ショパンの生涯 青年期1826年16歳~1830年20歳

年表
ショパンの生涯-略歴幼少期-青年期-パリ時代サンドとの生活晩年死後

ショパンの生涯 青年期~ワルシャワ音楽院~

1826年:ショパン16歳

◆主な出来事◆

7月に中等学校を卒業。
健康がすぐれないため,父とイザベラを除いた家族4人でドゥシニキに旅行し静養。
音楽学校に通うことを決心し,9月にワルシャワ音楽院に入学。エルスナーに師事する。

◆作品◆

マズルカ 変ロ長調
マズルカ ト長調
ポロネーズ 変ロ短調「別れのポロネーズ」
ロンド・ア・ラ・マズル ヘ長調 Op.5
ドイツ民謡(スイスの少年)による変奏曲 ホ長調
3つのエコセーズ
ワルツ ハ長調
変奏曲 ヘ長調
変奏曲 ニ長調
マズレック 調性不明

◆社会的・芸術的な出来事◆

トルコ軍,ミソロンギを占領。
パナマ会議が開かれる。
シューベルト『死と乙女』
ウエーバー『オベロン』
メンデルスゾーン『真夏の夜の夢』
ウェーバー,ロンドンで死す。

ドゥシニキへの旅行

16歳のショパンは相当な過労に陥っていました。
次第に複雑になる中等学校の学業とピアノ演奏の上に,作曲に対する欲求はますます激しくなるばかりでした。

このころショパンは毎夜更けるまで音楽に精進していました。
ときには寝ついてからも深夜にそっと寝床を抜け出して,頭に浮かぶ楽想をピアノの上で試みることもしばしばでした。

生まれつき虚弱であるのに,音楽への熱意は熾烈なもので,音楽の世界に深く挺身しようする欲求を抑えることはできませんでした。

そのころ,生来虚弱だった末の妹エミリアが,医者から転地を命じられたので,学校が休暇中であったフレデリックも同行させることにしました。
旅行がフレデリックの気分を転換し,健康のためにも効果があることを期待してのことでした

母と姉ルドヴィカ,妹エミリア,フレデリックの4人はシレジア地方のライネルツ(現在のドゥシニキ)に出かけます。

フレデリックはライネルツに滞在中,その地で療養中の母を失って孤児となった子どもたちのために,自発的に慈善音楽会を催し,人々を感動させました。
この慈善音楽会で得た儲けは,葬式の費用と,孤児たちが故郷に帰るための費用として孤児たちに贈られました。

1827年:ショパン17歳

◆主な出来事◆

一家はワルシャワ大学と通りを挟んだ向かいにある,クラシンスキ宮殿の南館に移り住む。
4月に妹のエミリアが亡くなる。結核が死因だといわれている。
9月,音楽院の2年生に進級する。

◆作品◆

マズルカ イ短調
ノクターン ホ短調 Op.72-1
葬送行進曲 Op.72-2
ワルツ 変イ長調
コントルダンス 変ト長調
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲 変ロ長調 Op.2
アンダンテ・ドレンテ 変ロ短調

◆社会的・芸術的な出来事◆

トルコ軍がアテネに侵入。
ロンドン条約締結。
ベートーヴェン,ウィーンで死す。
シューベルト『冬の旅』
ベリーニ『海賊』

妹エミリアの死

3月14日付のショパンの手紙には,妹エミリアが4週間も床について重態であること,喀血をして食欲が全くなく痩せてしまっているのに,医者が2回も瀉血をしたこと,母が怯えていること,家中が重苦しい空気でいることなどが記されています。

瀉血(しゃけつ)

ヨーロッパでは中世から近代まで盛んに行われた治療法で,人体の血液を大量に排出させることで症状の改善ができるとされていました。
19世紀には伝染病などにも広く切開による瀉血が行われていました。

感染症で体力が落ちている患者に繰り返し瀉血を行う結果,体力を消耗させ,死に至るケースも多かったようです。
モーツァルトの死因についても一説では,医師が死の直前に行った瀉血が直接の死因ではないかと言われています。

