ショパンデータベースでは,ニッチな作品の解説も手を抜きません!
今回は,ショパンのエチュードOp.10-6の解説記事です。
ショパンの自筆譜や,生徒の楽譜へのショパン自身の書き込みなど,貴重な資料の画像を盛りだくさんでお届けします!
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-6単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
- ショパン 練習曲(エチュード) Op.10-6 概要
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 原典資料
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 構成
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 出版譜によく見られる間違い
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 自筆譜を詳しく見てみよう!
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 演奏の注意点
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 実際の演奏
ショパン 練習曲(エチュード) Op.10-6 概要
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10,Op.25【概要と目次】
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10 Op.25 概要の章に練習曲集全体の概要をまとめています。
- 海外での呼び名の章に練習曲集全曲の海外での呼び名をまとめています。
- 各曲の練習課題の章に練習曲集全曲の練習課題をまとめています。
- ショパンの指づかいにショパンの運指法をまとめています。
- ショパン作品一覧ではショパンの全作品を一覧表にまとめています。
練習曲集の各曲は,ショパンの作品の中でも特に人気の作品がたくさん集まっています。
そんな中,Op.10-6は演奏される機会の少ない作品です。
練習曲全曲を通して弾くときに演奏されるぐらいで,単独で演奏されることはほとんどありません。
当サイト管理人もあまり弾くことのない作品です。
魅力的で美しい作品なのですが,名曲ぞろいの練習曲集の中では,どうしても影の薄い作品です。
海外では‘Lament'(嘆き)と呼ばれることがあります。
日本語にすると「哀歌」や「挽歌」になりますかね?
練習曲集というメカニズムの訓練のための曲集にも関わらず,Op.10-6はノクターン形式の作品です。
練習曲集にはOp.10-3『別れの曲』やOp.25-7など他にも叙情的な作品はありますが,
分散和音の伴奏にのせて歌曲風の旋律を演奏する,というノクターンの形式で書かれている作品はOp.10-6だけになります。
練習曲集というメカニズムの訓練のための曲集なのに,叙情的な作品が3曲も収録されているというのは,当時の常識を覆す,天才の発想だったこともつけ加えておきます。
特筆するべき音型や技巧が使われているところもなく,
ショパンの主要作品と比べれば音楽的な魅力があまりないこともあり,
単に楽譜通り音を鳴らしただけでは聴衆を退屈させることになります。
人に聴かせるレベルで演奏をするためには,
打鍵(タッチ)のコントロールやペダリングによる美しい発音,自然なフレージングなど,
ピアノ演奏の基本が身についていることが前提となるでしょう。
また,この曲に限っては,原典に忠実な演奏ではなく,演奏者の個性による味付けが重要と言えるかもしれません。
ホロヴィッツの1963年の録音は素晴らしいです。
極端に遅いテンポで,楽譜にないペダルを多数使い,アクセントやフォルツァンドも過度に強調されていますが,原典から大きく逸脱することなく,ちゃんと楽譜通りに演奏しています。
にも関わらず,ピアノという楽器はここまで多様な音色が出るのかと改めて驚かされる演奏です。
「音の魔力」によって音楽の世界に惹き込まれます。
ただ,やっぱりホロヴィッツの演奏は「ホロヴィッツの」演奏であり,ショパンの演奏ではないです。
