ショパンは日記や評論のたぐいは書きませんでした。
ショパンの生涯,人となり,音楽観,思想などを知る上で,ショパンの遺した手紙が重要な資料になります。
ショパンの遺した手紙のいくつかを年代別にまとめていきます。
この記事では1830年,ショパンが20才のときの手紙のうち,11月23日にウィーンに到着するまでの期間の手紙をご紹介します。
- ティトゥスへの手紙は大きく改竄されていた?
- コンスタンツィア・グラドコフスカへの初恋も捏造だった?
- ティトゥスはショパンの旅に同行していなかった?
という内容でお送りします!
- ショパンの手紙 ~学生時代の4人の親友~
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.3.27]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.4.10]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.4.17]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.5.15]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.6.5]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.8.21]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.8.31]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.4]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.18]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.22]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.10.5]
- ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.10.12]
- グラドコフスカがショパンの手帳に書いた詩
- エルスナーが作曲した「フレデリック・ショパンのための送別のカンタータ」
- ショパンの手紙 ~ヴロツワフより家族への手紙~
- ショパンの手紙 ~ドレスデンより家族への手紙~
- ショパンの手紙 ~プラハより家族への手紙~
ショパンの手紙 ~学生時代の4人の親友~
フレデリックの父ニコラスはワルシャワ中等学校でフランス語の教授を務めるとともに,
ショパン家はエリート学生のための寄宿塾を経営していました。
幼少期のころよりフレデリックは寄宿塾の寮生たちと寝食を共にし,幼友達として親しくしていました。
そんな寮生たちの中でも,とくに4人の寮生と親しくしていました。
- ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- ヤン・ビャウォブウォツキ
- ヤン・マトゥシンスキ
- ユリアン・フォンタナ
の4人です。
ワルシャワ時代,この中でも特にヤン・ビャウォブウォツキと親しくしていました。
ヤン・ビャウォブウォツキはフレデリックより5才年上で,良き相談相手でした。
しかし,ヤン・ビャウォブウォツキは1827年に22才の若さで亡くなってしまいました。
ヤン・ビャウォブウォツキが亡くなった後,フレデリックはティトゥス・ヴォイチェホフスキを頼るようになります。
急速にティトゥスを頼るようになっていった様子は遺された手紙から知ることができます。
ただし,ショパンからティトゥスへ宛てた手紙は大幅に改竄されている可能性があります。
生来虚弱だったフレデリックに対して,2才上のティトゥスは筋骨たくましい頼れる兄のような存在でした。
裕福な地主の子であるティトゥスは,学校を卒業してから郷里に帰りますが,ショパンとはずっと手紙をやり取りしていました。
フレデリックからティトゥスへの手紙は,前の記事でご紹介した1829年秋の数通の手紙にとどまらず,
1830年の春から10通以上の手紙を送り続けます。
ティトゥス書簡 捏造説
ショパンからティトゥスへの手紙は20通以上も伝えられていますが,その原物が全て失われているだけでなく,写真などのコピーも一切残されていません。
原物は確認されずに,ショパンからの手紙をティトゥスが書き写したものが出版されて,今に伝わっています。
当事者のショパンとティトゥスを除いて,手紙の原物を誰も見たことがないのです。
ショパンの手紙は,もともと贋作や一部捏造されたものが多いとされていますが,
ティトゥスへの手紙はとくに信頼性が低いと言われることが多いです。
一説では,ショパンのコンスタンツィア・グラドコフスカへの初恋も捏造であるとか,
祖国ワルシャワを旅立つ時に実際はティトゥスは同行していない,という説もあるほどです。
この記事ではティトゥスの手紙を見ていきますが,確かに捏造されているのでは,と感じる部分が多々あります。
ティトゥスの手紙には,カラソフスキーという人がドイツ語で出版したものと,オピエンスキーという人がポーランド語で出版したものがよく知られています。カラソフスキー版は特にひどく捏造されているとされています。
この記事では,比較的信頼できるオピエンスキー版をもとにしたいくつかの日本語訳を比較して,当サイト管理人が編集した内容を掲載します。
ショパン同性愛説
ショパンからティトゥスへ宛てた手紙のその文面は,ティトゥスへの熱い思いにあふれ,青年男性が同性の青年に与える言葉としては,やや情熱的過ぎるところがあります。
後世の研究者には,ショパンの同性愛説が囁かれたりもしました。
ショパンの同性愛説は否定されていたのですが,
近年(2020年~2021年ごろ)になって再び,欧州の中でも特に保守的でLGBTQへの風当たりが強いと言われるポーランドへ向けて,ショパンが同性愛者であったという説が大々的に報じられたりもしています。
ティトゥスは1860年ごろから祖国ポーランドの再興を目指す地下活動の指導者となっています。
ショパンとの個人的な関係をこうした政治活動に利用するために,ショパンとの親密さを誇張するように捏造した手紙の写しを流布したのではないかとも考える研究者もいます。
確かに,伝えられた文面からはショパンからティトゥスへの熱烈な愛情が感じ取れるのですが,
そこに書かれているティトゥスの行動は,とてもショパンと個人的に親しくしているようには感じられません。
1829年に親しい友人たちとウィーンへ旅行に出かけたショパンですが,ティトゥスは同行していません。
この記事に掲載している1830年の手紙では,ショパンからティトゥスへ再三にわたって熱烈に「会いたい」と呼びかけていますが,結局ティトゥスは一度もショパンのもとを訪れていません。
裕福な地主の子で広大な領地を所有しており,宮殿に住み,金銭も時間も自由に使える身分だったにも関わらず,ショパンの3度にわたる公開演奏会でさえも一度も観に来ていません。
ここまで素っ気ない態度のティトゥスに対して,ショパンが書き記したという愛情表現はあまりにも情熱的過ぎる気がします。
以下,伝えられたショパンの手紙の文面を掲載しますが,皆さんはどう感じられますでしょうか?
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.3.27]
- 日付;1830年3月27日土曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛のぼくの生命よ!
今ほど君に会いたくてたまらぬことはない。君がいないのでぼくは心を打ち上げる人がいない。音楽会が終わった後の君の一目は,記者たち,エルスナー,クルビンスキー,ソリヴァたちの絶賛よりも,ぼくにとって好ましい。君の手紙を入手して早速第1回の音楽会について書きたいと思ったのだが,月曜日にやった第2回の音楽会の準備に忙しかったので,座って考えをまとめることができなかったのだ。今日もまだ同じ精神状態にいるのだが,郵便馬車が出るというので,ぼくは精神の平静なときを待たないことにした。
第1回演奏会は,会場は満員で,ボックスもパルテール(平土間)も3日前に売り切れていたが,ぼくが期待したほどの印象を一般の聴衆に残すことはできなかった。最初のアレグロはわずか少数の人にしか受け入れられず,いくらかのブラヴォの声が起こったが,それもきっと彼らが面食らったからだと思う。「これは何だろう?」と思って,音楽通振らなくてはならなかったのだ。アダージョとロンドはより効果があって,聴衆が自発的に完成をあげるのが聞こえた。クルビンスキーはその夜ぼくの協奏曲に新しい美を発見してくれたが,ウィーマンはぼくのアレグロの何が良いというのかまだ分からないと言っていた。エルスナーはピアノの音が悪いと不平を言い,低音部のパッセージは聴こえなかったと言っていた。その夜パルテールに座っていた人々は完全に満足していたが,一方後ろの席の人々はぼくが小さい音で弾きすぎたとつぶやいていた。
モハナッキーが「ポーランド新聞」紙上でぼくを,ことにアダージョを絶賛した上で,もう少しエネルギーが必要だとの忠告で筆を置いている。ぼくはこのエネルギーがどこにあるか考えついたので,次の演奏会ではウィーン製のピアノを自分の楽器の代わりに弾いてみた。ディアコフというロシアの将軍が親切にも楽器を貸してくれたが,フンメルのより良いピアノだ。その結果,前回よりも多数の聴衆が満足した。拍手や感嘆詞,第1回よりぼくがよく弾けたとやら,音一つひとつがまるで真珠のようだった,というようにぼくを呼び出して,第3回の演奏会を!と完成をあげていた。
ロンド・クラコヴィアクは圧倒的な効果をあげた。期せずして喝采は4回起こった。エルスナーはこの演奏会の後に人は初めてぼくを正当に判断できると言っているが,ぼくは心から自分のピアノで弾きたかったのだ。第1回の曲目は知っているだろうね。第2回の演奏会はノヴァコフスキーの交響曲で始まり,ぼくの協奏曲のアレグロ,ビエラフスキーがベリオの変奏曲を演奏し,それから協奏曲のアダージョとロンドだった。第二部はロンド・クラコヴィアクではじまり,モイェール夫人が歌い,最後にぼくが即興演奏をした。君に真実を告げれば,ぼくは自分が欲したようには即興演奏しなかった。それでは聴衆向きではないからね。しかしアダージョが一般に受けたのにはぼくも驚いている。どこへ行ってもアダージョのことばかり聞かされる。
モロオロヴナ嬢が月桂冠を届けてきたし,今日は誰かの詩を入手した。オルオフスキーはぼくの協奏曲の主題でマズルカとワルツを書いた。ブルゼディーナの伴奏者がぼくの肖像画を求めてきたが,承諾しなかった。ぼくは自分の絵姿でバターを包まれたくないからね。
君にはぼくの肖像画をできるだけ早くお届けする。君が望むのなら進呈するよ,君だけで他の人には誰にもやらない。ぼくが贈る人は他にもう一人だけあるが,それにしても君のほうが先だ。君は最愛の人だから,いつものようにぼくは君の手紙を肌身離さず身につけている。5月になり街の城壁の外に出て,近づくぼくの旅を想い,君の手紙を取り出して,君がぼくを心にかけてくれることを確信することができたら,ぼくがこんなにも愛している君の筆跡や署名を見るだけでも,どんなに楽しいことだろう。
先週皆はもう1回演奏会をやるように望んだが,ぼくはしなかった。演奏会の前の最後の3日間がどんなに惨めなものか,君には思いもよらないだろう。これからぼくは休暇の前に次の協奏曲のアレグロを完成して,第3回の演奏会は休暇後まで待つことにする。社交界全体がぼくの演奏をまた聴きたがっているのだ。最後の演奏会で,第3回を求めるパルテールからの声の中で「市の公会堂」と叫んだ声が大きくて,舞台からも聴こえた。しかしぼくは応じないつもりだ。これは金銭の問題ではない。ドゥムシエフスキーは第1回目のピアノの演奏会で,こんなに大勢の聴衆が入ったのは初めてだと言っていたし,2回目はそれ以上だったが,2回の演奏会で経費を差し引いた後に,ぼくの利益は5,000より少なかった。問題は公会堂では同じく骨が折れて効果が少ないからだ。ぼくはすべての人のためには弾かない。最も上流の人たちのためか,さもなくば大衆のためか,どちらかだ。ぼくは人間はすべての人を悦ばすことはできないと,今まで以上に感じている。
ぼくは手紙を書き上げたくない。ことに,君を楽しますために望んだことが書かれていないので,ぼくはすべてを食後にとっておいたのだが,今は心からの抱擁以外に食後がない。なぜならぼくには君があるだけだから。
1830年,20才のショパンはワルシャワで3回の公開演奏会を開いています。
- 1830年3月17日 プロデビュー演奏会の公演 1回目
- 1830年3月22日 プロデビュー演奏会の公演 2回目
- 1830年10月11日 告別演奏会
ポーランド国内では幼少のころから人前で演奏をしてきましたが,これまでは一切の出演料を受け取っていませんでした。
これは父ニコラスの愛情深い教育方針によります。
神童を授かった両親ですが,フレデリックが慈善活動へ出演することには積極的でしたが,
