ショパンの未知のワルツの自筆譜が発見された
それまで存在が知られていなかった,ショパンの未知のワルツの自筆譜がニューヨークのモルガン・ライブラリー(Pierpont Morgan Library)で発見されたことを,2024年10月27日に『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じました。
ニューヨーク・インテリアデザイン学校 (The New York School of Interior Design) の学長だったArthur Satz 氏が2018年11月10日に亡くなり,遺品となったコレクションを モルガン・ライブラーの職員である Robinson McClellan 氏が調査し,目録を作成することになりました。
2019年の春,目録を作成する過程で,130×102ミリメートルの染みのついた紙片を目にします。
これは Satz 氏が,アマチュアのピアニストでThe New York School of Interior Designの校長だったAugustus Sherrill Whiton Jr. の妻から購入したものでした。
そのハガキほどの小さな古い紙片には小さな手書きの音符が並んでいて「Valse」つまりはフランス語で「ワルツ」と書かれていました。
そして紙片の上部中央には大きく筆記体で「Chopin」と書かれていたのです。
しかも,譜面を見ると,まるで今までに聴いたことのない知らない曲でした。
*作曲家でもありライブラリーの職員でもあるMcClellan 氏はショパンの音楽に精通しています。
ショパンの他のワルツとはスタイルが異なり,不協和音の序奏で始まっていて,なんとで非常に激しく砕けるように何度も和音が連打されます。
*ショパンはその生涯でを数えるほどしか使っていません。
しかしその後現れる主旋律は激しくも美しい 紛うことなきショパンの旋律だと感じました。
本当にこれがショパンの作品なんてことがあるのだろうか,と疑問を抱いたMcClellan 氏は,ペンシルベニア大の学者で,ショパン研究の第一人者である Jeffrey Kallberg 氏に 楽譜の写真を送りました。
もしも,これが本当にショパンの自筆譜で,ショパンの作品だったとすると,1974年11月に “アレグレット&マズール” という作品が発見されて以来,半世紀ぶりの大発見となります。
*なお,当サイト管理人は “アレグレット&マズール” の真正が判断できず,当サイトでは正式なショパンの作品として掲載はしていません。
現在,広くショパンの作品だと認められているものだと,1952年に発見されたソステヌートや,1938年に発見されたラルゴまで遡り,数十年ぶりの大発見ということになります。
なお,2019年に発見されていたものが,公表が2024年まで5年もの歳月を要したのは,コロナ禍を挟んだため,とのこと。
その作品の真正がどうだったかというと・・・
その前にまずは自筆譜を詳細に見てみましょう。
自筆譜を見てみよう!
作品の真贋が気になるところです。
まずは自筆譜を詳細に見てみましょう。
なお,自筆譜はモルガン・ライブラリーが公開していて,自由にダウンロード・印刷が可能です。
リンクを貼っておきます。
また,当サイト管理人の演奏動画も貼っておきます。
ショパンの自筆譜をご覧いただきながら,演奏を楽しんでいただけるようになっています。
発見された原稿は,たった130×102ミリメートルの小さな原稿です。
全部でたった24小節,反復記号により繰り返し演奏しても48小節の小品です。
4分の3拍子,イ短調で書かれています。
茶色の没食子インクが用いられており,やや黄色がかった分厚い機械製造の網目すかしのある紙 (Wove paper) が用いられています。
ショパンがポーランド時代に使っていた,若干緑色の風合いを示す紙とは明らかに違っています。
これらはショパンがパリに到着した直後,1830年~1835年頃に用いていたインクや紙と合致しています。
筆跡もショパンのそれと一致しています。
小さな音符,特殊な形状のヘ音記号,繰り返し記号,スラー,横に長く大きなアクセント,トリル,前打音,,, ,cresc. ,sempre , Valseなど記譜されている文字や記号,運指の数字など,すべてショパンの筆跡と一致しています。
ただ,上部中央に大きく書かれた筆記体の “Chopin” は他者の手で書き入れられています。
作品の真贋
このように自筆譜の詳細な鑑定によって,1830年~1835年ごろ,ショパンが20歳~25歳の頃に,ショパン自身の手によって書かれたものである可能性が高いことが分かりました。
*ショパンの筆跡を真似て他者が書いたものである可能性も捨てきれないことに注意が必要です。例えばショパンの自筆譜からの写譜を頻繁に手掛けていたフォンタナの筆跡は,ショパン自身の筆跡とよく似ています。
あとは,この曲がショパンのオリジナルの作品なのか,それとも誰かの作品をショパンの手によって書き写したものなのか,そのどちらなのか,というのが議論になるのですが,これは永遠に分からないかもしれません。
もしも,この作品について書かれたショパンの手紙やメモ書きが見つかれば,この曲がショパンのオリジナルの作品であることを後押しすることになります。
ショパンの弟子や知人の証言などが見つかっても後押しとなります。