ショパン自身の演奏がどんなものだったのか,ショパン自身の演奏はさぞ素晴らしかっただろう,
そんなことを考えずにはいられません。
残念ながら,Op.10-6に関するショパン自身の発言や,ショパンの演奏を聴いた人の感想など,
ショパン自身のOp.10-6の演奏が想像できるようなエピソードなどは(おそらく)残っていません。
自筆譜や初版,生徒の楽譜へのショパン自身の書き込みなど,遺された資料を参考に想像するしかありません。
左手伴奏が「歌うような」右手旋律を生み出す
Op.10-6はノクターンの形式にはなっていますが,Op.10-6の旋律にはショパンがノクターンに書いたような装飾音がほとんどありません。
右手旋律だけを弾いても,ショパンのノクターンに特徴的な,旋律がまるで歌うように奏でられる,という驚きや感動はありません。
右手旋律は単調で,それ単独で弾いても「歌うように」は聴こえないでしょう。
ピアノは一度音を鳴らすとあとは単調に減衰していくだけです。
音を鳴らしたあとに,音量を増加させたり,周波数(音の高さ)を変えたりすることは物理的にできません。
ピアノは「ロングトーン(でクレッシェンド)」「ヴィブラート」「しゃくり(ベンドアップ)」「フォール」「こぶし」といった”歌う”ために欠かせない奏法が,すべて原理的に演奏できません。
ところが,内声部を一緒に弾くことで,この単調な旋律が「歌うように」奏でられます。
内声部が加わることで,まるでヴィブラートをかけながらクレッシェンドしている,美しいロングトーンに聴こえます。
ショパンが生み出した革新的なピアノ演奏手法のひとつと言えるでしょう。
この手法はノクターンでも使われています。
ノクターンOp.27-2では,静かに消えていきそうな美しいロングトーンが,最後に少しだけクレッシェンドしているように聴こえます。
メトロノームによるテンポ指定
ショパン エチュード【ショパンが指定したテンポ】の解説記事では,ショパンが指定したテンポについて詳細をまとめています。
フランス初版に書かれたテンポは驚きの速さ
ショパンが指定したテンポはという驚きの速さです。
技術的にはこのテンポで演奏することも可能ですが,さすがに速すぎです。
実際にはショパンの指定テンポの3分の1ぐらいで,ゆっくりと演奏されます。
難易度の高い作品ばかりの練習曲集の中で,Op.10-6だけ演奏が極端に易しいですが,
ショパン指定のテンポを守らずに,ゆっくりと演奏しているせいかもしれません。
ショパン自筆の清書原稿にはテンポ指定が一切書かれていない
フランス初版の冒頭に書かれている「con molto espressione」と「sempre legatissimo」は既に書かれていますが,テンポの指定は一切書かれていません。
そして,最終的にショパンはフランス初版にと書き込んでいます。
Op.10-6の練習課題
3~4つの声部に分かれていますので,Op.10-3『別れの曲』やOp.25-7と同じ練習課題だと言えるでしょう。
それぞれの声部に独立した音色(≒音量)を与えることが練習課題です。
Op.10-3やOp.25-7はペダル指示が少なく,Op.10-6はペダル指示がまったくありません。
ペダル指示が少ない,というのも共通しています。
ペダルに頼らずに,指先の技術でレガートに演奏することも練習課題になっているでしょう。
Op.10-3やOp.25-7と違って,ウィーン式アクションのピアノで書かれた作品です。
レガートに演奏するのは,イギリス式アクションのピアノで書かれたOp.10-3やOp.25-7よりも難しかっただろうと思います。
ただOp.10-6は音型が複雑ではなく,音域広く指を広げることもほとんどないため,
現代ピアノでレガートに演奏するのはそんなに難しくありません。
Op.10-6 運指
ショパンの運指の研究にもエキエル版が便利!
ショパンの指づかい(運指法)を研究するときにもエキエル版が重宝します。
エキエル版では
- ショパン自身が初版譜に記譜した指づかいは太字
- 編集者(エキエル氏)が追加提案した指づかいは斜体
- ショパンが生徒のレッスン譜に書き込んだ指づかいは(太字)
というふうに明示されていて,めちゃくちゃ便利です!
エキエル版ですが,2021年5月より日本語版が順次発売されています!
2021年秋には,練習曲集の日本語版が発売になるようです!
