最終更新;2022.11.06 You Tube にバラード第2番の演奏動画を公開しました!

ショパンの交友関係【ショパンの弟子たち】

交友関係
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浪費家ショパン

Boulevard saint-michel.jpg
【20世紀初頭のパリ,サン=ミッシェル大通り】
Von Jean-François Raffaëllihttp://www.liveinternet.ru/tags/jean%20francois%20raffaelli/, Gemeinfrei, Link

最新流行の洋服を身にまとい,スウェーデン製の白い絹の手袋をはめ,毎夜のように 自家用馬車で颯爽とサロンや オペラの観劇へでかけていたショパンは 大変な浪費家でした。

服や手袋だけでなく,帽子に靴,象牙のステッキ,時計,香水,カフスボタン,櫛,石鹸など 小物類は全て一流品で,調度品も高級家具をとりそろえ,”おしゃれ”には大変こだわっていました。

召使いを雇ったりもしていて,これは当時の音楽家にとっては前代未聞のことでした。
ショパンは花も好きで,部屋にはいつも花が飾られていましたが,花代も馬鹿にはなりませんでした。

パリでは何度か引っ越しをしていますが,その家賃は月に400フラン(現在の日本円で約200万円)を超えるようなことも多く,ときには月に1,000フランという超高給アパートに住むこともありました。

しょくぱん
しょくぱん

19世紀の1フランが21世紀の日本円でいくらに換算されるのかは,いろいろな計算方法があるそうです。おおよそ 当時の1フラン=現在の約4,000円 が標準の計算方法のようです。

ショパンのこのような贅沢な暮らしを支えた収入の大半は,弟子たちへのピアノレッスンにより得られていました

パリ到着直後は経済的に困窮していた

プレイエル・ホール
プレイエル・ホール

1831年秋,パリに到着したショパンは,翌年2月にデビュー・リサイタルを開きます。

プレイエルの好意で準備されたプレイエル・ホールには亡命のポーランド人や,リストやメンデルスゾーンなど一流の音楽家や芸術家が聴きに集まりました。

演奏会は大絶賛となり5月には2回目の演奏会も開催されました。

パリでの2回の演奏会は,芸術的には大成功でしたが 経済的には失敗でした。
ロシアに占領された故郷へ戻ることはできませんし,革命の最中にある家族へ送金を求めることもできません。パリ以外に行き先はなく,パリで自活していくしかありません。

経済的に困窮したショパンは 絶望のあまりアメリカへの移住も考えるようになっていました。

プレイエル
プレイエル
ナダールによる晩年のフランツ・リスト
ナダールによる晩年のフランツ・リスト
フェリックス・メンデルスゾーン 1839年に描かれた肖像画
フェリックス・メンデルスゾーン 1839年に描かれた肖像画
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ショパンの主な収入源はピアノレッスン

20-franc banknote (1983) (front)
【ドビュッシーの肖像画が描かれた20フラン紙幣】
Dwight Burdette – Government of France, パブリック・ドメイン, リンクによる

5月の演奏会には社交界の人々も多く集まっており,上品で好ましいショパンの印象がフランス貴族社会で評判となり,上流階級の夜会に招かれるようになります。

ショパンの繊細な演奏は 大きなホールでは “音が貧弱” などと批判されてしまうこともありましたが,サロンの部屋の中では 囁くような夢見る柔らかいタッチで 貴婦人たちをメロメロに魅了しました。

教養ある父ニコラスからしつけられていたショパンは,マナーも良く,紳士的で品を感じさせ,その控えめな性格も相まって パリに流れ着いたその翌年頃から 一気に社交界の寵児となります。

名家の夫人や令嬢が こぞってショパンのレッスンを求めるようになり,経済的な悩みは一気に解決することになります。

貴族たちが取り決めたレッスン料は “1回45分で20フラン” 。現在の日本円に直すと10万円ほどになります。出張レッスンではさらに高く “30フラン+出張費” 。リストやカルクブレンナーのレッスン料よりも高い破格の高給で,生涯にわたってショパンの贅沢な暮らしを支えていくことになりました。

