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ショパンの手紙 18才~19才

ショパンの手紙 ショパンの手紙
ショパンの手紙
しょくぱん
しょくぱん

ショパンは日記や評論のたぐいは書きませんでした。

ショパンの生涯,人となり,音楽観,思想などを知る上で,ショパンの遺した手紙が重要な資料になります。

ショパンの遺した手紙のいくつかを年代別にまとめていきます。

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ショパンの手紙 ~はじめての国外旅行が待ち遠しい~

  • 日付;1828年9月9日 *ショパン18才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
    • ショパンが学生時代に,特に親しかった友人の一人。
      頼れる兄のような存在だった。
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

愛するティトゥス

ぼくは今,半狂乱の状態でこの手紙を書いている。いったいぼくにどんなことが起こりつつあるのか,自分にも本当はわからない。ぼくは今日,ベルリンに出発するのだ。スポンティーニの歌劇を観るつもりだ。

この旅行の原因はヨーロッパ中の大学の猿どもにある。スイスのカントンやミュンヘン会議を真似て,プロシア王がフンボルトを総裁に,ヨーロッパの代表的な学者たちを自然科学の学会に招待せよと大学に命じたのだ。ベルリン大学の出身でベルリン大学の学位を持っているヤロツキが動物学者として招待された。ヤロツキの師で友人でこの学会の委員の一人のリヒテンシュタインという人物は,ウェーバーの親友だった人でジング・アカデミーの会員なんだ。ベルリンの友人はリヒテンシュタインを知っていれば,スポンティーニを除いて他のベルリンの有力な音楽家にぼくが会えると言っている。ボーゼンでラジヴィウ公に会えたらと望んでいる。彼はスポンティーニと了解があるからヤロツキとともにわずか一週間の滞在だけれど,たとえただの一回でも一流の歌劇を観るのはよいことだ。アーノルド,メンデルスゾーン,ハンクなどが彼の地のピアニストで,ハンクはフンメルの門下だ。帰ってきたらぼくの見聞をお伝えするが,今はワルシャワのニュースを書くことにする。

まずコリーとトウサイン夫人が数週間前に「理髪師」に出演した。ぼくはイタリア語で歌われる第二幕をひどく見たかったので,嬉しさに一日中手を擦っていた。しかしその夜はもしトウサインのためでなかったらぼくはきっとコリーを懲らしめるところだったよ。あいつは仕様がないイタリア人の道化師野郎で,その調子っぱずれはひどいものだ。退場するときにでんぐり返しをやったというだけで十分わかるだろう。短いズボンをはいたコリーがキターを持ち,白い円い帽子をかぶって,床の上にいるのを想像したまえ。君はまだ「オセロ」を見ていないと思うがボルコフスキーを賛美していたね。この歌劇の彼は最もよい。

劇場の話はこれぐらいにして学校の話をしよう。ガーシェはクラクフに行っていて旅行中に盗賊にあった。彼はその冒険談を悲愴な感じでやるよ。今日オブニスキーに会ったら君のことを色々と訊ねて,よろしく伝えてくれと頼まれた。ぼくはコストゥシと君の住所を訪ねたがピアノは弾かなかった。鍵がどこにあるかコストゥシが知らなかったからだ。外から見たところピアノは別に変わりがあるように思えない。サンニックでぼくのハ長調のロンドを書き直した。最後の曲だ。君は覚えているかしら,二台のピアノ用の曲だ。エルネマンと今日ブッフホルツで弾いてみたら,相当にうまくいったよ。

新作品は君の出発後まもなくかかって,まだ完成しない。ト短調のトリオだけだ。サンニックに出発する前に最初のアレグロを伴奏とともに試演してみたが,帰ってきてから残りをやってみようと思っている。このトリオがソナタ変奏曲同様に幸運に恵まれるように期待している。この二曲はすでにライプツィヒにいっているのだ。初めのは君も知っているとおりエルスナーに捧げた。第二の曲には,厚かましいかもしれないが君の名を書いた。ぼくの心がそれを欲し,友情がそれを許したのだから,どうか腹を立てないでもらいたい。

イエドレイェーヴィッチはパリに1年間滞在する。彼はピアニストのソウィンスキーに会うことができた。この人はぼくに手紙をよこして,彼がパリの「レビュー・ミュジカル」誌の編集員なので,ポーランドにおける音楽の状態や,著名な音楽家やその生活について報告を得られたら喜ぶと言ってきたが,ぼくは関係したくないから,ベルリンからそのようなことは引き受けない,と書くつもりだ。ことにクルビンスキーがすでにある程度までその仕事に入りこんでいる上に,ぼくはまだパリの一流雑誌にふさわしいほどに,十分な判断力を所有していないからね。

ベルリンは今月末に発って帰るはず,5日間の馬車の旅!もしも病気になったら特別便で帰宅してお報せする。

ぼくら一同君の愛する母上のご病気を悲しみ,ご全快を祈っている。君の耳はきっとしばしば燃えたことと思う。ぼくらが君のことを語らぬ日は一日もなかったから。

もうやめなくてはならない。ではぼくにキスをしてくれたまえ。

君を慕う F.ショパン

19世紀末のベルリン
19世紀のベルリン

18才の青年ショパンは,ワルシャワではすでに新進ピアニストとして名声を獲得し,ワルシャワでおよそ学び得る限りのものはすべて学び尽くしてしまっていました。

次の段階として,もっと音楽の盛んな外国の大都会へ行くのは当然のことでしたが,
決して裕福ではない両親は思い悩んでいました。

そんな中,ベルリンに向かうヤロツキ博士がフレデリックを伴って行くという親切な提案は,ショパン一家に歓迎されます。

手紙の冒頭「半狂乱の状態で」と自ら告白しているように,胸を踊らせながら興奮のうちにベルリン行の馬車に乗り込むのでした。


手紙の中にショパンの作品に関する記述がいくつか出てきます。

ハ長調のロンドはショパンの死後1855年にフォンタナによって出版された「2台のピアノのためのロンド ハ長調 Op.73」のことです。
原曲にあたる「ピアノ独奏のためのロンド ハ長調」もショパンの死後100年以上経った1954年に出版されています。

ト短調のトリオは「ヴァイオリン,チェロ,ピアノのための三重奏曲 ト短調 Op.8」のことです。
出版されたのはこの手紙から数年後,ポーランドと別れを告げてパリに到着した後,1832年に出版されました。
この手紙の中にも出てくるラジヴィウ公に献呈されています。

ソナタは「ピアノソナタ第1番 ハ短調 Op.4」のことで,変奏曲は「ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ “ドン・ジョヴァンニ” の “ラ・チ・ダレム・ラ・マノ” による変奏曲 変ロ長調 Op.2」のことです。

この2曲は手紙にあるようにドイツの出版社まで原稿が既に届けられていて,まもなく出版されることになるはずでした。
手紙には「幸運に恵まれた」作品だと書かれています。

Op.2の変奏曲は幸運の女神に選ばれたような作品で,1830年にドイツで実際に出版されました。
他の作品が出版されるのは故郷を旅立ってパリに到着し,ようやく1832年になってからになります。

さらにOp.2の変奏曲はロベルト・シューマンの目に留まり,有名な「諸君帽子をとりたまえ,天才だ!」の一文を書かせることになります。

一方,Op.4のピアノソナタは決して「幸運に恵まれた」作品ではありませんでした。
出版社は無名の音楽家の作品の出版を断ったのです。

作品番号がつけられ献呈までされているのに出版されないまま時が過ぎていくことになります。
ショパンの作品ではこのような事例は他になく,異例中の異例です。

12年も後の1841年になって,今度は出版社から出版の申し出がありますが,今度はショパンが出版に難色を示します。
結局ショパンの死後2年経った1851年に出版されました。

258曲あるショパンの作品の中で,生前にショパン自身が作品番号をつけながら出版されなかった唯一の作品となりました。

手紙にも書かれていますが,Op.4のピアノソナタはショパンの作曲の師であるエルスナーに,Op.2の変奏曲は手紙の宛先である親友ティトゥスに,それぞれ献呈されています。

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ショパンの手紙 ~ベルリンから家族への2通の手紙~[1]

  • 日付;1828年9月16日 火曜日 *ショパン18才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ベルリン
手紙,レター