1827年4月10日,文学的才能に恵まれ,幼くして戯曲や詩を書き,フレデリックに次いでショパン家の神童と呼ばれていた,妹エミリアが14歳の若さで亡くなります。
結核でした。

『ショパンのピアノ』

一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにある,クラジンスキ宮殿に移り住みました。
この場所でも,ショパン家はエリート学生のための寄宿塾の経営を続けました。
ショパンは1830年にワルシャワを後にするまで,ここに住みました。

ここには詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィトが1837年から1839年まで住んでいて,後に1863年の1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して『ショパンのピアノ』という詩を詠んでいます。

また,ショパンが通った床屋は現在博物館として公開されています。
ショパンはその店で幼少期の作品の多くを初演しました。

生涯の親友

ショパン家の営む寄宿塾の寮生の中で,4人がショパンと特に親しくなりました。

  • ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
  • ヤン・ビャウォブウォツキ
  • ヤン・マトゥシンスキ
  • ユリアン・フォンタナ
    の4人です。

同じジヴニーの門下生だったティトゥスとは特に親しく,またマトゥシンスキ,フォンタナとはポーランドを出てからも交流を続けました。

ティトゥスとの同性愛説

生来虚弱だったショパン。
大人になっても体重は45kgだったといいます。

その正反対のように筋骨たくましい友人が,2歳上のティトゥスでした。

ティトゥスは郊外の裕福な地主の子で,学生時代にショパンはティトゥスの実家に頻繁に遊びに出かけています。
学校を卒業してからティトゥスは郷里に帰りますが,その後もショパンとはずっと手紙のやりとりをしていました。

優柔不断なフレデリックの相談に力強く答えてくれるティトゥスは,ショパンにとって頼れる男でした。

ポーランドを発ったあとも,ショパンはティトゥスに頻繁に手紙を送ります。

「口づけしてくれ最愛の友よ」

「僕の気を鎮めるために君の手紙がほしい」

「君にキスをさせてくれ」

その手紙はティトゥスへの熱い思いにあふれていました。

ティトゥスからショパンへの手紙は残念ながら1つも残っていませんが,ショパンと比べると随分冷静な手紙だったということです。

なお,現在ではショパンの同性愛説は否定されています。

「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲

この年作曲の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲は,後にロベルト・シューマンを感動させ,かの有名な「諸君帽子をとりたまえ,天才だ!」の一句を含むショパンの紹介記事を書かせることになります。

1828年:ショパン18歳

◆主な出来事◆

ワルシャワでフンメルのリサイタルを聴き,彼に傾倒する。
夏休み,アンナ・スカルベックの招きに応じ,ストジィジェフを訪れる。また,アントニンにアントニ・ラジヴィウ公を訪ね,滞在する。
9月,初めての国外旅行をし,博物学者のヤロツキと共にベルリンに向かう。2週間滞在する。その間,多くのオペラを観る。
オーケストラ付きの作品を書く。

◆作品◆

ポロネーズ 変ロ長調
Op.71-2 ポロネーズ ヘ短調
Op.71-3 ロンド ハ長調
ロンド ハ長調(4手用)
ソナタ ハ短調 Op.4
ピアノとオーケストラのためのポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 Op.13
ヴァイオリン,チェロ,ピアノのための三重奏曲 ト短調 Op.8
ピアノとオーケストラのための演奏会用ロンド「クラコーヴィアク」 ヘ長調 Op.14

◆社会的・芸術的な出来事◆

ロシア,トルコに宣戦布告。
フランス軍,モレアに遠征。
シューベルト『交響曲 ザ・グレート』
シューベルト,ウィーンで死す。
ロッシーニ『オリー伯爵』
パリ音楽院管弦楽団が組織される。
パガニーニ,イタリア国外の演奏会で成功。

初めての国外旅行

ワルシャワではすでに新進ピアニストとしての名声を獲得し,他の学業をすべてやめて専心音楽に精進している青年フレデリックの将来について,決して裕福ではなかった両親は悩んでいました。