決して息子の演奏で金儲けをしようとしませんでした。
フレデリックをいったんは音楽の専門学校ではなくワルシャワ高等中学校に入学させて幅広い教養を身につけさせたのも,フレデリックの将来を考えてのことでした。
そんなフレデリックも1829年の夏にワルシャワ音楽院を卒業し,
8月には友人たちとの卒業旅行の旅先であるウィーンですでに2回の演奏会を開き,実質的にプロの演奏家としてデビューを果たしていました。
1830年3月,いよいよショパンはワルシャワで演奏会を開き,祖国でプロとしてデビューしたのです。
手紙に書かれているように,1回目の演奏会では「ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 Op.21」が演奏されました。
ショパンの2曲のピアノ協奏曲のうち先に作曲された方になりますが,出版が後になったので,一般的には「第2番」とされています。
手紙の中にある「アレグロ」は第1楽章,「アダージョ」は第2楽章,「ロンド」は第3楽章のことを指します。第2楽章は実際は「ラルゲット Larghetto」ですが,手紙では「アダージョ」という表現を使っていたようです。
手紙の終わり頃に書かれている「次の協奏曲のアレグロ」というのは「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11 の第1楽章」のことです。
パリに到着したあと,こちらの協奏曲の方が先に出版されたため,一般に「第1番」とされています。
1回目の演奏会の評判について「低音部のパッセージは聴こえなかった」「小さい音で弾きすぎた」「もう少しエネルギーが必要だ」と書かれています。
これから先,ショパンは大きな会場で演奏するたびに同様の評価に悩まされることになります。
やがて,ショパンは大きな会場で演奏することを嫌い公開演奏会を避けるようになっていきます。
ショパンは派手で華やかな演奏ができないことに劣等感があったわけではありません。
逆に,当時流行していた鍵盤を叩きつけるような演奏を「乱暴な演奏」だと嫌悪していました。
耳を澄ませないと聴こえないような繊細で優美な演奏がショパンの理想の演奏でした。
ショパンが理想とする音楽が理解できない聴衆を嫌って,公開演奏から遠ざかっていったのです。
ただ,これは仕方がないことでもあります。
当時のピアノはまだ発展途上で,現代ピアノのように遠くまで響き渡るようなピアニッシモを奏でることはできませんでした。
手紙には第2回演奏会のプログラムについても書かれています。
2回目の演奏会では,「ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 Op.21」に加えて「ロンド・ア・ラ・クラコヴィアク ヘ長調 Op.14」も演奏されました。
手紙の文面からは初演のときから協奏曲 ヘ短調 Op.21の第2楽章が人気を博していたことが分かります。
詩情豊かな旋律美あふれる第2楽章は「これぞショパン」と言える極めて美しい音楽で,現代でも特に人気の高い楽章です。
第2楽章の中間部では,弦楽器のトレモロにのせて,ピアノソロがユニゾンによるレチタティーヴォを奏でるという前衛的な手法が用いられています。
この先進的な音楽を一般聴衆が理解していることにショパンが驚いている様子が手紙に書かれています。
2回目の演奏会では即興演奏も披露していますが「ぼくは自分が欲したようには即興演奏しなかった。それでは聴衆向きではないからね。」と書かれています。
「ぼくはすべての人のためには弾かない。最も上流の人たちのためか,さもなくば大衆のためか,どちらかだ。ぼくは人間はすべての人を悦ばすことはできない」とも書かれています。
ショパンはワルシャワ時代,エチュードやピアノ協奏曲など普遍的な芸術作品を既に書き始めていましたが,一方で軽薄で深みのない作品もたくさん書いています。
音楽家として名をあげるために,意識的に大衆受けする作品を書いていたことが分かります。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.4.10]
- 日付;1830年4月10日 日曜日 *ショパン20才
*ショパンの妹エミリアの一回忌 - 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛のティトゥス
先週君に便りをしたかったのだが,あまりに早く過ぎてしまって,どうしたのかわからないほどだ。
”ワルシャワ・ガゼット” 紙上に,半面にわたる長文でエルスナーを嘲弄する記事が載ったらしい。短い言葉でこの話のすべてを君に告げるのは困難なことだ。君が正しく理解できるように,できたら新聞を送るところなんだが,ぼくはただ事件をスケッチすることにしよう。ぼくの演奏会後には,ことに “クリエ” 紙などに洪水のように記事が書かれたが,彼らの賛辞はやや誇張されてはいたが,肯定されぬこともない程度だった。”オフィシャル・ブレティン” 紙も何ページかを賛辞に捧げていたが,その一つに善意をもって書かれているのだが,あまりに非常識な見解が含まれていたので,その反論を “ポーリッシュ・ガゼット” 紙で後で読んだときにはがっかりしてしまった。それは他からぼくに与えられた誇大された,形容をまさに正当に剥奪してしまった。まあ聞いてくれたまえ。”オフィシャル・ブレティン” 紙は「ポーランド人はドイツ人がモーツァルトを誇るように,ぼくを誇るべし」と公言している。明らかにバカげた話だ。しかし同じ文章の中で筆者はまた,ぼくが学者ぶった連中やロッシーニ信奉者の手にかかっていたら,現在のぼくにはなっていなかったであろうと言っている。ぼくはとるに足らぬ者だが,彼のこの言は正しい。もしぼくが,ぼくに確信が持てるように鼓舞してくれたエルスナーに教えられなかったら,ぼくは現在持てるもの以下にしかなれなかった。このロッシーニ信奉者への嘲笑と間接に書かれたエルスナーへの賞賛が,君にも誰のことだか解るだろうが,ある人を激昂せしめて “ワルシャワ・ガゼット” に「なぜわれわれはエルスナーに感謝すべきなのか」と書き,エルスナーが35年前に書いた四重奏について,作者の名を明記せずに誹謗している。しかもぼくに対してはやさしい好もしい筆致で言及し,ロッシーニを学ぶこと,しかし模倣せぬことを忠告している。この忠告はぼくに独創性があるといった他の記事の反響で “ワルシャワ・ガゼット” はそれを認めないのだ。
ぼくは明後日の復活祭のディナーにミナソヴィッチの家に招かれているが,クルビンスキーもくるだろう。彼はぼくに何というだろうか。ぼくは水曜日のレシュケウィッチの演奏会で彼を見かけた。若いレシュケウィッチはよく弾くが,まだ主として肘から先でのみ弾いている。しかしぼくは彼をクログルスキーより良いピアニストになると信じている。人々はしばしばぼくから引き出そうとするが,ぼくはこの意見をまだあえて表明していない。
音楽の話はもうたくさんだろう。これから音楽愛好家氏宛てではなく,地主のティトゥス・ヴォイチェホフスキ宛てに書くとしよう。昨日は受難節の金曜日だったので,ワルシャワ中の人が墓参りに出かけた。ぼくは君の兄さんのカロルに会った。彼は花の蕾のように健康だった。
・・・ああ! 郵便だ! 君からの1通の手紙!
最愛なる人よ,君は何とすばらしい人なのだろう!
でも不思議ではない。ぼくはいつも君のことを想っているのだから。君の手紙から推察するに,君は “ワルシャワ・クリエ” しか読んでいないようだ。”ポーリッシュ・クリエ” と “ワルシャワ・クレ” の91号を読みたまえ。
夜会に対する君の忠告は正論だ。あたかも君の意見を予知していたようにぼくは多くの招待を辞退していたよ。何か行動するごとにいかにぼくの想いが君に向けられているか君にはわかるまい。君とともにある時に感じることを,ぼくが学んだからかどうかわからないが,ぼくは何か作曲するごとに,君が気に入るかどうか知りたい。そしてぼくのホ短調の協奏曲も,君に聴いてもらうまで,ぼくの判断には価値がないと想っている。プロミルスキーがぼくを木曜日に招きに今日やってきたが,安心してくれたまえ,拒絶されて帰っていく彼の姿を君は見ることができる。人々が期待している3回目の演奏家はやらないつもりだ。なぜなら出発の直前にやらなくてはなるまいから。馬車がすべってゆき,淑女たちの帽子が遠くから輝いている。美しい季節だ。
今,ぼくに散歩をさせてくれるツェリンスキーがやってきた。いいやつだ。ぼくの健康に心を遣ってくれる。ぼくは彼と外出する。あるいは君を思い出させる人に会うかもしれない。君はぼくの愛する唯一の人だ。
尊敬する作曲の師であるエルスナーを侮辱する記事を書いたのは,この手紙にも出てくるクルビンスキーです。
ジブニーがショパン唯一のピアノ教師であったように,エルスナーはショパンにとって生涯ただ一人の作曲の師でした。
ショパンは生涯,この二人の師を尊敬し感謝を忘れませんでしたが,エルスナーへの敬意がこの手紙からも伝わってきます。
手紙に書かれている「ホ短調の協奏曲」とは「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11」のことです。
この手紙はショパンの妹エミリアの命日に書かれています。
そして,手紙を書いているちょうどそのときにティトゥスからの手紙が届いています。
ティトゥスは学生時代をショパン家の寄宿舎で過ごしていますから,ショパン家とは家族同然の親しい間柄でした。
ティトゥスはショパンの妹エミリアの命日や父ニコラスの命名日にちょうど届くように手紙を送っています。細やかな心遣いが感じられます。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.4.17]
- 日付;1830年4月17日 *ショパン20才
*父ニコラスの命名日 - 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
君の手紙が届いたのは,堪え難い倦怠の中にいたぼくにとって,なんという救いだったろう。ぼくはかつてないほどに退屈していて,まさに今日それを必要としていたところだ。ぼくの幸福を毒するあのもの思いを捨て去ろうと欲しながら,なおぼくはその中に身をやつしてしまうのだ。自分でもどうしたのかわからない。この手紙を書いたら少し落ち着くかもしれない。
あるいは君が来てくれるかもしれないとのこと,それは愉快だ。ぼくもまた国会が終わるまでいるはずだから,新聞によれば5月28日に開会らしいから,われわれの希望は1ヶ月続くわけだ。ことにクリエはゾンタッハ嬢を予告しているからね。ドゥムシェフスキーは相変わらず嘘をついたり,多くの奇妙なものを発明している。昨日会ったら,クリエにぼくに捧げる詩を発表する,というあきれたニュースを話していた。「神に誓ってそんな馬鹿らしいことはしないでくれ」とぼくは言った。「もう印刷したよ」と彼は親切な表情で,そのような栄誉をぼくも悦ぶべきだという顔で言うのだ。困った親切だ。ぼくを攻撃しようとする奴等一同に,再び嘲弄の機会があることになる。ぼくは今後人がぼくについて書くものを一切読まないし,言うことにも耳をかさないつもりだ。
明日は「魔笛」だ。そしてその翌日は盲目のフルーティスト,グリュンベルグの演奏会だ。彼は次の演奏会でぼくが助演するのを望んでいたのだが,ぼくいはよい拒絶の口実があった。それはぼくがすでに他の人を断ったから,公平を欠くという理由だ。
皆が君の手紙を読みたがっているが,絶対に許可しない。ぼくは自分のためだけに大切にして,毎日心で読んでいる。だからルドヴィカは機嫌が悪い。ことに彼女には君から何も伝言がないといったからだ。
先週きみのところに行こうとぼくが仕度をしていたのを君は知らないだろう。しかし実現しなかった。もし君が国会の期間にワルシャワに出てくれば,君はきっとぼくの演奏会にも間に合うだろう。ぼくには一種の予感があるのだ。どうなろうとぼくはそれを盲目的に信じている。よく君の夢を見るから。いかに,しばしば,ぼくは夜を昼と思い,昼を夜と思うことか,いかにしばしば,ぼくは夢の中に生き,昼眠ることか。やっぱり感じているのだから眠るよりもなお悪い。そして睡眠中にするように,うとうとしているうちに元気を回復するかわりに,ぼくはむしろ衰弱し疲労してしまうのだ。どうかぼくを愛してくれたまえ。
この手紙はショパンの父ニコラスの命名日に書かれています。
妹エミリアの命日と同様に,この日もティトゥスから手紙が届いており,ティトゥスからショパン家への細やかな心遣いが分かります。
「君が来てくれるかもしれないとのこと」と書かれていますから,ティトゥスからショパンへ「君に会いに行けるかもしれない」という手紙を送っていたことがわかります。
しかし実際にはティトゥスがワルシャワを訪れることはありませんでした。
手紙に書かれている「国会」というのは「セイム」と呼ばれるポーランドの国民議会のことです。
セイムの会期中はロシア皇帝もワルシャワを訪問していて,全国から貴族がワルシャワに集まり,上流階級の社交界はあたかも祭りのような賑やかさとなっていました。
そんな「セイム」ですが,この年5月28日に開会された議会がポーランド最後の議会となり,半年後には革命によって,その後数十年にわたってポーランドは独立を失うことになります。