「この前ようやくパリに到着したよ。その後ワルシャワの皆は元気にしているだろうか。ロシア兵に乱暴されていないだろうか。無事を祈るよ。ところで,今,イ短調のワルツを書き始めている。今までにない情熱的なワルツで,なんと序奏でいきなりフォルテッシッシモが書かれているんだ・・・」というような手紙が見つかれば,この作品はホンモノのショパンのオリジナルだということになります。
しかし,そもそも このような手紙が発見される可能性があるならば既に発見されているハズです。現在,このような手紙が発見されていない,ということは,そのような手紙が存在しないか,もしくは存在していても発見が非常に困難な状態にあるか,既に戦火などで失われてしまっていることでしょう。
つまり,作品の特徴,音楽的見地からその真正を判断するしかありません。
Robinson McClellan 氏の見解
モルガン・ライブラリーの職員で,この自筆譜の発見者であるMcClellan 氏は次のような見解を示しています。
「イ短調のこの曲は 非常に嵐のような,陰鬱な冒頭部分が際立ち,その後ショパン特有の憂鬱なメロディーへと移行する。
これが彼のスタイルです。これが彼の本質です。本当に彼らしい感じがします。」
「ショパンの楽曲の典型ではない部分もあり、特に嵐のように激しいオープニングはやや意外でしたが、まったくショパンらしくないわけではありません。そしてメロディは、これぞショパンと感じるものです」
Jeffrey Kallberg 氏の見解
McClellan 氏から鑑定の依頼を受けたペンシルベニア大の学者で,ショパン研究の第一人者である Jeffrey Kallberg 氏は,この作品を「小さな宝石」と呼び,ショパンが友人や裕福な知人への贈り物として書かれた可能性が高いと述べています。
「彼が贈った曲の多くは短いもので、本格的な作品の『前菜』のようなものでした」「また、彼がその曲を世に出すつもりだったかどうかは定かではありません。なぜなら、彼は贈り物として同じワルツを何度も書いていたからです。」
David Ludwig 氏の見解
ジュリアード音楽院の音楽学部長であるDavid Ludwig 氏の見解です。
「この曲にはショパンのスタイルの特徴が数多く備わっている」「とても叙情的なショパンの特徴があり、少し暗い部分もある」「もし本物なら、この緻密に構成された楽譜はショパンの最も短い作品の一つになるだろう」「本物かどうかという点では、それはある意味問題ではありません。なぜなら、それは私たちの想像力を刺激するからです」「このような発見は、クラシック音楽がまさに生きた芸術形式であるという事実を浮き彫りにしています。」
ピアニスト ラン・ラン の見解
タイムズ紙が報じると同時に,ピアニストのラン・ランが,ドイツ・グラモフォンとの独占契約で,新発見のワルツの録音を公開しています。
そのラン・ランは「この作品はショパンの作品であると感じた」「耳障りな冒頭はポーランドの田舎の厳しい冬を思い起こさせる」「これはショパンの作品の中で複雑なものではないが,想像し得る最も本格的なショパンのスタイルの一つだ」との見解をタイムズ紙に語っています。
dr Artur Szklener の見解
フレデリック・ショパン研究所(Fryderyk Chopin Institute,旧ショパン協会)の所長であるdr Artur Szklener はショパン研究所のWebサイトに自身の見解を掲載しています。
全文は下記リンクからご覧ください。
ここではSzklener 博士の見解を要約,抜粋します。
ニューヨークのモルガン図書館で見つかったこの譜には、ショパンの譜に典型的な特徴がいくつか見られます。それは、ショパンがパリで過ごした初期の頃に使っていたものと同様の、当時の紙に茶色のインクで書かれていることです。後の楽譜よりも少し厚く黄色みがかっており、緑がかった色合いが特徴のワルシャワの楽譜とは明らかに区別されています。音楽的には、この曲は華麗なスタイルの特徴を備えており、これはまた、示されている作曲時期(1830-35)とも一致しています。
同時に、発見された原稿はショパンの音楽としては珍しい特徴も備えています。まず第一に、これは完全な作品ではなく、音楽のアイデアが書き留められたスケッチです。テーマはヴィルトオーゾのスタイルを取り入れたシンプルな作りになっていますが,全体としてはまとまっていません。
これはショパンが贈り物として書かれたアルバム用に用意された原稿に似ています。原稿のサイズは小さく(約10×13 cm)非常に詳細かつきれいに書かれています。しかし,この種の贈り物の原稿としては珍しく、多くの演奏指示が記載されています。スケッチ段階の原稿にも関わらず,運指記号が書かれていることにも驚きます。
音楽面では、メロディーの一種の装飾や伴奏の変化など、ショパンに典型的な要素が見られる一方、ベースはほぼ唯一の「a」音が繰り返えされるなど、平凡な特徴が共存していることが重要に思われます。
これらの特徴から、この手稿がアマチュアピアニストへの贈り物であった可能性があることを示していますが、ショパンによる献呈や署名はなく、ショパンというサインは彼の手で書かれたものではありません。この手稿が ロスチャイルド男爵夫人が所持していた「ワルツ イ短調」と「ノクターン ハ短調」と同じように、作曲の授業中にショパンが生徒と共同で作曲した教育活動の痕跡である可能性もあります。しかし、手稿が小さく、整然と慎重に書かれていることから、確実とはいえません。