ぼくらの旅行馬車は日曜日の午後3時ごろに,この大きすぎる都会に,のろのろと到着しました。停車場から宿屋のクロンブリンツまでまっすぐ案内されて,そのまま泊まっています。居心地もよく満足しています。到着早々にヤロツキがリヒテンシュタイン家までぼくを連れて行ってくれ,そこでフンボルトに会いました。リヒテンシュタインは当地の音楽会の名匠たちに紹介すると約束してくれました。彼はぼくがもう一日早く到着しなかったことを残念がっています。令嬢がその日の朝,管弦楽団と一緒にピアノを弾いたからです。ぼくは内心大して惜しくもないと思いましたが,ぼくが正しいかどうかは,まだ彼女を見ても聴いてもいないのでわかりません。

昨日は学者たちの公式の大宴会でした。晩餐が長くかかったので,ぼくは9才のヴァイオリニスト,ビルンバッハの演奏会に間に合いませんでしたが,この子は当地では相当高く評価されています。今日はスポンティーニの歌劇を観にいくので,遅れないように一人で食事をする許しをヤロツキから得て,こうして今手紙を書き,それから歌劇に出かけます。パガニーニが当地に来るという噂がありますが,実現するかもしれません。ラジヴィウ公は今月の二十日ごろにベルリンに来られるとのことです。今日までぼくは動物学会の他はまだ何も見物していませんが,二日間ぶらついて美しい街や橋に見惚れています。いずれ帰宅の上お話ししますが,ベルリンは広すぎる印象です。2倍の人口が楽々収容できるでしょう。

動物学会の13の会議室をうろつくより,シュレジンガーの店で過ごすことを好みます。会場が立派なのは事実ですが,音楽専門店の方がずっとぼくのためになります。今朝は2軒のピアノ製造所を見てきました。キスリングはフリードリッヒ街のはずれにありましたが,完成したのは1台もありません。この宿屋の主人がピアノを持っていて,ぼくが弾けるのは幸いなことでした。ぼくが彼を,彼のピアノを訪問するたびに,主人はぼくを賛美しています。

ぼくが滞在している辺りは特別に美しいとはいえませんが,その整頓した清潔さは深い印象を与えます。市の反対側にはまだ出かけていませんが,あるいは明日にでも。

明後日,会議がはじまります。同日フンボルト家で科学者たちのレセプションがあり,ヤロツキはぼくも招待されるように働きかけると言っていますが,ぼくはやめるように頼みました。ぼくにはあまり役に立たない上に,外国のお客たちに門外漢がいるとにらまれるかもしれませんからね。もうすでに食卓で並んだ隣人がぼくを渋い目で眺めています。レーマンというハングルグの植物学の教授でしたが,ぼくはこの人の指が羨ましかった。ぼくはパンを両手でわったのに,彼は片手でウエハースのように粉々にしてしまいました。ザブカもまるで熊のような手をしていますが,ぼくをはさんでヤロツキと話しながら,すっかり興奮してぼくの皿の上で手を振り回し,パンくずを撒き散らしました。大きなブサイクな鼻を持っているから,きっと博学な人なのでしょう。ぼくの皿の上を彼がメチャクチャにするあいだ,ぼくは茨の上に座っているような気がしました。あとから自分のナフキンで吹かなくてはならなかったのです。

スポンティーニとその妻
スポンティーニとその妻
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ショパンの手紙 ~ベルリンから家族への2通の手紙~[2]

  • 日付;1828年9月20日 *ショパン18才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ベルリン
手紙,レター

ぼくは元気です。そして火曜日からまるでぼくのためのように,劇場では毎日新しいものを演っています。さらにはジング・アカデミーでオラトリオを聴きました。ヘンデルのオラトリオはぼくが偉大な音楽に描いていた理想に近いものでした。今の所ディバルディと17才のシュッツェルのほかには,評判の歌姫はいないようです。ぼくはシュッツェルはオラトリオの時の方が好きでした。多分聴くにふさわしい気分でいたからかもしれません。しかしそうだったとしても「しかし」という言葉が必要なのです。パリはこんなことではないことを希望します。

スポンティーニ,ツェルター,メンデルスゾーンを見かけましたが,自己紹介をするのは恥ずかしかったので,そのうち誰とも話しませんでした。ラジヴィウ公が今日到着と聞いていますから,昼食後出かけて訊いてみるつもりです。リグニッカ姫をジング・アカデミーで見かけ,誰か制服の人が話をしているので,隣の人に「お付きの人ですか」と尋ねますと「フンボルト閣下ですよ」と言われました。制服が彼の容姿をすっかり変えてしまったので,この偉大な冒険家の風貌はぼくの記憶に記されていたのに,気づかなかったのです。

明日は「魔弾の射手」! ぼくの待ち望んでいたものです。われわれの歌手たちと比較ができるでしょう。

フェリックス・メンデルスゾーン 1839年に描かれた肖像画
フェリックス・メンデルスゾーン 1839年に描かれた肖像画

ベルリンからワルシャワの家族へ宛てた手紙には,いつものようにエスプリの効いた冗談を交えながら,初めての国外旅行を楽しんでいる様子が伝わってきます。

一足早く楽界の寵児となっていたメンデルスゾーンを見かけていながら,初対面とはならなかったようです。数年後,パリに辿り着いたショパンは,リストらとともにメンデルスゾーンと親交を結ぶことになります。

手紙の中ではヘンデルのオラトリオ『聖セシリアの日のための頌歌』やウェーバーの歌劇『魔弾の射手』について書かれています。

青年期のショパンの手紙には歌劇の話題がよく登場します。そして多くの歌劇に触れた経験が,やがてショパンの作品作りにも反映されていくことになります。

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ショパンの手紙 ~オーケストラ付き作品の作曲~

  • 日付;1828年12月27日 *ショパン18才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

最愛のティトゥス!

友情が怠惰な習慣を征服する間際まで,ぼくは手紙を書かなかった。この手紙が元旦から1月4日までの間に君のもとへ届くことを望むから,眠いのだがペンをとりあげた。ぼくはこの手紙を多くのお世辞や不自然な祝辞や社交辞令で埋めようとは思わない。なぜなら君はぼくを知り,ぼくは君を知っているからだ。これでぼくのご無沙汰の理由がわかっただろう。

階上にぼくの部屋ができた。物置からはしごがかかっている。古いピアノと机を置き,そこがぼくの隠れ家になる。

ロンドの楽譜ができあがった。導入部はクリーム色の服を着たぼく以上に独創的なものだ。トリオはまだ完成していない。

孤児にされた方の,2台のピアノ用のロンドは,フォンタナに継父を見出した。君もぼくの家で彼に会ったと思うが,大学に行っている。彼は1ヶ月以上もあの曲をさらっていたが,暗譜ができたので先日ブッフホルツで,どんな演奏効果をあげ得るか二人で試みてみた。「あげ得るか」といったのはピアノの調子がよく整っていなかったからだ。それらの細部が全体にどんな影響を与えるかきみにはわかるだろう。

先週,ぼくは神のためにも人間のためにも,何も書かなかった。今夜はウィンチェンゲロード夫人の夜会にいき,そこからキッカ嬢のところをまわる。眠くなっているときに即興演奏を求められるのがどんなに厭わしいものか,君は知っているだろう。君のパンタレオンの前に座っていたときにぼくの指先に出てきたような楽想は滅多に浮かばない。どこに出かけてもたいていはぼろピアノだ。

コストゥシが,君が手紙を寄越したと言っていたよ。ぼくには手紙を書いてくれていないが,ぼくは腹を立てているとは思わなくてもいい。ぼくは君の魂を知っているから,手紙のことなどささいなことだ。もしぼくがこのようなつまらないことをたくさん書いたとしても,それは今まで以上に君のことがぼくの心にあり,ぼくが昔のままのフレデリックであることを君に思い出してもらうために過ぎない。

君はキスされるのが嫌いだが,今日はぼくにキスをさせてくれたまえ。家族一同が君の母上のご健康を祈っている。

F.ショパン

導入部が独創的だ,と書かれているロンドは,『ピアノとオーケストラのための,演奏会用ロンド「クラコヴィアク」(ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク) ヘ長調 Op.14』のことです。

