ショパンは日記や評論のたぐいは書きませんでした。
ショパンの生涯,人となり,音楽観,思想などを知る上で,ショパンの遺した手紙が重要な資料になります。
ショパンの遺した手紙のいくつかを年代別にまとめていきます。
ショパンの手紙 ~体調の優れない16才のショパン~
- 日付;1826年6月 *ショパン16才
- 宛先;ヤン・ビャウォブウォツキ
- ワルシャワ時代,ショパンが特に親しくしていた友人の一人。
- 書いた場所;ワルシャワ
愛するヤーシャ,この手紙を美辞麗句,感嘆詞,大仰な文句,冗談などの,いつもの誕生日の祝辞だと思ってはいけない。
友情の不足からくだらぬ文句を探し出す頭にはそれで間に合うだろうが,11年間の友情の絆を持つ者にとって,月にすれば132ヶ月,566週間,3960日,95,040時間,5,702,400分,342,144,000秒を数えられる者にとって,儀礼的な手紙は不必要だ。
本文に入る前に手近なところからはじめるが,それは君がぼくに何ヶ月も手紙をくれなかったことだ。
なぜだい?それがひどくぼくを苦しめる。
「魔弾の射手」は大変な評判だ。ワルシャワでも騒がれることだろう。何回も上演されることになるらしい。われわれの歌劇場がこのウェーバーの見事な作品を上演できたら,たいしたものだ。しかしウェーバーが「魔弾の射手」の中で骨を折っている目的や,彼がドイツ生まれであること,ドイツ人の趣味にことに適したあの不思議なロマンティシズムと,精妙な和声を考慮すると,ロッシーニの軽快な調子に馴れたワルシャワの聴衆は,最初は賛美することもありそうだが,それは彼らの実感からではなくて,専門家の評判の影響によるものだろう。なぜならウェーバーは各地で賞賛されているから。
ぼくの作品は送らなかったが,代わりにアレキサンダー・レムビリンスキーのワルツを送った。きっと君は気に入ることと想う。中に最初のうち難しく思われる曲があっても,君の硬い指で一生懸命さらいたまえ。きっと君にふさわしい作品だと思うだろう。というのは君のように美しいのだ。この最後の句をぼくがブリニーの精神で書いたと思わないでくれ。習慣は大きな力があるものだ。犬も時には主人にとって美しく見えるときもあるんだからね。なんという変わり者だろう!主人が犬で犬が主人だ!どんな犬でもぼくより忠実なのはいないよ。
この手紙が無茶でも驚いてはいけない。ぼくは身体が悪いのだ。休暇について何も書いてなくても驚いてはいけない。この次の手紙に書くから。ぼくの作品を送らなくても驚いてはいけない。それがぼくのこのなのだから。父,母,姉妹たち,友人たちもみんな君によろしく伝えるように言っている。
では懐かしいヤーシャ,幸福に暮らしたまえ。ぼくは手紙を待ち,君を抱擁する。
F・F ショパン
次第に複雑になる中等学校の学業とピアノ演奏の上に,作曲に対する欲求はますます激しくなるばかりで,16才のショパンは相当な過労に陥っていました。
初夏に書かれたこの手紙は相変わらずユーモアにあふれながら,体調が優れない様子が書かれています。
このころ,生来虚弱だった末の妹エミリアが,医者から転地を命じられたため,学校が休暇中であったフレデリックも同行することになりました。
母と姉ルドヴィカ,妹エミリア,フレデリックの4人はシレジア地方のライネルツ(現在のドゥシニキ)に出かけます。
ショパンの手紙 ~温泉地で湯治に励むショパン~
- 日付;1826年8月18日 *ショパン16才
- 宛先;ウィルヘルム・コールベルグ
- 書いた場所;ライネルツ(現在のドゥシニキ)
愛するウィルス!
もう2週間,ぼくは乳清と土地の鉱泉を飲んでいて,皆に元気そうになり肥ってきたといわれている。そしてひどく怠けているのがぼくのペンののんびりした筆跡で君にもわかるだろう。しかしぼくの生活ぶりを君が知ったら,家でじっとしている時間を見つけるのがむずかしいことを,君も納得してくれることと思う。
おそくとも朝の6時までに病人は全員鉱泉の出る井戸に集まる。そこではひどい吹奏楽隊が演奏をやっているが,漫画の人物を1ダースばかり集めてきたような連中で,大将のメガネをのせた薄汚い鼻の痩せたバスーン吹きは,馬を怖がる淑女たちを演奏で脅している。美しい並木道に沿ったこの行列は,その連中が朝飲まなくてはならない鉱泉のコップの数によって,たいてい朝の8時頃まで続いている。それから帰って朝食を済ませ,主として散歩に出かける。
ぼくは12時まで歩く。それから昼食を食べねばならない。昼食後はまた井戸まで出かけなければならないからだ。食後には朝よりも長い仮装行列がいくつもある。皆がおめかしをして朝とは違った衣装に着替えているからだ。またひどい音楽が夕刻まで続けられる。ぼくは昼食後は鉱泉を2杯だけ飲めばよいので,割と早く晩餐に帰れる。晩餐後は床につくから,いったいいつぼくに手紙が書けるというのだろう!