しょくぱん
しょくぱん

19世紀の1フランが21世紀の日本円でいくらに換算されるのかは,いろいろな計算方法があるそうです。おおよそ 当時の1フラン=現在の約4,000円 が標準の計算方法のようです。

当時,オペラの最高の席が12フランだったということですから,ショパンのレッスン料がいかに高額だったかが分かります。

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1年の半分は作曲,残り半分はピアノレッスン

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【ノアンにあるサンドの別荘】
By Manfred HeydeOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

ショパンは,初夏から秋にかけてはノアンにあるサンドの別荘で作曲に専念し,残りの1年の半分はパリでピアノ教師に精を出しました。

ショパンのレッスン料は当時のどのピアニストよりも高額でしたが,それでもレッスンを受けたいと熱望する人が途切れることはなく列をなしていました。

ショパンのレッスンを受けるのは容易なことではなく,丁重に断られることも多かったそうです。何度も執拗に足を運ぶことで,ようやくショパンの弟子に名を連ねることができた者もいたようです。

ショパンにピアノを師事した弟子たちは150人ほどと見積もられています。

初歩の生徒を教えることはなく,既にプロのピアニストであったり,程度の高いアマチュアの貴婦人であったりが,ショパンの生徒となりました。

レッスンのために引っ越し

ショパンがパリに到着した直後に居を構えたのは,ポワソニエール大通り27番地の5階でした。

しょくぱん
しょくぱん

フランスの “5階” は日本の “6階” にあたります。

今では建物はなくなり,門だけが現存しています。
門の上にあるプレートには,ショパンが1831年から1832年まで住んでいたことを記されています。

小部屋が2つだけの慎ましい間取りでしたが,バルコニーからパリの美しい景色が見渡せる 眺望の素晴らしい部屋で,ショパンは友人のクメルスキー宛てに その素晴らしい眺めについて手紙を書いています。

名家の夫人や令嬢へのレッスンをするようになると,5階までの階段が 貴婦人がたをレッスンに招くには不都合となります。

そこで,ショパンはポワソニエール通りから少し離れた シテ・ベルジェール4番地の2階へ引っ越しました。

シテ・ベルジェールは路地(通り抜けができる中庭)になっていて,ショパンが住んでいた4番地は,現在ヴィクトリアという名前のホテルになっています。

ピアノレッスンは自室で,くつろぐのはサンドの部屋で

1831年10月,マジョルカ島での悲劇的な苦境を乗り越え 愛を深めたショパンとサンドは,約1年ぶりにパリへ戻ってきます。

このときショパンはトロンシェ通り5番地にあるアパートの2階に,サンドはトロンシェ通りからは少し離れたピガール通り16番地に住むことになりました。

ショパンはトロンシェ通りの自室で貴婦人方へのレッスンを終えると,ピガール通りのサンドのアパートで一緒に過ごすようになります。

注文の多いショパンの希望が叶うように 友人のフォンタナが苦労して見つけてくれたトロンシェ通りのアパートでしたが,ピアノのレッスンをするためだけのような部屋になってしまいました。

やがてはトロンシェ通りのアパートは かつてのルームメイトだった友人のヤン・マトゥシンスキに譲ってしまい,ピガール通りの部屋でサンドと一緒に暮らすようになりました。

1842年,ショパンとサンドは 共通の親友であったマルリアニ夫人の好意で スクワール・ドルレアンに居を構えることになります。

スクワール・ドルレアンは “ロ” の字型のアパートで,芸術家が集まって暮らしていました。

ショパンが住んでいたのは南西の角にあたる9番地で,サンドが住んでいたのは北東の角にあたる5番地でした。
二人の部屋の間にはマダム・マルリアニの部屋があり,ショパンは自室で作曲とレッスンに集中し,マルリアニの部屋で揃って食事をする習慣となりました。