この頃のショパンは,ポーランドを出てヨーロッパの主要都市へと飛び立つことを決意していました。
ワルシャワ音楽院でエルスナーの指導を受けながら,オーケストラ付きの作品をいくつか書いていますが,大都市でのデビューコンサートを見据えていたのでしょう。

ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク』はポーランドの2拍子の民族舞踊,クラコヴィアクの性格を持つロンドです。
ショパンが自ら手紙に書いているように,特に幻想的な序奏が秀逸な作品です。

「2台のピアノ用のロンド」と書かれているのは『2台のピアノのためのロンド ハ長調 Op.73』のことです。

前述した1828年9月9日の手紙に書いているように,この「2台のピアノのためのロンド」も,「ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲Op.2」と同じようにドイツやウィーンに送られて出版されることを望んでいましたが,その望みは叶いませんでした。

そのため手紙には「孤児にされた方」と書かれているのです。

この「2台のピアノのためのロンド」は結局,ショパンの死後になってからフォンタナの手によって出版されることになります。


パガニーニ
パガニーニ

この頃,当時ヨーロッパの音楽界を席巻していたフンメルとパガニーニがワルシャワで演奏会を開いています。
ベルリンからもどったショパンはフンメル,パガニーニの音楽に触れ,特にフンメルの音楽はショパンの作品に大きな影響を与えました。

時を同じくしてショパンは練習曲集を書き始めています。これにはパガニーニの影響が少なからずあったものと思われます。


コンスタンツィア・グラドコフスカ
コンスタンツィア・グラドコフスカ

19歳の春を迎えた多感な青年フレデリックに,一つのつつましい恋が芽生えました。

相手はショパンと同じワルシャワ音楽院に通うコンスタンツィア・グラトコフスカでした。
天使の歌声を持つといわれたソプラノ歌手で,ショパンは友人への手紙の中に「僕の理想を発見した」と書いています。

フレデリックは親友にさえ半年もうち明けることができないほど内気でした。

彼女の崇拝者は大勢おり,彼女を巡って決闘騒ぎまであったと言いますが,繊細なショパンは傍観するだけで,心の奥深くで疼いているひそかな思いに焦がれる日々を送ります。


ベルリンに旅をして以来ショパンは,音楽界の辺境と言って良いワルシャワでの日々を悶々と過ごしていました。

1829年の夏,19才のショパンは両親を説き伏せて,ワルシャワ音楽院での3年間の成果を試すべく,3人の友人とともにウィーンへ演奏旅行に赴きます。

ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンの住んだ芸術の都ウィーンを訪問する夢がついに実現したのです。

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ショパンの手紙 ~ウィーンから家族への4通の手紙~[1]

19才のショパンは昨年のベルリンに続き,ウィーンへ2度目の国外旅行へと旅立ちます。
そして国外では初めての演奏会を開きます。

ウィーンでの2回の演奏会は大好評を博し,音楽家として自信を強めることになります。

ショパンは家族宛てに立て続けに手紙を書いており,音楽の都ウィーンでのデビューに興奮する様子が伝わってきます。

  • 日付;1829年8月8日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

ぼくは元気です。なぜだかわかりませんが,ぼくにはドイツ人を驚かすものがあるようです。ぼくはまた彼らに驚くことがあるのを驚いています。エルスナー先生のお手紙のおかげハスリンガーはぼくをどうしてよいのか分からず,子息にぼくに弾いて聴かせるように言い,音楽に関する彼の所有品の全部を見せてくれて,夫人が不在でぼくに紹介できないことを詫びるのでした。それでいながら,彼はまだぼくの作品を印刷していないのです。ぼくは別に尋ねませんでしたが,彼は最も立派なエディションを見せながら,おそらくぼくの変奏曲は一週間のうちに出版されるだろうと言いました。ぼくはそうなるとは期待していなかったです。

彼はぼくの公開演奏を望んでいます。彼らはもしぼくが弾かずに立ち去ることがあれば,ウィーンにとって大損失だと言いますが,これはぼくには不可解なことです。

フサージェフスキーの家を一度訪ねましたが,老人はぼくの演奏に夢中になって,ぼくを晩餐に招待しました。晩餐には多くのウィーン人がいて,まるで彼が皆と相談でもしたかのように,一同そろってぼくに公開演奏をしろと言うのです。シュタインは早速彼の楽器を1台ぼくの宿に,音楽会をすればそこにも届けたいと言っています。より高級な楽器を作るグラフも,同様の提案をしています。ヴュルフェルはもしぼくが何か新奇なものを示し,センセーションを起こしたいのなら,どうしても公開演奏をすべきだと言います。ハスリンガーの家で会った新聞記者も公開演奏をしろ,と忠告してくれました。彼らは変奏曲をひどく喜んでいるのです。

ハスリンガーはぼくの作品にとって,ぼくがウィーンの人に弾いて聴かせることが絶好の機会だと主張しますし,新聞が絶賛してくれると皆が保証します。一口に言えば,ぼくのピアノを聴いた人は,皆公開演奏をしろと言うのです。またヴュルフェルはぼくが現にウィーンにいて,作品が間もなく出版されるのだから,どうしても弾くべきだ,それでなければまた出て来なければならなくなるだろうと言います。ウィーンは新しい音楽に飢えているから,今こそまたとない機会だと皆が受けあうのです。若い芸術家はこのような機会を無にするものではない,その上に単に演奏家として現れるのでは低く評価されるが,自作品を持っているのだから安んじて敢行できる,等々・・・
彼はまず最初に変奏曲,次にロンド・クラコヴィアク,それから最後に新案として即興演奏を望んできます。これが実現するでしょうか。ぼくには分かりません。

シュタインは非常に親切に丁重にしてくれますが,彼の楽器では弾けません。むしろグラフの方が良いでしょう。今日決めるつもりです。

多くの音楽家と知り合いになりましたが,チェルニーだけにはまだ会いません。ハスリンガーが紹介すると約束してくれています。ぼくは3つの歌劇を観ました。管弦楽と合唱は立派なものです。ウィーンの町は気に入りました。人々は冬まで滞在するようにぼくにすすめます。今ヴュルフェルが訪ねてきました。これから一緒にハスリンガーの許に行きます。

追伸

ぼくは演奏会をやることに決めました。ブラーエトカはぼくが大喝采を巻き起こすだろう,ぼくがモシェレス,ヘルツ,カルクブレンナーに匹敵すると言っています。ヴュルフェルが今日ぼくをガーレンベルク伯,指揮者のザイフリードその他会う人々ごとに紹介してくれました。新聞記者たちは目を丸くしてぼくを見つめていました。ヴュルフェルがぼくのために実際すべてを容易なようにはからってくれまして,練習にも出てきてくれるでしょうし,ぼくの初舞台の面倒を誠意をもってみてくれています。彼はエルスナー先生のことを大変によく言っています。

ケスラーやエルネマンが,ぼくがいるのにワルシャワでやってゆかれることに,皆は驚いていますから,ぼくは音楽を愛して弾いているだけで教授はしないのだと説明しました。演奏会のためにグラフのピアノを1台選びました。シュタインが気を悪くするでしょうが,彼の厚意には心から感謝するつもりです。

神様がぼくを助けてくださるように,どうかご心配なく!