この楽譜にはショパンの筆跡の特徴がいくつか見られるが、ここで言及すべきは、楽譜の筆跡学は手紙の場合ほど体系化されていないため、この資料は詳細な比較研究にかけられ、さらに分類できるようになる必要があるということです。
この手稿は ショパンが生徒や仲間たちと楽しみながら、小さなフレーズやパッセージを互いに出し合って繋ぎ合わせて遊んだものかもしれません。
ショパン研究所(旧ショパン協会)の所長の見解ですので,今のところ,これが公式な見解だと言えるでしょう。
当サイト管理人の見解
ショパン愛好家の一人として,やはりショパン “らしくない” 点が目についてしまいます。
属音ではなく主音である「A」音から始まっていることに,冒頭から違和感を感じる。
ショパンの作品が主音から始まることは,ないことではありませんが,珍しいです。
特にショパンのワルツは基本的に属音から始まります。
ただ,この作品はワルツというよりも,曲調がマズルカに近いと感じます。マズルカでは主音から始まる作品も多いので,特におかしくないのかもしれません。
とはいえ,マズルカだとしたら,それこそ,こんな重たい序奏がついているのは違和感しかありません。
どう考えても,ショパンがこの場面でfffを書き込むのはオカシい。
ショパンがを書き込むのは非常に稀な特別な場合のみです。
例えば,ショパンの練習曲集ではは5回しか使われていません。
前奏曲集Op.28ではたったの2回しか使われていません。
そもそもショパンはでさえめったに書き込むことがありません。
そして,を超える音量指示として,稀に il piu forte possibile 可能な限りのフォルテ という指示を使います。
そして,il piu forte possibile をも超える最大音量としてショパンが用いるのがなのです。
新発見されたワルツのが書かれている箇所ですが,曲想からバラード 第2番 Op.38が思い起こされます。
ショパンは,あの激しい曲調のバラード 第2番でさえ,ではなくまでしか書いていません。
そもそもショパンにとって,でさえ,それほど特別な演奏指示なのです。
にも関わらず,小品の冒頭からいきなりというのは,違和感しかありません。
書かれている和音がダサい
細部まで洗練され,優雅でエレガント,繊細で詩情にあふれている,それがショパンの音楽です。
ショパンが書いた音楽は,例え草稿やスケッチの切れ端であったとしても,書かれている和音は美しく響くように書かれていることがほとんどです。
ところが,このワルツはどうでしょう。
洗練されているとはいえない,無粋な和音が書かれています。
主旋律は “ショパン” を感じる
理屈では説明できませんが,主旋律が奏でられた瞬間,強烈に ”ショパン” を感じます。
冒頭の乱暴なショパンらしからぬ序奏との対比もあって 一層,主旋律から “ショパン” が感じられ,未知のショパンの音楽に触れることができた幸運に興奮し,幸福に包まれます。
この主旋律には間違いなくショパンの音楽的霊気が宿っており,ショパンの作品に特有の,気高く崇高な神聖さを感じます。
Artur Szklener 博士の見解が一番納得できる
当サイト管理人の個人的な感想ですが,このワルツは,ショパンらしからぬ野暮な箇所と,ショパンらしい洗練された箇所が混在しているように感じます。
そうすると,Szklener 博士の「ショパンが生徒や仲間たちと楽しみながら、小さなフレーズやパッセージを互いに出し合って繋ぎ合わせて遊んだものかもしれません」という見解が一番納得できます。
一人,もしくは複数人の弟子が色々なフレーズやパッセージを出し合い,主旋律はショパン先生が担当。
最後は一つの作品として成り立つように,ショパン先生が細部を調整し,丁寧にスラーや運指まで書き込んで,弟子の一人,おそらくは貴婦人のどなたかにプレゼントした,という想像ができます。
ショパン自身のサインが書かれていないことから,実際はプレゼントしなかったのではないか,とも想像できます。
後に誰かが「Chopin」と上部中央に大きく書いたわけですが,いったい,誰がそんな書き込みをしたのか,そもそも本当にショパンの自筆譜だとしたら,そんな書き込みをしてしまったら,原稿の価値を著しく下げてしまうのではないか? などと色々と想像してしまいます。
真偽を物語る資料が一切見つかっていない以上,色々と想像するしかなく,歯がゆくもあるし,また,想像することが楽しくもありますね。
いずれにせよ,当サイト管理人は真偽の判断がつけることができず,当サイトでは正式なショパンの作品として掲載する予定は(今のところ)ありません。
2024年に新しく発見されたワルツ イ短調 実際の演奏
当サイト管理人 林 秀樹の演奏です。2025年1月録音
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜をご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2025年1月録音
装飾音の奏法,ワルツのリズムなど,ショパンのスタイルをしっかり守って演奏しています。
*そして,そのような演奏は珍しくて貴重です。
ぜひ,お聴きください!
今回は以上です。