ワルシャワでおよそ学び得る限りのものはすべて学びつくしてしまったフレデリックにとって,もっと音楽の盛んな外国の大都会に行くのは当然なさなければならない,次の段階でした。

そんな中,ベルリンに向かうヤロツキ博士がフレデリックを伴って行くという親切な提案は,ショパン一家に歓迎されます。

ショパンは初めての国外旅行を経験し,より広い世界に活躍の場を広げていくことになります。

ベルリンではスパーレ・スポンティーニの指揮するオペラを鑑賞したり,演奏会を聴きにいったりしました。

カール・フリードリヒ・ツェルターやメンデルスゾーンなど著名人らとも出会い,刺激的で楽しい時を過ごしました。

一説によると,メンデルスゾーンを見かけたショパンですが,奥ゆかしいフレデリックはついに声をかけることができなかったとも言われています。

ショパンはこの2週間ほどの滞在のあいだに,ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』,チマローザの歌劇『秘密の結婚』,ヘンデルの『聖セシリア』を鑑賞しました。

その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれました。

ラジヴィウ公自身も作曲をたしなみ,チェロが弾けました。
またその娘ワンダもピアノが弾けました。

そこでショパンは『序奏と華麗なるポロネーズ Op.3』を二人のために作曲しています。

1829年:ショパン19歳

◆主な出来事◆

コンスタンツィア・グラトコフスカに出会い,夢中になる。
パガニーニの演奏会が,ワルシャワで開かれる。
7月に音楽院を卒業し,友人とウィーンに旅行する。
7月末にウィーンに到着する。
ウィーンでの2回の演奏会(8月11日,18日)で大好評を博し,音楽家として自信を強める。曲目は『演奏会用ロンド クラコーヴィアク』と『ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲』。 ウィーンでは,著名な音楽人と知り合う。 プラハ,ドレスデンを経て,ワルシャワに変える。

◆作品◆

エチュード ヘ長調 Op.10-8
エチュード ヘ短調 Op.10-9
エチュード 変イ長調 Op.10-10
エチュード 変ホ長調 Op.10-11
マズルカ ハ長調 Op.68-1
マズルカ ヘ長調 Op.68-3
マズルカ イ短調 Op.7-2(第1草稿)
マズルカ ニ長調
マズルカ ト長調
ポロネーズ 変ト長調
ワルツ ロ短調 Op.69-2
ワルツ 変ニ長調 Op.70-3
ワルツ ホ長調
ワルツ 変ホ長調
パガニーニの思い出 イ長調
ピアノとチェロのための序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3
歌曲「願い」Op.74-1
歌曲「彼女の好み」Op.74-5
フルートとピアノのための,ロッシーニのオペラ「シンデレラ」の主題による変奏曲 ホ長調

◆社会的・芸術的な出来事◆

ロシア・トルコ戦争が集結し,ギリシャが独立。
アメリカ大統領に,ジャクソンが就任。
イギリスでカトリック教徒解放令。
ロッシーニ『ウィリアム・テル』
バルザック『人間喜劇』を書き始める。
メンデルスゾーン,バッハの『マタイ受難曲』を復活演奏。
ショパンの肖像画

1829年,ポーランドの肖像画家アンブロツィ・ミエロシェフスキがショパン,ショパンの両親,姉ルドヴィカ,妹イザベラの肖像画を描いています。

これらの肖像画は第二次世界大戦で消失しているが,モノクロ写真が残っています。
この肖像画からは,結核に罹っていることが顕著にわかるといいます。

ショパンの初恋

19歳の春を迎えた多感な青年フレデリックに,一つのつつましい恋が芽生えました。

相手はショパンと同じワルシャワ音楽院に通うコンスタンツィア・グラトコフスカでした。
天使の歌声を持つといわれたソプラノ歌手で,ショパンは友人への手紙の中に「僕の理想を発見した」と書いています。

