ショパンの生涯 死後

ワルシャワ ショパン像 年表
ワルシャワ ショパン像

ショパンの生涯-略歴幼少期青年期パリ時代サンドとの生活晩年-死後

ショパンの生涯 ショパンの遺品

ショパンの遺した金庫の中

6000フラン

姉ルドヴィカは弟フレデリックの遺品を整理するために弟の金庫を開けました。

金庫の中には6000フランが残っていましたが,フレデリックが残した借金を返すにはとても足りませんでした。
相続税や葬儀代を払うこともできません。

ジェーン・スターリングからの申し出により,ルドヴィカは5000フランを借りることにします。

フレデリックの死後も尽くすスターリング嬢なのでした。

サンドからの手紙

金庫には,サンドからもらった手紙がすべてきちんと束ねられて入っていました。

ワルシャワに戻る際,国境でのロシアの検閲を恐れて,この手紙の束を知人に預けます。

サンドはこのことを聞きつけて,この手紙の束を取り戻します。
サンドはそれらをすべて焼却してしまったと言われています。

手帳の中の髪の毛

金庫からは,フレデリックの手帳も見つかります。

その手帳カバーの内側のポケットには絹製の封筒が入っており,ジョルジュ・サンドのイニシャルGとSが縫われていて,その中には髪の毛が一房入っていました。

手帳は1848年のもの。
フレデリックがスターリング嬢に誘われて行ったイギリス滞在のあいだ,ずっとサンドの髪を持ち歩いていたのだと知り,ルドヴィカは驚きます。

競売

「我が哀しみ」

机の引き出しからは「我が哀しみ」と書かれた包がみつかり,そこにはマリア・ヴォジニスカやその家族からの手紙が入っていました。

その他にも,ピアノや自筆譜,家具や衣服,小物類など,これら弟の残した遺品を大切に手許に置いておきたいとルドヴィカは考えていました。

しかし自分よりも弟を優先する妻ルドヴィカに嫉妬していた夫のカラサンティからは,有名人だったフレデリックの遺品なら高く売れるだろうと,遺品を売ってしまうように言われます。

ルドヴィカは夫の命令には逆らえずに,フレデリックの遺品は競売にかけられることになります。

スターリング嬢の変わらぬ愛情

競売にかけられたフレデリックの遺品ですが,その多くはジェーン・スターリングが買い,そしてそれらをワルシャワのフレデリックの遺族へ送ったのでした。
フレデリック愛用のプレイエルのピアノもワルシャワへ贈られました。

フレデリックの死後も献身的なスターリング嬢の愛情は変わりませんでした。

しかしこれらの遺品の多くは1863年の1月蜂起でロシア兵によって壊されたり焼かれたりしてしまい,さらに後の大戦中にも失われ,現在ではほとんど失われてしまっています。

遺作の出版

完全主義ショパン

完全主義だったショパンは,推敲に推敲を重ねた完全に満足のいく状態の曲しか出版しませんでした。
それらには作品番号がつけられ,ロンドOp.1からチェロソナタOp.65までの作品が正式に出版されたショパンの作品になります。
これらは現在我々が聴くことのできるショパンの作品約230曲のうち,半分ほどに過ぎません。
残りの作品はショパンの死後にショパンの意に反してに出版されたものになります。

フレデリックは死の直前に未出版の作品は全て焼却してくれと遺言していましたが,幸いにもそれらの作品は焼却されることなく,遺族の同意を得て出版されることになりました。

ショパンには申し訳ないですが,ショパンのファンにとっては,これら未発表の作品に触れることができるのは本当に幸せなことです。

フォンタナによる遺作の出版

フレデリックの写譜・清書や出版を長年手伝っていたフォンタナが,ショパンの遺作の整理のためにアメリカからパリへ戻ります。
そして,遺されたショパンの曲の中から,フォンタナに選出されたいくつかが,Op.66からOp.74までの作品番号を割り振られて,1855年に出版されました。

これらの遺作は,ショパン自身は出版したくないと思っていた曲ではありますが,どれも素晴らしい作品ばかりです。

その中には,現在ではショパンの代表作の一つとなっている「幻想即興曲」も含まれています。
フォンタナは遺作の出版にあたって,真っ先に幻想即興曲を出版することにしたようで,ショパンの死後出版された作品番号の最初の番号であるOp.66がつけられています。

現代のショパン愛好家にとって,フォンタナの献身的な仕事ぶりには感謝しかありません。
しかし,この出版には大きな問題がありました。
フォンタナが出版するにあたって,手を加えすぎているのです。
中にはショパンの自筆譜と比べると,まるで別の曲のように手が加えられているものもあり,まるでフォンタナ編曲版といったものになっています。
幻想即興曲も遺されたオリジナルと出版された楽譜を見比べると,大きく改訂されてしまっています。

作曲家でもあったフォンタナの編曲はよくできていて,レコードやCDの普及により,フォンタナ版の演奏が世界にあふれるようになり,我々の耳がフォンタナ版のショパンにすっかり馴染んでしまいました。

オリジナルの出版

20世紀になり,ポーランド人でショパン研究家のヤン・エキエル氏の努力により,ポーランドの国家事業である「ショパン・ナショナル・エディション」が出版され,現代の我々は,ショパンのオリジナルに触れることができるようになりました。

しかし現代人はあまりにもフォンタナ版のショパンに馴染んでしまいました。
幻想即興曲などは,その作曲家が誰か知らないような人々にも聞き馴染みのある曲となっています。
今となっては,オリジナルの幻想即興曲の演奏は,何か変だ,おかしい,と感じられるようになってしまいました。

