ショパンの練習曲Op.10-3『別れの曲』のすべてをひとつの記事にまとめました!
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-3『別れの曲』単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
- ショパン 練習曲(エチュード) Op.10-3『別れの曲』 概要
- ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 原典資料
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ショパン 練習曲(エチュード) Op.10-3『別れの曲』 概要
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10,Op.25【概要と目次】
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10 Op.25 概要の章に練習曲集全体の概要をまとめています。
- 海外での呼び名の章に練習曲集全曲の海外での呼び名をまとめています。
- 各曲の練習課題の章に練習曲集全曲の練習課題をまとめています。
- ショパンの指づかいにショパンの運指法をまとめています。
- ショパン作品一覧ではショパンの全作品を一覧表にまとめています。
世界中で愛される名曲
ショパンの作品の中でも特によく知られた名曲です。
ショパンの作品の中で,というよりもあらゆるクラシック音楽の中でも特に有名な作品の一つです。
映画,ドラマ,アニメ,ゲーム,CMなど様々なメディアで頻繁に使われていて,
『別れの曲』という呼び名も1934年のドイツの映画『Abschiedswalzer』(邦題『別れの曲』) で使われたことが由来となっています。
この曲がショパンの作品であることは知らなくても,
この曲を聴いたことがないという人はいないでしょう。
ショパンの作品だと知っている方でも,
『別れの曲』がメカニック習得のための練習曲だとはご存知ではない方も多いでしょう。
「ピアノ名曲アルバム」とか「ピアノ名曲選集」といった楽譜に必ずといってよいほど収録されています。
難易度が高いわりに,ピアノを習っている子どもの目に触れやすい作品でしょう。
当サイト管理人が子どものころ愛用していた「全音ピアノ名曲100選」という楽譜にも収録されていました。
『別れの曲』が楽譜の最後に収録されていて,叙情的な主部を弾きはじめるものの,中間部が難しくて弾くのを断念する,みたいなことを繰り返していた思い出があります。
ノクターンOp.9-2とか雨だれのプレリュードとかが弾けるようになってきたころに,
別れの曲も弾けそうだと思って練習してみるけど,中間部の壁に阻まれて断念する,というのは
ピアノ学習者のあるあるではないでしょうか。
この楽譜,リストのラ・カンパネラやプロコフィエフのトッカータなんかも収録されていて,
今思えば,小学生が扱うには厳しい楽譜でした。
こんなにも美しい旋律は二度と書くことはできないだろう
ショパンは音楽史上最高のメロディーメーカーです。
ショパンは数々の美しい旋律を作りました。
その中でも『別れの曲』の甘く切ない旋律はその美しさが際立っています。
その旋律の美しさは,ショパン自身が「こんなにも美しい旋律は二度と書くことはできないだろう」と語っているほどです。
稀代のメロディーメーカーであるショパンが自身の最高傑作と語ったその旋律は美しくも儚げで,
ショパンの切なる望郷の念が込められていて,聴くものの心に迫ります。
叙情的な練習曲【天才の発想】
最高傑作のメロディーをノクターンでもバラードでもソナタでもなく,練習曲に使っていることに驚きます。
現代人にとっては,この美しいメロディーが練習曲Op.10-3のメロディーであることを当たり前だと思っていますが,これは天才の発想です。
ショパン以前の「練習曲」は,メカニズム(メカニック)を訓練するための教材でした。
反復訓練するための教材ですから,無味乾燥なものが多く,鑑賞するための作品ではありませんでした。
ショパンの練習曲も練習課題である同じ音型を繰り返すようになっていて,
ショパン自身の作品を弾くための自己鍛錬をするために書かれています。
ところが,ショパンは同じ音型の繰り返しを最高の芸術作品にしてしまいました。
ショパン以降「練習曲」というのは難易度の高い芸術作品のことを指すようになります。
ショパンの練習曲集の出版は「練習曲」の概念を変えてしまった大事件だったのです。
ショパン以降,シューマン,リスト,アルカン,ドビュッシー,ラフマニノフ,スクリャービン・・・数々の作曲家が「練習曲」という名の芸術作品を書きのこしてきました。
現代人にとって『別れの曲』のように叙情的に旋律を歌い上げる「練習曲」も珍しくありません。
しかしショパンが練習曲集を書いていたとき,『別れの曲』のように叙情性あふれる「練習曲」というのは,4拍子の作品に「ワルツ」と名前をつけてしまうぐらい斬新なことでした。
詩情豊かなメロディアスな作品を「練習曲」にして驚かせてやろう,という,
ショパンのイタズラ心のようなウィットも感じます。
我が故郷よ!