セイム会期中,ゾンタッハやリビンスキーなど,諸外国の一流の芸術家が続々とワルシャワを訪問し,半年後に独立を失う運命にあった人々は,儚い栄華に酔いしれていました。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.5.15]
- 日付;1830年5月15日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
フリッツが君の手紙に折り返し返事を書かないので,君はきっと驚いただろうね。手紙の中の質問の答えが不明だったので待たなくてはならなかったんだ。さて,ぼくの可愛い魂よ! フロイライン・ゾンタッハは6月には必ず当地に来ることを知りたまえ。あるいは5月末かもしれない。それからグラドコフスカ嬢とヴォルコーヴォ嬢も大臣閣下の命令に従って,グラドコフスカはペールの「アグネス」に,ヴォルコーヴォは「トルコ人」に出演する。昨日の夜,ぼくはソリヴァの許に出かけた。グラドコフスカ嬢が,特に彼女の喉をきかせる曲として,彼女の今度のオペラのためにソリヴァが書き加えたレシタティーヴォを歌った。なかなか良い部分があり彼女の声にふさわしい。君はゾンタッハ嬢を聴く機会を逃さぬことと思う。ぼくはゾンタッハ嬢にどんなに感謝していることか。ぼくらはたくさん音楽をやろう。
プロシア王国の宮廷ピアニストのヴォーリッツァーが2週間前から当地に滞在している。彼は素晴らしく弾く。小さなユダヤ人で生まれながら聡明で,まだ16才の子どもに過ぎない。彼の十八番はモシェレスのアレキサンダー行進曲で,見事に演奏し,不足するものは何もないと思う。しかしわれわれだけの間でいえば,彼は彼の有する称号ほどにはまだ達していない。
例の令嬢ピアニストの父のプラーエトカ氏がぼくに手紙をよこして,ぼくがすすめれば国会会期中に彼女が来訪すると言ってきた。微妙な立場だ。父親のドイツ人はお金が欲しいのだから,失敗に終わればぼくを困らせるだろう。ぼくは早速返事を書いた。多くの人々が彼女の演奏を期待しているが,ゾンタッハも来るし,リビンスキーも来るのに劇場が一つで,百ターラー以上もかかること,多くの舞踏会があり,精霊降臨祭が近づいているし,遠足が行われるであろう,等々。あるいは彼女はやってくるかもしれない。ぼくは喜んでできるだけを尽くすだろう。例えば2台のピアノで合奏することになろうとも,あのドイツ人がウィーンでどんなにぼくに親切だったか,君は思いも及ばないだろうね。
ぼくの旅行については,どうなるか今はわからない。今年外国に出かけるかわりに,ぼくは熱でも出すまで待つようになるかもしれない。6月も7月もここにいるだろう。ぼくは出かけることすら欲しないかもしれない。何故かというと,ある理由のためだ。君はすでに知っている。暑気が激しくない限り別に理由はないのさ。ウィーンのイタリア歌劇は9月に始まるのだから,急ぐ必要はない。それにことに新しい協奏曲のロンドがまだ完成していないからね。この仕事もぼくは急いでいないのだ。最初のアレグロができているので残りの部分の心配はしていない。変奏曲はまだ演奏していないから,ぼくはもう1回演奏会がやれるわけだ。プラーエトカが,最近変奏曲が出版されて,ハスリンガーがライプツィヒの復活祭の見本市に持っていったと書いてきた。
新しい協奏曲のアダージョはホ長調だ。にぎやかなものではなく,ロマンス風な静かな哀愁,様々の懐かしい思い出が心に浮かんでくるある場所を,心をこめてじっと眺めているような印象を与えなくてはならない。美しい春の夜の,月光の下でのもの想いのようなもの,これが伴奏にも弱音器をかけさせた理由だ。弱音器はヴァイオリンの弦の上にとめる櫛のようなもので,一種の鼻にかかった銀のような音色になる。
63才のビクセル博士が,亡くなった妻の17才の姪と結婚した。興味本位の参列者たちで教会ははち切れんばかりだったよ。当の本人は,何故これほどの人たちが,彼女が結婚することを惜しんでいるのか不思議に思ったそうだ。この事は新婦の付添人だったモリオール嬢から聞いた。この手紙を出したら,すぐにモリオール家を訪れることになっている。彼らから手紙をもらったからだ。彼らのことをぼくはとても気に入っている。
ぼくはアレグロを5月末に,家で試みるつもりだ。今から2週間後だ。だからいつ君が確かにワルシャワに来るかどうか知らせてくれたまえ。もし君なしで演奏しなくてはならないとすると,ぼくは第1回のときよりも落胆するだろう。いや,君はぼくがどんなに君を愛しているのか知らない。ぼくには示すことができない。君に解かってもらえたらとぼくは長い間切望してきたんだ。ただ君の手を握るために,ぼくが捧げぬものがあるかしら。ぼくの惨めな生活の半分も,君には思いもよらないだろう。
ショパンが1829年10月3日の手紙に「理想の女性」だと書いたコンスタンツィア・グラドコフスカが「アグネス」でデビューすることが書かれています。
グラドコフスカ嬢とヴォルコーヴォ嬢はショパンからティトゥスへの手紙の中に何度も登場します。
実際の手紙には「GとW」とか「Gの方」のようにイニシャルで書かれていたようです。
手紙に書かれているソリヴァという人物はワルシャワ音楽院の声楽科の教授で,グラドコフスカ嬢とヴォルコーヴォ嬢の師にあたります。
この手紙からは「理想の女性」であるはずのグラドコフスカ嬢よりも,その美声を歌われた歌姫ゾンタッハ嬢への強い興味と関心が感じられます。
手紙には,早くウィーンへ旅立ちたいと思いながら,中々一歩を踏み出せない様子が書かれています。
まるで,一度ポーランドを出国してしまえば,二度と祖国に戻ることができない,という運命を予感しているかのようです。
「変奏曲」と書かれているのは「ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ “ドン・ジョヴァンニ” の “ラ・チ・ダレム・ラ・マノ” による変奏曲 変ロ長調 Op.2」のことです。
1828年9月9日の手紙に「幸運に恵まれた」作品だと書かれていた曲です。
とうとうショパンの作品が初めて,ヨーロッパの中心都市で出版されたのです。
「新しい協奏曲」は「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11」のことです。
第2番の協奏曲と同様に,第1楽章のことを「アレグロ」,第2楽章を「アダージョ」,第3楽章を「ロンド」と書き表されています。
第2楽章は実際は「Romanze, Larghetto」なのですが,第2番の協奏曲と同様に「アダージョ」と書いていますね。
この手紙が書かれたときには,第1楽章が既に完成していたということが分かります。
第2番の協奏曲の第2楽章と同様に,第1番の協奏曲の第2楽章も「ショパンの真骨頂」といえる甘美な楽章です。
この楽章の美しさを表すのに,ショパンの手紙に遺された言葉以上のことは書けないでしょう。
にぎやかなものではなく,ロマンス風な静かな哀愁,様々の懐かしい思い出が心に浮かんでくるある場所を,心をこめてじっと眺めているような印象を与えなくてはならない。美しい春の夜の,月光の下でのもの想いのようなもの,これが伴奏にも弱音器をかけさせた理由だ。弱音器はヴァイオリンの弦の上にとめる櫛のようなもので,一種の鼻にかかった銀のような音色になる。
手紙にも書かれている通り,第2楽章では弦楽器に弱音器を付けるという画期的な手法が使われています。
手紙の中にモリオール嬢の名前が出てきています。
ショパンの手紙の和訳は複数存在します。
中には「喜んで白状するが,(モリオール嬢に対して)恋心を持っているからだ」と書かれてい和訳も存在します。
ショパンの本命は,コンスタンツィア・グラドコフスカではなく,モリオール嬢だったのでは,と言われたり,グラドコフスカへの恋心を隠すために,モリオール嬢を隠れ蓑にしていたのだ,と言われたりすることもあります。
手紙の最後には,ショパンからティトゥスへの熱烈な招待が書かれていますが,やはりティトゥスはワルシャワへやって来ることはありませんでした。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.6.5]
- 日付;1830年6月5日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
君はゾンタッハの5回の演奏会を聴き逃した! しかし13日に君が本当に出てくるなら,悲しまなくてもよい。その日は日曜日だと思うが,君はゾンタッハの留守を利用して行われる,ぼくの第二協奏曲のアレグロの家での最初の練習に,ちょうど間に合うだろう。昨日彼女はあの可愛らしい唇で,プロシア王の要請で,フィッシュバッハに行くとぼくに告げた。家の中でソファーの上で彼女と親しく会うことが,どんなに楽しいものか君には考えられまい。ぼくたちはただこの神の使いのことばかり考えている。ラジヴィウ公がぼくを彼女に紹介してくれた。ぼくは心から彼に感謝している。
要塞の司令官,将軍,上院議員等,彼女は思いもよらないほどに退屈な訪問客に悩まされている。彼らは口をあけて彼女に感嘆しつつ,お天気の話題ばかりだ。彼女は彼らを丁寧に迎える。彼女の心はやさし過ぎるのだ。しかし昨日は練習に劇場に出かける前に,彼女は帽子をかぶるために扉に鍵をかけねばならなかった。彼女はラジヴィウ公が彼女のために編曲した歌曲をぼくに写すようにとくれた。ウクライナの民謡の変奏曲で,主題とカデンツァは美しいが,ぼくもゾンタッハも中央部が気に入らない。ぼくが少し手を入れてみたがやはりよくならない。
ゾンタッハは美しくはないが,稀にみるほど愛らしい。彼女はその声で何人をも魅了してしまう。あまり大きな声ではないが,きわめて練磨されている。ディミヌエンドは比類なく,ポルタメントは美しい。そしてことに彼女の上昇する半音階は精妙なものだ。彼女は喝采に呼び戻されると,感謝を示してお辞儀をするかわりに繰り返して歌った。信じ難いほどに善良なのだ。
ぼくは一度彼女を訪問して,ソリヴァとグラドコフスカ嬢,ヴォルコーヴォ嬢に会った。彼女は彼らにしばしば訪ねてくるように,できるだけ自分の歌い方を見せるから,と言っていた。それは超自然的な親切さだ。天性にまで高められた愛嬌だ。愛嬌の技巧を知らずに,人間の天性があるようにあり得ると考えることは不可能であろう。彼女は夜会や夜の衣裳を着ているときより,朝の着物の方が百万倍も美しい。もっとも朝の着物の彼女を見たこともない者も,彼女に惚れているのだが。ペテルスブルグに行くと,彼女の唇からぼくがきいたのだから,急いでやってきたまえ。
マドモワゼル・ヴェルヴィーユというフランス婦人も当地に来ている。彼女はピアノをよく弾く,きわめて軽やかに優美に,ヴォーリッツァーより十倍もよく。マドモワゼル・ヴェルヴィーユはぼくの変奏曲を暗譜し,演奏しているんだ。
もう少々ゾンタッハについて書きたい。彼女は新しい型の装飾音符を用いている。それはパガニーニよりは少ないが,大きな効果をあげる。あたかも新鮮な花の香気を,彼女が会場に吐きかけているようだ。彼女は頬ずりし,愛撫し,恍惚たらしめるが,涙を催させることは稀なんだ。だからぜひともやって来たまえ。そして君の田園の苦悩を快楽の膝に忘れたまえ。ゾンタッハが君のために歌い,君は仕事への力を新たにされる。この手紙の代わりにぼく自身を投函できないのは,何という口惜しさだ。おそらく君は反対するだろうが,ぼくは君を欲する。
多くの上流な芸術に触れて熱狂している「セイム」会期中のショパンの様子が伝わってきます。
これまでの手紙と同様に,「第ニ協奏曲のアレグロ」は「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11 の第1楽章」のこと,「変奏曲」は「ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ “ドン・ジョヴァンニ” の “ラ・チ・ダレム・ラ・マノ” による変奏曲 変ロ長調 Op.2」のことです。
ここでも「理想の女性」であるはずのグラドコフスカ嬢の名前が出てきますが,グラドコフスカについてはほとんど触れられていません。
それよりもゾンタッハ嬢に心から傾倒している様子が書かれています。
「13日に君が本当に出てくるなら」と書かれていますから,そのように匂わせるような手紙がショパンのもとへ届いていたことになります。
しかしティトゥスはやはりワルシャワを訪れることはありませんでした。
手紙の最後に書かれている「君の田園の苦悩」「君は仕事へのちからを新たにされる」という記述から,ティトゥスは領地での仕事が忙しいことを理由にして,ショパンのもとを訪れることができない状況を説明していたのではないかと想像できます。
多忙で領地を抜け出すことができないティトゥスの代わりに,
ショパンがティトゥスの荘園を6月末に訪問しています。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.8.21]
- 日付;1830年8月21日 土曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
偽善者よ!