ショパンを深く愛する者として,どんなに優れたものであっても,やはり別人の編曲版ではなく,ショパンのオリジナルに触れ,ショパンの崇高な音楽を感じ取りたい。

2005年にショパンコンクールが正式に「ショパン・ナショナル・エディション」を採用したことで,じょじょにショパンオリジナルの演奏を耳にする機会が増えてきました。

しかし,インターネットの普及による音楽の大量生産,大量消費によって,世界中はさらにフォンタナ版の演奏であふれるようになっています。

この先,世界がショパンオリジナルを尊重する風潮になることを切に願うばかりです。

ショパンの生涯 愛した人々のその後

姉ルドヴィカ

フレデリックより3際年上の姉ルドヴィカは大変弟思いでしたが,そのことが夫カラサンティの嫉妬をかい,夫婦仲が冷え切ったまま,1855年に48歳で亡くなっています。ルドヴィカは1人の娘と3人の息子を残しています。

妹イザベラ

妹のイザベラは結婚はしていましたが子どもはおらず,残されたルドヴィカの子どもたちの面倒を見たといいます。

ショパンの家族たちは愛に恵まれ,その愛は家族が亡くなった後も続きました。

妹イザベラは1881年に70歳で亡くなっています。

母ユスティナ

母ユスティナは,夫ニコラス,2人の娘エミリアとルドヴィカ,そして一人息子のフレデリックに先立たれましたが,1861年に79歳で亡くなっています。

ジェーン・スターリング

フレデリックに献身的に尽くしながらもその想いが叶わなかったジェーン・スターリングは,フレデリック亡き後もフレデリックを忘れられず,一説では生涯黒衣に身を包んで喪に服していたそうです。

生涯独身で「ショパンの未亡人」と称されました。

スコットランド旅行でフレデリックが滞在したカルダー邸で,1859年に55歳で亡くなっています。

ジョルジュ・サンド

フレデリックの葬儀についに姿を見せなかったジョルジュ・サンドですが,フレデリックの訃報をノアンで聞いたサンドはショックで倒れ,深く悲しんだと言います。

しかし世間は「ショパンはサンドの餌食にされた」などと悪者としてとらえていました。

それでもサンドは自由に生き,保守的な社会と闘い続け,多くの男性と浮名を流し,1876年6月8日,ノアンの別荘で71歳で生涯を終えます。

ショパンの生涯 ショパンの心臓

姉ルドヴィカが持ち帰ったショパンの心臓はワルシャワの聖十字架教会の柱の中に安置されていましたが,第二次大戦中のドイツ軍により教会は破壊されます。

奇跡的に無事だったショパンの心臓を探し掘り出すことをドイツ軍が許可し,無事に疎開させることができました。

戦後の1945年10月17日,ショパンの命日にショパンの心臓は再びワルシャワに戻り,再建された聖十字架教会に安置されます。

そして,今もショパンの心臓はそこに眠っています。

ショパンの生涯 ショパンコンクール

ショパンコンクール誕生

第一次大戦ごろの音楽会では,ショパンはセンチメンタリズムな小品だけの作曲家だと不当に低く評価されていました。

そこで,ポーランド人ピアニストのイエージー・ジェラレフは,ショパンの名を冠した,ショパンの作品だけを演奏する国際コンクールを開催することを計画します。

ショパンを正しく解釈し演奏する演奏家を発掘することで,ショパンの作品に対する正当な評価を取り戻し,また,フランス音楽だと捉えられていたショパンの音楽をポーランドに取り戻すことを目的としていました。

そして,1927年1月23日から8日間,第一回ショパンコンクールがワルシャワで開催されました。

現存する国際ピアノコンクールでは最古のものとされていて,現在では音楽コンクールの最高峰の一つとされ,世界三大コンクールの一つとなっています。

選考は予選と本選の2段階で,予選ではノクターン,マズルカ,プレリュード,エチュード,バラード,ポロネーズが,本選ではコンチェルトの第2楽章が課題曲となりました。

ポーランド人が16名,ソ連から4名,他外国から6名の計26名の参加があり,審査員12名は全員ポーランド人でした。

第一回のコーンクールでは,ソ連のレフ・オポーリンが優勝しています。

原智恵子

第二回は1932年,第三回は1937年と,5年に一度開催され,第三回には日本人がはじめて参加しています。

この大会には2人の日本人が参加しましたが,中でも着物姿の原智恵子は人気を博します。

原智恵子の審査結果が「Distinctions」となると聴衆が怒り,警官隊が出動するほどの騒ぎとなります。そこで,彼女に「特別聴衆賞」を贈ることとなったそうです。

第三回大会では,ショパン・ナショナル・エディションのヤン・エキエル氏も第8位に入賞しています。

第二次世界大戦

やがて第二次世界大戦によりワルシャワは爆撃され,コンクール会場のフィル・ハーモニーホールも破壊されてしまいます。

ドイツ軍に占領されてしまうポーランド。そしてポーランド人はショパンの演奏も禁じられてしまいます。

しかしショパンの音楽は隠れて演奏され続け,ショパンの音楽はポーランド人の心の支えとなります。

世界で最も権威あるコンクール

やがて戦争が終わり,焼け野原となったポーランドですが,1949年,爆撃を逃れて残ったローマ会館ホールで,12年ぶりに第4回ショパンコンクールが開催されます。

やがてフィル・ハーモニーホールは再建され,1955年,完成したホールの落成式として第5回ショパンコンクールが開催され,それからは5年に1度ショパンコンクールは開催され続け,世界で最も権威のある国際ピアノコンクールとなりました。

過去の入賞者からは,ウラディミール・アシュケナージ,マウリツィオ・ポリーニ,マルタ・アルゲリチ,内田光子,クリスティアン・ツィメルマンなど,世界的なピアニストを多数輩出しています。

そんなショパンコンクールもコロナ禍によって2020年開催予定だった第18回コンクールは開催が延期されることになりました。

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