ショパンが訪れた,19世紀前半当時のウィーン市街。
ショパンが訪れた,19世紀前半当時のウィーン市街。

ショパンはワルシャワからドイツの出版社であるハスリンガーにいくつかの楽譜を送っていましたが,出版について明確な返事をもらっていませんでした。
ハスリンガーを説得することが旅の目的の一つでしたが,ウィーンに到着した早々に『ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲』の出版の確約を得ることができました。

ショパンのピアノ演奏についての記録や伝説はたくさん残されています。
大ホールでの演奏については評価が分かれることもありましたが,サロンなど小規模の集まりでの演奏は生涯を通してあらゆる人々をショパンの虜にしました。

ウィーンでもピアノに触れるたびに周囲の人々を魅了し,信者を増やしていきました。
そしてついには,音楽の都ウィーンでのデビューコンサートが決定したのです。


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ショパンの手紙 ~ウィーンから家族への4通の手紙~[2]

  • 日付;1829年8月12日 水曜日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

僕が音楽会をするようにすすめられていたことは,先便でご存知でしょう。昨日の火曜日,午後7時から帝室歌劇場で,ぼくは世界に見参をいたしました。

ガーレンベルグ伯は音楽会を急いで,次のように曲目を決めました。

  • ベートーヴェンの序曲
  • ぼくの変奏曲
  • 独唱;ヴェルトハイム嬢
  • ぼくのロンド

それからまた歌と短いバレエが,その夜の演奏曲目を満たしました。練習のときには管弦楽の伴奏があまりにもひどかったので,ぼくはロンドの代わりに即興演奏をすることにしました。ぼくが舞台に現れるとたちまちブラヴォーの声がおこり,各変奏曲が済むごとに拍手の音があまりに大きくて,管弦楽のトゥッティが聴こえないほどでした。演奏が終わったときには,あまりに盛んな拍手にぼくは出ていって再び挨拶をしなければならないほどでした。即興演奏は完璧とはいきませんでしたが,拍手とブラヴォーの歓声があり,これも再び出てゆかねばなりませんでした。

演奏会の計画は日曜日にはじめて提案されて,ヴュルフェルが火曜日に実現するまでに運んだのでした。ぼくは大変彼のお世話になりました。日曜に歌劇場の前に立ってみると,ガーレンベルク伯に出会い,彼が火曜日にぜひ演奏会をしないか,とすすめたので承諾したのです。そして聴衆から叱声は受けませんでした。帰宅の上,書ける以上に詳しくお話しますが,ぼくの評判についてもご心配はいりません。

新聞記者たちも興味を持ったようです。あるいはぼくに批判的な意見を書くかもしれませんが,それは賛辞を強調するために必要なのです。ぼくの友人や仲間は聴衆の評判や意見をきくために会場に散らばりました。ある婦人は「あの子の衣裳がまずいのは惜しいことね」と言っていたそうで,それがもし人々が出した唯一の欠点であったなら,その他には賛辞の言葉しか耳にしなかったと,それからブラヴォーの声も決して彼らが叫び始めたのではないと,皆が保証してくれました。それならぼくは心配する必要がないのです。

舞台支配人の希望で「白い貴婦人」の主題で即興演奏をやりました。それからこれもまたポーランドの主題を,という彼の望みで,ぼくは「シミール」を選んで,このような歌に馴れぬ当地の聴衆を,電気をかけたようにびっくりさせました。特別席にいたぼくのスパイたちは,座席で飛び上がった人もあったと請け合ってくれました。

カールスバードから夫人と昨日当地についたヴェルトハイムは,弾いているのがぼくとは知らずにまっすぐに劇場に行ったとのことで,今日喜びを言いにぼくを訪ねてくれました。カールスバードではフンメルに会い,フンメルがぼくのことを話していた,ぼくの初舞台について今日彼に手紙を書くと言っていました。

ぼくがあまりにも柔らかく弾く,むしろ繊細に弾きすぎるとどこでも言われているようです。人々は当地のピアニストの猛打に馴れているからでしょう。この点の非難がきっと新聞に出ることと思っています。ことに主筆の令嬢が物凄く叩きますから。しかしそんなことは一向にかまいません。「しかし」ということは常に言われることで,ぼくにとって,やかましく弾きすぎだと言われるより,むしろ好ましいのです。まずく書かれたぼくの総譜にオーケストラの連中は,即興演奏になれるまで不平を鳴らしていましたが,その後は全聴衆の拍手と歓声に,彼らもブラヴォーの声を加えました。こうしてぼくの第1回演奏会は思いがけぬ幸運に終わりました。天運にまかせなくてはと言いますが,ぼくが演奏会をせよとの勧告に従ったのは,幸運に身をまかせたことになるでしょう。

エルスナー先生が何と仰っしゃるか,ぼくには見当がつきません。あるいはぼくが演奏したのを好まれぬかもしれません。皆に熱心に説き伏せられて断れなくなったし,また別に損はないと思ったのです。

1829年8月11日 ウィーンでの演奏会のプログラム
1829年8月11日 ウィーンでの演奏会のプログラム

ウィーンでのデヴューコンサートは大好評となります。

プログラムにある「変奏曲」とは『ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲 Op.2』のこと。「ロンド」は一説では『ロンド・ア・ラ・マズール Op.5』のことだとされることもありますが,おそらく『演奏会用ロンド・クラコヴィアク Op.14』のことだと思われます。

「シミール」というポーランドの酒宴の歌を題材にした即興演奏で観客を驚かせたことも書かれています。「クラコヴィアク」もポーランドの郷土舞踏です。
国外での音楽家としてのデビュー当初から,ショパンはポーランドの誇りを掲げていたのです。

ショパンのピアノ演奏が「柔らかく,繊細」であることが語られています。
柔らかさ,繊細さ,詩情の豊かさ,独特のリズム感などは,生涯にわたってショパンの演奏が唯一無二の「特別なもの」として語られていくことになります。


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ショパンの手紙 ~ウィーンから家族への4通の手紙~[3]

  • 日付;1829年8月13日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

リヒノフスキー伯に会いました。ヴュルフェルが彼の許に伴ってくれたのです。ベートーヴェンの親友であった方のご子息にあたる方です。皆がぼくの演奏の繊細な美しさと優雅さを,高く買っています。今日ご一緒にお茶をいただいたリヒノフスキー伯夫人と令嬢が,この次の火曜日にぼくが第2回演奏会をするのを大変に悦ばれました。大層親切な方たちです。

チェルニーもぼくにお世辞をどっさり言いましたよ。

第3回演奏会はやらないつもりです。第2回さえもしたくないところですが,皆にたって薦められたのとワルシャワで人々が「どうしたのか? 彼はただの1回の音楽会で逃げ出した。多分失敗だったのだろう」と言われるかもしれないと思いついたからなのです。

ブュルフェルがどんなに親切にしてくれたかはぼくには説明できませんから,書かないことにします。この次もぼくは無報酬で弾くのは懐具合が淋しい伯爵を喜ばすためなのですが,これは秘密です。そのほかぼくは健康で幸福で,よく食べよく飲みます。ウィーンは好きだし,当地に住むポーランド人もまた好きです。どうかエルスナー先生にすべてをお伝えし,ご無沙汰のお詫びをしてください。ぼくは気持ちがすっかり転倒していて,時間がどこに行ってしまうのかわからないのです。音楽会をせよと最初に忠告して下さったスカルベク伯に,どうかぼくの感謝を。誠にぼくの人生の出発でした。

日本でも教則本で有名なカール・チェルニーですが,ベートーヴェンの直弟子であり,かのフランツ・リストの師にあたる人物です。
弟子であるリストだけでなく,ショパンやシューマン,メンデルスゾーン,シューベルトなど後輩の活躍を後押ししました。

若干19才のショパンの斬新性を瞬時に見抜き,賛辞を惜しみませんでした。

ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲 Op.2』のイギリス初版はチェルニーに献呈されています。

なお,ツェルニーは1857年,66才でなくなっていますが,そのときには輝かしい才能をもった後輩たちは全員亡くなってしまっていました。


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ショパンの手紙 ~ウィーンから家族への4通の手紙~[4]

  • 日付;1829年8月19日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

第1回が成功だったとすれば,昨日はそれ以上でした。ぼくが舞台に現れた瞬間にブラヴォーの声が3回繰り返されて,聴衆の数もずっと大勢でした。劇場の財務官の男爵は,売上をぼくに感謝して「このように人が大勢来たのが,決してバレエのためでないことを皆知っておりますよ」と言いました。専門の音楽家はぼくのロンドに心を奪われました。指揮者のラッハナーを初めとして,調律師にいたるまで,あの曲の美しさに驚いています。貴婦人たちも芸術家もぼくが気に入ったのがわかりました。ぼくは2回演奏し,第2回目の成功は最初以上でした。クレッセンドでゆくのです。これはぼくに気に入っています。