ライネルツを囲む丘陵をぼくが歩いているのは本当だ。それらの谷の眺望に楽しくなって降りてゆきたくないこともある。ライネルツの近くに岩山があて,眺望が素晴らしいのだが,頂上の空気が誰にでもよいというわけにはいかず,不幸にもぼくは許されない方の病人の一人だ。この土地の風習にぼくはもうすっかりなじんで何の心配もない。最初のうちは女が男よりもよく働くのが不思議だったが,ぼく自身が何もやらない方なので,黙認する方が楽なのだ。
多くのポーランド人がライネルツに滞在していたが,次第に少なくなる。そのほとんどがぼくの知人で,家々の間に賑やかな社交が盛んなものだ。
君の時間をとりすぎたらしいが,これでやめる。2杯の鉱泉とキノコ入りのパンを食べに,これから鉱泉井戸に出かける。
常に変わらぬ F.F ショパン
鉱泉を飲み,規則正しい生活を送るショパンの様子が分かります。
ドゥシニキは現在のポーランドの南西部,チェコの国境近くにあります。
現在でも鉱泉の飲み歩きが人気の保養地で景観がすばらしく山歩きも人気です。
1826年にショパンがこの地を滞在したことを記念して,毎年8月にドゥシニキ国際ショパン音楽祭が催されています。
この音楽祭の会場となっている建物には美談がのこされています。
ショパンの滞在中,療養中の女性(一説では町の仕立て屋だったともいわれています)が急死しました。
4人の遺児が孤児になってしまうことを知ったフレデリックはひどく心を痛めたそうです。
そこで,その子たちのために募金を呼びかけてチャリティー演奏会を開きました。
演奏会は大好評で同日に2回開催されたのですが,その演奏会の会場となった建物が現在も同じ場所にあり,音楽祭の会場となっています。
ショパンの手紙 ~温泉地からエルスナーへの手紙~
- 日付;1826年8月29日 *ショパン16才
- 宛先;エルスナー
- ワルシャワ音楽院でショパンの作曲を指導した,ショパン唯一の作曲の師。
ショパンは生涯尊敬し,感謝を忘れなかった。
- ワルシャワ音楽院でショパンの作曲を指導した,ショパン唯一の作曲の師。
- 書いた場所;ライネルツ(現在のドゥシニキ)
私はすっかり湯治のために時間を取られてしまい,これまでずっと手紙を書くことができませんでした。ようやくお話を楽しむ時間を見つけることができました。
新鮮な空気と乳清,鉱泉をしっかりと飲んだおかげで,ワルシャワにいたときとは別人のように元気になりました。
美しいシレジア地方の素晴らしい風景は私を魅惑し恍惚とさせます。しかしただ一つ物足りないことがあります。ライネルツの美しい景色も,よい楽器のない寂しさを補ってはくれません。わずか一台の良いピアノもないことを想像ください。私の見た限りのピアノは私を悦ばすより,苦痛に陥れるのです。
幸いにもこの苦痛はもう少しで終わります。来月の11日には出発する予定です。先生にお会いできることを楽しみにしています。
F.F ショパン
母からもあなたに尊敬の意をお送りいたします。
奥様にくれぐれもよろしくお伝え下さい。
ワルシャワのエルスナー先生へ。心より。
ワルシャワに戻ってからもフレデリックは引き続きあまり健康ではありませんでした。
その様子が次の手紙から伝わってきます。
ショパンの手紙 ~音楽の道に進む決心を固めたショパン~
- 日付;1826年11月2日 *ショパン16才
- 宛先;ヤン・ビャウォブウォツキ
- 書いた場所;ワルシャワ
愛するヤーシャ!
ぼくが気づかぬ間に,この三ヶ月が飛び去ってしまった。君に手紙を書いてから長くは経っていないようだが,まさにそのとおりだ。その責はぼくにあることを認めるが,あれから1年の4分の1が過ぎてしまった。ぼくを喜んで赦してくれるとはお慈悲深いことだね。君の慈悲心は雲まで届くことだろう。しかしぼくの方は全く別問題だ。ぼくはぼくの怒りを宣言する。その怒りはぼくが今日までまるで阿呆のように待ち呆けていた,1枚の紙以外の何ものも和らげることができない。君の麦やじゃがいもや馬より,ぼくに興味深いものが何だが,君はしらないのかい?