フレデリックは親友にさえ半年もうち明けることができないほど内気でした。

彼女の崇拝者は大勢おり,彼女を巡って決闘騒ぎまであったと言いますが,繊細なショパンは傍観するだけで,心の奥深くで疼いているひそかな思いに焦がれる日々を送ります。

彼女に対する純粋でひたむきな思いは,出口を失ったまま,作品の中に昇華されます。

その代表がピアノ協奏曲Op.21の第二楽章アダージョ,そしてピアノ協奏曲Op.11の第二楽章ラルゲットです。

ワルツ変ニ長調Op.70-3も彼女のことを思いながら作曲されました。

ショパンはティトゥスにまたもやアツイ手紙をかきまくるだけで,結局フレデリックはコンスタンツィアに告白することなくワルシャワを発ちます。

後にコンスタンツィアはオペラ特待生として卒業し,1830年7月24日にはワルシャワ国立歌劇場で主役デヴューしました。

しかし1831年には引退し,資産家の貴族と結婚し,やがて5人の子の母となりました。

彼女は晩年になってから,ショパンの伝記を読んで初めてショパンの気持ちを知り大変驚いたと伝えられています。

ワルシャワに戻ったショパンは,パガニーニの演奏を聴き,昨年リサイタルを聴き傾倒していたフンメルと出会いました。

フンメルはフィールドとともにショパンの作品に大きな影響を与えたと言われています。

ウィーンへ演奏旅行

8月にはついに両親を説き伏せて,ワルシャワ音楽院での3年間の修行の成果を試すべく,3人の友人とともにウィーンへ演奏旅行に赴きます。

ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンの住んだ芸術の都ウィーンに旅立つ夢が実現しました。

ウィーンでの2回の演奏会は大好評となり,華やかなデヴューを飾ります。
ベートーヴェンの弟子で教則本で有名なチェルニーからも大変褒められました。

一方で,彼のピアノからは小さな音しか出なかったという批判もありました。

1830年:ショパン20歳

◆主な出来事◆

3月17日,ワルシャワで公開演奏会を開く。曲目は「ピアノ協奏曲 ヘ短調」。さらに1週間後に,第2回目の演奏会を開く。曲目はピアノ協奏曲ヘ短調に加えて,演奏会用ロンド「クラコーヴィアク」。全て,絶賛を浴びる。
「ピアノ協奏曲 ホ短調」に着手する。
コンスタンツィアへの想いがつのり,悩む。
8月は,ジェラゾヴァ・ヴォーラで過ごす。
10月,ワルシャワで,コンスタンツィアの賛助出演を得て,告別演奏会を開く。曲目は「ピアノ協奏曲 ホ短調」「ポーランドの主題による大幻想曲」他。
11月2日,ワルシャワを発って,ティトゥスと共にウィーンに向かう。これを最後に,2度と祖国へ戻ることはできなかった。途中,ヴロツワフにて演奏会を開く。
11月23日,ウィーンに着く。
11月29日,ワルシャワで革命の火の手が上がり,ただちにティトゥスはワルシャワに引き返す。

◆作品◆

エチュード ハ長調 Op.10-1
エチュード イ短調 Op.10-2
エチュード 変ト長調 Op.10-5
エチュード 変ホ短調 Op.10-6
マズルカ 嬰ヘ短調 Op.6-1
マズルカ 嬰ハ短調 Op.6-2
マズルカ ホ長調 Op.6-3
マズルカ 変ホ短調 Op.6-4
マズルカ 変ロ長調 Op.7-1
マズルカ イ短調 Op.7-2
マズルカ ヘ短調 Op.7-3
マズルカ 変イ長調 Op.7-4
マズルカ ハ長調 Op.7-5(エキエル版ではOp.6-5)
ノクターン 変ロ短調 Op.9-1
ノクターン 変ホ長調 Op.9-2
ノクターン ロ長調 Op.9-3
ノクターン ヘ長調 Op.15-1
ノクターン 嬰ヘ長調 Op.15-2
ノクターン 嬰ハ短調 「レント・コン・グラン・エスプレッショーネ」
ワルツ ホ短調 ワルツ 調性不明
歌曲「酒の歌」Op.74-4
歌曲「消えろ!」Op.74-6
歌曲「使い」Op.74-7
歌曲「つわもの」Op.74-10
歌曲「魔力」
ピアノ協奏曲 ヘ短調 Op.21
ピアノ協奏曲 ホ短調 Op.11
レント 調性不明
ワルツ 調性不明