右手と左手を交互に使う運指
7小節目ですが,内声部の16分音符を左手と右手で交互に打鍵するという,特徴的な指づかいが書かれています。
しかし実際はミクリ版やコルトー版のように演奏されることが多いです。
ショパンの指示を忠実に守って演奏したいところですが,
ここは運指を多少変えても問題ありませんので,
ミクリ版やコルトー版のように演奏しても良いでしょう。
最後にも左手と右手を交互に使う指遣いが出てきます。
ここは現代の出版譜にもほぼ受け継がれています。
ノン・ペダルでも低音ベース音を持続させながら,音を濁らせることなく内声部の16分音符をレガートに演奏できるように考えられています。
作曲時に使用していたピアノ
- ショパンがエチュードの作曲で使用したピアノについての詳細な解説は,ショパン エチュード【ショパンが作曲に使用したピアノ】をご覧ください。
- ショパンの使っていたピアノの音域では,ショパンがその生涯で使っていたピアノの音域について解説しています。
Op.10-6は平行調であるOp.10-5とセットで1830年,ショパンが20才のときに作曲されたと考えられています。
ポーランドを発つ直前,1829年~1830年ごろの作曲です。
ショパンがまだポーランドを発つ前の作曲なので,ウィーン式アクションのピアノで作られています。
軽いタッチで音が鳴るかわりに,音量の変化がつけにくかったウィーン式アクションのピアノでは,
Op.10-6の声部の弾き分けや,叙情的なレガート奏法は,現代ピアノで弾くのと比べると格段に難しかったのではないかと思います。
ショパンのエチュードで,ウィーン式アクションで書かれたであろう作品を。作曲年の順に並べると以下の通りです。
- 1829年作曲
- Op.10-8
- Op.10-9
- Op.10-10
- Op.10-11
- Op.10-8
- 1829年~1830年作曲
- Op.10-5『黒鍵』
- Op.10-6
- Op.10-5『黒鍵』
- 1830年作曲
- Op.10-1
- Op.10-2
- Op.10-1
- 1830~1831年作曲;Op.10-12『革命』
こうやって並べると,ウィーン式アクションのピアノならば随分と弾きやすかっただろうと感じる曲が並びます。
その中にあって,Op.10-6だけはウィーン式アクションのピアノだと逆に弾きにくそうです。
難易度の高い作品が並ぶ練習曲集の中で,Op.10-6だけ演奏が簡単すぎて場違いな感じがありますが,
ウィーン式アクションのピアノで弾くことを考えると,意外と難易度の高い曲だったのかもしれません。
作品番号,調性,作曲年
ショパンが練習曲集を作曲したときの時代背景は,以下の解説記事をご覧ください。
*ショパンが練習曲集を作曲したのは主にパリ時代になります。
変ト長調のOp.10-5『黒鍵』のエチュードと平行調である変ホ短調のOp.10-6はセットで作曲されたと考えられています。
1829年ごろから作曲がはじまり,1830年の夏までにほぼ完成されたと思われます。
ショパンが19才~20才のときの作曲です。
ショパンは調号の多い変ホ短調の作品を5曲も書いている
Op.10-6は変ホ短調の作品です。
調号に♭が6つも並びます。
変ホ短調の作品というのは,ショパン以外の作曲家ではほとんど見られません。
変ホ短調で書かれている,というだけで極めて特徴的だと言えます。
ショパンの変ホ短調の作品
ショパンは練習曲Op.10-6以外に変ホ短調の作品を4曲書いています。
- マズルカOp.6-4 1830年~1832年(ショパン20才~22才)の作曲
- ポロネーズOp.26-2 1831年(21才)~1836年(26才)の作曲
- 前奏曲Op.28-14 1836年(26才)~1838年(28才)の作曲
- 歌曲「舞い落ちる木の葉」Op.74-17 1836年(26才)の作曲
Op.10-6を含めて,単独で演奏される機会の少ない作品が並びますが,
一人の作曲家が変ホ短調の作品を5曲も書いているというのは,かなり珍しいことでしょう。
Op.10とOp.25,全24曲の調性と作曲年の一覧表
ウィーン式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は青太字に,
イギリス式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は緑太字で表示しています。
No. | Op. | - | BI | 調性 | 作曲年 | 19才 | 20才 | 21才 | 22才 | 24才 | 25才 | 26才 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 10 | 1 | 59 | ハ長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
2 | 10 | 2 | 59 | イ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
3 | 10 | 3 | 74 | ホ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
4 | 10 | 4 | 75 | 嬰ハ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
5 | 10 | 5 | 57 | 変ト長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
6 | 10 | 6 | 57 | 変ホ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
