最終更新;2022.07.03 ショパン エチュード集 エキエル版 日本語版が発売になっていました!

ショパンの手紙 20才~21才 ~革命,そしてパリ到着まで~

マルチン・ザレスキー『武器庫の奪取』1830年11月29日夜にワルシャワの人々が弾薬庫を占拠した様子が描かれている。 ショパンの手紙
マルチン・ザレスキー『武器庫の奪取』1830年11月29日夜にワルシャワの人々が弾薬庫を占拠した様子が描かれている。
しょくぱん
しょくぱん

ショパンは日記や評論のたぐいは書きませんでした。

ショパンの生涯,人となり,音楽観,思想などを知る上で,ショパンの遺した手紙が重要な資料になります。

ショパンの遺した手紙のいくつかを年代別にまとめていきます。

しょくぱん
しょくぱん

この記事ではショパンがウィーンに到着してから,やがてパリに流れ着くまで,1830年11月23日から1831年9月頃,ショパンが20~21才のときの手紙をご紹介します!

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ショパンの旅路 ワルシャワからウィーン,そしてパリへ

まずは,ショパンが祖国ポーランドを発ってから,パリに流れ着くまでの大まかな流れをまとめておきます。

ショパンの旅路 ワルシャワからウィーン,そしてパリへ
※2022年の地図データ。当時とは国境や国名が変わっている。1830年11月のカレンダーも掲載した。
※2022年の地図データ。当時とは国境や国名が変わっている。1830年11月のカレンダーも掲載した。
※2022年の地図データ。当時とは国境や国名が変わっている。
※2022年の地図データ。当時とは国境や国名が変わっている。
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ショパンの手紙 ~ヤン・マトゥシンスキへの手紙~ [1830.11.22] *贋作?

  • 日付;1830年11月22日 *ショパン20才
  • 宛先;ヤン・マトゥシンスキ
    • ショパンが学生時代に,特に親しかった友人の一人。
      後年,ヤンが結核で苦しみぬいて死んでいく最期を看取っています。
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

愛するヤーシャ!

君の家の住所を知らせてくれたまえ。ぼくに何が起こっているか君は知っているだろうね。ぼくがウィーンにいるのをどんなにか喜んでいることや,興味もありぼくのためにもなるたくさんの知人を作っていることや,ぼくが恋をするかもしれないことを,ぼくは君等の仲間の誰一人のことも考えない。ただルドヴィカが髪の毛で作ってくれた指輪だけを時おり眺めている。遠く離れるほどその指輪は大切なものになっている。ぼくはまた君をワルシャワにいた時よりも,ずっと愛しているんだ。だが君たち一同はぼくを愛していてくれているだろうか。もし君がぼくに手紙を書いてくれないのなら,悪魔よ君を連れていけ! ラドムにいる君に雷を落とせ! そして君の帽子のボタンを砕くといい!

手紙は全部ウィーンに転送するようにプラハで頼んできたのに,今のところ一通も届いていない。ぼくはどうも悪い予感がするんだ。どうかお願いだから危険なことはしないでくれたまえ。もう何度ぼくが無理をしたために困ったか君も知っているだろう。ぼくの体は今度は雨にも溶けまい。あるいは,いや,そうはなるまい。ぼくの体を作る土からは小猫のための小さな小屋ぐらいしかできないだろう。

この野郎! 君は劇場に出かけたんだね。オペラ・グラスを使って色目を使ったね。ご婦人たちの肩の骨に目をとめたね。もしそうなら稲妻が君を撃つとよい。君はぼくの愛情に値しないから。ティトゥスは知っていて,喜んでいる。彼はいつも「彼女」を尊敬して,それを期待していたんだ。いずれ皆お知らせするが,君の家の住所が知りたい。ぼくにキスをして,ぼくの代わりにアルフォンゾ神父を抱擁してくれたまえ。仲間一同にキスを。

手紙の日付が「1830年11月22日」となっていますが,11月21日にはプラハで手紙を書いていますので,11月22日にウィーンに到着するのはほぼ不可能です。正しくは,ウィーンには11月23日に到着したとされています。

翻訳の中には「11月24日」と訂正しているものもあります。

ヤン・マトゥシンスキは,ショパンの他の親友たちと同様に,資産家の子息で,ショパン家の寄宿舎にいたと考えられていました。しかし最近の研究では,ヤン・マトゥシンスキの実家はワルシャワにあり,広大な土地を所有するような資産家ではなく,ショパン家の寄宿生でもなかったとされています。

この手紙ではヤン・マトゥシンスキの実家が「ラドム」であり,この手紙が書かれた当時にはマトゥシンスキは「ラドム」にいた,という設定になっています。
実際は,ワルシャワ蜂起が失敗するまではマトゥシンスキはワルシャワにいた,というのが史実のようです。

手紙の中に「ルドヴィカ(ショパンの姉)が髪の毛で作ってくれた指輪」が登場していますが,そのようなものが存在していた証拠はありません。

このように,この手紙には辻褄の合わない内容が多く,おそらく完全な贋作ではないかと思われます。

ショパン家の寄宿生ではなかったヤン・マトゥシンスキとショパンは,同じワルシャワ高等中学校に通っていたとはいえ,この手紙が書かれたころには,他の親友たちのようには親しくはなかったと考えられます。

二人の仲が深まったのは,1834年にヤン・マトゥシンスキがパリに移住してからだと考えられます。

ヤン・マトゥシンスキがオペラ・グラスでコンスタンツィア・グラドコフスカを眺めたことに,ショパンが嫉妬している,という記述もありますが,これも完全なでっち上げでしょう。

ティトゥスが一緒にいることや,ティトゥスもグラドコフスカからの手紙を期待しているようなことを匂わせる記述がありますが,これもまったくのデタラメでしょう。

前の記事でご紹介しましたが,この旅にティトゥスは同行していなかった可能性が高いですし,ショパンのコンスタンツィア・グラドコフスカへの初恋も捏造であった可能性が高いです。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1830.12.1]

  • 日付;1830年12月1日 *ショパン20才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

皆さんのお手紙を読んでぼくの小さい胸はすごく喜ばされました。お別れしてから4週間目に初めて届いたのですから。おかげで食欲が出ましたので,うまい料理店でシュトゥルーデルとぶどう酒を堪能しました。ティトゥスにもまた家から手紙が来たので喜びは共通だったのです。ツェリンスキーのおかげで封入された手紙は,ぼくを皆さんの腕の中に連れ帰ってくれました。ぼくは,ぼくのピアノの前に座り,ツェリンスキーがその向かい側に立って,ジヴニーがリノフスキーとかぎ煙草をやっているのを眺めている光景を思い描いていました。ただマトゥシンスキが見えないのですが,彼はまだ熱があるのでしょう。

フロイライン,プラーエトカが両親とシュトゥットガルトにいて,この冬のあいだは帰ってこないだろう,とのことです。このニュースはハスリンガーに聞いたのです。彼は親切にぼくを迎えてはくれましたが,ソナタ第二変奏曲も,まだ印刷していません。ティトゥスとぼくが住居ができて落ち着いたら,彼に胡椒をかけてやりましょう。われわれはコールマルクト通りに家を契約しました。3階3部屋ですが,晴れやかで心地よくしゃれた家具付きで家賃は安いです。ぼくの分担は25フローリンです。イギリス人の提督の夫人がまだその家にいますが,今日明日のうちに引っ越すでしょう。男爵夫人で未亡人で綺麗でまだ割合に若く,ポーランドに住んでいたことがあり,ワルシャワでぼくのことを耳にしたと言っています。このような尊敬すべき淑女は25フローリン以上の価値があります。彼女はポーランド人を好む敏感な人柄なのです。

引っ越しが済めばグラフがピアノを1台届けてくれるでしょう。ヴュルフェルはぼくに会うなり,音楽会をやると言い出しました。彼は体調が悪く,外出せずに自宅で教えているだけです。肺から出血し,それがひどく衰弱させています。けれども彼は何も言ってきませんし,知る好奇心もありません。当地の新聞がぼくのヘ短調について多く書いたから,と言って演奏会をせよと何度も言ってきます。

