『ショパンの装飾音』の完全解説。いよいよ完結です!
ショパンの任意の装飾音
前回までに解説してきた装飾音
前回までで,
- 3種類のトリル(長いトリル,短いトリル,下からのトリル)
- 前打音・複前打音
- アルペッジョ
について詳細を解説しました。
これらは
- 主音の前についている。
そのため,主音は拍の頭より後ろにずらされて鳴らされる。 - 主音の打撃音をやわらげる。
- ゆるやかに段階的に近づいていって主音を鳴らす。
- ピアノで”歌う”ことを可能とする。
旋律に「ヴィブラート」「こぶし」「しゃくり(ベントアップ)」「フォール」の効果を与える。 - 記号によって記譜される。
- 書き下して記譜されるときにも,実際に演奏されるタイミングよりも前に記譜される。
そのため,視覚的に感じたまま演奏すると,演奏を間違えることになる。
といった特徴・役割がありました。
今回解説する装飾音
小さな音符で奏法そのままに記譜される。
今まで解説してきた装飾音は,バッハやモーツァルトの作品における慣例的な記譜法に依っていました。
視覚的に感じたまま演奏すると,ショパンが意図した奏法とは違った演奏になってしまうことがほとんどでした。
今回解説する装飾音は,小さな音符で,演奏されるべきところに,奏法そのままに書き下して記譜されています。
楽譜から視覚的に感じたまま演奏すれば良いため,間違えて演奏する可能性がほとんどない装飾音になります。
音楽的霊気のなかで旋回する音群
これら小さな音符で記譜された音群は,作品の骨組みとなる主要な音で構成された音楽的時空間から飛び立ち,そのはるか上方の音楽的霊気のなかで旋回する音群です。
主要音で構成された時空間とは別次元の霊的空間が雲のように重なっているかのようです。
ショパンの作品から感じられる,ノーブルで気高い崇高な神聖さの理由の一つです。
主要な音と装飾音とは明確に弾き分ける
音と音の霊的空間を埋めるような小さな音符で記譜された音群は,骨組みとなる主要な音とは,明確に弾き分ける必要があります。
これら小さな音符で記譜された音群は,軽やかに,なめらかに演奏します。
これは,華やかで堂々とした場面でも同様です。
決して大音量で重々しく派手に演奏することはありません。
ここを間違えると,ショパンの精神とはなはだしく違ってしまうため,聞くに堪えない演奏となります。
これら霊的空間内で奏でられる音群は常に神秘的で気品あるものでなければなりません。
装飾音によって,音楽が自然に流れる
ショパンは,テンポ・ルバートとは別に,自然なテンポの揺れも重要視していました。
ショパンは,テンポがゆるやかになるところは,その時間を装飾音で埋め,加速して元の速さに戻すところは音符を少なくし,自然に,流れるようにテンポを変化させることに成功しています。
そして,多くの場面で,リタルダンドやアッチェレランド,ソステヌート,ア・テンポなどの指示は書き込まずに,装飾音によって自然にテンポの揺れが発生するように作曲しています。
このテンポの変化を経験した後では,リタルダンドやア・テンポなどの指示でテンポを変えることは,人為的で作為的な表現に感じられます。
挿入されている装飾音をあわてずにゆったりと演奏することで,自然なテンポの揺れが発生されます。
一定のテンポを保つことを優先して装飾音を高速で弾き飛ばしてしまうと逆効果です。
あわてず,急がず,歌うように演奏することで自然に音楽が流れます。
前半はアッチェレランド&クレッシェンド,後半はリテヌート&ディミヌエンド
音数の多いカデンツァは数個ずつのグループにわけて各拍に割当てて演奏することになります。
上の譜例では,6+6+6+5のように割当てられることが多いでしょう。
この割当て方には明確なルールはありません。
演奏者の裁量に任せられます。
何個ずつ割り当てるのかは重要ではありません。
自然な演奏を実現するためには,以下の点に注意します。
- アクセントをつけない
上の譜例では23個の音群がひとつの装飾音です。
6+6+6+5のように装飾音が小さく分断されてはいけません。 - ゆっくり弾きはじめて,やや加速し,最後は減速する。
- 音量を抑えて弾きはじめて,わずかに音量を上げて,最後は音量を落とす。
- 音程の大きい音の移動はゆっくり。
音域広く音が移動するときは,それだけ時間をかけて次の音へうつります。
大きな音符で記譜されていても装飾音として演奏する
カデンツァが小さな音符ではなく,主要音と同じ,大きな音符で記譜されている場合があります。
これらは視覚的に,主要音との区別ができないため,注意が必要です。
これらは装飾的要素として,軽やかになめらかに演奏されます。
主要音とおなじタッチで,重くはっきりした音で演奏してしまうと,ショパンの神性が台無しとなります。
明確なアクセントをつけないこと,アッチェレランド&クレッシェンドの後,リテヌート&ディミヌエンドすることなど,演奏上の注意点もまったく同じです。
大きな音符で記譜されたカデンツァは,一つの和声から成っていて,鍵盤の上に大きく広がっている場合が多いです。