7 | 10 | 7 | 68 | ハ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
8 | 10 | 8 | 42 | ヘ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
9 | 10 | 9 | 42 | ヘ短調 | 1829年 | 19才 | ||||||
10 | 10 | 10 | 42 | 変イ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
11 | 10 | 11 | 42 | 変ホ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
12 | 10 | 12 | 67 | ハ短調 | 1831年 | 21才 | ||||||
13 | 25 | 1 | 104 | 変イ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
14 | 25 | 2 | 97 | ヘ短調 | 1835年 | 25才 | ||||||
15 | 25 | 3 | 99 | ヘ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
16 | 25 | 4 | 78 | イ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
17 | 25 | 5 | 78 | ホ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
18 | 25 | 6 | 78 | 嬰ト短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
19 | 25 | 7 | 98 | 嬰ハ短調 | 1836年 | 26才 | ||||||
20 | 25 | 8 | 78 | 変ニ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
21 | 25 | 9 | 78 | 変ト長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
22 | 25 | 10 | 78 | ロ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
23 | 25 | 11 | 83 | イ短調 | 1834年 | 24才 | ||||||
24 | 25 | 12 | 99 | ハ短調 | 1835年 | 25才 |
ショパンが記譜した発想記号・速度記号
ショパン エチュード【ショパンが記譜した演奏指示】の解説記事では,ショパンが練習曲集に記譜した演奏指示をまとめています。
演奏指示が12個も書かれている
ショパンの他の作品と比べて,練習曲集Op.10にはたくさんの演奏指示が書かれています。
Op.10-6にも,12個もの演奏指示が書かれています。
冒頭にはcon molto espressione『とても,表情豊かに』と書かれています。
ショパンの作品では「表情豊かに」演奏するのは半ば当然です。
そんなショパンが,あえてespressioneと書いているということは,
これ以上ないぐらい「表情豊かな」演奏が求められています。
左手への演奏指示が多数
取り立てて左手だけへ向けた演奏指示がいくつか書かれています。
特に,legatoの指示が左手へ向けて何度も書かれています。
強弱記号は少ない
強弱記号はあまり書かれていません。が1つ,が3つ書かれているだけです。
フォルツァンドが間違ってフォルテピアノやフォルテになっている楽譜が多い
を間違えてやに変えてしまっている楽譜が多いです。
Op.10-4と同じで,フランス初版がを頻繁に印刷し忘れてしまっているのが原因です。
Op.10-4と違って,Op.10-6の中でははそんなに重要な要素ではありませんが,
しかしがやに変わってしまうと,演奏表現が大きく変わってしまいますので,
注意しましょう。
「出版譜によく見られる間違い」のところで解説します。
ゴドフスキー『ショパンのエチュードによる53の練習曲』
For the left hand alone
ゴドフスキーといえば「For the left hand alone」!
Op.10-6も,左手だけで演奏するバージョンが作られています。
内声部が32分音符となり,音符の数が2倍に増やされています。
原曲よりも和声の推移がより複雑になり,原曲の和声の美しさが惹き出されている名編曲です。
左手しか使わないというのに,原曲以上に音が厚く,和声も豊かになっています。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 原典資料
ショパン エチュード【原典資料】の解説記事では,ショパンの練習曲集全体の,初版や自筆譜,写譜などの原典資料について詳細をまとめています。
ショパンの自筆譜
ショパン自筆によるフランス初版の清書原稿を,ワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
詳細は「自筆譜を詳しく見てみよう!」の項目でご紹介します。
信頼できる原典資料~フランス初版~
パリ,M.Schlesinger(M.シュレサンジュ),1833年6月出版。
めずらしく,ショパンは校正にしっかりと関わっています。
この頃のショパンは,パリなどヨーロッパの主要都市でデビューしたばかりの新人作曲家でした。
後年のように友人に任せっきりにするのではなく,ショパン自身が校正にちゃんと関わっていました。
