ショパンのアルペッジョ~概要~
ショパンがアルペッジョを用いる目的
広い音域の和音を奏でる。
広い音域の和音は,狭い音域の和音とは違った魅力があります。
ピアノの鍵盤は88鍵。
最低音のA音から最高音のC音まで,1225mmもの幅があります。
対して,人の手で抑えられる範囲はあまりにも狭すぎます。
10度,12度,15度といった広い音域にわたる和音には,狭い音域では代用が不可能な響きがあります。
アルペッジョはダンパーペダルと協同して,広い音域の和音を実現する手段となります。
ピアノの打撃音をやわらげる。
ピアノがまだ発明されていない時代,チェンバロを演奏する際に,アルペッジョはピアノよりも頻繁に使用されていました。
チェンバロでオクターブを超えるような広い音域の和音を演奏することは,ほとんどありませんでした。
手が十分に届く範囲の和音ばかりなのに,アルペッジョが頻繁に用いられたのには,理由があります。
チェンバロは力加減で音の強弱をつけるのが難しい楽器です。
チェンバロで和音を同時に鳴らすと,ひどく乱暴で騒がしい音がします。
例えばチェンバロで「ド」「ミ」「ソ」を同時に鳴らすと,単音で音を鳴らすのと比べて,単純に3倍の音量の打撃音が耳をつんざきます。
音を出すための機械的な雑音も混ざって,不快な濁った音が強く出てしまいます。
音の強弱をつけるのが難しいチェンバロで,やわらかく心地よい和音を響かせるために使用された奏法がアルペッジョです。
ピアノは,演奏者の力加減や指先の感覚に敏感に応えてくれます。
それでも,音数の多い和音を鳴らすときには,アルペッジョを用いることで,より打撃音をやわらげることができます。
さらには,たくさんの音を同時に鳴らすよりも,下から順番に鳴らす方がそれぞれの音が際立って聞こえます。
一つひとつの音が脳内で組み合わされたとき,より鮮明に豊かな響きとなります。
アルペッジョの讃歌というべきエチュードOp.10-11ですが,もしもアルペッジョではなく和音を同時に鳴らしたならば,攻撃的で騒がしい作品になっていたでしょう。
この作品は,アルペッジョで演奏するからこそ,やわらかく表情に富んだ,甘く切ない和音が心地よく響くのです。
ショパンのアルペッジョは3種類!
ショパンのアルペッジョは,
- 右手のみのアルペッジョ
→拍と同時にはじめる。 - 左手のみの低音部のアルペッジョ
→最低音を先取りで演奏する。 - 両手によるアルペッジョ
→最低音から弾きはじめて,中間音域の音は美しく響くように重ねる。
の3種類があり,それぞれ奏法が異なります。
詳細は後述します。
アルペッジョにはゆるやかなクレッシェンド
ショパンが用いたアルペッジョは,低音部から高音部へ順番に上がっていくアルペッジョです。
ゆるやかにクレッシェンドすることで,自然な演奏となります。
低音部のアルペッジョで,最低音に不自然なアクセントを入れると派手で乱暴な演奏になってしまいます。
そして,そんな乱暴な演奏が実際に多いです。
気をつけましょう!
ショパンのアルペッジョにはペダルが不可欠
特に広い音域に広がる和音では,全ての音を指で抑えたままにはできません。
ショパンのアルペッジョは下の音から順番に音を鳴らしていきます。
アルペッジョが弾き終わるころには,低音部の音(左手の小指や,右手の親指で弾いた音)は鍵盤から指が離れてしまうことになります。
低音部の音は,和音のベースとなる根音である場合が多いです。
根音が豊かに響かないと,和音全体が乾いたような頼りない音になってしまいます。
アルペッジョ,特に広い音域のアルペッジョを豊かに美しく響かせるためには,ダンパーペダルが不可欠となります。
ダンパーペダルは,踏み変えのタイミングを間違えると,前の和音と音が混ざってしまう危険性があります。
和音と和音の響きが混ざることなく,それぞれの和音を豊かに響かせるためには,ダンパーペダルの慎重な踏み変えが不可欠となります。
《アルペッジョにおけるペダルの踏み変え》
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このペダルの踏み変えについては,特に意識せずに自然と体が(足が)動くようになるまで繰り返し練習をしておきましょう。
以下,各アルペッジョの奏法においては,ペダルの踏み変えについては言及しません。
アルペッジョを演奏する際には,上記のペダルの踏み変えについて,常に意識するようにしてください!