これらの音すべてに主要音と同じ音量を与えてしまうと,かなり騒々しい演奏となります。
作品の骨組みとなる主要な音と,装飾的に挿入された音群とを区別して演奏するバランス感覚は,ショパンの作品を演奏する際の重要なポイントの一つです。
《任意の装飾音~演奏のポイント~》
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ショパンの装飾音~ターン~
記号で記譜されることはほとんどない
ターンにはバロック時代から用いられてきた記号がありますが,ショパンはこの記号をほとんど用いていません。
バロック時代には転回ターンの記号も使われていましたが,ターンの記号との区別が紛らわしいので,後の時代では使われなくなりました。
ショパンも転回ターンの記号は一度も使っていません。
記号でターンが記譜されている例
前奏曲Op.28-4
必要なダブルシャープが,エキエル版では補完されています。
ロンドOp.1
2回目のターンでは,ターンの前にトリルがついています。
ポロネーズOp.71-3
ショパンの作品の中で使われている”転回ターン”の例
ショパンは転回ターンをまれにしか使用しませんでした。
転回ターンは主音を鋭く強くする効果があるため,ショパンの作品には向いていないのだと思います。
ノクターンOp.55-2
複前打音と同様に,実際に演奏されるタイミングよりも前に記譜されているため注意が必要です。
拍と同時に演奏するようにしましょう。
ショパンの作品の中で使われている”ターン”の例
ちょっとしたスキマを埋めるように,そして音楽をほんの少しの間ritenutoするために,ショパンはターンを頻繁に使っています。
前奏曲Op.28-15『雨だれのプレリュード』
あわてずに,ゆったりと演奏しましょう。
エチュードOp.25-7
23小節目の例は,大きな音符で記譜されていますが,小さな音符で記譜されている場合と同じで,他の主要音のようにはっきりと弾いてはいけません。
この23小節目の記譜例は,ショパンの他のターンを演奏する際の参考になります。
ノクターンOp.27-1
前打音の記事で解説済みですが,同じ音を繰り返す前打音は先取りで演奏します。
ノクターンOp.32-1
この前打音も先取りです。
ノクターンOp.27-2
2重唱によるターンが,この世のものとは思えない美しさです。
前打音やトリルが出てきますが,これらはすべて拍と同時に演奏します。
ノクターンOp.32-2
ピアノソナタ第3番Op.58 第3楽章
ショパンの装飾音~カデンツァ~
ショパンの作品の中でカデンツァが使われている例
ノクターンOp.15-2
ノクターンOp.27-2
ワルツOp.64-2『小犬のワルツ(子犬のワルツ)』
1拍に3音ずつ割り当てて演奏する演奏者が多いです。
割り当て方には問題ありませんが,アクセントをつけてしまうと雰囲気が台無しなので注意しましょう。
ポロネーズOp.53『英雄ポロネーズ』
大音量で乱暴な演奏をする演奏者が多いです。
好みの問題かもしれませんが・・・
当サイト管理人は,上品な演奏を切に願います。
大きな音符で記譜されているカデンツァの例
バラード第1番Op.23
ff(フォルテシモ)ではありますが,あくまでも上品な演奏を心がけましょう。
バラード第3番Op.47
バラード第4番Op.52
軽やかになめらかに。
重々しく念を込めて演奏されると,ショパンとは思えない野暮ったい演奏になります。
幻想曲Op.49
中間部の直前と,終結部分です。
ピアノソナタ第3番Op.58 第1楽章
ショパンの装飾音~その他の任意の装飾音~
前打音・複前打音の解説記事でも解説しましたが,スライドするような複前打音に見えて,実は前の音が主音である場合があります。
これはターンと同じ効果・目的があります。
スライドするような複前打音との区別がぱっと見ただけではわかりません。
ポロネーズOp.26-1
ピアノ協奏曲第2番Op.21 第1楽章展開部
ショパンの任意の装飾音~まとめ~
小さな音符で奏法そのままに記譜されています!
視覚的に感じたまま演奏すれば良いので,奏法を大きく間違えることはないでしょう。
演奏上の注意点
作品の骨組みとなる主要な音と,装飾的な音群とを明確に弾き分けるのがポイントです。
- あわてずゆったりと演奏する
そうすることで流れるようにテンポが自然と変化します。 - 軽やかになめらかに演奏する
主要な音と明確に弾き分けます。 - 前半はアッチェレランド&クレッシェンド,後半はリテヌート&ディミヌエンド
自然な演奏のために重要です。
どんなに指が速く動いて,ミスタッチなく演奏ができても,自然なアーティキュレーションが備わっていないと,低レベルな演奏になります。 - アクセントをつけない
- 大きな音符で記譜されていても,主要な音とは区別する
バラードやソナタなど大作によく登場します。
広い音域にわたっていることが多く,主要な音と同じ音量を与えてしまうと,かなり騒々しい演奏になります。
ショパンの装飾音の解説が完結しました!