練習曲集Op.10のフランス初版は,信頼できる一次資料です。
他の初版
ドイツ初版
ライプツィヒ,F.Kistner(F.キストナー),1833年8月出版。
フランス初版の校正刷り(ゲラ刷り)をもとに作られています。
いつも勝手な判断で譜面を変えてしまい,しかも「原典版」として後世の出版譜に多大な影響を与えているドイツ初版です。
Op.10-6でも,ドイツ初版の多くの間違えを,たくさんの楽譜が受け継いでしまっています。
ドイツ初版は,長前打音を短前打音に変えてしまったり,♮を勝手につけたり,♯を勝手につけたりと,
勝手な変更を多く加えていて,この変更が現在出版されている多くの楽譜に受け継がれてしまっています。
「出版譜によく見られる間違い」の項目で解説します。
イギリス初版
ロンドン,Wessel & C°(C.ウェッセル),1833年8月出版。
フランス初版をもとに作られています。
原典資料としてはあまり価値がありません。
ショパンの生徒がレッスンで使用していたフランス初版
ショパンの生徒がレッスンで使用していたフランス初版が3種類現存しています。
- カミーユ・デュボワが使用していたフランス初版
パリのフランス国立図書館所蔵 - ジェーン・スターリングが使用していたフランス初版
パリのフランス国立図書館所蔵 - ショパンの姉,ルドヴィカが使用していたフランス初版
ワルシャワのショパン協会所蔵
ジェーン・スターリングのレッスン譜には,ショパン自身の書き込みが多数遺されています。
カミーユ・デュボワの楽譜には,いつもはたくさんの書き込みが遺されているのですが,
Op.10-6には書き込みがありません。
プロのピアニストだったデュポワは,Op.10-6のレッスンは受けていないのかもしれません。
ショパンの姉,ルドヴィカのレッスン譜には2箇所だけ,ショパンの書き込みが遺されています。
詳細は「自筆譜を詳しく見てみよう!」の項目でご紹介します。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 構成
分かりやすい三部形式
ショパンの練習曲集Op.10,Op.25の24曲はすべて三部形式で書かれています。
崇高な芸術作品でありながら決して難解ではなく,分かりやすい構成で作られているところは,
ショパンの作品の魅力の一つです。
Op.10-6も明確な三部形式になっています。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 出版譜によく見られる間違い
Op.10-6も他の作品と同様に,ドイツ初版の間違いなどが多数,現代の出版譜に受け継がれてしまっています。
7小節目 C(ド)には♮はつかない
7小節目ですが,ドイツ初版がいつものように勝手に♮を付け加ええてしまっています。
そして,いつものようにこの間違いを多くの出版譜が受け継いでしまっています。
たった一音が半音上がるだけですが,かなり響きが変わります。
一度お手元の楽譜を確認しておいた方が良いと思います。
8小節目は長前打音
8小節目に前打音が出てきますが,これは短前打音ではなくて長前打音です。
斜め棒は入りません。
これもドイツ初版の勝手な変更で,多くの出版譜が受け継いでしまっています。
そしてショパンの作品では短前打音と長前打音では奏法が変わります。
装飾音の奏法については「演奏上の注意点」で解説します。
21小節目,32小節目はフォルツァンドが正解
21小節目は,32小節目はが正解です。
フランス初版がの印刷を頻繁に忘れるため,それが後世の楽譜に受け継がれてしまい,
多くの出版譜でやになってしまっています。
特に覚えておきたのは,ショパンがを使うことはないということです。
ほとんどの出版譜にはが頻繁に印刷されています。
これは全て間違いだと思った方が良いです。
手元のショパンの楽譜にが印刷されている場合は,
実際には何が書き込まれていたのか,原典版などで調べた方が良いです。
同様に,ショパンはやも使いませんでしたので,
楽譜に印刷されている場合は間違いの可能性が高いです。
*前奏曲集の1曲目Op.28-1の冒頭に印刷されているはショパン自身が書いたものです。
この間違えは演奏表現が大きく変わってしまうと思います。
気をつけましょう。
26小節目低音部G♯音はオクターブの方が良いだろう
26小節目の1拍目の左手低音部ですが,ほとんどの出版譜が単音になっていると思います。
ところが,元々自筆譜ではオクターブになっていました。
フランス初版には「1 3」という運指が書かれていますが,
これはオクターブで演奏するための運指です。
フランス初版にこの運指が残っているということは,
下側のG♯は印刷ミスで消えてしまっただけ,という可能性があります。
左手ベース音の動きをみても,この音だけオクターブでなく単音で弾くというのは整合性がないので,
オクターブで弾くのが正解だと思います。
28小節目
28小節目の最後の16音符は,♮がつくのが正解です。
これもドイツ初版の間違えが多くの出版譜に受け継がれ,多くの楽譜で♮がついていません。
32小節目,F♮が正解
32小節目の最後の16分音符はF♮(ファ♮)が正解です。
多くの楽譜でF♯(ファ♯)やG♭(ソ♭)になっていますが,これは間違いです。
また,前述していますが,多くの楽譜でとなっているのは間違いで,が正解です。
34小節目,1拍目右手和音はE♭が正解
34小節目1拍目右手和音の一番下の音ですが,多くの楽譜が間違えてE♮にしていますが,
E♭が正解です。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 自筆譜を詳しく見てみよう!