ぼくは演奏会をやります。しかし日程も場所も曲目もまだわかりません。まだ大使館にも,誰もが敬意を表すルゼフスカ夫人にも顔を出せていません。彼女はフサジェフスキー家の近くに住んでいます。彼女もヴェルフェルのように無報酬で弾いてはならないと忠告してくれました。マルファッティはまるで従弟のようにぼくを親切に迎えてくれました。必要な紹介状を書いてくださるそうですし,宮廷は今,ナポリ王の喪中なので彼も期待はしていませんが,宮廷の方も試みてくださるそうです。

ぼくがすでに訪問したツェルニーは「よく勉強しているかね?」と尋ねました。彼はまた何かの序曲を16人の演奏による8台のピアノ用に編曲してご満悦です。その他は特筆すべきピアニストにまだ会っていません。

一昨日ぼくはスタメッツに行きました。彼らは金の用件で来る誰にでも対するようにぼくを迎えて,滞在許可証を得られるように警察へのカードをくれました。その日ぼくはティトゥスが彼の6,000フローリンを預けたガイミュラーにも行きました。彼はぼくの名を見ると,あとは読みもしないで「あなたのような芸術家に会えて嬉しいが,当地には良いピアニストが多いから,演奏会はすすめられない。成功するには非常な名声が必要だ」といい「今は時期が悪いから何の援助もできない」と結びました。ぼくは開いた口がふさがらず,それをみな飲み込まねばなりませんでした。長談義が終わるとぼくはまだ当地の貴族の方々を訪問してないし,コンスタンチン大公から紹介状を頂いている大使さえも訪ねていないのだから,演奏会をするだけの価値があるかどうか分からないのです,と彼に言いました。これは彼の目を見張らせましたので,ぼくは仕事の邪魔をした詫びを言って立ち去ったのです。

ぼくはラジャック夫人もエルカン夫人も,またロスチャイルド家にもフォーグド家にも,その他まだまだ多くの人を訪ねておりません。今日は大使館に出かけます。一昨日銀行で受け取ったお金には,まだ手を付けていません。大切にしたいと考えていますが,もし演奏会が何も残さなかったならば,イタリアへの旅費として今月末に少しばかりいただければ嬉しく思います。

劇場に何よりもかかりますが,後悔はしません。今週は3つの新しい歌劇を観ました。昨日は「フラ・ディアボロ」を上演し,その前はモーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」,そして今日は「ウィリアム・テル」です。ぼくはラフォントの伴奏をしているオルオフスキーを羨ましいとは思いません。そのうち,ラフォントがぼくの伴奏をするときが来るでしょう。他に,昼食後はグラフの店へ毎日ピアノを弾きに出かけ,旅行で硬くなった指をならしています。

今週は音楽会の準備をしないまま過ぎてしまいました。どちらの協奏曲を弾きましょうか。ヴュルフェルはヘ短調は最近ハスリンガーが出版したフンメルの変イ長調よりも良いと言っています。ハスリンガーは狡猾で,ぼくに作品を無償でわたさせようと,ぼくを丁寧にしかし軽くあしらおうとしています。彼がぼくの変奏曲に支払いはなかったことを,クレンゲルは驚いていました。「無料」はもう終わりです。

みなぼくが太ったと言っています。ぼくは健康です。

ぼくは神様とマルファッティを信じています。

マルチン・ザレスキー『武器庫の奪取』1830年11月29日夜にワルシャワの人々が弾薬庫を占拠した様子が描かれている。
マルチン・ザレスキー『武器庫の奪取』1830年11月29日夜にワルシャワの人々が弾薬庫を占拠した様子が描かれている。

18世紀,ポーランド・リトアニア共和国の領土は3度にわたって周囲の3つの大国,プロイセン,ロシア,オーストリア(ハプスブルク帝国)に奪われ,いったんは完全に領土を失いポーランドは滅亡しました。
19世紀に入って,ナポレオン戦争の結果ワルシャワ公国が建国されましたが,ウィーン会議により消滅し,再び3つの大国によって分割統治されていました。ワルシャワはロシアの統治下にありました。

ロシアの圧制の中,フランスの7月革命の成功をうけて気運が盛り上がります。

1830年11月29日,若い士官学校の生徒たちが陰謀を計画。コンスタンチン大公の居所であるベルヴェデル宮殿を襲撃します。結果,コンスタンチン大公は宮殿を脱出し,反乱者はワルシャワ市中心にある武器庫を奪い,翌日にはワルシャワ市民がロシア軍を北方へと撤退させました。

その数日後に書かれたこの手紙は,なんとも呑気な文面に思えます。
それはそのはずで,当時の郵便通信事情を考えると,ワルシャワ蜂起の報せがウィーンへ届くには,少なくとも1週間程度かかったはずです。

12月1日,この手紙を書いていたショパンは,まさかワルシャワで革命事件が起きているなど,知る由もなかったのです。

「コンスタンチン大公からの紹介状」を誇示して得意げに振る舞っている様子も書かれていて,
この手紙が数日後,戦火の真っ只中にあるワルシャワの家族の許に届いたことを考えると,手紙を書いたフレデリックの心中を察するものがあります。


この手紙にはティトゥスの名前が度々出てきますが,これまでの手紙同様に捏造である可能性が高いです。

多くの伝記では,この手紙を書いた数日後にはワルシャワ蜂起の報せが届き,報せを受けたティトゥスは愛国心を燃やしてすぐにワルシャワへ向かったと書かれています。

ショパンもティトゥスに同行しようとしますが,生来身体が弱いショパンはティトゥスに説得され,ウィーンに残ります。

その後,特別郵便馬車でティトゥスを追いかけますが,追いつくことができず,断念して一人ウィーンへ戻りました。

・・・というように伝記には書かれています。

1860年ごろからポーランド再興の指導者となったティトゥスが,ポーランドへの愛国心を示すために創られた物語のクライマックスといえるでしょう。

後日,父ニコラスから「音楽家として祖国に仕えるために,とくに自重するように」との手紙が届いたとされています。


文中にいくつかショパンの作品が登場しています。

ソナタ」とは「ピアノソナタ第1番 ハ短調 Op.4」のこと,
第二変奏曲」は「ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲 ホ長調 BI 14」のことで,
変奏曲」は「ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲 変ロ長調 Op.2」のことです。

ピアノソナタ第1番ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲は,1829年にハスリンガーの許へ原稿が送られていましたが,いつまで経っても出版されずにいました。

唯一「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲だけは1830年に,ヨーロッパの主要国で初めて出版されていました。しかし出版者のハスリンガーは1文たりとも支払っていませんでした。

無名の新人作曲家の作品であったこと,できれば引き続き無償で出版したいと考えていたこと,などが重なり,結局ピアノソナタ第1番ドイツ民謡「スイスの少年」による変奏曲の2曲は長い間出版されることがなく,結局はショパンの死後1851年に出版されています。

特にピアノソナタ第1番は,Op.4と作品番号がつけられ,献呈までされているのに,生前に出版されなかった唯一の作品となりました。

ヘ短調」は「ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21」のことです。
2曲あるピアノ協奏曲のうち,先に書かれたヘ短調の協奏曲の方が出版が後になったため,一般にピアノ協奏曲「第2番」と呼ばれています。
「第2番」呼ばれていますが「第1番」よりも前に作曲されています。

このときすでに,より完成度の高い「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11」が完成していて,ワルシャワにて1830年10月11日の告別演奏会で初演もされていました。

しかしホ短調の協奏曲はポーランド国外では未発表のため,ウィーンの人々には「ヘ短調の協奏曲」しか知られていませんでした。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1830.12.22]

  • 日付;1830年12月22日 クリスマス前の水曜日 *ショパン20才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

昨日は皆さんと別れて7週間になります。ちょうどぼくがウォーラに出発した同じ時刻に,ワイベルハイム家のダンスに出かけました。そこには眉目麗しい若い人々があふれていました。一同は,ぼくが踊ることを望んで,コティロンに加わるように薦められたので,少しばかり踊ってから帰宅しました。女主人と如才ない令嬢がその夜のために,音楽界の多くの人物を招いておりましたが,ぼくは気がむかなかったので弾きませんでした。ルドヴィカが知っているクリト氏を彼女が紹介してくれましたが,親切な礼儀正しいドイツ人で,何か偉大なもののようにぼくを扱うものですから,ぼくは気分の乗らない演奏で彼を幻滅させたくなかったのです。