◆社会的・芸術的な出来事◆

ポーランドで11月蜂起(11月29日)
パリで7月革命。シャルル10世に代わり,ルイ・フィリップが王となる。
ヨーロパ中に,コレラが大流行する。
フランス軍,アルジェを占領。
メンデルスゾーン『交響曲 宗教改革』
ベルリオーズ『幻想交響曲』
スタンダール『赤と黒』
ユゴー『エルナニ』

祖国からの旅立ち

この年,2曲のピアノ協奏曲を完成させ,それぞれショパン自ら初演を飾りました。

各地での演奏会の成功を機に,演奏家・作曲家としてショパンは西ヨーロッパに活躍の場を広げるため,ポーランドを発ちます。

出発前にはコンスタンツィアに会いにいき,手帳に詩を書いてもらっています。

1830年11月2日,指にはコンスタンツィアからの指輪をはめ,祖国の土が入った銀の杯を携え,ショパンは旅立ちます。

2度と祖国の土を踏むことのない運命にあったとは,このときのショパンは気づいていなかったことでしょう。

ショパンは,頼りになる友人ティトゥスとオーストリアに向かいました。

そして約1年と3ヶ月ぶりにウィーンに到着します。
その次にはイタリア行きを望んでいました。

しかし11月29日に11月蜂起が起こります。
ポーランド国民たちは独立への好機だと信じて各地で武器をとりました。

この知らせを受けたフレデリックとティトゥスの心は祖国愛に燃えます。
ティトゥスは戦いに加わるためにポーランドに引き返します。

ショパンもティトゥスに同行しようとしますが,生来体が弱いショパンは同行を断られ,ウィーンに残るように説得されました。

父ニコラスからも,音楽家として祖国に仕えるために,とくに自重するように,との手紙が届きます。

11月蜂起

当時ポーランドはロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアの三国に分割支配されていました。
ワルシャワはロシアの統治下にありました。
ロシアの圧制の中,フランスの7月革命の成功をうけて気運が盛り上がり,ワルシャワ市民が立ち上がったのです。

失意のウィーン

ショパンは一人ウィーンに残ります。

ショパンの中には昨年のウィーンの人々から惜しみなく捧げられた賛美と感動の声がいまだ記憶に新しく,自信と希望に満ちたウィーン訪問でした。

ウィーンの劇場や出版社,芸術家たちが腕を広げて彼の再遊を待ちかねていると信じていました。

しかし実際は,1年以上も前の音楽シーズンからはずれた8月に,心には迫るが静かでつつましい演奏をしただけの若いポーランド人の記憶は,ウィーンの街からすっかりなくなっていました。

加えて,一流ピアニストの来演が重なっていたため,聴衆は無名のピアニストに関心を示しませんでした。

またポーランドの支配者側であるオーストリアのウィーンでは11月蜂起により反ポーランドの風潮が高まっていました。

さらに,当時ウィーンではシュトラウスとランナーによる「ワルツ合戦」と称される激しい競合が盛り上がっており,この影に隠れてショパンは注目を集めることができませんでした。
ショパンは『華麗なる大円舞曲』をウィーンで出版したいと思っていましたが断念することになります。

ショパンは人々の記憶の短さと社会情勢の変化が個人の運命を容赦なく翻弄するはかなさを経験します。

家族の温かい庇護や,恩師や友人たちの愛情の圏外に自ら求めて旅立ったショパンの前に,その後彼の短い一生を通じて彼をつきまとった孤独と悲哀がとうとう現実としてその姿を現しはじめました。

孤独で不安な日々を過ごしいたショパンは,背格好の似た人物をティトゥスだと勘違いして追いかけてしまい,声をかけたら別人だった,ということもありました。

ショパンはウィーンで演奏会を開いたり,曲を出版したり,といった当てがはずれてしまい,失意の中,パリ行きを決断します。

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