ショパンのアルペッジョ~右手のアルペッジョ~
右手によるアルペッジョは,拍と同時に弾きはじめることだけを意識すれば,間違えることはありません。
ショパンの右手によるアルペッジョには,
- 普通のアルペッジョ
- 最初の音を2回繰り返すアルペッジョ
- アルペッジョの後に前打音が付いているアルペッジョ
の3種類があります。
アルペッジョ(右手)~記譜法と奏法~
ショパンはアルペッジョを複数の記譜法で指示していますが,どの記譜法も奏法は同じです。
右手のアルペッジョは拍と同時に弾きはじめます。
先取りで弾いてしまうと,一番高い音に強烈なアクセントがついてしまいます。
アルペッジョは「打撃音をやわらげる」目的があったことを思い出してください。
拍と同時に弾きはじめることで,やわらかく豊かな和音が響きます。
ショパンの作品の中で使われているアルペッジョ(右手)
前奏曲Op.28-3
テンポの速い箇所なので,先取りで弾こうとすると不自然にテンポが止まってしまいます。
また,先取りで弾くために慌てて音を詰め込むと,粗野な響きとなり,また,最高音のE音に強烈なアクセントがついてしまいます。
拍と同時に弾きはじめることで,左手伴奏のテンポが揺らされることはなく,右手旋律にテンポ・ルバートがやわらかく入ります。
スケルツォ第4番Op.54
テンポの速い場面です。
先取りで弾いてしまうと,テンポが崩れ,最高音に強烈なアクセントが入るなど,良いことは一つもありません。
拍と同時に弾きはじめることで,テンポは一定に保たれ,和音も美しく響きます。
初めの音を繰り返すアルペッジョ~記譜法と奏法~
最初の音を2回繰り返すことで,さらに打撃音の衝撃が少なくなり,やわらかく豊かに和音が響きます。
ショパンは好んでこのアルペッジョを使用しました。
このタイプのアルペッジョも,拍と同時に弾きはじめます。
ショパンの作品の中で使われている初めの音を繰り返すアルペッジョ
ノクターンOp.32-1
先取りで演奏してしまうと,最高音のD♯音が強烈な打撃音となってしまいます。
拍と同時に弾きはじめましょう。
ノクターンOp.62-1
普通のアルペッジョと,最初の音を繰り返すアルペッジョが続けて出てきますが,両方とも拍と同時に演奏します。
同じ作品の別の場所です。
先取りで演奏してしまうと,乱暴な打撃音が鳴り響いて,雰囲気が台無しです。
拍と同時に演奏することで,甘く切ない和音が響きます。
ritenuto(;ただちに速度をゆるめて)の指示がありますが,慌てずにアルペッジョを演奏することで,自然とritenutoがかかります。
前打音付きアルペッジョ~記譜法と奏法~
プロの演奏家でも,前打音の後にアルペッジョを弾いていることがあります。
アルペッジョを弾いてから前打音を弾くのが正解です。
そして,このアルペッジョも拍と同時に演奏します。
アルペッジョに,さらには前打音もついているため,主音の打撃音をやわらげる効果が最大限発揮される奏法です。
正しく演奏すると,旋律に「こぶし」や「しゃくり(ベントアップ)」のような効果があらわれ,歌うような旋律が心をぐっと掴みます。
上の譜例(バラード第1番Op.23)のように,和音に前打音がついているときは,アルペッジョが書かれていなくても,アルペッジョが書かれているときと同じように演奏することができます。
ショパンの作品の中で使われている前打音付きアルペッジョ
バラード第2番Op.38
バラード第4番Op.52
ノクターンOp.62-1
バラード,そしてノクターンの3つの例では,甘く切ない美しい旋律の中で前打音付きアルペッジョが使われています。
ただでさえ儚げな美しい旋律に陶酔している場面です。
「こぶし」「しゃくり」の効果によって,感動が涙を誘います。
前奏曲Op.28-8
ここは長前打音です。
アルペッジョの後,長前打音の音価を十分に長く保持しましょう。
ショパンのアルペッジョ~左手低音部のアルペッジョ~
アルペッジョ(左手,低音部)~記譜法と奏法~
左手のアルペッジョは先取りで演奏します。
ショパンの装飾音では先取りで演奏することは珍しいです。
低音の前打音も先取りで演奏する珍しい例でした。
低音部の,特に最低音は,和音のベースとなる根音であることが多いです。
先取りで演奏することで,和声(ハーモニー)が明確になります。
先取りしなければならない音は,和音の根音となる最低音だけです。
和音すべてを先取りしてしまうと,テンポが不自然に止まったり,慌てて高速で音を詰め込むことで強烈な打撃音が発生したりします。
《低音部(左手)のアルペッジョの奏法》
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後述する両手アルペッジョと考え方は同じになります。
ショパンの作品の中で使われている低音部(左手)のアルペッジョ
マズルカOp.7-3
ベースのF音が先取りで鳴らされることで和声が明確になり,
中音域のA♭音が拍の後ろではっきり聞こえることで和音が豊かに響きます。
ノクターンOp.48-2
ショパンは同じような場面を前打音で記譜する場合もありますが,奏法は同じです。
ノクターンOp.15-1
音域の広いアルペッジョが連続して出てきます。