ショパンの装飾音についての解説記事を公開してきましたが,無事完結することができました。
ショパンの作品において,装飾音は最も重要な要素といって良いでしょう。
マズルやオベレク,ポロネーズといったポーランド民族のリズムや,和声の推移,転調の妙技など,ショパンの高い芸術性の要素はたくさんあります。
それらと比較しても,やはりショパンの装飾音こそ,ショパンの作品を最高の芸術作品たらしめている最大の要素だと思います。
音楽の原点は鳥のさえずり,川のせせらぎ,そして人間の話し言葉と歌声です。
チェンバロは弦をはじく楽器でした。
音の強弱をつけるのが難しく,音量は急速に単調に減衰します。
人間の声の長くのばされ感情のこもった音を,チェンバロで実現するための工夫として,装飾音は発明,発展してきました。
この工夫は,バロック時代,特にJ.S.バッハの作品によって,最高水準の完成に至りました。
その後ピアノが発明されます。
ピアノは弦を叩く楽器です。
音量が単調に減衰する楽器であることはチェンバロと変わりありませんが,より長く音が持続するようになりました。
音の強弱をつけることも容易になりました。
ピアノという楽器に徐々に改良が加えられ,ようやく現代ピアノに近いものが完成しようとしていた時代に,ショパンという天才が生まれます。
装飾音の発展の歴史は,ショパンの作品で頂点に達します。
ショパンの装飾音は,かくも重要なものであるにも関わらず,正しい奏法に触れる機会がほとんどありません。
当サイト管理人も,ショパンの装飾音をどう演奏するべきか,常に迷ってきました。
最初に参考にしたのは,世界的に著名な演奏家の録音です。
ホロヴィッツ,ルービンシュタイン,コルトーのCDは大量に買いました。
アシュケナージのショパン全集が出たときは,狂喜乱舞し,何度も繰り返し聴いて奏法を研究しました。
ホロヴィッツ,ルービンシュタイン,コルトー,アシュケナージ・・・
今あらためて聴くと,どの演奏も間違いだらけ。
特にアシュケナージの演奏は酷いです。
こんなものを(と言ったら失礼ですが・・・)大金をはたいて購入して繰り返し聴いていたのかと思うと怒りすら覚えます。
一番個性的で,ショパンのオリジナルから最も遠い演奏だと思っていたホロヴィッツの演奏が,実は本来のショパンに最も近い演奏だったことに気づいたりもしました。
そんな間違えた演奏を繰り返し聴き,それを真似て練習を繰り返していた,そんなあるとき,
楽譜店でいつものように楽譜を立ち読みしていました。
パデレフスキ版の楽譜に「前打音,ターン,トリル,アルペッジョなどのすべての装飾音は,古典的規範に従って演奏すべきだ,つまり,装飾音の音価は主要音符から差し引かれる」と譜例付きの注釈をみつけます。
装飾音を拍の頭にあわせて演奏する???
しかし,世界的名声のあるピアニストの演奏(=アシュケナージの演奏)が装飾音を先取りで弾いているのに,楽譜の注釈の一言で考え方が変わることはありませんでした。
その後,いくつかの名著と出会います。
- 『ショパンの装飾音』ジョン・ピートリー・ダン(著)
- 『ショパンのピアニスム』加藤 一郎 (著)
- 『ショパンの音楽記号』セイモア・バーンスタイン(著)
特に,『ショパンの装飾音』ジョン・ピートリー・ダン(著)はすばらしい名著です。
そして,ついにエキエル版のショパン,ポーランド・ナショナルエディションと出会いました。
長らく,演奏者の個性が重視される時代が続きました。
ホロヴィッツのショパンは,ショパンの演奏ではなく,ホロヴィッツの演奏です。
ショパンのオリジナルの演奏よりも,ホロヴィッツの演奏の方が,より芸術的で,聴衆の心をつかむ演奏かもしれません。
それでも,ショパンを愛するものとして,オリジナルのショパンを聴きたい。
ショパンコンクールがエキエル版を正式に採用したことで,ショパンオリジナルの演奏を耳にする機会が増えてきました。
ショパン愛好家として大変喜ばしいことです。
今回,ショパンの装飾音について,体系的に詳細をまとめました。
当サイト管理人よりも,演奏技術があり,ピアノ演奏への情熱のある方が,将来ある若いピアノ学習者が,ショパンオリジナルの演奏を目指していただくきっかけとなれば幸いです。
そして,正しいショパンの演奏をもっとたくさん楽しめる時代がくることを祈っています。
今回は以上です!