昨日の朝フンメルが息子とともにぼくを訪ねてきました。息子の方はぼくの肖像画の仕上げをしていますが,絵はそれはそれはよく似ています。ぼくは部屋着を着て椅子に座り,霊感に満ちた表情をしています。パステルで描かれていて銅版画のように見えます。老フンメルは親切そのものです。昔の有名な踊り手で今はケルトナー劇場の支配人であるデュポール氏と友人なので,昨日ぼくを紹介してくれました。デュポール氏はケチな人だといわれていますが,丁寧にぼくを迎えてくれました。きっとぼくが無報酬で弾くと思っているのでしょうが,それは彼の誤算です。もしもあまり安い提案をしたら,ぼくは演奏会を広い大会場でやりましょう。

ヴュルフェルは快方に向かいました。先週彼の家でまだ若く,せいぜい26才ぐらいでしょうか,立派なヴァイオリニストのスラヴィックに会って,彼が非常に好きになりました。帰り道が一緒になり「真っ直ぐに帰宅するのか?」と尋ねるので「そうです」と答えると,「では,ぼくと一緒に君の同国人のバイエル夫人の許に行こう」ということになりました。クラシェフスキーがドレスデンからバイエル家への紹介状をくれていたのですが,住所もわからずウィーンには何千ものバイエル家があるから困っていたのです。そこでぼくはスラヴィックに「よろしい,まず手紙をとってきましょう」と答えました。それが同じ婦人だったのです。ご主人はオデッサから来たポーランド人で,夫人はぼくのことを聞いていたらしく,ぼくらを午餐によんでくれました。スラヴィックが弾きましたが,パガニーニの次にぼくは誰よりも彼の演奏が気に入りました。彼もまたぼくに興味をもったので,僕らはピアノとヴァイオリンの二重奏曲を合作することに一致しました。彼は真の天才に恵まれヴァイオリニストです。昨日は,来週の月曜の夜催される音学家のみの集まりにぼくを招待してくれたディアベリ家を訪問し,ツェルニーに会いました。

ぼくが今4階に住んでます。ぼくの快適な住居について,前に住んでいた人から聞いたイギリス人たちが,その中の一室を見る名目でやってきて,3部屋とも非常に気に入り,早速ぼくに諦め料として嬉しいことに月額80フローリンを提供したのでした。親切な女主人のラハマノウィッツ男爵夫人は4階にも同じような貸間を持っていて,見せてくれたのでそれに決めて,今ではあたかも1ヶ月70フローリン払っているように,10フローリンで住んでいるわけです。哀れなぼくが屋根裏にでも住んでいるとご心配でしょうが,どうして上には5階があり,その上は屋根だけです。そしてポケットの中には60フローリンが入ってきます。人々が訪ねてくるし,ラサジェフスキーは階段全部を上がって来なければなりませんが,この街はウイーンの中央にあって,すべてに近いのです。目の下には美しい歩道,アルタリアは左側,ハスリンガーは右側で,劇場は後側です。これ以上何を望みましょう。

ニデツキーは毎朝ぼくのところに弾きにやってきます。ぼくが2台のピアノ用の協奏曲を書いたら,一緒に公開演奏をするつもりです。ハスリンガーは依然として丁寧だが沈黙しています。これからイタリアに出かけたものか,ぼくには分かりません。どうかそのことについて手紙をください。お母様はぼくが遠方に来ているのを悦んでおいでですが,ぼくは悦んでいません。ぼくにはそちらにいる方がどんなにいい事か。家から手紙を受け取るときどんなに楽しいか皆さんには思いも及ばないでしょう。郵便はなぜこんなに遅いのだろう。皆さんのことをとても心配しています。ぼくは当地でケスラーの友人でライベンフロストという大変に気持ちの良い少年と知り合いになりました。どこにも招かれていないときには,街で彼と食事をします。ウィーン中をよく知っていて,特に見るべき所には伴ってくれます。たとえば昨日はバスタイに気持ちの良い遠足をしました。貴族的な衣裳をつけた王室の大公たち。一口に言って全ウィーンです。ぼくはここにいることを悦んでいますが,一方では・・・

この部屋はなんと気持ちがよいことでしょう。向かい側は屋根で眼下にはピグミーのような人々,楽しいときは,グラフの重いピアノを弾き終わって,皆さんの手紙を手に床にはいるときです。そして眠っているときでさえ,ぼくは貴方がたの夢だけしか見ません。

昨日バイエル家でマズルカを踊りました。スラヴィックが羊になって床に寝て,大きい鼻の伯爵夫人が,古典的な作法で2本の指先でスカートを優美につまみ,首の骨が飛び出すほどに顔をじっと向けながら,細い足で一種の奇妙なワルツを踊りました。数限りないウィーンの快楽の中でも,ホテルの夜宴は有名です。晩餐の間シュトラウスかランナーがワルツを演奏し,1曲ごとに盛んな拍手を浴びせられます。そして彼らがクォードリベットや歌劇の抜粋曲や,歌や舞曲をやりだすと,聴き手は有頂天になって,どうしてよいかわからなくなります。これはウィーンの大衆の堕落した趣味を示しています。

ぼくが作曲したワルツをお送りしたかったのですが,もう遅くなりましたから,いずれお送りしましょう。マズルカはまだ写していないのでお送りしませんが,踊るためのマズルカではありません

フォンタナにお会いでしたら,彼に手紙を書くとお伝えください。

この手紙は何日もかかって書き上げられたものだとされています。

ウィーンでの生活を知らせる手紙は,相変わらず明るい調子で書かれています。
しかし,ウィーンに到着したショパンは失意の中にあったと想像できます。

ショパンの中には,昨年のウィーンの人々から惜しみなく捧げられた賛美と感動の声がいまだ記憶に新しく,自信と希望に満ちたウィーン訪問でした。

ウィーンの劇場や出版社,芸術家たちが腕を広げて彼の再遊を待ちかねていると信じていました。

しかし実際は,1年以上も前の音楽シーズンからはずれた8月に,心には迫るが静かでつつましい演奏をしただけの若いポーランド人の記憶は,ウィーンの街からすっかりなくなっていました。

一つ前の手紙に書かれていた銀行家の言葉からも分かるように,音楽の都ウィーンには一流ピアニストの来演が重なっていて,無名のピアニストに関心を示しませんでした。

当時ウィーンではシュトラウスとランナーによる「ワルツ合戦」と称される激しい競合が盛り上がっており,この影に隠れてショパンは注目を集めることができませんでした。

昨年と同じ様に「無償で」なら,演奏会もできるでしょうし,作品も出版されるでしょう。
しかし「プロ」としてきちんと報酬を受け取ることができるような仕事は一つもありません。

「プロ」として自覚を持ったとたん,作品はいつまでも出版されず,演奏会を開く目処も立ちません。

しかし革命の戦火にある家族を余計に心配させるようなことは書けません。

このままウィーンで音楽家として自立することができなかったとき,戦火にある祖国ポーランドに戻ることはできず,父からの仕送りでこれ以上負担をかけるのも申し訳なく,途方に暮れるような状況だったことでしょう。


手紙に書かれているワルツがどのワルツなのか特定はできません。

ショパンはウィーンでの大衆ウケを狙って「華麗なる大円舞曲 変ホ長調 Op.18」を書き始めていたと考えられます。
その草稿を送るつもりだったのかもしれません。

華麗なる大円舞曲 変ホ長調 Op.18
華麗なる大円舞曲 変ホ長調 Op.18

マズルカと書かれているのは,Op.6とOp.7のマズルカのうちのどれかだと思われます。

いずれも出版はショパンがパリに到着してからになりますが,そのうちのいくつかはポーランド時代から温めてきた作品だと考えられます。

マズルカ 変ロ長調 Op.7-1は出版直後から人気のあった作品で,舞踏会でOp.7-1に合わせて踊るということもあったようですが「(ショパンの作曲したマズルカは)踊るためのマズルカではありません」と書かれていますね。

マズルカ 変ロ長調 Op.7-1
マズルカ 変ロ長調 Op.7-1
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ショパンの手紙 ~ヤン・マトゥシンスキへの手紙~ [183012.25] *贋作?