ショパンは1849年までこのアパートに住んでおり,ショパンがパリで最も長く住居とした場所になります。

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ショパンのピアノレッスン

ショパンのレッスンは1回45分との取り決めでしたが,興がのると時間は延長され,ショパン自身がお手本を演奏して聴かせることもよくあったそうです。

すぐ目の前で優雅にピアノを奏でるショパンの演奏に恍惚としてしまう貴婦人も多くありました。

演奏会のように弾いて聴かせるだけでなく,生徒が弾きこなせないパッセージを ショパン自らが 何度も繰り返し,丹念に根気よく 繰り返し弾いて聴かせることを常にしていました。

ショパンの指導方法は科学的なものでした。現代においても感情的で文学的なピアノ指導者が多いですが,当時にあってはショパンのような論理的な指導者は稀有でした。

また,ショパンはピアニストとして非常にユニークな存在でしたが,生徒たちにその流儀を押し付けるようなことはありませんでした

アドルフ・グートマンのようにショパンとは全く違った傾向の演奏をするような弟子もおりましたが,その個性を否定することなく,その才能を伸ばしています。

ショパンはピアニストとしてだけでなく,ピアノ指導者としての名声もヨーロッパ中に広まり,フランスのみならず,イギリス,ドイツ,スイス,遠くはノルウェーからも生徒がやってきました。

ショパンがそのピアニズムを押し付けることがなかったため,ショパンの演奏法の継承者と呼べるような者は生まれませんでしたが,ショパンの理知的で合理的な指導により天啓を得て新しい世界が開けた生徒も多くおりました。

完成されなかったピアノ入門書

1849年の春,死の床に伏せていたショパンは ピアノ入門書を書き始めていました。

6月に病状が悪化したため 残念ながら未完に終わっていますが,草稿が残されていて,ショパンのピアニズムを感じ取ることのできる貴重な資料となっています。

そこには

  • 肘は白鍵の高さに,手は内側外側に傾けずにまっすぐ置き,手首から先だけでなく腕全体を使って・・・
  • 各指の性質を生かしたタッチの魅力を損なわないように・・・
  • 音楽とは・・・
  • 音による思想や感情の表現・・・
  • 一つの言葉では言語にならないのと同じく,一つの音では音楽にはならない・・・

など,ショパンのピアノ演奏に関する貴重なメソードが残されています。

また,ショパンの弟子たちがレッスンで使用していた楽譜には,ショパン自筆の鉛筆書きが多数書き遺されています。

これらショパンの手による書き込みも,ショパンのピアニズムを知る上で貴重な資料となっています。

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ショパンの収入

レッスン

レッスンの日には,1日に5,6人を教えていたそうですから,それだけで相当な収入になりました。
1回のレッスン料は20~30フランですから,これだけで1日の稼ぎは100フラン以上になります。

ショパンに熱を上げた富裕層の貴婦人たちは,レッスン料以外の心付けや贈り物をすることも多かったとのこと。

ショパンはこれら富裕層の弟子たちに作品を献呈したり,楽譜にサインしたり,手書きの譜面をプレゼントしたりと,ファン(弟子)とのお付き合いを大切にしていました。

スーパースターだったフランツ・リストが大ホールでリサイタルを開いたときでも,その収入は4,000フラン程度だったといいますから,ショパンの日々の稼ぎの大きさが分かります。

コンサート

ショパンはコンサートのチケットも破格の高額でした。
当時オペラの最高の席が12フラン程度のところ,ショパンのコンサートのチケットは15~30フランという異例の最高額でした。

そのため,コンサートを開くたびにショパンは大金を手に入れています。

しかし,大きなホールで演奏するのが苦手だったショパンは その生涯で数えるほどしかコンサートを開いておらず,その収入が生涯収入の中で大きな割合を占めることはありませんでした。

作品の出版

ショパンの作品は当時から人気があり,出版社はその出版の権利を比較的高額で買い取っていました。

小品でも300~500フラン(約150~250万円)程度,前奏曲集Op.28のような大規模な作品は2,000フラン(約1,000万円)で権利が買い取られています。

例えばロベルト・シューマンの交響曲第1番の出版料が120ターラー(約120万円),歌曲集『リーダークライス』が55ターラー(約55万円)だったのと比べると,ショパンの作品がよく売れていたことが分かります。