これは君に書く2通目の手紙だ。君は信じないで,フリックは嘘を言っていると言うだろうが,今度こそは本当だ。男爵と一緒にワルシャワへ戻ったあとすぐに手紙を書いたのだが,両親がジェラゾヴァ・ヴォーラにいたので,自然とぼくもワルシャワにゆっくり居られなかったのだ。投函するように手紙を残しておいたのだが,両親と一緒にワルシャワに帰宅してみると,ぼくが置いたカップの横にそのままになっているのを見つけだした。この手紙には,多分最初の手紙ほどには悪いことは書かないよ。ぼくは君の畑に一種の郷愁を感じる。あの窓の下の白樺の木を忘れることはできない。
ぼくはワルシャワの出来事の中で「アグネス」に没頭している。グラドコフスカは欠点が少なく,演奏会場より舞台の方が良い。高い音域の嬰ヘ音とト音に時おり難がなければ,あれ以上の歌は望めないほどだ。彼女のフレージングに至っては君を歓喜させるだろう。彼女は豪華な陰影をつける。最初に登場したときには声が少し震えたが,その後は勇敢に歌った。第二幕で彼女がハープに寄せるロマンスを歌うときには,エルネマンが舞台裏でピアノで,幻影を壊すことなく伴奏を付けた。最後に彼女は大変よく歌った。ぼくは嬉しかった。1週間後にヴォルコーヴォ嬢がフィオリラ役で「トルコ人」の舞台に出演する予定だ。ヴォルコーヴォ嬢の方がよりよく観客に受けるかもしれない。
ぼくは来月の10日に当地を出発するが,ロンドが完成したのでまずぼくの協奏曲の練習をせねばなるまい。ぼくのチェロのポロネーズとトリオが朝の10時にエルスナー,エルネマン,ジヴニーの前で匿名で演奏される。ぼくらは力尽きるまで弾くことになるだろう。ここにはマトゥシンスキも来てくれるよ。彼はいつも親切だからね
今日は「ハムレット」なので,行くところだ。この手紙を郵便局に持っていくために,急がねばならない。また前のように置き忘れられるといけないから。ぼくは君から何も望まないよ。握手さえも。ぼくは永久に君に愛想をつかしたのだ。ぼくは君を抱擁する。
ショパンは8月,両親とともに自身の生誕の地でもあるジェラゾヴァ・ヴォーラ村を訪れています。
毎年夏にはポーランドの田舎で過ごし,ポーランドの民族音楽や民族舞踏,ポーランド農民の生活に親しんできましたが,それも,この時が最後となりました。
ショパンは6月末にティトゥスの宮殿を訪れ,無二の親友と楽しい時間を過ごしたはずですが,この手紙にはそのことがほとんど触れられていません。
冒頭に「偽善者よ!」と書かれています。
また,この手紙よりも前に「悪いこと」を書いた1通目の手紙があったはずですが失われています。
ショパンが結局は1通目の手紙は送らなかったのかもしれませんが,普段のショパンなら,この2通目の手紙と一緒に,1通目の手紙も同封して送っているはずです。
この失われた1通目の手紙をティトゥスが故意に公表しなかったのではないか,と疑うこともできます。
失われた1通目の手紙には,例え冗談であってもショパンに「偽善者よ!」と書かせる原因が理解できるような内容が書かれていたのではないか,と考えられます。
「偽善者」だと言って責めているわけですから,ティトゥスに何らかの嘘やごまかしがあったのではないか,ということになります。
領主としての仕事が忙しいことを理由に,ショパンに会いにくることができない言い訳をしていたティトゥスですが,いざショパンがティトゥスを訪れてみると,領主様は悠々とした日常を送っていた。そんなストーリーを想像することができます。
「理想の女性」グラドコフスカ嬢が「アグネス」に出演してデビューを果たしたことが書かれています。
この時期,グラドコフスカ嬢への想いがつのり,打ち明けられない恋に悩んでいたとされていますが,手紙からはそこまで深い感情は伝わってきません。
ショパンの伝記では,愛するグラドコフスカのデビューに間に合うように,ティトゥスの領地からワルシャワへ慌てて戻ってきた,と書かれていることもあります。
しかし手紙に書かれている通り,ワルシャワには「男爵と一緒に」戻ってきています。
フランス語教師の家庭で育ち,つい先日プロデビューしたばかりのショパンには,気軽に旅行できるほど金銭的な余裕はありません。
おそらく「男爵」の旅行に同行させてもらっていたのでしょう。
ショパンは自分の都合でワルシャワに戻ってこられるような状況ではなかったわけです。
しかも,一度ワルシャワに戻ってきたあとでジェラゾヴァ・ヴォーラにいる両親のもとへ向かっています。
グラドコフスカ嬢のデビューを観るために慌てて戻ってきた,という印象は感じられません。
「ロンド」とは「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11 の第3楽章」のことで,この手紙を書いたころには完成していたことが分かります。
「チェロのポロネーズとトリオ」とは「ピアノとチェロのための,序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3」と「ヴァイオリン,チェロ,ピアノのための三重奏曲 ト短調 Op.8」のことです。
この手紙には来月(9月)の10日にはポーランドを出国すると書いていますが,実際はまだまだ旅立つことができず,ポーランドで悶々とした日々を過ごすことになります。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.8.31]
- 日付;1830年8月31日 火曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛のティトゥス
ぼくは君の手紙を必要としていたのだ。手紙が来たらぼくの風邪が治ってしまったよ。君が読む時,ぼくの2通の手紙に君の偽善と不誠実を癒やす,祝福された効果があればどんなにぼくは幸福だろう。けれども,この手紙はそれどころか君の獅子のような心に憤怒さえも起こさせるかもしれない。ぼくが40マイルも君から離れているのは運がよいことだ。そもなくば君の怒りの総重量が瞬く間にぼくの上に襲ってくるだろうから。ぼくはまだワルシャワにいる。そして君を愛しているので,外国に行くことに何の誘惑も感じない。ぼくは来週には本当に出発するつもりだ。旅は近づいてくるが,今週ぼくは協奏曲全曲を四重奏で練習しなければならない。エルスナーがそれをしないと管弦楽との練習がうまくゆくまい,と言ったからだ。先週の土曜日にトリオを演ってみた。長らく聴かなかった故か,ぼくは相当に我ながら満足したよ。
もうぼくの話は十分だろうから,他の音楽家について語ろう。君はぼくのことを利己主義だと言うだろうね。でもそれは君がぼくに与えたものだ。この前の土曜日,ソリヴァはヴォルコーヴォを磨き上げていた。彼女の艶めかしさ,素晴らしい演技,可愛らしい目と歯で会場を魅了した。これほど可愛い歌姫は他にいない。歌唱力を言えば,グラドコフスカは比較にならぬほどに,ヴォルコーヴォより優れている。エルネマンとぼくは舞台上の声として,純粋さ,発声,感情の表出において,第二のグラドコフスカはいない,という意見が一致した。ヴォルコーヴォは時おり調子を外すが,彼女はただの一度も曖昧な音を出さなかった。一昨日彼女に会った折に,君の賛辞を伝えたところ,君に感謝を述べていた。グラドコフスカは近く「泥棒かささぎ」に出演するが,近くということは,多分ぼくが国境を越えてしまった後を意味するだろう。
あるベルリンの新聞にワルシャワの音楽について馬鹿げた記事が出ていた。まず第一にグラドコフスカの歌と情調と演技を正当に賞賛した後に「この若き芸術家はエルスナー氏およびソリヴァ氏の指導する学校の出身である。前者は作曲の教授でオルオフスキー氏,ショパン氏を初め多くの門下を養成した,うんぬん・・・」こんな奴は悪魔が引っさらってゆくとよい。エルネマンはぼくが2番目にあげられたことを幸運と思うべきだと言っている。コストゥシは来月キムメルとウィーンに行く。フーベは今頃イタリアに行っているだろう。イタリアを想うとぼくの頭は痛む。
もう冗談はやめよう。許してくれたまえ。ぼくはいつものように君に何を書いたかわからない。ぼくはあの秘密がぼくの心に秘められていること,それが君とぼくとの間だけで終わることを喜んでいる。君はぼくの中にあたかも君の第二の自己に対するように,安心してなんでも投げ込むことのできる深淵を持っていることを喜んでよい。なぜなら君の魂はもう長らくその底に横たわっているのだから。ぼくは君の手紙をまるで恋人からのリボンのように大切にしている。手紙をくれたまえ。そして1週間後にぼくは君とのおしゃべりを楽しむことだろう。
ここでもグラドコフスカ嬢の話題が書かれていますが,恋愛感情を感じるような表現は見られません。
「ぼくの2通の手紙」と書かれていますから,やはり失われた1通目の手紙も同封してティトゥスのもとへ送っていたのだと分かります。
「来週には本当に出発するつもりだ」「旅は近づいてくる」「近くということは,多分ぼくが国境を越えてしまった後を意味する」と書かれていますから,一つ前の手紙に書かれていたように,9月の上旬にはウィーンへ旅立つ予定でいることがわかります。
この手紙に書かれている「協奏曲」は「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11 」のことです。
初演へ向けて,まずは弦楽四重奏と合わせて練習をする予定であることが書かれています。
また,「トリオ」は「ヴァイオリン,チェロ,ピアノのための三重奏曲 ト短調 Op.8」のことで,前回の手紙に書かれていた「朝の10時にエルスナー,エルネマン,ジヴニーの前で」の演奏が実際に行われたのだと分かります。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.4]
- 日付;1830年9月4日 土曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛のティチャ!
偽善者君,ぼくはいつもよりもっと気が変なのだ。ぼくはまだここにいる。ぼくは日取りを決める力がないのだ。ぼくは永久に我家とお別れするために,立ち去るだろうと思う。死ぬために立ち去るだろうと思う。それまで暮らしてきた以外の土地で死ぬのは,どんなにかもの侘しいことだろう。死の床の傍らに家族の代わりに,冷淡な医者や召使いを眺めるのはどんなに恐ろしいことだろう。ぼくは時おり,君のもとで平静さを得たいと,今にも出かけようとするのだが,家を出て街を歩き憂鬱になって再び家に戻ってくる。ただ想いわずらうために。ぼくは協奏曲の練習をまだしていない。とにかくぼくはミカエル祭までにぼくの宝物すべてを残してウィーンに行かねばならない。絶えざる息に宣告を下して。人間の能力をよく知っている君は,どうかぼくになぜ人は明日が今日と同じだと信じるか説明してくれないか。馬鹿をいうな,これがぼくが自分に与える唯一の答えなのだ。
この冬のぼくの計画はこうだ。ウィーンに2ヶ月滞在し,その後はイタリアへ行くつもりだ。おそらくミラノで冬を過ごすだろう。手紙は受け取れるようにする。今日のぼくの手紙は何も書かずに終わりになる。なぜならもう11時半でモリオール嬢が待っているのにぼくは身支度もせずに書いているのだ。モリオール嬢が湖畔から帰ってきたのだ。この手紙の空虚さが苦しく気になるが仕方がない。ぼくはこの手紙に夢中になるわけにはゆかない。そうなるとモリオール嬢が今日ぼくと会えなくなるし,ぼくは彼女のことが好きで,期待を裏切るわけにはいかない。ぼくは時にぼくの悩みの原因を彼女に帰することがあることを告白する。そして周囲もそのように感じているのだと思う。ぼくは表面的には落ち着いている。
一緒にイタリアに行こうではないか。今日から1ヶ月のあいだ,君はワルシャワからもまた他の土地からもぼくの手紙を受け取らないだろう。君はさぞぼくを待たせるだろうね。そしてぼくは君の手紙を受け取る「ぼくは目下水車場の仕事を仕上げねばならずまた酒造所をはじめなくてはならない。そして羊毛と羊の面倒を見なくてはならず,そのうちに次の種まきの時期になる」しかし君をとどめているのは水車でも酒造りでもない,何か別のものだ。人間は常に幸福ではあり得ない。悦びは一生の間で恐らく瞬く間しか訪れない。それなのに,いずれにしても長くは続かない幻影からなぜ自らを離れ去ろうとするのだろうか。一方ぼくは友情の絆を最も神聖なものと考え,また一方それが地獄の発明だと考える。そして人間が金銭も,粥も,長靴も,帽子も,ステーキも,パンケーキも知らなかったらよかったと考える。ぼくはこれから洗いにゆく。キスしてはいけないよ,まだ洗ってないのだから。ぼくがビザンチュームの香油を塗っていたにしても,磁力で君に強いない限り,君はぼくにキスしないだろう。自然の中には一種の力があるものだ。今日君はぼくとキスしている夢を見るだろう。昨夜君がぼくに贈った恐ろしい夢の埋め合わせを,君にさせねばならない。
9月10日に出発予定だったショパンですが,その日が近づくと「ぼくは日取りを決める力がない」というように決心がにぶっています。
さらには「永久に我家とお別れする」「死ぬために立ち去る」「それまで暮らしてきた以外の土地で死ぬ」などの記述も見られます。
これまでの手紙からも感じ取れましたが,二度と祖国に戻れない運命を予感しているとしか思えない内容です。
このときショパンは,ウィーンとイタリア,そして恐らくはパリへ,演奏旅行に出かける計画をしていただけです。
外国へ旅行に出かけただけで祖国へ戻れなくなるわけではありません。
実際,昨年はウィーンへ卒業旅行に出かけ,無事ポーランドへ戻ってきています。
このように,その後の運命をまるで予感しているかのように書かれている部分は,
ティトゥスによって,もしくは手紙の翻訳者・編集者によって脚色・加筆されたと断言して良いでしょう。
再びモリオール嬢が登場します。
文面からはモリオール嬢への明確な好意が感じられます。
ショパンの好意が周囲に気付かれていることも書かれています。
ここまでティトゥスへの手紙を読み進めてくると,1829年10月3日の手紙に書かれていた,グラドコフスカに対する「理想の女性」という表現も捏造だったのでは,と感じられてきます。
もしくはショパンが実際にグラドコフスカのことを「理想の女性」であると手紙に書いたのかもしれません。
しかしそれは,後世になって数々の伝記に書かれたような,身を焦がすような初恋ではなかったのかもしれません。
健全な若者が,魅力的な女性と出会うたびに率直な感想を友人への手紙に書く,というのはごく自然なことのように思えます。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.18]
- 日付;1830年9月18日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
非道の偽善者よ!
なぜだかわからないが,ぼくが幸福に感じているので両親が喜んでいる。先週の水曜日にぼくは協奏曲を四重奏で試演していた。満足はしたものの,ことごとくではない。皆は終楽章が最も良いと言っている。最も解りやすいからだ。来週は管弦楽とどんな風にゆくかお知らせしよう。火曜日に試演するから,明日もう一度四重奏とやってみるつもりだ。試演が済んだらぼくは出かける。しかしどこに? どこにも行きたくないのに。いずれにしろ,ぼくはワルシャワにとどまるつもりはない。ワルシャワの多くの人たちがしているように,君も恋愛事件を想像するなら,それはやめたまえ。そして自分の自我に関する限り,ぼくはそれに打ち克てること,もしぼくが恋をしているなら,その無力な惨めな熱情をもうあと数年間秘めておけることを信じてくれたまえ。君の好きなように,どうとでも思っていたまえ。いずれ伯爵にことづける手紙が,事情をより詳しく説明するだろうから。
ぼくは君とともに旅をしたくない。君への嫌味を思いついたわけではないよ。君を愛しているので,異国でぼくら二人が出会い抱擁する瞬間を,損なうからなのだ。ぼくは今その時に可能なように,君を待ち,君を迎え,君と語ることはできない。歓喜が冷たい月並みの文句を閉め出して心と心とが神聖な言葉を語るその時,神聖な言葉とは何と不幸な形容だろう,あたかも神聖なへそとか神聖な肝臓とかいうように,恐ろしく物質的だ,しかし君に会うときの話に戻って,その時にぼくはきっと,ぼくが常に夢に見るもの,ぼくの目の前にあるもの,ぼくが絶えず聴いているもの,この世のもので何が一番ぼくの悦びと悲しみをもたらすかを,君に話すことができると思う,しかしどうかぼくが恋愛をしているとは思いたもうな。ぼくはしない。ぼくはそれを先のことにのばしたのだ。
ぼくは管弦楽付きのポロネーズを書き始めた。まだほんの書きかけで,初めの初めに過ぎない。ぼくはミカエル祭まで出発しない。きみがぼくの手紙をまるめて真っ赤になって怒っているのが見える。ぼくがぐずついているのが資金不足のためだとは思わないでくれ。重大な理由は別にないのだが,神の恩寵のおかげで小さな事柄のさまたげがあるのだよ。
ベルリンの新聞のぼくに相当する評価から逃れるのはぼくの望むところではないが,幸運にもウィーンの新聞がぼくの変奏曲について違った論調をとっている。短いが,力強く,高く深く同時に哲学的で,説明ができぬほどだと言っている。曲の表面の優美さだけでなく,この変奏曲には永続的な内容があると言って結んでいるのだ。このドイツ人はぼくに賛辞を述べてくれたから,会ったら礼をいわねばなるまい。誇張がないことはぼくの好むところだし,彼はぼくの独立性を認めている。ぼくは君にだけはこんな風に自分について語りたくないのだが,君がぼくにとって大切なように,ぼくも君にとってそうありたいから,ぼくはまるで商人が自分の売り物にするように,自分への賛歌を歌っているのだ。
昨日ぼくは,あの肥っちょのチホツキーの誕生日に招かれてシュボールの五重奏を弾いた。美しいが恐ろしいほどに弾きづらい。彼がピアノの上で展開しようと書くものは,すべて耐えられぬほど難しくて,どう弾いてよいかわからない。7時に弾くはずが11時に弾き始めた。ぼくが眠らなかったのを君は驚かないかしら。ところが美しい少女がいたのだ。彼女はぼくにぼくの理想の人を思い出させた。想像したまえ,ぼくらは3時までいたんだよ。
アントニがウィーンから帰ってきた。ぼくは確実に彼地に出かけるが,日取りは記せない。ぼくが思い切って出発できない理由を君は知っているだろう。ぼくが我が身のためを考えているわけではなく,他の人々のことを考えてのことであることを,ぼくが君を愛するように,どうか信じてくれたまえ。当地では大切なことだが,評判が良くなるように,体裁を整えるためにすべてをやっているのだよ。これはうわべだけのつまらないことだが,それでも古いコートや古い帽子しか着られないのは不幸だ。ぼくが食えなくなったら,君はぼくを書記として雇わなければならないよ。健康が保たれれば,ぼくは一生の間働きたい。時として,ぼくは実際に怠け者なのか,体力が許せばもっと仕事をすべきではないかと思い迷うことがある。冗談は別としてぼくは真実のところ,それほどにしようのない浮浪人ではなくて,必要に迫られれば今やっている仕事の倍はできると信じるようになった。ぼくは君を愛し,常にますます愛してもらいたいと思っていることを知っている。こんなことを書くのもそのためなのだ。自分をよく見せようと試みるときに,かえって悪くすることがあるものだが,君に対してはぼくはよくも悪くも見せる必要がないと思っている。君に感ずるぼくの共感が,超自然的な力で君の心に同じ共感を感じさせることだろう。君は君の思索の主人ではない。それはぼくなのだ。樹木が彼らに生命と悦びと特徴を与える緑の葉を諦めない限り,ぼくは負けはしない。それは冬の最中でさえもぼくの心の中で緑であるだろう。ぼくの頭は緑だ。天はぼくの心に暖かみがあることを知りたもう。だからそのような植物に驚かないでほしいものだ。もういい。ただキスだけをしてくれたまえ。
これまでの手紙と同様に「協奏曲」は「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11」のこと。
「変奏曲」は「ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ “ドン・ジョヴァンニ” の “ラ・チ・ダレム・ラ・マノ” による変奏曲 変ロ長調 Op.2」のことです。
「管弦楽付きのポロネーズ」は「ピアノとオーケストラのための “アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ” 変ホ長調 Op.22」のポロネーズ部分です。アンダンテ・スピアナートの部分は1834年に作曲されますが,ポロネーズ部分は数年早く1831年に完成しています。
「ワルシャワの多くの人たちが」「恋愛事件を想像」していると書かれています。
1つ前の手紙と合わせて読むと,モリオール嬢に関するウワサが広がっているのだと解釈できます。