  • 日付;1830年12月25日 *ショパン20才
  • 宛先;ヤン・マトゥシンスキ
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

最愛のヤーシャ!

ぼくは今スラヴィックの家から帰ってきたところだ。パガニーニ以来彼ほどの演奏を聴いたことがない。一弓で69音のスタッカートを鳴らすことができる。信じ難いことだ。そこでぼくはピアノが恋しくなり,ベートーヴェンのアダージョによる変奏曲をスケッチするため急いで帰宅したのだが,途中郵便局に一歩立ち寄るとぼくの気分は一変した。ピアノの上にこばれるはずの涙が,君の手紙を湿した。ぼくは手紙に飢えていたんだよ。ぼくの手紙は君にとって何でもないだろう。君けれども,ぼくはいつまでも君の手紙を繰り返し読んでいる。プレイエルは度々ぼくに会いに来てくれた。ぼくが見せた君の手紙の一部分,ぼくを悲しませたある部分に大変興味を持っていた。全く少しの変化もないのだろうか。彼女は病気にならなかったのかしら。あのような敏感な人のことだからあり得ることと,ぼくには容易に信じられるのだが。そうは思わないか? あるいは29日の恐怖からだろうか。彼女の気持ちを静めて,ぼくの力の続く限りは,ぼくの死ぬ日まで,否,死んだ後にさえも,ぼくの灰が彼女の足許に撒き散らされるだろうと告げてほしい。何とでも言いたまえ。ぼくも書くから。こんなにも長い騒乱にならなかったら,ずっと以前に手紙を書いただろうに。もしも何かの機会にぼくの手紙が他人の手に入ると,彼女の評判を傷つけることになるから,君が仲介者になってくれた方がよい。君の手紙の一節は危うくぼくを殺すところだったんだよ。ぼくが君の手紙を読みながら一緒に道を歩いていたドイツ人が,危うくぼくを腕で支えてくれたが,ぼくに何が起こったのか彼には解からない。ぼくは通りすがりの人々をとらえて抱擁しキスしたかった。かつて感じたことがないような気持ちになったのだ。なぜなら最初の手紙だったから。ヤーシャ! ぼくは君を愚かな熱情で退屈させているかな。

昨日ぼくはバイエルと呼ばれるポーランド婦人と食事をした。コンスタンツィアという名だ。ぼくは追憶のためにそこを訪ねるのを好んでいる。楽譜,ハンカチ,ナフキンのすべてに彼女の名が付いている。ぼくはそこにスラヴィックと行く。彼女は彼に夢中なのだ。一昨日は朝も午後からもずっと演奏して,クリスマスの夜だったし,春のようによく晴れた日だったので,ぼくらは夜になって暇を告げた。スラヴィックと別れてから,ぼくはただ独りぶらぶら歩いて聖シュテファン教会に入った。人っ子一人いなかった。ミサを聴くためでなく,その時刻にあの巨大な建物を見たいと思ったこらだ。ぼくはゴシック式の柱の下の最も暗い隅に立った。あの巨大な天井の大きさと壮麗さは,とうていぼくに描きつくせない。あたりは静かだった。祭壇の後ろのろうそくを灯す聖器監守人の足音が,時おり恍惚としているぼくの耳に響くばかりだ。後ろにも棺があり,ぼくの立つ下にも棺があり,ただぼくの上にだけ棺がない。そしてあたり一面の物悲しい調和。ぼくはその時ほどにぼくの孤独をはっきりと感じたことはない。人々や灯火が見えだすまでぼくはこの壮大な光景の中にひたっていた。それからぼくはコートの襟を立てて帝室礼拝堂の音楽を聴きに行った。今度は一人ではなく,大勢の陽気な群衆とウィーンの繁華街を歩いて王城に着き,そこで3曲あまり,良くないミサが眠そうに歌われるのを聴いて,夜中の1時に帰った。その夜ぼくは君の夢を見た。君たち全部の夢を。

翌朝はポーランドの銀行家のエルカン夫人の招待状で目が覚めた。起きるとぼくは悲しい気持ちでピアノを触った。午餐にはマルファッティ家に出かけた。マルファッティ博士は察しがよくて,ぼくらが食事に行くとポーランド料理を用意してくれる。食後有名なテナー歌手のワイルドが訪ねてきた。ぼくは記憶をたどって「オセロ」のレシタティーボを伴奏したが,彼は名人のように歌った。彼とハイネフェッターが当地の歌劇場を支えている。ハイネフェッター嬢は情緒に全く乏しい。声は稀に聞くほどのものだし,すべて上手く歌われ,1音ごとに正確に出されており,純粋で,しなやかで,よく伸びる声なのに。舞台近くで聴いていると,鼻がしもやけになりそうなほど冷たいのだ。私生活の彼女は美しい。

しかしぼくはどうするのが良いのだろうか。パリへ行こうか? 当地の人はしばらく待てと言う。帰郷か? 当地にとどまるか? 自殺か? どうしたらよいか忠告してくれたまえ。来月もここにいるから,君が出発する前に手紙がほしい。そして出発の前にはどうかぼくの両親とコンスタンツィアを訪ねてもらいたい。君がいる間どうかぼくの代わりを勤めてくれたまえ。しばしば訪ねてぼくの姉妹たちにも会い,君がぼくを訪ねて来た人でぼくが隣室にいるように思わしてやってほしい。

ぼくは自分の音楽会のことは考えていない。タールベルグは見事に演奏するが,ぼくの好みではない。彼はぼくよりも若くて淑女たちに人気があり,「物言わぬ娘」から編曲を作り,フォルテとピアノを手でなくペダルで表現し,ぼくがオクターブを弾くように容易に10度に届く。シャツにダイアモンドのボタンをしている。モシェレスさえ賞賛しないのだから,ぼくの協奏曲のトゥッティだけしか彼を喜ばせなかったのを驚いてはいけないよ。彼もまた協奏曲を書いているのだ。

ぼくは今この手紙を3日目にようやく書き上げようとしている。今日ぼくはイタリア料理店で「ポーランド人を創ったのは,神様の唯一の失敗だった!」と言っているのを聞いた。あるフランス人の腸詰め屋が当地に来た。彼の気の利いた店の前は客が群がっていた。常にフランス人を眺める何かの理由があったのだ。ある人はフランス革命の結果だと考えて,テーブル掛の上の腸詰めを同情して見ている。またある人はオーストリアにも十分豚があるのに,フランスの謀反人にハム店を許可する必要はないと憤慨している。もしも暴動が起きたら,このフランス人が原因だろうと恐れられている。もうやめよう。ヤーシャ,ぼくは君にキスをする。君の手紙がほしい。ぼくの両親に手紙が届いたことを伝えてほしい。しかし手紙は見せないこと。

ぼくはまだ懐かしいヤーシャと別れられない。当地のぼくの生活について書いておくよ。ぼくは4階に住んでいる。ぼくの部屋は,若いフンメルが絵に描いているから帰宅したらお見せするが,広くて居心地がよい。窓が3つあり,ベッドは窓の真向かい側,右手に立派なパンタレオン,左手に長椅子,窓の間に鏡があって,部屋の中央には見事な大きなマホガニーの円いテーブルがある。床は磨かれた寄木張りだ。朝は馬鹿な使用人に起こされる。コーヒーを飲み,ピアノを弾き,朝食を食べる。9時ごろにドイツ語の教師がやってきて,その後はまたピアノを弾く。フンメルはぼくを描いているし,ニデツキーはぼくの協奏曲を学びにやってくるが,すべては正午まで部屋着で行われる。その後は感心なドイツ人が来るので,天気が良ければ街の周りの堤防を歩きにでかける。食事に招かれていないときには,学生の行く料理屋に昼食を食べに出かける。食後には高級なコーヒー店でコーヒーを飲む。当地の風習なのだ。それから人を訪問して夕闇のころに帰宅する。髪をカールし,靴をかえて夜の外出をする。10時,11時,ときには12時ごろに,決してそれよりは遅くならないが,帰ってくる。ピアノを弾き,泣き,読み,笑って,寝床に入り,灯を消す。そして誰かの夢を見る。