弟子の一人だったアドルフ・グートマンに『別れの曲』をレッスンしていたときに,
ショパンは「ああ,我が故郷よ!」と泣き叫んだと伝えられています。
ショパンの幼少時代は温かい家庭で幸せに包まれたものでした。
祖国ポーランドの独立が奪われ,パリでの亡命生活を余儀なくされているショパンは,
望郷の念を強めていき,やがて幼少のころの思い出は神格化されていきます。
「幸せな家庭をつくりたい」
病苦に満ちた亡命生活の中で,そんなささやかな望みこそが,ショパンが思い焦がれる願いとなります。
ショパンは理想の女性マリアと婚約しますが,ショパンの健康を心配した家族の反対を受け婚約は破棄されます。
これは若く青い恋ではなく,音楽家として生活力を得たショパンが,
温かい家庭を築きたいという切なる望みを叶えようとした恋でした。
幸せだった幼少時代に思い焦がれる望郷の念,温かい家庭を築きたいという甘い思い,そんなささやかな夢が叶えられない儚さ,そんな思いがショパンの旋律にはこめられています。
ロシアに占領された祖国ポーランドの復活という大志のために,などという壮大なテーマがこめられているわけではありませんが,ショパンが『別れの曲』にこめた切ない個人的な思いこそ,人々の心に響くのではないでしょうか。
attacca il presto con fuoco
Op.10のフランス初版の清書原稿はショパン自身が書いていて,ショパン自筆の『別れの曲』の清書原稿が遺されています。
清書原稿の最後にはattacca il presto con fouco と書かれています。
presto con fouco とはOp.10-4のことですので,
「第3番(別れの曲)を弾き終わったら,間をあけずにすぐに第4番を弾きなさい」という演奏指示です。
このことから元々はOp.10-3『別れの曲』とOp.10-4は一組の対になった作品として書かれていたことが分かります。
叙情的な『別れの曲』が静かに終わった後,間をあけずに突如Op.10-4の激しい音楽が始まるというのは劇的な効果がありますね。
Op.10-1はハ長調で,Op.10-2はイ短調でした。ハ長調とイ短調は平行調です。
そして,Op.10-3『別れの曲』はホ長調で,Op.10-4は嬰ハ短調です。ホ長調と嬰ハ短調も平行調です。
さらには,Op.10-5『黒鍵』は変ト長調で,Op.10-6は変ホ短調で,これも平行調で対になっています。
ハ長調とイ短調やホ長調と嬰ハ短調が偶然重なることもあるでしょうが,
変ト長調と変ホ短調という調号に♭を6つも書き込むような作品が偶然並ぶことはないでしょう。
ショパンは練習曲集を作曲するにあたって,バッハの平均律クラヴィーア曲集のように,長調と単調を関係のある調で組にして,24の調をすべて使った作品にしようと計画していたことが伺われます。
しかしさすがのショパンも24のすべての調を使うというのは難しかったようで,
Op.10-7は再びハ長調となり,その壮大な計画は成し遂げられませんでした。
ショパンはOp.25の練習曲を出版した2年後に,
24の調性をすべて配置した『前奏曲集Op.28』を見事出版しています。
Op.10-3『別れの曲』標題の由来は映画の邦題
『別れの曲』の由来は映画の邦題
ショパンの練習曲Op.10-3は日本では『別れの曲』の愛称が広く浸透しています。
これは,1934年の『Abschiedswalzer』というドイツ映画が由来です。
『Abschiedswalzer』は直訳すると『別れのワルツ』になります。
1935年(昭和10年)に日本でも上映されて大ヒットしたそうです。
このときの邦題が『別れの曲』でした。
日本で上映されたのはドイツ版ではなく,キャストを替えて制作されたフランス語版だったとのこと。
フランス語版の原題は『La chanson de l’adieu』で,直訳すると『別れの歌』。
日本で上映したときにはフランス語版の原題を日本語に訳したのでしょう。
昔の日本人は,小説にしろ,楽曲にしろ,邦題をつけるセンスが素晴らしいです。
『Discours de la méthode』を『方法序説』
『A Study in Scarlet』を『緋色の研究』
『Raindrop』preludeを『雨だれ』のプレリュード
と訳した昔の日本人はセンス良すぎです。
「別れのワルツ」でもなければ「別れの歌」でもなく『別れの曲』