今夜9時に発つので,今朝は答礼の訪問を少ししなくてはなりません。シャッパンツィー男爵が,こんなに早くウィーンを去るなら,すぐにまた帰ってこいと言われるので,この次は勉強に来ますと答えると,男爵は「そのためならお出かけの必要はありませんよ」と一蹴されました。お世辞に過ぎないが,快いものです。当地の人は誰もぼくも学生と見てくれません。ぼくがすべてをワルシャワのみで学んだことほど驚かされたことはない,とプラーエトカが言いましたから,ジヴニーやエルスナーのもとでは,どんな阿呆でも学ぶことができると答えてやりました。新聞に記事がまだ出ないのは残念です。あるいは第2回演奏会を持っていたのかもしれません。好評,悪評,いずれ皆さんもご覧になるでしょう。

ぼくは教養人も,また感情的な大衆も,両方ともとらえることができました。彼らには話の種ができたことでしょう。他のことも書きたかったのですが,昨日のことが頭にこびりついていて,思考をまとめることができません。ぼくの懐具合はまあ大丈夫です。今ツェルニーの許にお別れに行ってきたところです。ツェルニーは彼のどの作品よりも敏感な人です。

荷物はもうまとめましたから,あとはハスリンガーに行き,それから劇場の向かい側のカフェで,ラッハナー,クロイツァー,ザイフリードに会うばかりです。

2晩の旅の後にプラハに着きます。夜の9時に急行馬車で出発,きっとよい道連れとよい旅ができるでしょう。

以上,家族に宛てた手紙からはウィーンでの成功に興奮するショパンの様子が伝わってきます。
音楽の都ウィーンでの成功は音楽家としての自信を深め,ショパンはワルシャワを飛び立ち,ウィーンを拠点として音楽家として生きていく決心を固めたのでした。

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ショパンの手紙 ~ウィーンからの帰路 家族への2通の手紙~[プラハ]

  • 日付;1829年8月22日 土曜日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;プラハ
手紙,レター

心のこもったウィーンの別れは,本当に心のこもったお別れでした。プラーエトカ嬢は自作に署名をして,記念のために贈ってくれましたし,彼女の父親は,父上と母上を擁護してぼくのような息子を持ったお祝いを言いたいと言っておりました。シュタインの息子は涙ぐむし,一口に言って,芸術家たちはすべてぼくとの別れを惜しむのでした。ハスリンガーもぼくの再訪を乞い,世界を感動させるために,変奏曲を5週間のうちに出版すると誓いました。

別れを告げたり,再訪を約束したりしてから,われわれは急行馬車に乗りこみました。若いドイツ人が一人一緒でした。一緒に2晩の旅をするので,われわれは自己紹介をしたところ,彼は2年前にワルシャワに行ったことがあるとのことで,素晴らしく良い旅の道連れになりました。われわれは同じホテルに泊まり,プラハを見物してから,一緒に遠回りしてドレスデンとテーブリッツに立ち寄ることに決めました。ドレスデンを見るせっかくの機会を逃すのは,あまりに馬鹿らしいことです。ことに懐具合がそれを許し,4人一緒に旅すると費用も少なく済んで好都合ですから。

急行馬車でさんざんに揺れたり,ぶつかったりした後に,昨日の正午プラハに着いて早速昼食の食卓に向かいました。食後ハウケを訊ねましたが,この有名な学者への紹介状がほしいと,スカルベクに書くことを思いつかなかったのは残念でした。ぼくらが城内の教会の見物で手間取ったので,ハウケは不在でした。お城の丘から眺めると,町は全体として美しく,大きく古く,そして豊かです。

皆は当地でもぼくが演奏することを望んでいますが,わずか3日の滞在でしし,せっかくウィーンで得たものを汚したくありません。ここではパガニーニでさえ炙られたのですから,ぼくはほっておくつもりです。ヴュルフェルからの5通の手紙は劇場の支配人や指揮者宛てです。彼の特別の頼みだから届けるつもりですが,ぼくは演奏する気持ちはありません。ハウケを訪問する時間になったので,これでやめねばなりません。スカルベクはぼくの名付け親だと紹介しましょう。そして紹介状がなくてすむように祈りましょう。

1834年のプラハ
1834年のプラハ

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ショパンの手紙 ~ウィーンからの帰路 家族への2通の手紙~[ドレスデン]

  • 日付;1829年8月26日 *ショパン19才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ドレスデン
手紙,レター

ぼくは健康で大変に元気です。1週間前の今日ぼくは,ウィーンにいてドレスデンに来ようとは思っていませんでした。ぼくらはプラハを電光のような速度で見物しました。ハウケはスカルベクの近況をきくのを喜んで,特に彼と関係のあるプラハ美術館訪問者の署名欄に,ぼくらも名を書かされました。われわれも散文や詩で何か書くことを各自考えねばならなかったのですが,そんな時音楽家はどうしたらよいのでしょう? 運よくマチェヨフスキーが4小節のマズルカの歌詞を書くことを思いついたので,ぼくはそれに音楽をつけて,詩人とともにできるだけ個性のある筆致で署名をしました。ハウケは喜んでいました。それはスラヴ文化への彼の功労を祝う彼のためのマズルカでした。

ピクシス宛のプラーエトカとヴュルフェルの手紙のおかげで,ぼくはこの上もなく歓迎されました。彼はレッスンを中止してぼくを引き留めて,色々と尋ねました。ぼくは戸棚の上にクレンゲルの名刺を見つけたので,ドレスデンのこの有名な人と同名の人がプラハにいえるのかと尋ねますと,たった今クレンゲル自身が訊ねて来たが,彼が留守をしていたので,名刺を残していったのだと答えました。ぼくはウィーンから彼宛の手紙をもらってきているので,喜んでそのことをピクシスに告げますと,彼は食後にぼくに来るように言ってくれました。その時刻にクレンゲルが来る約束になっていたので,われわれはピクシスの家の階段で出会いました。ぼくは彼が自作のフーガを弾くのを2時間聴きましたが,ぼく自身は求められなかったので弾きませんでした。彼はよく弾きますが,もっと静かに弾けばなおぼくの気に入ったことでしょう。彼はウィーンとイタリアへ行く途中でした。彼と知り合ったことは素晴らしいことです。ぼくは気の毒なツェルニーを知ったことより有り難く思っています。

プラハにはわずか3日しか滞在しませんでした。捉えどころがないように,時が早く過ぎて,ぼくは終始忙しく,そのおかげで出発の前日に半分身支度をしただけで,誤って他人の寝室に飛び込んでしまいました。その部屋の陽気な旅行者が驚いて「おはよう」といったときには,もうその部屋の中にいたのでした。「どうも失礼」と言ってぼくは逃げ出しました。部屋がまるで同じなのです。

プラハを正午に出発,夕刻テープリッツに着きました。翌朝湯治客の名簿にレムビツキーの名を見出したので,早速挨拶に行きますと,彼は喜びました。ぼくらはワレンシュタインの城を初め,各所を見学しました。そこには偉大な武士の頭蓋骨の一部や,彼が殺害された矛やその他多くの遺物がありました。夜は劇場に出かける代わりに,ぼくは正装してウィーンの第2回演奏会のときの白手袋をはめて,8時半にレムビツキーとクラーリー公の許に参りました。オーストリアの王族,将軍,英国の海軍大佐,社交界の青年紳士たち,オーストリアの公女たち,顔に傷跡があり勲章を飾ったライゼル将軍など「少ないが選ばれた人々の集まり」にわれわれは入ってゆきました。お茶の後にクラーリー公の母君がぼくに「お気がむけば」ピアノの前にお座りくださいと言われました。グラフ製の良いピアノです。ぼくは「気がむいて」いましたので彼らに「お気がむけば」即興演奏の主題がいただきたいと言いました。大きなテーブルを囲んでレースを編んだり,編み物や刺繍をしていた貴婦人たちの間にたちまち「主題でございますって」という囁きの声が起こり,この中の3人のうら若い公女たちが相談して,クラーリー公の家庭教師を招き,彼は一同の賛同を得て,ロッシーニの「モーゼス」の中の主題がぼくに与えられました。

ぼくは即興演奏をやりました。非常にうまく弾けたので,後でぼくと長く話をしたライゼル将軍は,ぼくがドレスデンに行くと聞くと,早速フリーゼン男爵に紹介状を書いてくれました。

拝啓,

ライゼル将軍は,サクソニー国式典長フリーゼン男爵に,フレデリック・ショパンをご紹介申し上げます。氏のドレスデン滞在中はなにとぞ我が有力な芸術家諸氏にご紹介,またご援助を賜りたく願いあげます。ショパン氏は私が現在までに聴き得た最も優秀なピアノ演奏家でございます。