また,ショパンの主要作品はフランスだけでなく,ドイツ,イギリスでも出版されていて,それぞれの国の出版社から出版料を受け取っていました。

ドイツの出版社からは

  • Op.20(スケルツォ第1番)とOp.21(ピアノ協奏曲第2番)の2作品で1,000フラン
  • Op.22~28の7作品で3,500フラン
    • Op.22『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』
    • Op.23 バラード第1番
    • Op.24 4曲のマズルカ集
    • Op.25 12曲の練習曲集
    • Op.26 2曲のポロネーズ集
    • Op.27 2曲のノクターン集
    • Op.28 24曲の前奏曲集

を得ています。

ショパンは前奏曲集の完成直前に前金として500フランを受け取り,さらには銀行家から1,000フランを借りてマジョルカ島に旅立ちましたが,その旅中の数ヶ月で使い果たしてしまっています。

この悲劇的な道中では予想外の出費が多かったとはいえ,ショパンの贅沢な暮らしぶりが想像できます。

またショパンは作品を “献呈” することで,支援者である貴族たちとのお付き合いにも活用していました。

支援者からの献金

スターリング 1830年頃 ドゥヴェリア作
スターリング 1830年頃 ドゥヴェリア作

ショパンは富裕層の社交界にコアなファンが多くいて,生涯にわたって多額の支援を受け取っています。

特に死の直前の数年間は体調の悪化により経済的に困窮したショパンへ 多くの救いの手が差し伸べられました。

病床に伏せ,作曲もできず,レッスンもできず,収入が途絶えます。
生涯収入は相当あったはずですが,浪費家のショパンは貯金などせず,あるだけ遣ってしまっていました。

そんな中,最後まで豪邸に暮らし,愛する姉や友人たちに囲まれて死んでいくことができたのは,貴族たちからの支援があったからでした。

例えば1,000フランのお見舞金を贈る貴族もありましたが,ショパンの自尊心を傷つけないように ショパンには悟られないように家賃を肩代わりするような貴族もおりました。

中でも最晩年のショパンに献身的に尽くしたのは ジェーン・スターリング嬢でした。
スターリング嬢はショパンの弟子のひとりであり,大変裕福なスコットランド人でした。
ショパンは1844年に2つのノクターンOp.55をスターリング嬢に献呈しています。

ショパンをスターリングの故郷であるイギリスへの演奏旅行へ招待したときには,旅に必要なものから旅費や宿泊先まで贅沢に整えて準備し,大々的に新聞広告を出しています。

ショパンが病床に伏せ 収入が完全に途絶えてしまったときには,ショパンには悟られないように,2万5,000フランという大金がショパンの手元に届くように手配しています。

ショパンの死の1ヶ月前 1849年9月に,ショパンは生涯最後の住居に引っ越します。

ヴァンドーム街12番地にある,陽の当たる7部屋もあるきれいなアパートで,その賃料はとてもショパンに払えるものではありませんでしたが,この賃料もスターリング嬢が肩代わりしています。

家具を注文したり,室内コンサートが開けるように計画したりしていましたから,賃料以上に多額の金額が必要だったことでしょう。

1849年10月17日,ショパンは ヴァンドーム街12番地の自宅で友人や親族に囲まれながら,息を引き取ります。

ショパンの葬儀はマドレーヌ寺院で行われました。2周間もかけて準備された大規模な葬儀で,参列者は3,000人にも及びました。

ショパンの墓石は,音楽の女神エウテルペーが壊れた竪琴に涙を流す姿をかたどった立派なもので,パリのペール・ラシューズ墓地に置かれました。

葬儀と碑の費用は5,000フランにもなりましたが,これもスターリング嬢が負担しています。また,ショパンの姉ルドヴィカの渡航費用もスターリング嬢が負担しています。

後に,ショパンの遺品の多くが競売にかけられてしまうことになるのですが,このときもスターリング嬢がその多くを買い取って,ワルシャワの遺族のもとに届けています

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ショパンの弟子たち ~紹介記事へのリンク集~

今後,ショパンの弟子とされている人たちを一人ひとり紹介していきます。
各記事へのリンクを順次こちらへ掲載していきます。

今回は以上です!

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