センス抜群です。
映画のクライマックスで,ショパンが「これほど美しい旋律を見つけることは,二度とできないでしょう」という有名なセリフとともに,静かに愛を語る場面があります。
昔の白黒映画ですが,ストーリーがよく練られていて,ショパンの音楽が効果的に使われている名作です。ショパンが愛を静かに語る場面は今見ても感動的です。
その感動的な場面で流れている曲が練習曲Op.10-3です。
昭和10年の日本人の心にも深く響いたようで,練習曲Op.10-3は日本では『別れの曲』と呼ばれるようになりました。
邦題『別れの曲』とつけた日本人は本当にグッジョブ!です。
クラシック音楽の標題が映画の題名として使われることはあるでしょうが,
映画の題名が音楽の通称として親しまれるようになったというのは珍しい例なのではないでしょうか。
1986年にテレビでこの映画が放映されたことがあるそうですが,そのときは日本で公開されたフランス語版ではなく,ドイツ語版を間違えて放映してしまったそうです。
当サイト管理人が子どものころに見たのも,このテレビ放送だったのでしょう。
感動的で美しい映画ですが,史実とはまったく異なっているので注意です。
フィクションとして楽しむ映画です。
海外では ‘Tristesse'(悲哀)と呼ばれている
以上のような経緯があり,日本ではすっかり『別れの曲』という呼び名が定着しています。
しかし『別れの曲』と呼ばれているのは日本だけで,海外では ‘Tristesse'(悲哀)と呼ばれています。
近年では「のだめカンタービレ」「鋼の錬金術師」など日本のアニメが輸出された影響もあるのか ‘Farewell'(別れ)と呼ばれることもあるようです。
メトロノームによるテンポ指定
ショパン エチュード【ショパンが指定したテンポ】の解説記事では,ショパンが指定したテンポについて詳細をまとめています。
議論の的となる『別れの曲』のテンポ指定
『別れの曲』のテンポは議論の的になります。
何が問題なのかというと,ショパンが最終的にフランス初版に印刷したテンポ指定は,
驚きのというもの。
Op.10のフランス初版は,めずらしくショパンが最後までちゃんと校正に関わっていました。
というテンポ指定はショパン自身が指定したテンポということになります。
このテンポで演奏するのが技術的に難しいわけではありませんが,
実際に演奏すると,あまりにも速すぎるように感じます。
さらに『別れの曲』は2種類の自筆譜が遺されていて,そこにショパンはVivaceと書き込んいます。
この2種類の自筆譜は
- 古い自筆譜(ラフ原稿)
- ショパン自筆のフランス初版のための清書原稿
で,ショパンが記譜したテンポ指定を時系列に並べると次のようになります。
『別れの曲』テンポ指定の移り変わり
- 自筆譜(下書き)Vivace
ニューヨークのピアポント・モーガン・ライブラリーが所蔵している自筆譜です。
パリ,32年(1832年)8月25日の日付が書かれています。ショパン自身が清書した自筆譜も残っているので,この自筆譜は下書きだと思われます。
この下書きには,ショパンはVivaceを記譜しています。
- 自筆譜(清書)Vivace ma non troppo
ワルシャワのショパン協会が所蔵している自筆譜です。
フランス初版の元になった清書で,
ショパン自身が記譜した清書です。この清書には,ショパンはVivace ma non troppoを記譜しています。
- フランス初版Lento ma non troppo
最終的に出版されたフランス初版には,Lento ma non troppoが印刷されています。
さらに,フランス初版にはと,メトロノームによるテンポ指定も記譜されています。
それぞれのテンポ指定を意訳すると,
Vivace「ちょっと元気が良すぎるぐらい活き活きと速く」
Vivace ma non troppo「Vivaceだけどほどほどに」
Lento ma non troppo「のろまなぐらい遅く,でもほどほどに」そして
となります。
Lento ma non troppoというのは『別れの曲』の叙情性にふさわしいと感じます。
Lentoは一般的にぐらいの速さなので,というのは妥当に思えます。
しかしLentoの作品はたいてい4分音符や8分音符で構成されています。
『別れの曲』は16分音符で構成されているので,で弾くと,