ライゼル将軍はこのように書いてくれました。その夜ぼくは4回演奏し,公女たちからテープリッツに泊まって,翌日の晩餐に来るようにとおすすめを受けましたが,ぼくは旅の仲間と別れたくなかったので,礼を言って辞退しました。

昨日の午前5時にテーブリッツを出発,ドレスデンに午後4時に着きました。この旅はぼくにとって非常に幸運で,今日はゲーテの「ファウスト」で土曜日はイタリア歌劇です。この手紙は昨夜書き出して,今朝書き終えるところです。

時間がないので,身支度をせねばなりません。1週間のうちに当時を出発の予定ですが,天気がよければその前にザクセン・シュワイツを見物したく,それから帰る前に数日ヴロツワフに滞在するでしょう。

追伸

ぼくは美術館,物産展,主な公園などを見物し,答礼の訪問をして,これから劇場に出かけます。

追伸

この手紙は夜更けまで放りっぱなしでした。今「ファウスト」から帰ってきたところ,ぼくは4時半から劇場前で待たされました。芝居は6時から11時まで,ベルリンでも見たデヴェリアンがファウストを演りました。今日はゲーテの80才の誕生日です。それは大変な幻想ですが,偉大なものです。幕間にシュボールの同名の歌劇の抜粋を演奏しました。

これから床に入ります。明朝モールラッキーが訪ねてきて,ペヒウェル嬢の許に同行します。彼がぼくのところにやってくるのです。ぼくが出かけて行くのではありません。では,おやすみなさい!

1890年代のドレスデン
1890年代のドレスデン

ウィーンから両親に宛てた手紙には「今日のぼくは4才ばかり成長しました」と書いているものも遺されています。ウィーンでの経験はショパンにとってそれほど大きな自信となりました。

故郷に帰ってきたショパンはもはや単なる天才少年ではなく,音楽の都ウィーンの聴衆と批評家に名手として認められたプロのピアニストとして戻ってきたのです。


ワルシャワにもどってきたショパンは親友の中でも特に頼りがいのある友人ティトゥスに,頻繁に手紙を書くようになります。

ティトゥス 1875年撮影
ティトゥス 1875年撮影

生来虚弱だったショパンに対して,筋骨たくましい友人が2才上のティトゥスでした。

ティトゥスは裕福な地主の子で,学生時代にショパンはティトゥスの実家に頻繁に遊びに出かけています。学校を卒業してからティトゥスは郷里に帰りますが,その後もショパンとはずっと手紙のやりとりをしていました。

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ショパンの手紙 ~ティトゥス宛の4通の手紙~[1]

  • 日付;1829年9月12日 *ショパン19才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

ぼくの大旅行について,ぼくは君に直接語るつもりだった。君とおしゃべりしたかったし,その方がぼくも楽しかったのだが。しかしまあ聴いてくれたまえ。ぼくはクラクフ,ウィーン,プラハ,ドレスデン,ヴロツワフに行って来たんだ。最初の週はクラクフで過ごした。クラクフがぼくが数分間ほど家族や君のことを忘れさせるほどに,ぼくの心を占めたとすれば,ウィーンはぼくを圧倒し,ぼくは陶酔し錯覚を起こして,家から2週間も手紙が来ないのにまるで心配もしないほどだった。

まあ考えてくれたまえ。あの短期間にぼくは帝室劇場で2度も公開演奏をやらなくてはならなかったんだ。これがその事情だ。ぼくの作品の出版社のハスリンガーがぼくの名はまだ誰も知らないし,作品は難しく高踏的だから,作品のためにはウィーンで演奏会をやる方がよいと言うのだ。ぼくはまだデビューする気持ちはなかったし,何週間も練習をしていないのでウィーンのような天下に名高い聴衆の前では実力を発揮する力がないと言って断った。そのうちにウィーン劇場の総務で,美しいバレエを書くガーレンベルグ伯がやってきたので,ハスリンガーはぼくを公開演奏を恐れる臆病者だと紹介した。伯爵は親切に彼の劇場を提供してくれたが,ぼくは自分の意見に固執して,感謝して辞退した。翌朝ぼくの部屋を叩くものがあった。そしてヴュルフェルがぼくを説得してに入ってきて,せっかくの機会を与えられながら,ウィーンで弾くのを拒絶するのは,ぼくの両親とエルスナーとそしてぼく自身を辱めるものだと言うのだ。彼らはついにぼくが承知するまでぼくを口説いた。ヴュルフェルは早速すべての準備を整え,翌日はポスターが貼り出された。もはや引っ込むのは困難だが,それでもまだぼくは弾いたものかどうかわからなかった。3軒のピアノ製作者から,彼らのパンタレオンをぼくの部屋に届けると言ってきたが,部屋も狭すぎたし,2日後に弾くはずだったから,数時間の練習ではあまり役にも立たぬので辞退した。

練習のときオーケストラの連中は渋い顔をしていた。多分田舎からやってきたばかりで,もう自作を演奏したりするからだろう。ぼくは君に献呈した変奏曲から練習を始めた。次にロンド・クラコヴィアクが続くはずだった。ロンドは何度やりなおしても,オーケストラがひどく混乱して譜面が悪いと苦情をいった。ぼくは上の方だけが大切だと説明したのだが,総譜の上と下に書かれた休止が混乱の原因だった。これは一部分ぼくの過失だが,彼らに解ると思っていたことなんだ。彼らは譜面の不正確さに閉口していたよ。彼らは各自それぞれ演奏家で作曲家なんだそうだ。いずれにしても彼らは多くの悪戯をしたので,ぼくはその夜は病気で弾けないと言いたいほどだった。舞台支配人のデマール男爵が,オーケストラ側に少しの厚意があれば,治まる問題だと思って,ロンドの代わりに即興演奏をするとよいと提案してくれた。この言葉でオーケストラの連中は大目玉をむき,ぼくは困りきってやけになって承諾した。即興演奏の危険さと,ぼくの癇癪が,その夜ぼくに最善をつくす刺激になろうとは,誰が思いがけよう。どういう原因か,ウィーンの聴衆を見てもぼくは別に恐くなかった。ぼくは素晴らしいグラフ製のピアノ,おそらくウィーン第一の楽器の前に座った。ぼくがやけくそになって弾いたと思ってくれてもよい。

変奏曲は非常な反響があって,変奏ごとに拍手された上に弾き終わってからも舞台に引き返さねばならないほどだった。間奏曲はザクセン宮廷歌手ウェルトハイム嬢によって歌われて,ぼくの即興演奏のときになった。どうしてそうなったかわからないのだが,オーケストラの連中まで拍手するようになり,ぼくは再び舞台に呼び戻された。こうして第1回演奏会が済んだ。ウィーンの新聞は熱烈にぼくを賛美したよ。

それから皆が懇願したので,その週にもう一度演奏会をやった。ただ1度弾いて逃げ出したとは誰もいえなくなるので,ぼくは喜んだ。それに第2回ではロンド・クラコヴィアクを演奏することを主張したからなんだ。自分でこんなことを言うのを赦してほしいが,ロンドはラッハナーを初め地元のお歴々を夢中にさせたよ。この音楽会でも変奏曲は繰り返し弾かねばならなかった。淑女たちに驚くばかり人気があるのだ。

ベートーヴェンの後援者のリヒノフスキーが,彼のピアノをぼくの演奏会に用立てようとしたが,非常な厚意だ。彼はぼくの弾いたピアノの音が弱すぎると思ったのだが,それはぼくの弾き方なのだ。そしてそれが淑女たちを悦ばす。ことにプラーエトカの令嬢を。彼女はウィーン第一のピアニストで,ぼくを好いているにちがいない。注意しておくが,彼女はまだ二十前で,家庭で暮らしていて,聡明で美しい。別れにのぞんで彼女は署名入りの自作を記念に贈ってくれた。

第2回の演奏会についてウィーンの新聞は「彼は独自の道を行く青年である。その道は他の演奏様式とははるかに異なっている」と書き,そして「今日ショパン氏は再び世界的な満足を与えた」で終わっている。だが君に書くことは,いかなる新聞よりもぼくに悦びを与えてくれる。

ぼくはチェルニーと親しくなり,時々彼の家で2台のピアノで一緒に弾いた。よい人だがそれ以上ではない。ピアニストの中ではプラハのピクシス家で会った,クレンゲルと知り合ったことを喜んでいる。自作のフーガを弾いてくれたが,バッハの後継者といい得ると思う。48曲もあるんだ。クレンゲルがドレスデンのモールラッキーに手紙を書いてくれたので,サクソニーの宮廷指揮者長のモールラッキーはぼくを丁重にもてなして,クレンゲル門下で同地第一の女流ピアニストといわれるベヒウェル嬢の家に伴ってくれた。彼女はよく弾く。イタリア歌劇はぼくの鼻の下で終演になってしまった。テープリッツは美しいところだ。ぼくはわずか一日逗留して,夜はクラーリー公妃の許で過ごした。これでやめなくてはならないのが残念だが,ぼくはもう君に十分書き散らした。君の到着を待っている。ぼくは心から君の唇にキスをする。いいだろう?