そして,そんなショパンのモリオール嬢に対する「恋愛事件」が仮に本当だったとしても,決してその事がワルシャワに引き留めている理由ではないと書かれています。
伝記などでは,グラドコフスカへの想いこそがショパンの出発を遅らせた理由だと描かれていることもあります。
なお,この「恋愛事件」がグラドコフスカに関するものである,と解釈すると矛盾が発生します。
ティトゥスの手紙に書かれたグラドコフスカへの「理想の女性」という記述が捏造でなければ,ショパンはグラドコフスカへの想いをティトゥスにだけ伝えて周囲には秘密にしているはずです。
実際,グラドコフスカは晩年になってからショパンの伝記を読んで初めてショパンの気持ちを知り,大変驚いたと伝えられています。
ショパンがグラドコフスカに想いを寄せていたのだとしても,周囲でウワサになることはなかったわけです。
この手紙には「理想の人」という表現が再び出てきています。
「ぼくの理想の人を思い出さ」せるような「美しい少女」がいたため「眠ら」ずに,誕生会に「3時までいた」のだと書かれています。
1829年10月3日の手紙に書かれていた,グラドコフスカに対する「理想の女性」という表現が捏造でなければ,この手紙に書かれている「理想の人」もグラドコフスカのことだということになりますね。
1つ前の手紙に「一緒にイタリアに行こうではないか。」と書いたショパンでしたが,
この手紙では「ぼくは君とともに旅をしたくない。」と書いています。
ティトゥスから「ぼくも一緒に行きたいよ。多忙な時期だけど,なんとか都合をつけてみるよ。」というような返事が来ていたのではないかと想像できます。
ここまでティトゥスへの手紙を読み進めてきて感じるのは,ティトゥスという男はいつも口先でショパンに期待を抱かせつつ,結局は裏切り続けてきたのだろう,ということです。
今までなら「イタリアまでティトゥスが一緒かもしれない!」との期待に喜んでいたであろうフレデリックですが,さすがにもうティトゥスの言葉は信用できなくなり,「非道の偽善者よ!」と冒頭に書いているのだと思います。
文中の「アントニ」という人物は,将来ショパンが婚約することになるマリア・ヴォジニスキの兄のことです。
ヴォジニスキ伯爵家の3人の息子たちは全員,学生時代はショパン家が経営する寄宿舎で暮らしていて,フレデリックとは幼友達でした。
ショパンがマリアと親しくしていたころには,アントニもショパンもパリに住んでいて,お調子者のアントニはショパンを連れ回し,金を払わせて豪遊したりしていました。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.9.22]
- 日付;1830年9月22日 水曜日の朝 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
ぼくはこの機会にまだ当地にいる理由を君に説明したい。全ドイツに起こった騒動のために,父はぼくの旅行を許さないのだ。ライン地方を挙げずとも,サクソニーはすでに他の国王を迎え,ウィーンでも何千人の住民が麦粉について不満を言いだしたと聞いている。麦粉がどうしたのかぼくは知らないが,彼地に何かが起こっていることはわかっている。ティロール地方にも騒動があった由,ぼくはまだ旅券の申請をしていないが,オーストリアとプロシアだけにしか許可が降りないと人々が言っている。イタリアやフランスは望んでも駄目らしい。多くの人が旅券の下付さえ拒絶されたことも聞き及んでいるが,これはおそらくぼくにはあり得ないだろう。だからぼくはこの数週間のうちにクラクフ経由でウィーンに行くかもしれない。なぜなら彼地の人は今ぼくの記憶を新たにしているから,この際それを利用しなくてはならない。ぼくにもぼくの両親にも驚かないでくれたまえ,これが物語の一部始終なのだから。
昨日ボヴロヴスキーが訪ねてくれたが,明朝立つので,今日ぼくは第二協奏曲を練習するので,君を悦ばすために彼を招待した。彼が君に様子を話すことだろう。君がいないのは残念だ。クルビンスキーも来るだろうし,ソリヴァも,そして楽団の歴々が,しかしぼくはエルスナーを除いて,これらの紳士たちをあまり信用していない。
今ぼくは第二協奏曲をすませたところだが,ぼくはまだ初めて音譜を学びだしたころ同様に何もできない。今日のように二つの思いをまとめられぬ日に,手紙を書き出したのが残念だ。ぼくは自分のことを考え出すとしばしば,全く我を忘れてしまうことがある。目の前に興味を惹かれるものがあると,馬がぼくを踏みつけてもぼくには見えないんだよ。一昨日はそれに近いことが街中で起こった。日曜日に教会ではからずも思いがけぬ人の眼差しに感動したぼくは,うっとりした心地で迷い出て,15分ばかりの間何をしているのかわからなかった。パーリス博士に出会ったときには,自分の狼狽ぶりをどう説明してよいかわからず,犬が足にからまって踏んでしまった話をでっちあげねばならなかったよ。時によってぼくは全く狂人のようになる,困ったことだ。
ぼくのつまらぬ作品を少々お送りしたいが,今日は清書をする時間がない。ぼくは今日の手紙のお詫びをする。ぼくはエルスナーやビエラスキーがたしかに練習に来るように,それから弱音器のことを確かめに飛んで行かねばならない。それなしではアダージョが大成功するとはぼくは思わない。ロンドは効果的でアレグロは力強い。おお,呪われたる自己愛よ。しかし,もし誰かのおかげでぼくが自負心を持っているとすれば,それは君のせいだ。ぼくに君の真似ができない唯一のことは突然に決断することだ。しかしぼくは一言も告げずに一週間後の土曜日に,当地を去ることをひそかに決めたいと切に望んでいる。作品を荷物に入れ,リュックに紐をかけて,リュックを肩に背負って旅行馬車に乗る。涙は多くの手に豆のように注がれるだろうが,ぼくは石のように冷たく涙もなく,哀れなる子らの心からの別れに微笑むだろう。
君を慰めるために何かできたら喜んでするつもりだ。しかしウィーンに到るまで治療の方法がないことを信じてほしい。君は生き,君は感じる。君は生きていて他の人に感じられる。だから君は不幸にも幸福だ。ぼくは君を理解し,君の気分になる。では互いに抱擁しよう。もう他に言うこともないから。
「全ドイツに起こった騒動」と書かれています。
1830年7月に起こった “フランス七月革命” の影響で,ドイツ各地で運動が起こり,一部では反乱も起きました。
そんな中,ショパンはドイツ連邦の議長国であるオーストリアのウィーンへ出かけようとしているわけですから,父ニコラスが旅行を許さないのは当然のことでしょう。
伝記などでは,革命騒ぎから避難させるために,なかなか出国の決心がつかないフレデリックを父ニコラスが強く説得してウィーンへ出発させた,と描かれていることもありますが,
これはあり得ないことでしょう。
騒乱の真っ只中のウィーンへ出かけるよりは家族や友人のいるワルシャワにいた方が安全です。
もしも外国の方が安全なら,姉ルドヴィカや妹イザベラも外国に避難させたはずです。
人望の厚かった父ニコラスは,子どもたちを避難させようと思えば,受け入れてくれる友人や知人がいくらでもいました。
それでもショパンは「一週間後の土曜日に,当地を去る」ことを決めたと書いています。
一週間後の土曜日というのは,10月2日の土曜日ということになります。
ショパンにとって昨年1829年8月にウィーンの人々から惜しみなく捧げられた賛美と感動の声がいまだ記憶に新しく,ウィーンの人々が大腕を広げてショパンの再遊を待ちわびているものだと確信していました。
「思いがけぬ人の眼差しに感動したぼくは,うっとりした心地で迷い出て,15分ばかりの間何をしているのかわからなかった」と書かれています。
翻訳によっては「思いがけぬ人」の部分が「理想の人」と訳されているものもあります。
つまりはコンスタンツィア・グラドコフスカの眼差しにうっとりしてしまい,夢遊病のような状態で15分間さまよってしまった,というわけです。
このエピソードはさすがに作り話だと思われます。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.10.5]
- 日付;1830年10月5日 火曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
ぼくは気を静めるために君の手紙を必要としている。この呪われたしかし当然な混乱に,ぼくがいかにうんざりしているか君には想像もつくまい。第二協奏曲の管弦楽との試演の後で,公開演奏をすることにが決定し,次の月曜日にやることになった。ぼくは一方で残念にも思うが,もう一方では一般への効果を見ることに好奇心を持っている。ロンドは誰をも感動させると思う。グラドコフスカが第一部で歌い,ヴォルコーヴォが第二部で歌う。序曲は「ウィリアム・テル」だ。二人の淑女の出演の許しを求めるのにぼくがどんなに困ったか,君にはわかるまい。ソリヴァは悦んで承知したが,ぼくはもっと上の方,モストウフキー自身に許可を求めねばならなかった。彼らが何を歌うかぼくはまだ知らない。
おそくともぼくの演奏会の一週間後にはワルシャワを去っているだろう。ぼくの旅のトランクは買われ,旅装はすべて調った。楽譜は正確に訂正され,ハンカチは縫いとられ,ズボンもできあがった。ただ別れを告げればよいのだが,これが一番むずかしい。
ぼくにキスをしてくれたまえ。最愛の友よ。ぼくは君がまだぼくを心にかけていてくれるのを知っている。しかもぼくはいつも君を恐れているのだ。まるで君がぼくに対して暴君ででもあるかのように,なぜ君が恐いのかわからない。ぼくに対して力を持つ人はただ君のみ,他にないことを神が知りたもう。おそらくこの手紙は君に書く最後の手紙になると思う。
1つ前の手紙では10月2日の土曜日にウィーンへ向けて出発すると書いていましたが,いまだにショパンはポーランドにいます。
この手紙に書いてあるように,第二協奏曲(ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11)の初演が決定したためです。「次の月曜日にやる」と書いています。次の月曜日は1830年10月11日になります。
グラドコフスカ嬢とヴォルコーヴォ嬢が賛助出演することも書かれています。
ここでもグラドコフスカへの特別な感情は感じられません。
革命が起こることも,二度と祖国に戻れないことも,もちろん予期などしてはいません。
でも,ウィーン,そしてイタリアへと演奏旅行に出かければ,少なくとも数ヶ月はワルシャワに戻ってくることはできません。
今回のプロの演奏家としての3回目の公開演奏会は,告別演奏会,もしくは壮行演奏会といった趣向となりました。
ショパンの手紙 ~ティトゥス宛ての12通の手紙~[1830.10.12]
- 日付;1830年10月12日 火曜日 *ショパン20才
- 宛先;ティトゥス・ヴォイチェホフスキ
- 書いた場所;ワルシャワ
最愛の生命よ!