2回目のアルペッジョは,下から2番目の音と旋律が同じB音(シの音)なので,これを同時に鳴るのは避けます。
ゆるやかに全部の音を先取りで演奏することで,自然とritenutoがかかります。
音域の広いアルペッジョなので,ダンパーペダルの使用がより重要となります。
ペダルの踏み変えについては前述しています。
エチュードOp.25-5
多少の打撃音があっても良い場面ですが,広い音域を跳躍するため,気をつけないと必要以上の打撃音が出てしまいます。
あわてず,ゆったりと演奏しましょう。
前奏曲Op.28-10
エチュードOp.10-8
ショパンのアルペッジョ~両手アルペッジョ~
両手で演奏されるアルペッジョ~記譜法と奏法~
上の譜例を見てください。
Aのように低音と高音で波線が分かれている場合も,Bのように大譜表をまたいで下から上まで波線がずっと続いている場合も,奏法は同じです。
記譜法Bのように下から上まで波線が続いている場合も,奏法γのように演奏することを指示しているわけではありません。
奏法α,β,γは良い奏法。奏法δは良くない奏法です。
奏法δでは,中音域の「ミ」「ソ」「ド」がオクターブ音程で重なっていて,不自然に目立ってしまうからです。
また,左手と右手のアルペッジョを同時に弾き始めることはありません。
譜例Aの場合でも,左手5の指と,右手1の指を同時に鳴らすことはなく,左手5の指がまっさきに鳴らされます。
《両手アルペッジョの奏法》
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最低音を先取りで鳴らすのは,左手のみのアルペッジョと同じ理由です。
最低音を先取りで響かせる(ドガン!と叩きつけるのではありません!)ことで和声が明確になります。
上の譜例γのように全部の音を下から上へ順番に鳴らしていくと,かなりの時間がかかります。
不自然にテンポが止まってしまったり,慌てて音を詰め込んで乱暴な演奏になってしまったりする危険があります。
譜例α,βのように中音域の音を重ねることで,美しく和音が響くことがほとんどです。
最も豊かに和音が響く重ね方を探しましょう!
ショパンの作品の中で使われている両手アルペッジョ
エチュードOp.25-4
両手を同時に鳴らし始めると,つまりは左手5の指と右手1の指を同時に鳴らして弾き始めると,オクターブ音程が不自然に目立って良くありません。
マズルカOp.67-1
波線が下から上まで続いていても,下から上まで順番に一つずつ音を鳴らす指示ではありません。
マズルカOp.7-3
左手のみのアルペッジョ,両手によるアルペッジョが混在しています。
ショパンのマズルカは,リズム感が悪く聞こえる演奏が多いです。
装飾音を間違えて弾いていることが原因であることが多いです。
エチュードOp.10-8
ショパンのアルペッジョ~まとめ~
ショパンがアルペッジョを用いる目的
- 広い音域に広がる和音の演奏を可能にする
- 音数の多い和音の打撃音をやわらげて豊かに響かせる
ショパンの作品では,打撃音をやわらげる効果が特に重要です!
アルペッジョにはペダルが不可欠!
アルペッジョを美しく響かせるためには,ダンパーペダルを踏み変えるタイミングが重要です!
ペダルを踏み変えるタイミングを体で覚えよう!
ゆるやかにクレッシェンド
下から上へ,ゆるやかにクレッシェンドします。
低音部(左手)のアルペッジョで,最低音の根音に不自然なアクセントを入れないように気をつけましょう!
右手によるアルペッジョ
- 普通のアルペッジョ
- 最初の音を2回繰り返すアルペッジョ
- アルペッジョの後に前打音が付いているアルペッジョ
の3種類がありますが,拍と同時に弾きはじめることだけを意識すれば大丈夫です!
アルペッジョに前打音が付いているときは,アルペッジョを弾いてから前打音を弾きます!
左手による低音部のアルペッジョ
- 最低音を先取りで鳴らして和声を明確に!
- 最低音以外の音は先取りしなくてOK!
→慌てて全部の音を先取りすると,強烈な打撃音が発生して乱暴な演奏になってしまう場合が多いです。
拍の後ろに音が鳴っても良いので,ゆったりと美しくアルペッジョを入れましょう。
オクターブや2オクターブの音程で音を重ねないように注意します。 - 最低音にアクセントをつけない
→アルペッジョは下から上へクレッシェンドするのが基本です。
和音のベースとある根音は確かに大切な音です。
しかしショパンの作品で,低音をドガン!と打ち鳴らすのはやめてほしいと切に願います。
両手によるアルペッジョ
波線が分離していても,つながっていても,奏法は同じです!
- 波線が下から上まで繋がっていても,下から上まで一音ずつ順番に演奏する指示ではない!
- 波線が右手と左手でわかれていても,左右を同時に弾きはじめるわけではない!
- 最低音を先取りで鳴らして和声を明確に!
- 基本的には下から上へ順番に音を鳴らす!
- 中間音域の音を重ねる!
左手の1,2,3の指で鳴らす音と,右手の1,2,3の指で鳴らす音を重ねます。
最も和音が美しく響く重ね方を探しましょう! - オクターブや2オクターブの音程など,不自然に目立つ重ね方は避ける!
今回は以上です!
いよいよ次回,『ショパンの装飾音』の解説が完結を迎えます!