一般的なLentoの作品の数倍の速さで弾いている印象になってしまいます。
テンポ指定の間違いか?と疑ったりもしますが,
ショパンが元々はVivaceと書いていたことから,当初は随分と快活に演奏する予定だったことが読み取れます。
完成に近づくにつれてその速度指定を緩めていってはいますが,
ショパンは最終的に間違いなくと指定しているとしか思えません。
『別れの曲』は指定テンポより遅く演奏されるのが一般的
『別れの曲』が実際にはどんなテンポで演奏されているかというと,
ショパン指定のテンポの半分ほどのテンポで演奏されるのが普通となっています。
ときには3分の1ほどのゆったりとしたテンポで演奏されることもあります。
一流のピアニストがゆったりとしたテンポで叙情的に『別れの曲』を歌い上げると,
この世のものと思えぬほどの美しい旋律が奏でられます。
逆に,ショパン指定のテンポより速く弾いている例はおそらくありません。
『別れの曲』は有名な作品ですから「一度も聴いたことがない」なんて人はほとんどいません。
そして,聴衆のほとんどは「ゆったりとしたテンポでの叙情的な演奏」を求めています。
ショパンがと書いているんだから,で弾くのが正解なのだ。
それが理解できないのは勉強不足だ。
というように,ゆったりとした叙情的な演奏を聴きたいという聴衆の期待などまるで無視してで弾くようなことをしても,そんな独りよがりの演奏は誰も聴きたがりません。
主部をゆっくり弾くと音楽的に問題も
『別れの曲』はその曲想から,ショパン指定のテンポより遅く弾くのが正解に思えます。
聴衆もそれを求めています。
しかし『別れの曲』の中間部は他のショパンの練習曲とは違い,曲想が変わります。
主部
中間部
中間部は曲想が激変します。
主部をゆっくり弾いてしまった場合,中間部も主部と同じテンポで演奏してしまうと,テンポが遅すぎて退屈なものになってしまいます。
中間部にはショパンがcon bravuraという珍しい演奏指示を書いています。
これは「かっこよく超絶技巧を披露してね」という演奏指示です。
ゆっくり弾いてしまっては「かっこよく超絶技巧を披露」することなんてできません。
中間部にはショパンもpoco più animatoと書いていますが,
だからといって,主部とあまりにも違うテンポにしてしまうと,まるで別々の曲を無理やりくっつけたような,統一感のない演奏になります。
主部と再現をかなり遅いテンポで演奏し,中間部をやたらと速く弾き飛ばすような演奏がよくありますが,作品として完成度の高い演奏にまとめられていることはほとんど(いや,まったく?)ありません。
主部を美しく歌い上げることだけを考えれば,遅いテンポで演奏すれば良いのですが,
作品全体の統一感を高めるには,主部と中間部のテンポの差をつけすぎない方が良いです。
どんなテンポで弾きはじめるのか。『別れの曲』の聴きどころの一つ。
『別れの曲』のテンポについて要点をまとめると以上のようになります。
では結局どんなテンポで演奏するべきなのか。そこに絶対的な正解はありません。
ショパンの作品は200年にもわたって,多くのピアニストたちが演奏し続けてきました。
数々の名演が録音され,いつでも聴くことができます。
解釈に説得力のある録音もたくさんあります。
それでも「これこそが決定的な正解だ」という演奏は存在しません。
誰かがショパンの作品を演奏するとなると「このピアニストはどんな演奏をするのだろう」と心躍ります。
よく勉強されていて,作品について深く理解した上での,その演奏者なりの説得力ある解釈を聴くと,
その度に,何度も聴いたことのある作品が新鮮な輝きを放ち,新たな感動を生みます。
決して聴き飽きるということがありません。
数多くの演奏が重ねられてきた歴史があるからこそ,
今目の前で奏でられている新しい演奏は,より深くより高い芸術性へと至る可能性があります。
芸術音楽はその作品を深く知れば知るほど,演奏を聴く楽しみも深まります。
『別れの曲』を聴くとき,そのピアニストがどんな音を出すのか,と共に,どんなテンポで弾きはじめるのか,というのが聴きどころの一つになります。
速いテンポで弾きはじめたなら「ショパンの指定テンポをなるべく守ろうとしているのだな」と好意的に感じますし,
かなり遅いテンポで弾きはじめたなら「中間部をどう解釈しているのだろうか,作品全体をどうまとめるのだろうか」と続きの演奏に期待が膨らみます。