昨日の演奏会は成功だった。取り急ぎお知らせする。ぼくが少しも緊張せず,ひとりで弾く時そのままにうまく弾けたことを君に報告する。満員だった。最初にギョーナーの交響曲,続いて貴き小生のアレグロホ短調で,ぼくは楽に弾いてしまった。ストゥレーヘルのピアノではそれが可能なのだ。猛烈な喝采。ソリヴァは大喜びだ。彼はヴォルコーヴォ嬢によって美しく歌われた,彼の合唱付きのレシタティーヴォの指揮をした。彼女は天使のように空色に装っていた。レシタティーヴォの後はアダージョとロンドで,それから休憩時間,第二部は「ウィリアム・テル」の序曲で始まった。ソリヴァが指揮して大きな印象を与えた。実際あのイタリア人は今度はぼくに非常に親切にしてくれて,礼の言いようもないほどだ。それから彼はグラドコフスカ嬢のレシタティーヴォを指揮した。彼女はよく似合う純白の装いで,頭にバラを飾っていた。彼女は「湖上の美人」のカヴァティーナを歌った。「我すべてを憎みぬ」のところは低いBの音まで,ジェリシスキーがそのBの音は千デュカートよりも値打ちがあるといったほどに,よく歌った。グラドコフスカ嬢が舞台から退場してから,ぼくらは「月が沈み,犬は眠りぬ」を始めた。今度はぼくも大丈夫だったし,オーケストラも大丈夫で聴衆も理解した。最後のマズルカは大きな喝采を釣りだした。誰一人叱声を発した者もなく,ぼくは四度もお辞儀をしなくてはならなかった。ブラントがやり方を教えてくれたので,今度は正式のお辞儀をしたよ。
ぼくがまるで首の根を折るように弾きまくらないですむようにソリヴァがぼくの楽譜を家に持って帰って,よく調べて指揮をしてくれたのでなかったら,昨日はどのようになっていたか想像もできない。彼が巧みにわれわれを制してくれたおかげで,オーケストラとこんなに気持ちよく弾けたことはなかったことをぼくは断言する。ピアノは明らかに人々に好まれたが,ヴォルコーヴォ嬢の方がそれ以上だ。彼女は舞台では映えるのだ。
現在ぼくは荷物を作ることより他は何も考えていない。日曜日か,水曜日か,にクラクフ経由で出発する。これでやめなくてはならない。
我が生命よ! 君にキスを。
「アレグロ」「アダージョ」「ロンド」と書かれているのは,もちろん「ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11」のことです。
「月が沈み,犬は眠りぬ」というのはポーランドの民謡で,この民謡の旋律が「ピアノとオーケストラのための,ポーランド民謡による大幻想曲 イ長調 Op.13」に使われています。
つまり「月が沈み,犬は眠りぬ」は「ポーランド民謡による大幻想曲」のことを言っているわけです。
「ポーランド民謡による大幻想曲」の構成は次の通りです。
- 序奏 ラルゴ・ノン・トロッポ 4分の4拍子
- 第1部 アンダンティーノ 8分の6拍子「月が沈み,犬は眠りぬ」に基づく
- 第2部 4分の2拍子 クルビンスキの主題による変奏
- 間奏 モルト・ピウ・モッソ
- 第3部 クヤヴィヤック
文中の「最後のマズルカ」とは,このクヤヴィヤックの部分を指しています。
この手紙でも「理想の人」であるはずのグラドコフスカに対する特別な感情は感じられません。
むしろヴォルコーヴォのことを,グラドコフスカ以上に賞賛しているように感じますね。
グラドコフスカがショパンの手帳に書いた詩
日付;1830年10月25日 *ショパン20才
*ウィーンへ旅立つ8日前
決心がつかずワルシャワに留まっていたショパンですが,
1830年11月2日にとうとうワルシャワを発ってウィーンへ向かいます。
出発の1週間ほど前,ショパンはグラドコフスカと会い,手帳(アルバム)に詩を書いてもらっています。
伝記の中には,二人が指輪を交換したと書かれているものもあります。
グラドコフスカの肖像画を大事に抱えながら旅をした,と伝えているものもあります。
200年も前のことなので,真偽は確かめようがありません。
手帳に書かれた詩は,複製されたものは遺っていますが,原物は失われていて写真も遺っていません。
初恋の人と交換した指輪を指にはめ,詩を書いてもらった手帳を胸に,愛する人の肖像画を抱えながら祖国を旅立った,という美しい逸話について「ウソだ,まことだ」と騒ぐのも無粋かなと思います。
ショパンがグラドコフスカに書いてもらったのは四行の詩で,二編が伝えられています。
運命の辛い心変わりを貴方は行ない
私たちも必然に従わねばならない
忘れないで,忘れがたき人
ポーランドに貴方を愛する者がいることを
名声の花冠を,とこしえに枯れぬものに変えようと
貴方はいとしい友や愛する家族を残し,去っていく
異国では,貴方の価値も褒賞もいよいよ増さることでしょう
けれども,私たちほどに貴方を愛することはできません
初恋の人が書いた詩である,という先入観を捨てて詩を読むと,
これは恋文ではなく,同胞民族の門出を祝福するものなのではないかと感じます。
推測になりますが,プロの演奏家として旅立つ門出にあたり,ショパンは手帳に友人たちからメッセージを書いてもらったのだと思います。
後年になってから,グラドコフスカがショパンの初恋の人としてクローズアップされたため,グラドコフスカが書き記したメッセージが取り立てて伝えられているのでしょう。
なお,そもそもグラドコフスカのこの四行詩は贋作である,という説もあります。
エルスナーが作曲した「フレデリック・ショパンのための送別のカンタータ」
1830年11月2日,旅立ちのその日,エルスナーをはじめ友人たちはワルシャワの隣村までフレデリックを見送ったそうです。
ここでは,エルスナーがフレデリックの門出を祝して作曲したカンタータが,ワルシャワ音楽院の学生によって歌われました。
その歌詞は次のようなものでした。
ポーランドの土で育った物よ
君がいずこに行こうとも,
願わくは,君が才,君に誉れをもらたさんことを。
君,シュプレー川,テベレ川,セーヌ川の岸辺に住もうとも,
我らを喜ばせしマズルカを,愛すべきクラコヴャクを,
古き良きポーランドの習わしをもって,
君が音楽にて常に聴かせんことを。
君,ポーランドを去ろうとも,
君の心は我らと共に残らん。
君が天才のおぼえ忘れざらん。
それ故,心の底から我ら言う,
君いずこに行こうとも幸あれと。
そして,最後の送別の宴が開かれ,ポーランドの土を満たした銀盃がフレデリックに送られました。
この銀盃は生涯大切にされ,銀盃に満たされた祖国ポーランドの土は,ショパンの遺骸とともにパリの墓石の下に埋葬されています。
・・・という有名な逸話がありますが,この「銀盃のエピソード」は作り話である可能性が高いそうです。
友人たちに見送られて,フレデリックの乗った馬車は出発しました。
まさか2度と祖国の土を踏むことのない運命にあったとは,このときのショパンは気づいていなかったことでしょう。
そして,国境付近の町カリシュで待ち合わせていたティトゥスと合流し,ウィーンへ向けて出発しました。
ウィーンでの成功を確信していたショパンは,自信と希望に満ちた旅路となります。
旅の途中,ヴロツワフ,ドレスデン,プラハから,家族宛てに手紙を書いています。
ところがこの手紙からは同行者であるティトゥスの存在がまるで感じられません。
この旅にティトゥスが同行していた,というのは作り話ではないか,という説があります。
ティトゥスがこの旅に同行することで,ワルシャワ蜂起のニュースを聞きつけたティトゥスが直ちに軍隊に加わるためにワルシャワに舞い戻った,という有名な逸話につながります。
この英雄的エピソードが,後年ポーランド再興の指導者となったティトゥスが自身の愛国心を示すためにでっち上げた作り話なのだ,といわれているのです。
では,ウィーンに到着するまでの家族へ宛てた手紙を見てみましょう。
ショパンの旅路の日程は次の通りでした
- 1830年11月2日 火曜日 ワルシャワを出発
- ヴロツワフ 11月7日 日曜日 18時 到着,11月10日 水曜日 出発
*到着したのは11月6日 土曜日かもしれない。 - ドレスデン おそらく11月12日 金曜日に到着,11月18日 木曜日ごろ出発
- プラハ 11月21日 日曜日ごろ到着?,間もなく出発?
- 11月23日 火曜日 ウィーンに到着
9月22日,10月12日の手紙には「クラクフ経由でウィーンに行く」と書いていましたが,結局は前年1829年に初めてウィーンへ旅行したときと同じ経路でウィーンへ向かっています。
ショパンの手紙 ~ヴロツワフより家族への手紙~
- 日付;1830年11月9日 火曜日 *ショパン20才
- 宛先;家族
- 書いた場所;ヴロツワフ
ぼくの最愛の両親様と姉妹たち!
よい天気に恵まれた日曜日の夕方の6時に気持ちよく到着しました。「金のガチョウの下で」という名のホテルに宿をとり,早速「アルプスの王者」をやっている劇場に出かけました。よい歌手もおりませんが,劇場は大変に安価です。パルテール(平土間)はたったの2ズロチです。今回はヴロツワフが以前よりも気に入りました。
手紙はソウィンスキーに渡しましたが,まだそれきりで1回しか会っていません。昨日訪ねてくれたのですが留守にしていたのです。指揮者のシュナーベルがその夜の演奏会の練習を聴いてくれといったので,土地の娯楽場に出かけていたのです。週に3回そうした演奏会をやっているのです。お定まりの小さなオーケストラの楽団員たちが練習のために集まっていました。ピアノが一台,それにモシェレスの変ホ長調協奏曲を準備中のヘルウィッヒという名の素人音楽家がいました。彼が楽器に座る前に,4年間ぼくを聴いていなかったシュナーベルが,ぼくに弾いてくれと言いました。断りにくかったのでばくが変奏曲を少々弾いてみますと,シュナーベルは途方もなく喜んで,その晩に弾いてくれと頼みはじめました。シュナーベルがあまりに真剣に迫るので,ぼくはこの老人を断れなくなりました。彼はエルスナーの親友ですが,ぼくは数週間弾いていないから,彼のためにのみ弾くのだと申しました。ぼくにはヴロツワフで名をあげる気はないのですから,老人は昨日ぼくを教会堂で見かけて,演奏を頼みたかったのだが,思い切って頼めなかったのだと答えました。それからぼくは彼の息子と宿に楽譜を取りに戻って,彼らに第二協奏曲のロマンスとロンドを弾いて聴かせました。練習のときにドイツ人たちはぼくの演奏を賛美して「なんと優美な弾き方だろう」と言っていましたが,作品については何も言いませんでした。ティトゥスは「演奏はできるが作曲は駄目だ」と言っている言葉さえ聞いたようです。
一昨日は食事をとっていた食卓で,大変立派な風采の紳士がちょうど向かい側に座っていました。ワルシャワのショルツを知っており,ショルツが私にくれた紹介状の宛名の人を知っていました。シャルフという商人で親切な人で,馬車を雇ってヴロツワフの各所を案内してくれました。翌日彼らは昨夜の演奏会の切符を買って届けてくれたのですが,そのお客が当夜の演奏会の中心人物になったのを見て,彼も切符の世話をやいてくれた紳士も,どんなに驚いたことでしょう。ロンドの他にぼくは好楽家のために「ポルティチの物言わぬ娘」の主題で即興演奏をやりました。
無論ぼくは当地の大オルガン奏者キョーラー氏に会いました。今日オルガンを見せると約束してくれましたよ。終始ぼくを顎の下に抱擁して,誰からも上機嫌に見えるシュナーベルをのぞいて,他のドイツ人たちはどうしてよいか解からない様子です。ティトゥスは面白がって彼らを眺めています。ぼくがまだ名声を確立していないので,ぼくの作品を賛美しながら,賛美するのを恐がっていて,作品がよかったのか,単に彼らがよいと思ったのか決められないのです。当地の好楽家の一人が訪ねてきて,ぼくの様式の斬新さを褒めて,こんな様式のものはかつて聴いたことがないと言っていました。誰だか知りませんが,おそらくぼくを最も理解してくれた人でしょう。
昨日彼らがエルスナーを多く語り,管弦楽用の変奏曲を賛えていたので,ぼくは彼の「戴冠式のミサ」を聴かれたら,彼がいかなる作曲家か判断できるだろうと言いました。明日の2時にドレスデンへ出発です。
キス! キス! キス!