親友ティトゥスへの手紙には,両親への手紙以上に,ウィーンでの華々しい成功体験が生き生きと書かれています。

ショパンのピアノ演奏に対して「ピアノの音が弱すぎる」「他の演奏様式とはるかに異なった独自の演奏」といった評価がなされています。

これらの評価はショパンの生涯にわたって変わりませんでした。
ショパン自身のピアノ演奏がどういったものであったのか,想像する助けとなります。


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ショパンの手紙 ~ティトゥス宛の4通の手紙~[2]

  • 日付;1829年10月3日 *ショパン19才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

愛するティトゥス

たった今君からの手紙を受け取ったところだ。ぼくのこの間の手紙が届かなかったか,それとも何か恐ろしく愚かなことでも書いてしまったかしらと思いながら,ちょうど今君に手紙を書き始めたところだった。君の手紙から結論を得たのだが,君が元気なのは嬉しい。ぼくの演奏会の記事を2つの新聞で見たと君は書いているが,もしポーランド紙ならあまり満足は得られないだろう。無論それは翻訳であるばかりでなく,ウィーンの報道を故意に損なうように目茶苦茶にしているのだ。それについてぼくは口頭で君にもっとよく話すことができる。

トリエストやヴェニスを旅して先週帰ってきたフーベが,ウィーンの演芸時報の切り抜きを持ち帰ってくれた。その中にぼくの作品と演奏が長文で評論され,称賛されている。彼らはぼくのことを「独自の能力を持つ演奏家,生まれつき天分に豊かに恵まれている」と書いている。このような切り抜きが君の手に入るならば,ぼくは恥じる必要がない。

この冬,ぼくが何を企てているか知りたいなら,ワルシャワにいないことを知りたまえ。しかし事情がどこにぼくを導いてゆくかはわからない。ラジヴィウ公というよりも,あの親切な彼女が,ぼくをベルリンに招待してくれたのは事実なのだが,ぼくが第一歩を踏み出した土地に帰らねばならず,ことにウィーンに帰ると約束をしてしまっているとしたら,それが何になろうか。その上にぼくが社会人として生活に入るためには,ウィーンに長く滞在することが有利だと一新聞の記事にあった。だからぼくがウィーンに帰らねばならぬことが,君にもわかるだろう。けれどもいつか君にも書いたと思うが,それは決してパンナ・プラーエトカのためではない。彼女は若く美しく,そしてピアニストだ。しかしぼくには不幸にも前から心ひそかに忠節に仕えてきた,理想の女性があるのだ。ぼくは彼女を夢見る。ぼくの協奏曲のアダージョは彼女への夢想に属し,君に送る今朝書いた小さなワルツもその思いが霊感を与えたのだ。ここで一つ注意してもらいたいのは,このことは君以外誰もまだ知らないということだ。愛するティトゥス,ぼくはそのワルツを,どんなに君に弾いて聴かせたいことだろう。トリオではバスの旋律が5小節目の高い変イの音まで支配する。しかしぼくは何にも書く必要があるまい。君は感じてくれるだろうから。

ケスラー家で毎週金曜日に音楽の集まりがあるということの他には,音楽のニュースはない。昨日はシュポーアの八重奏が演奏されたが,美しくて精緻なものだった。君の手紙を受け取る前に,ぼくはミョドウ街に出かけた。いつも窓を見上げるのだが,君の部屋の窓の鎧戸は昨日も一昨日も同じだった。

ぼくが今ワルシャワにどんなにうんざりしているか,君は信じられないだろう。家のものたちが少なからず楽しくしてくれるのでなかったら,ぼくはここにいないだろう。しかし朝訪ねて行って,喜びも苦しみもともに分け合う人がいないことは,何と侘しいことだろうか,何かが重荷になっているのに,それを下におろすところがないのは,何と厭わしいことだろう。ぼくが何を意味しているか君は知っているね,君に語りたいことを,ぼくはよくぼくのピアノに語る。君が当地に来るという意向は,実現してくれなくてはいけない。君と一緒に旅ができたら,ぼくはこの上もなく幸福だろう。すべてが変わらぬ限り,ぼくはウィーンからイタリアに勉強に行き,来冬はパリに行くだろう。というのは父はぼくをベルリンにやりたがっているが,ぼくは好まないからだ。ワルシャワを出発する前に君に会いたい。

つまらぬ話で君を退屈させたことだろう。ぼくは君の嫌なことはしたくないのだ,できたらぼくに一筆書いてくれたまえ。それで君はぼくを数週間幸福にできる。君にワルツを贈ることを許したまえ。かえって君を怒らせるかもしれないが,本当は君を喜ばすためにしたことなのだ。なぜならばぼくは君をとても愛しているから。

ウィーンでの輝かしい成功体験の記憶が新しいショパンは,来たるべき冬もウィーンで過ごしたいと切望している様子が書かれています。

また,コンスタンツィア・グラトコフスカへの密かな想いがついに告白されています。その想いは「理想の女性」だと書くほどでした。

文中にある「協奏曲のアダージョ」とは『ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21の第2楽章 Larghetto』のことです。

小さなワルツ」は『ワルツ 変ニ長調 Op.70-3』のことだと考えられています。

ワルツ 変ニ長調 Op.70-3 の中間部
ワルツ 変ニ長調 Op.70-3 の中間部

手紙に書かれているように,中間部の左手の旋律が高音になっているのが,コンスタンツィアへの想いをあらわしています。


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ショパンの手紙 ~ティトゥス宛の4通の手紙~[3]

  • 日付;1829年10月20日 *ショパン19才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

最愛のティトゥス!

ぼくがどうしてこんな手紙狂いになったのか,君はきっと不思議に思うだろうね。これでわずかな期間に3通目だ。今夜7時にボーゼン地方のヴィエソロフスキー家に出発して,いつまでそこに滞在するか未定なので,その前に書いているのだ。この旅行に出かける理由はラジヴィウ公が,領地に帰っておられることにある。ぼくのベルリン行き,そして彼の館に住むこと,その他結構な話が色々とあったのだが,ぼくには何の利益も認められないし,実現さえ危ぶんでいる。父はそれが単なるお世辞にすぎないことを信じようとはしない。もう言ったと思うがこれがぼくが出かける理由だ。

ケスラーが毎週金曜日に小さな音楽の集まりをやっていることを,君も知るべきだ。あらかじめ曲目を用意することなく,皆がそのとき偶然に手にした曲を演奏するのだ。この間の金曜日にはフンメルのホ長調三重奏,ベートーヴェンの最後の四重奏をやった。ぼくはこのように偉大なものは長い間聴かなかった。ベートーヴェンは指を鳴らして,全世界を無視している。フルートを吹くツィーメルマンが独特の音を持っていることを,君も知る必要がある。頬と手の力を借りて出すのだが,ちょっと猫の声に似ているし,また小羊の声にも似ている。ノヴァコフスキーもまた小さな調子っぱずれの笛のような奇妙な音を,唇を平たくして出すことができる。フィリップがこれを利用してツィーメルマンとノヴァコフスキーのために,合唱付きの二重唱を書いたのだ。全くふざけた曲なのだが,非常に巧妙にできていて滑稽で聴き飽きなかったよ。ベートーヴェンの三重奏の後だったが,ベートーヴェンの作品がぼくに与えた圧倒的な印象は消さなかった。