ショパン自筆の清書原稿
ショパン自身が書いたフランス初版の清書原稿が遺されていて,
ワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
全景
いつものように丁寧に記譜されていて,大変読みやすい譜面です。
最終的な清書原稿ということもあり,書き直しの跡もほとんどありません。
最終的にフランス初版に印刷された演奏指示や強弱記号もほとんどが既に書かれています。
テンポ指定はまだ何も書かれていない
冒頭に,con molto espressione や sempre legatissimo は既に書かれています。
しかしテンポ指定はまだ書かれていません。
丁寧に訂正した跡
ショパンはインクで記譜をしているため,消しゴムで消したりはできません。
ショパンは記譜のミスを塗りつぶして訂正することが多いのですが,
Op.10-6ではインクを削り落として丁寧に書き直しています。
画像では分かりにくいかもしれませんが,訂正箇所をご紹介します。
ショパンはパリに来て,約2年の準備を経て,
- ピアノとオーケストラのための,モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ」による変奏曲 Op.2
- マズルカOp.6,Op.7
- ヴァイオリン,チェロ,ピアノのための三重奏曲 Op.8
- ノクターン Op.9
- チェロとピアノのための,マイヤベーアのオペラ「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲
※チェロパートはフランショームの作曲 - 協奏曲第1番ホ短調 Op.11
- そして,練習曲集Op.10
を1833年に出版しています。
故郷はロシアに占領され,帰る場所はありません。
芸術家として成功したいという高尚な野心もありましたが,
何より,生活費を稼ぐ手段を手に入れなければ生きていけません。
1832年2月25日に行われたパリでのデビューリサイタルは大成功でしたが,経済的には利益がありませんでした。
ショパンはパリで生活費を稼ぐことに絶望し,アメリカへの移住も考えはじめていたほどです。
そんな中,パリでのはじめての出版へ向けた準備は,全身全霊を傾けたものだったでしょう。
ショパンが自身の手で書き上げた清書原稿の丁寧な譜面づくりからは,
ショパンがOp.10の出版にかけた想いが伝わってきます。
この頃のショパンの手紙はすべて失われてしまっていて,ショパンが実際に何を感じ,何を想っていたのか,状況から想像するしかありません。
戦争が起こると人命だけでなく,歴史的な遺物も失われます。
なお,やがてショパンは貴族の夫人や令嬢にピアノをレッスンする仕事が軌道にのり,安定した収入を得るようになります。
50小節目の1拍目は何度も書き直されている
50小節目の1拍目はなんと4回も書き直されています。
ラフ原稿ではなく,清書原稿の段階でここまで書き直しているわけで,
最後の最後まで推敲を重ねた場所ということになります。
こういった箇所では,ショパンは複前打音で記譜することが多く,
清書原稿の段階でも複前打音で記譜しています。
しかし,迷いに迷った上で,最終的には装飾音として印刷するのではなく,
大きな音符で奏法そのままに書き下して印刷されています。
装飾音は間違えて演奏されることが多く,複前打音として記譜した場合,間違えて拍よりも先取りで演奏されてしまう危険があります。
正しく拍と同時に弾きはじめることを明示するために,最終的にはフランス初版のような譜面にすることに決めたのではないかと思います。
生徒の楽譜へのショパン自身の書き込み
カミーユ・デュボワが使っていたエチュードOp.10のフランス初版(正しくはフランス版の第三版)には,ショパンがたくさんの書き込みを遺しています。
しかしOp.10-6のページには書き込みがありません。
プロのピアニストだったデュポワは,Op.10-6のレッスンは受けていないのかもしれません。
ショパンの姉,ルドヴィカが使っていた楽譜
ショパンの姉,ルドヴィカが使っていた楽譜には,2箇所だけ書き込みが遺されています。
12小節目には指遣い「1」が書き込まれています。
42小節目では,フランス初版が印刷を漏らしていたタイを書き込んでいます。
ジェーン・スターリングが使っていた楽譜
3小節目 運指の追加
スターリングは手が小さかったのでしょう。
小さな手でも弾きやすいように指遣いが変更されています。
18~20,29小節目 印刷漏れの♮が多数記入されている
フランス初版の18~29小節目では♮の印刷漏れが多数あり,
ショパンが訂正の書き込みを遺しています。
45~46小節目 運指の追加
指遣いが書き込まれています。
アクセントと重なって「5」のように見えますが,よく見ると「4」が書き込まれています。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 演奏の注意点
レガート奏法
冒頭「sempre legatissimo ;常に,とても滑らかに」と書かれていますが,