ジヴニー,エルスナー,マトゥシンスキ,コルベルク,マリルスキ,ヴィトフィツキ等にくれぐれもよろしく。
“ティトゥスは「演奏はできるが作曲は駄目だ」と言っている” “ティトゥスは面白がって彼らを眺めています” との記述があり,何の前触れもなくティトゥスが旅に同行していることが書かれています。
大学を卒業してから約1年半のあいだ,ポトゥジンの領地に根を下ろして,あれだけ何度も熱烈にショパンから誘われても1度としてワルシャワを訪れなかったティトゥスが,何故か旅に同行しているのです。
上の地図を見ていただくと,領地があるポトゥジンにいたティトゥスがカリシュで待ち合わせているというのも違和感があります。
また,手紙の文中にはカリシュに立ち寄ったことも,カリシュで友人と待ち合わせていたことも書かれていません。
手紙には「日曜日の夕方6時」,つまりは11月7日 日曜日にヴロツワフに到着したと書かれています。
「土曜日」と訳されているものも多数ありますので,11月6日 土曜日 もしくは11月7日 日曜日 のいずれかの日にヴロツワフに到着したのだと思います。
手紙にはヴロツワフにて演奏会を開いたことが書かれています。
曲目がピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11の第3楽章,および「ポルティチの物言わぬ娘」の主題による即興演奏だったことも書かれています。
事前に聴かせた演奏では「なんと優美な弾き方だろう」と,聴いた人々にいつも通りの驚嘆を与えています。
ショパンの手紙 ~ドレスデンより家族への手紙~
- 日付;1830年11月14日 *ショパン20才
- 宛先;家族
- 書いた場所;ドレスデン
皆さんにぼくの様子をお知らせする暇さえほとんど見当たりません。ぼくはたった今ポーランド人のみの午餐会から帰ったところ,郵便馬車は7時に出るので手紙を書きに一足先に帰ってきました。それから今夜もう一度「ポルティチの物言わぬ娘」を聴きに行きたいからです。
ぼくはヴロツワフを去りたくありませんでした。ショルツが手紙をくれた人々と親交を深めたことが,あの町を快いものにしたのでした。当地でぼくがまず訪問したのはペヒウェル嬢です。彼女は金曜日に演芸場で弾き,同じ夜に劇場で「物言わぬ娘」が上演されたので,どちらとも決めにくいところでしたが,この婦人の夕べには出席する必要があったので出かけました。出かけたもう一つの大切な理由は,当地第一のイタリア生まれの歌手プラッツェンをそこで,ぜひ聴けといわれたからです。そこでぼくは正装に着替えて,轎を手配して,その奇妙な箱におさまって,その夜の催しがあるクライング・ハウスに行けと言われました。轎の中で担がれてゆく自分に,ぼくは一人笑いながら,轎の底を足踏みしたい誘惑に堪えていました。この乗り物は階段の真下までぼくを運んでいき,降りてベヒウェル嬢に名刺を渡しますと,会堂の持ち主が出てきて広間に案内してくれました。そこには両側に途方もなく大きな机が8つ並んでいて,その周りには淑女たちが群がっていました。淑女たちのダイヤモンドの輝きよりも,彼女たちの金のあみ棒の輝きがぼくの目を射ました。冗談はおいておいて,淑女たちとあみ棒の数の多さは紳士たちを攻撃し始めたらどんなになってしまうかと不安を起こさせるほどです。紳士たちには禿頭と眼鏡より闘うものがないですから。そこにはたくさんの鏡とかなりたくさんの露わな肌がありました。
これらのあみ棒や紅茶カップの触れ合う音が,部屋の向こう側の隅からの音楽で突然静まりました。まず「フラ・ディアボロ」の序曲が演奏され,それから例のイタリア婦人が歌いましたが,悪くありませんでした。ぼくは彼女と言葉を交わして,当地のオペラの副支配人である彼女の伴走者のラストレリと,ぼくがミラノで会いたいと思っていた有名な歌手の弟であるルビニに会いました。この丁寧なイタリア人は彼の兄への手紙を約束してくれました。ペヒウェル嬢がピアノを演奏し,ぼくは誰彼と語ってから「物言わぬ娘」に行きましたが,全部を聴かなかったので判断はできません。
朝クレンゲルを訪ねたぼくは家の前で彼に出会いました。彼はたちまちぼくを認めて,胸に抱きしめてくれるほどに親切でした。ぼくは深く彼を尊敬します。明朝ぼくを招いてくれましたが,その前にぼくに何処に泊まっているかと尋ねていました。ぼくに公開演奏をさせようと彼はすすめるのでしたが,ぼくはそのことに関して全く請け合えないのです。時間の余裕がないし,ドレスデンはぼくに名声も金も与えないでしょう。
昨日はイタリアオペラに行きましたが,まずい出来でした。国王は廷臣に囲まれて劇場にお成りになっていましたし,今日は寺院のミサにも出御されていました。当地にはクレンゲルを除いては注目に値する人もおりません。明日はこの人の前でぼくが優れたピアニストであることを明らかにしなければならないでしょう。ぼくは彼と語るのが好きです。実際彼からは何かを学ぶことができますから。
美術館は別としてぼくはドレスデンのどこも,再び見物はしませんでした。「緑の宝殿」は一度見ればたくさんです。
「金曜日」には演奏会を聴きに出かけたと書かれています。11月12日の金曜日にはドレスデンに到着していたことがわかります。
この手紙にはティトゥスの存在がまるで感じられません。
ショパンの手紙 ~プラハより家族への手紙~
- 日付;1830年11月21日 *ショパン20才
- 宛先;家族
- 書いた場所;プラハ
ドレスデンの一週間はあまりに早く過ぎて,ぼくは追いついていけません。朝出かけても夜まで帰れないのです。クレンゲルはぼくが協奏曲を聴かせますと,フィールドの演奏を思い出すといい,ぼくがまれにみるタッチを持っていること,ぼくについてウワサを聞いていたが,これほどの名人だとは知らなかったと言いました。それは根拠のないお世辞ではありません。彼はどんな人もおだてたり,褒めるために自分を強いるのは嫌いだと言っていました。ですから12時まで午前中ずっと一緒にいたあとぼくが暇を告げると,彼はモールラッキーと劇場の総支配人のところに,ぼくがこの地に滞在する残り4日間の間に,ぼくに弾かせることができるかどうか尋ねに出かけていきました。後になって彼はそれをぼくのためではなく,ドレスデンのためにしたことだと言っていましたが,翌朝尋ねてきて,その日は水曜日でしたが,日曜日までは一日も劇場が空いている日がないと報告してくれました。金曜日は「ララ・ディアボロ」の初演,昨日土曜日はイタリア語でロッシーニの「湖上美人」でした。
ぼくはクレンゲルをぼくの生涯で稀に出会う人として受け入れました。全くぼくは彼を30年も前からの知己のように愛しています。彼もまたぼくに多くの共感を示してくれました。彼はぼくの協奏曲の総譜を求めました。
ぼくは方々でまるで犬のように捕まってしまいました。同じ日にドブルジッカ夫人宅を訪問しましたら,翌日の彼女の誕生日に招待されました。そこでぼくはサクソニーの王女たちに会いました。前国王の王女たち,即ち現国王の妹君と,王弟の妃殿下です。ぼくは御前で演奏をし,王女たちはイタリアに紹介状を賜ることを誓われましたが,ただいまのところはまだ全部は拝受していません。お一人はぼくの出発の直前に二通の手紙をホテルに届けて下さいましたが,残りはウィーンで入手することでしょう。手紙はシシリアとナポリの女王,ローマにおられるサクソニーの王女の,ウラシー公妃に宛てられています。クレンゲルはウィーンにも手紙をくれましたし,ニソロフスカ夫人の家ではぼくの健康のために,シャンパンで乾杯をしてくれました。彼女もまたぼくに大騒ぎをしてどこに座らせてよいかわからず,ぼくをショプスキーと呼ぶと言い張るのでした。
プラハは何の印象も残さなかったようで,プラハで書かれたこの手紙にはドレスデンでの話題しか書かれていません。
「ドレスデンの一週間」「滞在する残り4日間」「その日は水曜日でしたが,日曜日までは」という記述から逆算すると,11月20日の土曜日までドレスデンにいて,その翌日11月21日の日曜日にプラハでこの手紙を書いた,ということになります。
その後11月23日 火曜日にはウィーンに到着していますので,プラハにはほとんど滞在しなかったのだろうと思われます。
この手紙にもティトゥスの影が見えません。
前の手紙でクレンゲルについて「明日はこの人の前でぼくが優れたピアニストであることを明らかにしなければならないでしょう」と書いていました。11月15日 月曜日にクレンゲルの前で弾いたのが「協奏曲(ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11)」だったことが書かれています。
「まれにみるタッチを持っている」と,いつも通りの評価を得ています。
ショパンはこの旅の道中でも,ピアノに触れるたびに信奉者を増やし,ウィーン,そしてイタリアへの紹介状を手に入れています。万全の状態と言ってよいでしょう。
そして11月23日,ショパンはとうとう約1年と3ヶ月ぶりにウィーンに到着します。
前年にウィーンで浴びた賞賛の声がまだ記憶に新しく,旅の途中立ち寄ったヴロツワフ,ドレスデンでも人々から惜しみない賛辞を捧げられ,自信と希望に胸を高鳴らせながらウィーンの地を踏みました。
家族の温かい庇護と,恩師や友人たちの愛情に囲まれ,幸せな時間を過ごしてきたショパンですが,自ら求めてその圏外に飛び立ちました。
意気揚々とウィーンの地に立ったショパンは,人生で初めての失意を味わいます。
人々の記憶の短さと社会情勢の変化が個人の運命を容赦なく翻弄する儚さを経験し,その後ショパンの短い一生を通じて彼をつきまとう孤独と悲哀とが,とうとうその姿を現しはじめるのです。
次回の記事では,ウィーンに到着した後の手紙をご紹介します。
今回は以上です!