聖シュテファン教会
聖シュテファン教会
1830年12月のカレンダー
1830年12月のカレンダー

手紙の日付ですが翻訳によって「クリスマス,月曜朝」となっているものや「日曜日,クリスマスの朝」となっているものがあります。

郵便馬車の事情からウィーンでは,ショパンは水曜日と土曜日に手紙を書いています

この手紙,もしくは,この手紙の元となったものが存在していたとしても,12月25日土曜日に書いたはずだと考えられます。


翻訳によっては内容がもっと肉付けされ,
ヤン・マトゥシンスキを通して,ショパンとコンスタンツィア・グラドコフスカが文通をしている設定を明確に表現したものや,
ティトゥスがいなくなってしまった寂しさと不安を書いているものがあります。

グラドコフスカへ贈るための肖像画を書いてもらっている,とか,ポーランドへ戻るべきか否かグラドコフスカに聞いてほしい,と書いてある翻訳もあります。

やはりこの時期に,ウィーンからヤン・マトゥシンスキへ送られた手紙は完全な贋作ではないかと思われます。

ただし,最初から最後まで全部が捏造というわけではなく,手紙の翻訳者が,他の実在する手紙からいくつかの部分を削除して流用している可能性はあります。

レストランでウィーンの市民がポーランド人やフランス人を中傷したり警戒したりしている様子はリアリティーがあります。

逆に,使用人やドイツ語教師を雇うような金銭的余裕があったはずがなく,明らかな捏造です。

ショパンが贅沢な暮らしをするようになるのは,パリに着いて,名家の夫人や令嬢へのピアノレッスンの仕事が引く手数多あまたとなってからです。

また,教養豊かなショパン家では,家族みな語学も長けていました。
ドイツ語も,母ユスティナ以外家族全員が堪能だったとのことです。

ですので,ドイツ語の教師を雇う必要などありませんでした。

また,パリに行く考えを持っていたように書かれていますが,1830年12月1日と1830年12月22日の家族宛ての手紙に書かれているように,このときショパンはイタリア行きを考えていたはずです。

まるでパリに流れ着くことを予見しているような内容で,これも捏造でしょう。

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ショパンの手紙 ~ヤン・マトゥシンスキへの手紙~ [1831.1.1] *贋作?

  • 日付;1831年1月1日 *ショパン20才
  • 宛先;ヤン・マトゥシンスキ
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

12月12日付の手紙が届いた。良き友よ,君は君の欲したものを持っている。ぼくは,ぼくの為すことを知らない。ぼくは生命よりも君を愛している。手紙を書いてくれたまえ。君が軍隊に入るとは。彼女はラドムにいるのだろうか。君は塹壕を掘ったのかい? 気の毒なわれわれの親たち。ぼくの友人たちは何をしている。ぼくは君たちと共に行き,君たちのために死んでも良い。何故ぼくだけ一人でいるのだろうか。君のフルートにも何か叫ぶことがあるだろうが,まずピアノが叫ばねばならない。君は出発するという。どうして君は思い切れるのだろう。気をつけてくれ。ぼくにキスをくれないか。もし彼地が静穏なら今月中に,ぼくはおそらくパリに行くだろう。

今日は元旦だ。なんとぼくは悲しく新年を迎えたことだろう。あるいは今年は行きて終われないかもしれない。ぼくを抱擁してくれないか。君は戦争に出かける。大佐になって帰りたまえ。君たち一同の幸運を祈る。ぼくは何故太鼓さえも叩けないのだろうか。

他のヤン・マトゥシンスキ宛ての手紙と同じく贋作だと思われます。

1830年11月22日付けの手紙と同様に,ヤン・マトゥシンスキの故郷がラドムであるという設定になっていますが,既にご説明した通り,これは事実ではありません。

マトゥシンスキが故郷であるラドムにいるという設定で,彼女(コンスタンツィア・グラドコフスカ)もラドムにいるのだろうか,と書いています。
完全な捏造です。

一つ前の手紙と同じく「おそらくパリに行くだろう」と,パリに行く考えを持っているように書かれていますが,これも捏造です。

「君は戦争に出かける」と書かれていますが,ロシアに検閲されることが分かっているのに,こんな不穏当なことを書くわけがありません。

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ショパンの手紙 ~エルスナーへの手紙~ [1831.1.29]

  • 日付;1831年1月29日 *ショパン20才
  • 宛先;エルスナー
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

出発に際していただいた先生のご厚情の証しをたくさん持つ私が,ウィーンに到着直後早速お便りするべきところを,先生から先に頂戴したことを恥ずかしく存じます。両親が私のつまらぬ日常については,きっとお伝えしているでしょうから,何か確定的なことがご報告できるまで筆をとることができませんでした。けれども11月29日の事件を知った日から,暗澹たる心懸りと悲嘆ばかりで,マルファッティが芸術家というものはすべて地球人だと,私を説得しようとしますが,何の役にも立ちません。そうであったにしろ芸術家としての私はまだゆりかごの中にいますが,ポーランド人としては二十歳を越えました。ですから私がより大人としての感情に支配されて,演奏会の準備を考えることができていないことを,お叱りくださらぬようにお願い申し上げます。

今では私の道の困難さも,あらゆる点ではるかに大きくなりました。ワルシャワで勃発した事件は私の立場を変えてしまったのです。しかし私は何とかなるものと望みをつないでおりまして,謝肉祭の期間に第一協奏曲をやりたいと思っております。親切なヴェルフェルはまだ病気ですが,度々会っています。彼はいつも先生のことを話しております。もちろん歌劇はすばらしいのでが,デュポールが歌劇より財布の心配をして,新作をあまり上演しないのは遺憾なことです。

先生の四重奏につきましてはツェルニーが聖ヨーゼフの日までには出来上がると真面目に誓いました。シューベルトの作品の出版をしていて,そのうちのまだ多くが印刷されるのを待っているので,取りかかれないのだそうです。これはおそらく先生の二番目の原稿の出版も遅らせることでしょう。私がただいままで観察したところでは,ツェルニーは当地の裕福な出版者ではありませんからレストランで演奏できない種類の作品には大胆にお金を費やすことができないのです。当地ではワルツも作品と呼ばれています。そして踊りのために第一ヴァイオリンを弾くシュトラウスやランナーが指揮者と呼ばれています。誰でもがそう思っているわけではなく,事実,たいていの人は笑っているのですが,ワルツだけが印刷されるのです。

私はメッケッティーの方が大胆な企画をするように思いますし,教会音楽の良い作品の出版を望んでおりますから,先生のミサ曲について交渉しやすいことでしょう。今日はメッケッティーと食事をしますから,本気で話をして早速お便りいたします。ハスリンガーは今フンメルの最新のミサ曲を出版するところです。彼はフンメルにばかり頼っておりますものの,高い報酬を払わねばならなかった最近の作品は,売れ行きがよくないようです。原稿全部を手控えてシュトラウスばかり刷っているのはそのためです。ニデツキーが私の第ニ協奏曲を勉強したのは,彼の希望によります。ウィーンを去る前に彼が公開演奏をしなくてはならないことがわかっていますが,綺麗な変奏曲の他に彼の自信作がないので,私の作品を,と頼んできたのです。きっと彼は自分で先生にお話するでしょう。私は彼の序曲を私の会で演奏したいと思っています。シュミットのように先生の名誉を傷つけぬ限り,先生は私ともに満足していただけることでしょう。この人はフランクフルトからのピアニストで,当地で天狗の鼻をへし折られたところです。

ご家族ご一同に私の尊敬をお伝えください。そして永遠に変わらぬ私の敬意をお納めください。

第一協奏曲は「ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調 Op.21」のこと,
第ニ協奏曲は「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11」のことを指します。