わざわざ下段に書かれていますから,特に内声部の16分音符へ向けた演奏指示ということになります。
もちろん他の声部もlegatoに演奏しますが,とりわけ内声部の16分音符は極めてレガートに演奏しなければなりません
レガート奏法は,打鍵したあと,少なくとも次の音を鳴らすまでのあいだは,指で鍵盤を押さえたままにするのが基本です。
具体的には上の譜例のようになります。
音が狭い音域に固まっているため,手の小さい方でもレガート奏法がしやすい曲ではないかと思います。
レガート奏法は,ショパンの様々な作品で必須の技術となります。
レガート奏法に慣れていない方は,うってつけの練習教材になります。
自然なフレージング
16分音符の内声部は1小節で1つのフレーズをつくっています。
小節ごとに,
- クレッシェンド&アッチェレランド(少しずつ音量を大きくしてテンポを速める)で弾きはじめて,
- ディミヌエンド&ラレンタンド(少しずつ音量を小さくしてテンポを遅くする)で1小節を弾き終える
のが基本になります。
また,右手高音部の旋律ですが,各小節の終わりに次の小節へつながるメロディが出てきます。
各小節の終わりはリテヌート(その部分だけ,ただちにテンポを遅くする)するのが自然です。
内声部は1小節ごとに1つのフレーズを形成していますが,右手高音部の旋律は息の長い大きなフレーズを作っています。
内声部につられて,右手のメロディが1小節ごとにブツ切りにならないように気をつけましょう。
冒頭にも書きましたが,この内声部の働きによって,右手旋律の美しいフレーズが生まれます。
16分音符の内声部には,
- 1小節ごとの自然なフレージングと,
- 右手旋律に”歌”を与えるための動きと,
二つのアーティキュレーションをバランス良く与えなければなりません。
ペダルを使わないのが基本
ショパンはOp.10-6にはペダルの指示をまったく書いていません。
ショパンはペダルの指示も熟考を重ねた上で書いています。
ペダルの指示をまったく書いていないというのは,暗に「ペダルの使用を控えるように」という指示になります。
ペダルをまったく使用せずに弾くと音が貧弱になりますから,豊かに音が響くようにハーフペダルを使用するのはもちろん構いません。
ただし,ペダルを使いすぎてしまうとショパンの意図した音楽から遠ざかることになります。
特に大ホールなど音がよく響く場所で弾くときは,ペダルをほとんど使わないぐらいで丁度よいと思います。
レガート奏法の補助としてペダルを使ってしまうと,音の響きの調節にペダルが使えなくなってしまいます。
ペダルを使わずに指のコントロールでレガートに演奏できるように事前に十分練習しておきましょう。
指の技術だけでレガート奏法ができれば,ペダルの踏み込み加減で,音色を豊かに変えることができます。
例えば当サイト管理人の参考演奏動画では,中間部はやや深めにペダルを踏み,再現部では完全にノン・ペダルで演奏することで音色の変化を与えています。
長前打音の奏法
8小節目の前打音は短前打音ではなく長前打音です(斜め線が入っていません)。
まず大前提として,ショパンの前打音は拍と同時に弾きます。
先取りでは弾きません。
その上で,短前打音ではありませんから十分に音価を長くとります。
上の譜例の,左側の弾き方では短前打音になってしまいます。
譜例の真ん中の弾き方はバロック時代の奏法です。
これが本来は一番正しい弾き方ですが,ショパンの作品ではやや前打音が長すぎる印象になります。
ベストなのは,譜例の右側の弾き方です。
横に長いアクセント
ショパンに特有の横に長いアクセントがたくさん書かれています。
多くの楽譜で,これらのアクセントが消されてしまったり,デクレッシェンド()になってしまったり,ということがありますので,原典版などで確認した方が良いです。
この横に長いアクセントは,単に強い音を出すのではなく,表現として強調する指示だと考えられます。
全部同じようにアクセントをつけてしまうと,演奏が単調になります。
大きな音で弾くのはもちろん,その音をほんの少しだけ長く伸ばしたり,その部分だけ少し深くペダルを踏んだり,色々な手法をつかってその音を強調することができます。
特に,アクセントによる表情付けが重要なのが50小節目です。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-6 実際の演奏
当サイト管理人 林 秀樹の演奏です。2021年5月録音
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-6単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
本来,練習曲集は12曲(もしくは24曲)全曲を通して演奏するべきなのですが,
原典に忠実な録音を残すために,1曲ずつ何回も(ときには100回以上も)録り直して録音しました。
演奏動画を録音したときの苦労話はショパンの意図に忠実な参考演奏動画【練習曲集Op.10】をご覧ください。
今回は以上です!