドレーヌ寺院では合唱隊に女性歌手が入ることを認めていませんでしたが,このときは教会も好意的に協力しました。
『レクイエム』のソリストには,ショパンとサンドの友人だったポーリーヌがメゾソプラノをつとめ,バスのソリストはハイドンやベートーヴェン,ベッリーニの葬儀でも歌ったウイージ・ラブラーケでした。

さらに,ショパンの前奏曲集Op.28から第4番ホ短調と第6番ロ短調もオルガンで演奏されました。

参列者は3,000にも及びましたが,その中にジョルジュ・サンドの姿はありませんでした。

葬送の行進は街中央の教会から,ショパンが埋葬を希望していた街の端のペール・ラシェーズ墓地まで非常に長い距離にわたりました。
ポーランド人亡命者社会の総帥だった老チャルトリスキ公が先頭を歩き,ドラクロワやフランショーム,プレイエルなどショパンの友人が交代で担いだ棺のすぐ後ろには,姉のルドヴィカ,そしてジェーン・スターリングがいました。

埋葬の際には,管弦楽編曲によるショパンの『葬送行進曲』が演奏されました。

ショパンの墓石はプレイエルの発案で,クレサンジェが設計・制作したもので,音楽の女神エウテルペーが壊れた竪琴に涙を流す姿をかたどったものになっています。

若き日ティトゥスと共にポーランドを旅立つ時に銀杯にいれて贈られた祖国ポーランドの土は,彼の遺骸ととともに埋葬されました。

葬儀と碑の費用は5,000フランという高額なものでしたが,姉ルドヴィカがワルシャワへ戻る渡航費用も含めて,スターリングが負担しました。スターリングはその後長い間,黒衣に身を包み喪に服していたそうです。

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