手紙の日付は1月26日となっている翻訳もあります。

11月29日の事件」のところを「憎きロシア兵による祖国での恐ろしい出来事」と書いていたり,
ポーランド人としては二十歳を越えました」のところを「ポーランド人として兵士を務める義務があります」と書いていたりする翻訳もあります。

このように,ポーランドへの愛国心を過剰に表現している翻訳が多く,まるでショパンが好戦的で過激な主義思想を持った人物のように描かれていることが多いです。

しかしショパンの人となりを深く知っていくと,ショパンが争いや暴力の苦手な性格であることは明らかです。


ワルシャワで勃発した事件は私の立場を変えてしまった」と書かれています。

ショパンがポーランドを飛び立ってウィーンの地に立っているのは,スカルベック家やモリオール家など,コンスタンチン大公とつながっている名家が後ろ盾となっていたからです。

そしてショパンの手には,ロシア大公であるコンスタンチンからの紹介状がありました。
また,15才のとき,ロシア皇帝アレクサンドル1世から褒美として下賜されたダイヤの指輪を大切にしていました。

多くの上流階級の人々と同様にショパンにとっても,ロシアの貴族は決して敵などではなく,大切なパトロンだったのです。

そんな中,一部の過激な思想を持つ青年将校たちの暴挙によって,ロシア軍と交戦状態になってしまいます。

11月29日の蜂起の直後,後年ショパンと親交を深めたチャルトリスキ公などはコンスタンチン大公と交渉の末,攻撃者を赦し事態を平和裏に解決するつもりだ,との言葉を頂いています。

しかし急進派は和解を是とせず12月13日には「市民蜂起」が宣言され,翌年1831年の1月29日にはチャルトリスキ公を首班とする「国民政府」が樹立されてしまいます。

オーストリアはロシア,プロイセンとともに,ポーランドを分割統治していた支配者側の国です。

反旗を翻したポーランド人の新人ピアニストが,ロシア大公の紹介状を手に音楽家として活動しようとしても,上手くいくはずがありません。

ショパンは元々,偏った政治思想を持つ人物ではありませんでした。
ショパンにとって,同郷であるポーランド市民たちも,暖かい支援をくださるコンスタンチン大公も,どちらも大切な人たちだったのです。

ほんの数ヶ月前まで平和だったのに,突如愛する人たちが争いを始め,そのことによってショパンは立場を失い,ウィーンで音楽家として華々しくデビューする計画は破綻します。

遠く離れた土地で,愛する人々の無事を祈ることしかできません。
ウィーンでのデビューの希望が絶たれた今,旅銭も底をつきかけ,有事下にあるポーランドの実家の仕送りに頼りすぎるわけにもいきません。

デビューのための作品や,紹介状など万全の準備のもと,成功を確信してやってきたウィーンでしたが,運命の大きな力の前には為すすべもなく,途方に暮れながら,事態が好転することを願うことしかできませんでした。

その後,ポーランドは最悪の道へ進みます。

1831年2月から10月までのあいだ,寄せ集めのポーランド軍7万人と,ロシア軍精鋭20万人が衝突します。
ポーランド軍もよく戦ったため戦闘は長引き,衝突のたびに何千人ものポーランド人が命を落とし,最終的な死傷者は数万人にのぼったとのことです。


手紙にはシュトラウスとランナーによる「ワルツ合戦」が盛り上がりを見せている様子が書かれています。「ワルツ」(現代で言うところの「ウィンナワルツ」)という新しいジャンルの音楽が瞬く間に音楽界を席巻していくのを目の当たりに感じていました。

食事をしながら気軽に楽しむような大衆音楽に熱狂するウィーン市民と,シュトラウスの作品ばかり出版する出版者に落胆するしかありません。


このように失意の中にあるショパンですが,故郷の人々を失望させまいと,色々な理由を健気に書いています。

この期間の手紙ですが,ヤン・マトゥシンスキ宛の手紙はすべて贋作だと思われますので,実際にショパンが書いた手紙は数えるほどしか伝えられていません。

家族宛に書いた手紙は,1830年12月12日付けの手紙の次は半年も期間をあけて1831年5月14日付けのものが伝えられています。

一説によると,ショパンの妹イザベラが,この期間の手紙の公開を拒んだため,伝えられていないとのことです。
なおイザベラが保管していた手紙は1863年の1月蜂起により,ロシア兵によって燃やされてしまいました。

この間,ポーランドとロシアの情勢がショパンの許にも届いていたはずですから,失意の中,虚無感に苛まれながらウィーンでの日々を過ごしていたことでしょう。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1831.5.14]

  • 日付;1831年5月14日 *ショパン21才
    *3月1日に誕生日を迎えたショパンは21才になっています。
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

最愛の両親,そして姉妹たち

今週は厳重に制限された少ない手紙に満足せねばなりませんでした。いずれ届くこと,そして皆さんが町でも田舎でも,お元気なようにと望みながら,辛抱強く待とうと自分に言い聞かせています。ぼくは元気です。この困難の中の大きな慰めと感じておりますが,思いがけない健康にどうしたものか分からないでいます。多分マルファッティのスープが病気にかかる傾向をなくす何かの効果をぼくの身体に注入したのでしょう。マルファッティは子どもたちと田舎に出かけました。彼がどんなに美しいところにいるか,想像もつかないでしょう。先週,ぼくはフンメルとそこに行ってきました。彼は所有地を案内して回り,その美しさをだんだんに見せてくれましたが,丘の上に達したときには丘から降りたくないほどに見事な景観でした。一方を見渡せばシェーンブルンにつながっているようにウィーンの町が足元に見渡され,もう一方に見える村々や僧院が点在する幾つかの丘陵は,騒がしい街の豪華さや雑踏を忘れさせます。

昨日ぼくはハントラーと帝室図書館にいきました。ぼくがこのおそらく世界最大の古典音楽自筆楽譜の収集をぜひ見たいと長らく望んでいながら,そこまでゆかなかったことをご存知でしょう。ところが驚いたことには,楽譜の中にショパンと名のついた1冊が戸棚に並べてあるのが見えました。相当に分厚く立派な装丁です。他にショパンという名を聞いたことはありませんが,シャムパンという人がいるので,彼の名前の綴りが間違ったのかもしれないと思いました。取り出してみるとぼくの筆跡です。ハスリンガーがぼくの草稿を図書館に寄贈していたのです。

先週の土曜に花火大会があるはずが,雨のために中止になりまた。奇妙にも花火のあるごとにたいていいつもお天気が悪いのです。ぼく自身については楽しいお知らせが何もないのをお許しください。いずれ良いご報告ができることでしょう。ぼくが欲しているのは皆様のお望みを実現することだけです。まだそこまでには至りません。

オーストリアのホーフブルグ宮殿にある国立図書館
オーストリアのホーフブルグ宮殿にある国立図書館

手紙は伝えられていませんが,この半年間の空白の間に,ショパンが演奏会に出演する予定があったとされています。

ある歌手とともに演奏会に出演する予定で,1831年3月16日に演奏会が開かれる予定でしたが,この歌手が日程の延期を希望したため,何度か日程が変更になり,最終的には4月17日に開かれることとなったそうです。ショパンは「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11」を演奏する予定で,ショパンの名前入りでポスターも作成されたそうです。

ショパン家にとっては重要な話題ですし,ロシアの検閲に引っ掛かる内容でもないので,この話題に触れている手紙は存在したはずです。

やはり公開されることなく失われてしまった手紙が存在するのでしょう。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1831.5.28]

  • 日付;1831年5月28日 *ショパン21才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

今郵便局から帰ってきたところですが,何も届いていませんでした。この手紙は退屈な手紙になりすですが,機嫌が悪いわけではありませんのでお許しください。ぼくは健康です。そして愉快にやっています。朝は早く起きて,2時まで練習をしてから食事に外出して,カンドラーに会いました。病人を見舞ってからぼくは音楽会のある劇場に出かけます。ワルシャワのゾンタッハの演奏会でやじり倒されそうになったヴァイオリニストでユダヤ人のヘルツと,ツェルニーの作品を1曲弾くピアニストのデューローです。終わりにヘルツがポーランド旋律による変奏曲を弾くはずです。哀れなポーランドの旋律よ。ユダヤ人の儀式の旋律をポーランド音楽だといって聴衆を誘っているのです。