エルスナーはぼくの協奏曲のアダージョを好んでいて,新しいものだと言っている。ロンドについてぼくは現在のところまだ人の意見は望んでいない。ぼく自身がまだ満足していないからだ。帰宅後もぼくに完成できるかどうかおぼつかないことだ。

君は君が欲しさえすれば,人々を幸福に楽しくさせることができて幸せな人だ。朝のうちぼくがどんなに不機嫌で,手紙が届いた夕食後にはやさしい心になっていたか君にはわかるまい。もうやめなくてはならない。ぼくは心から君を抱擁する。大抵の人は書いている事柄を考えもしないような言葉で,手紙を終えるものだが,ぼくは書いていることを心から思っていることを信じてもらいたい。なぜならぼくは君を愛しているから。

ぼくはぼくの様式で練習曲を書いたよ。会ったときに見せよう。

文中にある「協奏曲のアダージョ」とは先程の手紙と同様に『ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21の第2楽章 Larghetto』のことで,「ロンド」というのは,この協奏曲の第3楽章のことです。

また,この時期から「練習曲」を書き始めていたことがわかります。

練習曲集の24曲のうち,Op.10-8,Op.10-9,Op.10-10,Op.10-11の4曲が真っ先に,1829年に書かれたとされています。

この手紙に書かれている「練習曲」もこの4曲のうちのどれかだと思われます。


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ショパンの手紙 ~ティトゥス宛の4通の手紙~[4]

  • 日付;1829年11月14日 *ショパン19才
  • 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • 書いた場所;ワルシャワ
手紙,レター

最愛のティトゥス!

君がキスを送ってくれた最後の手紙を,ぼくはアントニンのラジヴィウ家で受け取った。ぼくは1週間そこにいたのだが,どんなに楽しかったか君には思いもよろないだろう。最後の馬車便で帰宅したのだが,それでやっとお許しをもらって帰ったのだった。その時のぼくだけの楽しさからいえば,追い出されるまで滞在してもよかったのだが,ぼくの仕事,ことに終曲の完成を待ちかねているぼくの未完の協奏曲が,ぼくに楽園を去らしめる拍車となった。そこには二人のイブがいた。若い公女たち,親切でやさしくて音楽的で敏感な乙女たちだ。公爵夫人も人間を決定するものは生まれではないことを知っていて,彼女の態度は彼女を愛せずにはいられないように,人々の心を捉える。君も公爵がどんなに音楽好きだか知っているだろう。ぼくは彼の「ファウスト」を見せてもらったが,その中に多くの器用さや,天才までも示すものを見出した。彼は全くフルックの心酔者だ。

あそこに逗留中にぼくはチェロのためにポーランド風の作品を書いた。内容はなにもなくてキラキラした淑女向きのサロン用の曲だ。わかるだろう,ぼくはワンダ姫にそれを学ばせたかったんだ。ぼくは彼女のレッスンをしてあげていたのだ。まだ大変に若く17才で美しい。彼女の可愛らしい指を導くのは実際に楽しかったよ。しかし冗談は別として,彼女は真の音楽的な感覚を豊かに持っていて「ここはクレッシェンド,ここはピアノ,今度は早めに,今度はゆっくりと」などと言わないでもよいのだ。ぼくは彼女たちにヘ短調のポロネーズを贈呈しないではいられなかった。エリザ姫を夢中にさせてしまったのだ。だから最初の便でぼくに届けてくれたまえ。彼らに礼儀知らずと思われたくないし,記憶から清書をしたくないから。書き間違えたくないからね。このポロネーズを弾いて聴かせねばならなかったこと,そして変イ長調のトリオが何よりも一番にお気に入ったということは,君にこの公女の性格の概念を与えると思う。

帰途カーリッシュの夜会に出席したら,ラチンスカ夫人とビエルナッカ嬢がいた。彼女がぼくにぜひとも踊れとすすめるので,ぼくは彼女よりも美しい,いや同程度に美しい一少女と,マズルカを踊らねばならなかったよ。

ラジヴィウ公夫人はぼくが5月にベルリンに行くことを希望している。だからぼくが冬をウィーンで過ごすことを妨げるものは何もないわけだ。だが12月までは出発できないだろう。父の誕生日が17日だから,多分月末に出かけることになるだろう。だからぼくは君に先に会いたいんだ。君に会いたいこと以上にぼくが欲するものはない。ワルシャワでは何かが物足りないことを,ぼくがどんなに切実に感じていて,君には思いも及ばないだろうが,ぼくには誰一人とも語る人がいない。誰一人信頼できる人がいない。君はぼくの肖像画がほしいそうだが,もしもエリザ姫から1枚盗むことができたら君にお送りする。彼女はぼくを2度彼女の写生帳に描いた。そしてよく似ていると皆にいわれたんだ。

ぼくがほとんど常に君とともにあることを信じてくれたまえ。ぼくは決して君を捨てない。ぼくは死の日まで君の最も親しき友であるだろう。

最初の便でヘ短調のポロネーズを送ることを,忘れないように繰り返してお願いする。ぼくは練習曲を少し書いた。君に巧みに弾いて聴かせることができる。ヴォルコーヴォ嬢は母の喪に服しているし,グラトコフスカ嬢は目に包帯をしている。

ポーランドの大貴族,ラジヴィウ家のサロンにおけるショパンのコンサート
ポーランドの大貴族,ラジヴィウ家のサロンにおけるショパンのコンサート
エリザ姫
エリザ姫
エリザ・ラジヴィウーヴナによるスケッチ。16歳のショパン。ワルシャワ,ショパン協会所蔵。
エリザ・ラジヴィウーヴナによるスケッチ。16歳のショパン。ワルシャワ,ショパン協会所蔵。

文中にある「協奏曲」は先程までの手紙と同様に『ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21』のことです。
この協奏曲は第2楽章が真っ先に完成し,第3楽章の完成が最後になりました。

チェロのためのポーランド風の作品」とは『ピアノとチェロのための,序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3』のことです。

ラジヴィウ公はポズナン大公国の総督である大貴族で,ワルシャワ時代のショパンを引き立てていました。ラジヴィウ公自身も作曲をたしなむほど芸術に造詣が深く,チェロが弾けました。手紙の中にもありますが,その娘ワンダ姫はピアノをたしなみ,ショパンはワンダ姫のレッスンもしていました。

ショパンは『ピアノ三重奏曲 Op.8』をラジヴィウ公に献呈しています。
手紙には『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』もラジヴィウ家のために書かれた作品であることが書かれています。

ワルシャワ時代のショパンは,エチュードのような後世に遺る芸術作品を既に書き始めていました。一方で,演奏技巧をこらしただけのような軽薄な曲もたくさん書いています。
ショパン自身も「内容はなにもなくてキラキラした淑女向きのサロン用の曲だ」と手紙に書いています

芸術的霊感が欠如していることを分かった上で,援助してもらう貴族との付き合いや,大衆からの人気獲得を狙って,意識的にこういった作品を書いていたことがわかります。

ヘ短調のポロネーズ」というのは『ポロネーズ ヘ短調 Op.71-3』のことです。エリザ姫はこのポロネーズの中間部が特に気に入ったと書かれていますね。

ポロネーズ ヘ短調 Op.71-3
ポロネーズ ヘ短調 Op.71-3

このエリザ姫は夭逝するのですが,リストによれば,彼女はショパンに,天使がこの世に短期間生まれてきたような,清らかな美しい印象を残したとのことです。

手紙の最後にはショパンの初恋の相手である,コンスタンツィア・グラトコフスカの話題が書かれています。


来たるべき冬もウィーンで過ごしたいと切望していたショパンですが,結局は翌年1830年の11月までワルシャワを発つことはできませんでした。

上記の11月4日の手紙の後,翌年1830年3月27日付けの手紙まで,この冬のあいだの手紙は1通も現存していません。

ウィーン行きを切望しながら叶わなかったショパンの心情は想像するしかありません。

1830年の3月27日付けの手紙から,ショパンからティトゥスへの手紙はまだまだ続き,翌年183011月に祖国を発つまでに10通以上の手紙を書いています。

ティトゥスへの手紙の続きは,次の記事でご紹介します。

今回は以上です!

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