ぼくはひどく肥って怠けている。一口にいえば全然何もやりたくないのだ。ぼくは高等中学にも行っていない。ドイツ人とドイツ・ポーランド系の二人の医者にできるだけ散歩をしろ,と言われているのだから,毎日強制的に6時間も座らせられるのは馬鹿らしい。今年中に新しいことを学べるのに,同じ講義を繰り返して聴くのは愚かなことだ。今ぼくはエルスナーの許に厳格な対位法を学びに,週に6時間通っている。また色々なところに音楽の話を聞きに行っている。
夜の9時に床に就き,お茶の会,夜会は一切禁止だ。消火剤を飲み,まるで馬のようにオートミールで養われているが,当地の空気はライネルツのようによくない。皆はぼくに来年もう一度鉱泉を試みたらと言っている。ぼくのためにはボヘミアの国境より,パリの方がおそらく薬になるだろう。おそらく50年のうちには・・・
愛するヤーシャ,僕にキスをしてくれたまえ。ではあとは郵便で。
F.F ショパン
この手紙では療養からワルシャワへ戻ったショパンの日常の様子が伝わってきます。
引き続き健康状態がよくない中,エルスナーについて真剣に作曲の勉強を始めたこと,パリ留学がひそかな夢になっていることが分かります。
病気がちな上に,音楽に没頭する時間が増え,フレデリックの学校の成績も次第に悪くなり,優等賞を獲得できなくなりました。
フレデリックに幅広い教養を身に着けさせようとしていた両親ですが,病弱な息子に学業と音楽と二つの道を課すことが重荷であることと,音楽こそがフレデリックの天職であることを悟りました。
両親の理解を得て,フレデリックは中等学校をやめワルシャワ音楽院への入学が決まります。
そして情熱の全てを音楽に捧げる生活を始めたのです。
ショパンの手紙 ~エミリアの死~
- 日付;1827年 1月8日 / 3月14日 *ショパン17才
- 宛先;ヤン・ビャウォブウォツキ
- 書いた場所;ワルシャワ
[1827年1月8日]
他にぼくのマズルカもお送りする。いずれまた別の曲も届くだろうが,一度に送っては楽しみが多すぎるだろうから。全部すでに出版された作品だ。ロンドは石版刷に回したかったのだが,ほうりだされて紙の間で窒息している。ぼくの初期の作品だからもっと旅をする権利があるのだが,どうもぼくと同じ運命らしい。
母親の調子が悪い。4日間寝込んでいる。リューマチに非常に悩んでいる。今は少し良くなっているが,神様が完全に元気にしてくれる事を願って止まない。
[1827年3月14日]
愛するヤーシャ!
ぼくたちの家が病魔に襲われている。エミリアが寝込んでからすでに4週間が経つ。咳をして,血を吐き始めたので母が怯えている。そこで医者は血を吸い出すことを命じた。2回もヒルを貼ったが何も効果がない。この期間中彼女は何も食べなかった。見違えるほどにやせ衰えてしまった。僕たちの家で何が起こっているか,君の想像に任せる。
キスしてくれたまえ,愛するヤーシャ。F.F ショパン
1827年4月10日,文学的才能に恵まれ,幼くして戯曲や詩を書き,フレデリックに次いでショパン家の神童と呼ばれていた,妹エミリアが14才の若さで亡くなります。
結核でした。
病床にあったエミリアは次のような詩を遺しています。
死ぬことは私の天命
死は少しも怖くはないけれど
怖いのは貴方の
記憶の中で死んでしまうこと
また,次のような一節も遺されています。
この地上
人の定めの何と悲しいこと
苦しんで
また隣人の苦しみを増すなんて
エミリアの死後,ショパン家はその悲しみから逃れるようにクラシンスキ宮殿の南館に引っ越します。
9月にはフレデリックは音楽院の2年生に進級しました。
また,ショパンよりも5才年上で,良き相談相手だったヤン・ビャウォブウォツキも,1827年に22才の若さで亡くなってしまいました。
1827年の春から1828年の秋まで,ショパンはほとんど手紙を書いていません。
愛する妹と親友を立て続けに亡くしたフレデリックですが,表向きは気丈に明るく振る舞っていましたが,やはり手紙を書くような心境にならなかったのかもしれません。
ショパンの手紙 ~ショパンの出世作~
- 日付;1827年 *ショパン17才
- 宛先;ヤン・マトゥシンスキ
- ショパンが学生時代に,特に親しかった友人の一人。
後年,ヤンが結核で苦しみぬいて死んでいく最期を看取っています。
- ショパンが学生時代に,特に親しかった友人の一人。
- 書いた場所;ワルシャワ
愛するヤーシャ!
こんなに長い間君に合わないのはどうしてだろう! ぼくは毎日君を待っているのに,君は来てくれない。ぼくはこんなことがちょっと君に言いたかったのだ。
近頃天気が悪いのであの変奏曲のピアノの部分の清書がしたいのだが,君が持っている譜面がないと,することができない。明日持ってきてもらえないだろうか。そうすれば明後日には両方とも進呈する。
F.F ショパン
手紙にある変奏曲とは『モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲 変ロ長調 Op.2』のことです。
この変奏曲は後年,ロベルト・シューマンを感動させ,有名な「諸君帽子をとりたまえ,天才だ!」の一句を含む紹介文を書かせることになります。
長らく1828年の作曲とされてきましたが,この手紙の発見により1827年の作品であることが明らかになりました。
今回は以上です。