昨日は昼食後にタールベルグと福音教会に行きました。ヴロツワフからきたヘッセという若いオルガニストがウィーンのよりぬきの聴衆の前で演奏し認められました。この少年は才能があり,オルガンを理解しています。

スラヴィックは当地の芸術家の中で,ぼくが交際を楽しんでいるわずかな人の一人です。彼はもう一人のパガニーニであるかのように弾きました。しかし若いパガニーニです。あるときは大パガニーニを凌駕します。彼をしばしば聴かねばぼくは信じなかったでしょう。彼は聴き手を口がきけなくなるほどに感動させ,人々を泣かせます。

皆さんにはいったい何が起こっているのでしょうか。ぼくは夢を見ます。この流血の惨事はいつ終わるのでしょう。

検閲を恐れてか,当たり障りのない話題に終始しています。

それでも互いの無事を知らせるため,手紙のやりとりは重要だったのです。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1831.6.25]

  • 日付;1831年6月25日 *ショパン21才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

ぼくは達者です。旅券の申請が上手くいっておらず,旅の準備はできているのに出かけられません。バイエルの忠告に従ってロンドンへの旅券を申請しましたが,ぼくはパリに留まるつもりです。マルファッティはパエール宛に紹介状をくれます。カンドラーはすでにぼくについてライプチヒの音楽雑誌に書いています。

昨日は真夜中に帰宅しました。聖ヨハネの日でマルファッティの命名日なので,メッケッティーが彼のためにお祝いを計画しました。ぼくはモーセの四重奏があれ以上見事に演奏されたのを聴いたことがありません。けれども「ああ幾ばくの涙ぞ」はワルシャワのぼくの告別演奏会で,グラドコフスカによってはるかに立派に歌われました。ぼくは指揮者をつとめました。大勢の見知らぬ人の群れがバルコニーから音楽を聴いていました。

月が壮麗に輝き,噴水は真珠のように水柱をあげ,豊かな香気が空気を満たしていました。一口に言って素晴らしい夜であり,この上もなく魅力的な夜でした。彼らが歌ったサロンがどんなに美しく設計されているか,皆さんにはご想像できないでしょう。広く開けはなたれた大きな窓からはウィーン全部が見渡せます。たくさんの鏡とわずかな灯火,主人役の誠心のこもったもてなし,優美さと居心地のよさ,楽しい仲間,機知に富んだ会話はその日にふさわしいものでした。馬車に乗って家路についたのは夜半近くでした。

経費につきましては何とかやっておりまして,1クロイツァーでさえもワルシャワの指輪のように注意深く大切にしています。不幸にもぼくはもう既に皆様に大変な散財をかけてしまっていますね。

2日前にクメルスキーとチャプスキーと一緒に,レオポールドゥスペルグとカーレンベルグに出かけました。旅費は彼らが貸し出してくれました。レオポールドゥスペルグからは全ウィーンとアスペルン,ブレスブルグやノイブルクの修道院,リチャード獅子王が幽閉されていた城,そしてドナウ河の上流が眺められます。食後にはソビエスキー王が陣営を張ったカーレンベルグを訪れ,ぼくはそこの木の葉を1枚,イザベラに送りました。そこには正式にカマルドレーゼ僧院と呼ばれる教会があり,トルコ攻撃直前に王自身がミサを称えて,王子ジェームスに騎士の称号を与えたのです。そこから夕刻にクラープェンワルドに回りました。可愛らしい谷間でぼくらはそこで奇妙な風習を見ました。頭から足の先まで木の葉で覆われた少年が,まるで灌木が歩いたり踊ったりしているように,客から客へとめぐってゆきます。これが復活祭の儀式なのでしょう。ばかげた話です。

皆さんの手紙のおかげで,ぼくは大層元気になりました。そのお返しにぼくは皆様の足と手にキスいたします。

「ワルシャワの指輪」というのは15才の少年ショパンが褒美としてロシア皇帝アレクサンダー1世から下賜された指輪のことです。

これも翻訳によっては「あの指輪を売ってしまっても構いませんよ」といったことが書かれている場合があります。
ロシアの検閲があるというのに,随分と不敬な記述です。

ショパンの愛国心を強調するために改竄された内容でしょう。


旅券(パスポート)の申請に苦労している様子が書かれています。

ロンドンへの旅券を申請し,途中のパリに留まるつもりだと書いています。
ポーランド人の行き先としては妥当な選択だったといえます。教養ある父ニコラスの薦めだったのかもしれません。

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ショパンの手紙 ~家族への手紙~ [1831.7.1]

  • 日付;1831年7月日 *ショパン21才
  • 宛先;家族
  • 書いた場所;ウィーン
手紙,レター

やっと旅券が手に入りました。水曜日にザルツブルグへ,そこからミュンヘンへ行きます。ぼくがロンドンへの旅券を申請したことはご存じでしょうが,発行された旅券をロシア大使館が2日間取り上げ,ミュンヘンへの旅券となって戻ってきました。でもフランス大使に署名をもらえればパリまでは行けます。この他にも色々と面倒がありました。コレラに関する健康証明書が必要で,それがないと国境を越せないのです。そのためぼくはクメルスキーと半日駆けずり回りました。当地の人々はひどくコレラを恐れていて,彼らはコレラ除けの魔除けを買い,果物を食べず,大半は町から逃げ出しています。

ぼくはチェロのためのポロネーズをメッケッティーに預けました。ルドヴィカからエルスナー先生が批評を悦んで下さったと書いてきましたが,次には何とおっしゃるか分かりません。なぜならぼくに作曲を教えたのは彼ですから,ぼくは生命と活気がほしいだけです。疲れてはいますが家にいるときと同様に愉快なときもあります。憂鬱な気分になると,ぼくはシァーシェック夫人を訪ねます。そこにはたいてい大勢の気持ちのよいポーランド婦人方が来ていて,彼らの率直なそして希望に満ちた話は,いつもぼくに希望を与え,ぼくはウィーンの司令官たちの真似を始めるほどです。ぼくのものまねには誰でも噴き出しますよ。それからまた,人々がわずかの言葉さえ,ぼくから引き出せない日もあるでしょう。そんな時には30クロイツァーを出してウィーンの郊外に気分を変えに出かけます。

ワルシャワのツァハルキーヴィッチが訪ねてきて,ぼくがこんなに立派な男になったのが信じられないようでした。

一昨日はヴュルフェルやその他の人が訪ねてくれて,皆で聖ヴェイトに出かけました。美しい所です。ティヴォリについてはそうは言えません。そこには当地でルッチュと呼ぶ一種のソリのようなものがあります。馬鹿げていますが,何の目的もなく多くの人がこれに乗って丘から滑っていきます。

お父様のご意向以上の金額を,ぼくは銀行から引き出す必要があります。できる限り気をつけていますがやむを得ません。それでないと空っぽの財布で旅立たねばならず,もしも病気にでもなれば,なぜもっと持ってゆかなかったのだとお叱りをうけるでしょうから,どうかお許しください。ぼくはあのお金で3ヶ月を暮らしたのです。それに冬より余計に食事に払います。これはぼくが自分の意向でしているのではなく,むしろ他人の忠告によるのです。

10月には旅券が1年になるので,期限延長をしなければならないでしょう。どうしたらよろしいでしょうか。新しいのを送ってくださるようでしたら,できたらお知らせください。不可能かもしれませんね。

ぼくは街でしばしばヤーシャやティトゥスに似た人の後を追いかけます。昨日はティトゥスの後ろ姿にそっくりな人がいましたが,いまいましいプロシア人でした。ぼくはウィーン的なものは何も取り込んでいません。ワルツの踊り方さえも知らず,ピアノはマズルカばかり弾いています。

神様が皆様に健康をお恵みくださるように。われわれの友人がどうか一人も死なぬように。

チェロのためのポロネーズとは「ピアノとチェロのための,序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3」のことです。

手紙の後半「10月には旅券が1年になるので・・・」から後ろは,翻訳者による捏造だと考えられます。

ミュンヘンへの旅券が手に入ったと報告したあとに,できたら新しい旅券を発行して送ってほしいと頼むというのは,意味がわかりません。

ヤン・マトゥシンスキやティトゥスの名前を無理やり出して,ショパンとの親密さを強調しているところは,他の捏造された手紙と同様です。

また,支配者側のドイツ人やウィーン的なものを非難したり,マズルカというポーランドの象徴のような音楽を称えたり,と,わざわざロシアの検閲に目をつけられるような内容を手紙に書くわけはありません。

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ミュンヘン,シュトゥットガルト,そしてパリへ

ミュンヘンへの旅券を手に入れたショパンは,1831年7月20日,友人クメルスキーと一緒にウィーンを発ちます。
ミュンヘンには1ヶ月ほど滞在しました。

ミュンヘンでは父ニコラスから送ってもらった旅銭を受け取り,演奏会にも出演しました。

曲目は「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 Op.11」と「ピアノとオーケストラのための,ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 Op.13」でした。

ミュンヘンで書かれた講評が残されていて「個性に満ちた美しい弾き方と愛らしい繊細さが彼の洗練されたスタイルであり,演奏家として優れた力を示した」と書かれています。

作品については「ポーランド民謡による大幻想曲」は「聴くものに感動を与えずにはおけない何かがある。ショパンの幻想曲は喝采を浴びた」と絶賛されています。

一方で「ホ短調のピアノ協奏曲」は「際立って独創的でもなく,深みも感じられなかった」と批評されています。

これは,現代人の評価とは真逆ではないでしょうか。
現代の我々にとって「ホ短調のピアノ協奏曲」は傑作であり,「ポーランド民謡による大幻想曲」はショパンの作品の中では決して主要作品ではありません。

1829年11月14日の手紙に「内容はなにもなくてキラキラした淑女向きのサロン用の曲だ」と書いたり,1830年3月27日の手紙に「ぼくはすべての人のためには弾かない。最も上流の人たちのためか,さもなくば大衆のためか,どちらかだ。ぼくは人間はすべての人を悦ばすことはできない」と書いたりしていました。

ショパンが,一般大衆のウケを狙って意識的に軽薄で分かりやすい作品を書いていたことが分かりますが,その作戦が大当たりだったのです。

9月にはミュンヘンを発って,シュトゥットガルトへ向かいます。

そして9月8日,シュトゥットガルトにいたショパンは,ロシア軍の総攻撃によりワルシャワが陥落し,蜂起が失敗に終わったことを知ります。

ショパンの耳に入るのは「ロシア軍の総攻撃によりワルシャワが陥落」したという情報だけ。具体的にどういった状況なのか,家族や友人,知人は無事なのか,確かな情報はやってきません。

不安から酷い妄想に苛まれ,そのやり場のない心の叫びを書き遺したとされる手記が伝えられています。

残念ながら当サイト管理人は,この手記も贋作かもしれないと思っています。
しかし有名なものですし,「ショパンの生涯」という物語を思い浮かべたときに,世界中の多くの人々が共通認識としているエピソードです。

これは翻訳によって内容が異なるのですが,代表的なものをご紹介します。

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シュトゥットガルトの手記 *贋作?

  • 日付;1831年9月8日ごろ *ショパン21才
  • 書いた場所;シュトゥットガルト

手紙ではなく,後年発見されたとされる雑記帳に書き遺されていたと伝えられているものです。

手紙,レター

郊外は破壊された。ヤス,ウイルスはおそらく塹壕で戦士した。捕虜となったマルセルが見える。ソウィンスキーが野蛮な人の手に! モスクワが世界を支配するのだ。神よ,汝は存在しないのか。汝はそこに在りつつ,復讐をしない。汝もまたロシア人なのか。

哀れな父上,老いたる父上は飢えたやもしれず,母上はパンが買えないかもしれない。ロシアの兵士たちに乱暴される姉妹たち。母上は,ロシア人に骨までも穢されるのを見るために娘たちを生んだのですか。彼女の墓(*亡き妹エミリアの墓)は敬重されただろうか。あの墓の上には何千の屍骸が蹂躙されている。彼女(*コンスタンツィア・グラドコフスカのことだとされる)はどうだろうか。哀れな娘はロシア人の手中にあるのだろう。ロシア人が彼女の首を締めている。ああ,わが生命よ。ぼくはここに一人でいる。ぼくの許に来たまえ。ぼくは貴女の涙を拭おう。痛手を癒やして昔を思い出そう。ロシア人がいなかった日々のことを。ロシア人がいてもそれはただ貴女に気に入りたいと思うわずかな人々で,貴女はぼくがいたために笑ってあしらっていた昔のことを。おそらくぼくにはもう母さんがいないかもしれない。ロシア人が殺してしまったかもしれない。姉妹たちは狂おしく抵抗する。父上は絶望してどうすることもできない。ぼくはここにいて何もできない。ぼくはただ唸り,苦悶し,絶望をピアノに向けることしかできない。神よ,大地を震わして,我々を助けぬフランスに懲罰を下しまたえ。

ぼくのベッドには屍骸が横たわっているだろう。しかし嫌悪することはできない。屍骸は父も母も姉妹もティトゥスも知らないし,恋人もいない。その舌は語ることができない。屍骸はぼく同様に色彩がなく,ぼく同様に冷たい。

シュトゥットガルトの塔の時計が時を打った。この瞬間,幾つかの新しい屍骸ができているだろう。子を失う母たち,母を失う子たち。多くの悲嘆と,多くの悦び。良き屍骸と悪しき屍骸。徳も悪も一つであり,屍骸になれば姉妹である。それならば死こそ最善の行為である。では何が最悪か。それは誕生だ。世に生まれてきたことを憤るのは正しい。ぼくの存在は何の役に立つのだ。なぜならぼくの足にはふくらはぎがない。屍骸にはあるだろうか。屍骸もふくらはぎを持たない。だから数学的にぼくと屍骸は兄弟なのだ。彼女はぼくを愛してくれたのか,それともそのように装っていただけなのか。そうだ,いや,そうではない,いや,そうだ,いや,そうではない,指から指へ,そうだ,彼女は確かにぼくを愛している。では彼女の好きにさせよう。

父上,母上,どこにおいでですか。だが待て,待つのだ,しかし涙が,長く流れなかった涙が,ああ長い間,あんなにも長い間,ぼくは涙を流さなかったのに,なんと悦ばしく,なんと惨めに,もしぼくが惨めだったらぼくは悦べない,しかもそれは懐かしい,これは不思議な状態だ。けれど屍骸はこうなのだ。それはより幸福な生命に移されるから悦び,去ってゆく人生を悔いて悲しいのだ。それはちょうどぼくが泣きやめたときと同じように感じることだろう。それは感情が瞬間的に死んだのだ。一瞬,ぼくの心の内に死んだ。いや,心が瞬間ぼくの内に死んだ。ああなぜ永遠にそうではないのだ。それならばより堪えやすいのに。独りだ。独りっきりだ。ぼくの惨めさは言いつくし難い。この感情にどうして堪えられるだろう。

「ポーランドのプロメテウス」11月蜂起の失敗を寓意的に表現した絵画
「ポーランドのプロメテウス」11月蜂起の失敗を寓意的に表現した絵画

この手記が実在したかどうかは議論を避けますが,このときのショパンの心中を想像する上で参考になることは事実です。

こうした心の叫びが「エチュードOp10-12 ハ短調『革命』」や「スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20」に昇華されていると考えられています。


ショパンは9月中旬にパリへ向けて出発しました。

ロシア軍に蹂躙されているであろうワルシャワに向かうこともできず,たとえウィーンと同じ残酷な運命が待っているとしても,パリ以外に向かうべき先が見つかりませんでした。

両親や友人の生死さえ不明な不安を抱えながら,運命に服従するように流されるようにパリへ向かいます。
途中で友人クメルスキーはベルリンへ向かったため,苦悩と旅に疲れ切っていたショパンは一人孤独でした。

そして9月末~10月初旬に,有力者への紹介状もなく,旅銭も心もとない青年は,不安を胸にパリに到着します。

パリに到着した後の手紙は,次の記事でご紹介します。

今回は以上です!

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