特に深い考えもなく,その場の思いつきのように,なんとなく主部をゆっくりとキレイに弾いて,
中間部を速く弾き飛ばしているような演奏にはがっかりさせられます。
今この記事を書いている2021年はショパンコンクールが開催されています。
『別れの曲』も課題曲の一つになっています。
若きコンテスタントたちが『別れの曲』の演奏の歴史にどんな新しいページを刻むのか。
楽しみです。
Op.10-3『別れの曲』の練習課題
練習課題は各指の音色的独立
Op.10-3『別れの曲』の訓練課題は各指の音色的独立です。
右手の各指の独立については, Op.10-2の訓練課題でもありました。
Op.10-2とOp.10-3『別れの曲』とでは,使われている音型や曲想はまるで違います。
しかし訓練課題はまったく同じです。
『別れの曲』では右手で3つの声部を弾き分けることになります。
そのためには各指が完全に独立し,それぞれの指が持つ個性がしっかりと発揮されていなければなりません。
Op.10-2で訓練した成果をためす場面となります。
また,Op.10-2は右手の訓練しかありませんが,
『別れの曲』の中間部では左手の重音奏法があり,
左手の345指による指越えや指くぐりが出てきます。
ショパンの練習曲は左手の練習課題が少なく,
『別れの曲』の中間部は左手の各指を独立させる訓練の良い機会となります。
『別れの曲」中間部の左手の重音奏法はじっくりと時間をかけて練習をする価値があります。
もう一つの練習課題は自然で流れるようなアーティキュレーションの習得
各指の独立からの応用で,自然で流れるようなアーティキュレーション(フレージング)を習得することも『別れの曲』の練習課題です。
各指が生まれ持った個性を発揮し独立することで,フレーズに繊細な変化を与えることができるようになります。
ショパンは発想記号・速度記号や強弱記号,スラーやクレッシェンド,ディミヌエンド,テヌート,アクセントなどの演奏指示を事細かに書き記しています。
ショパンが事細かに書き込んでいる演奏指示を忠実に再現することで,自然に流れるような美しいアーティキュレーションを身につけることができます。
「ショパンが記譜した発想記号・速度記号」の章で詳述します。
訓練課題の習得のためにはレガート奏法が重要
Op.10-2では練習課題の習得のためにレガート奏法が重要でした。
Op.10-2と訓練課題が同じであるOp.10-3『別れの曲』も,レガート奏法が重要となります。
ショパンは『別れの曲』にlegatiss.=legatissimoを3回,sempre legatoを1回書いています。
やはり『別れの曲』の練習にはレガート奏法が大切だということです。
ピアノでレガート奏法をするときは,打鍵したあと,次の音を打鍵するまでは鍵盤を押さえたままにするのが基本です。
上の譜例のような弾き方になります。
『別れの曲』の主部は一見弾くのが簡単そうに見えます。
確かに楽譜通りぽん,ぽん,音を出すだけなら簡単です。
しかし,これだけの多声部をレガートに奏法しようとすると,
実は結構難しいです。
ショパンはアーティキュレーションを事細かく書き込んでいます。
単に音を繋げてレガートに演奏するだけでなく(それだけでも難しいのですが),
それぞれの声部が豊かにフレーズを歌っていなければなりません。
ショパンのアーティキュレーションの指示は,どれもピアノの自然な演奏のためには必須のもので,
ピアノ上級者なら意識せずに当たり前に普段からやっていることだと思います。
しかしこういったことが当たり前にできていないピアノ学習者からすると,
ショパンの指示通りに演奏するのは難しいです。
細部までショパンの指示を守って演奏することで,ピアノの自然な弾き方を身体に染み込ませることができます。
ペダルに頼らずにレガート奏法
上の例は前奏曲Op.28-13の左手伴奏をレガート奏法で演奏する運指を示しています。
一度打鍵した後,その音を指で押さえたままにして,記譜されている音価(音の長さ)よりも長く音を持続させることで,レガート奏法が実現できます。
どれぐらい長く音を持続させるかによって,レガートの度合いを変えることもできます。
楽譜に書かれている順にぽん,ぽん,と鍵盤を打鍵してもレガートになりません。
音を長く持続させるだけならペダルを踏んでしまえば同じなんじゃないの?と思われる方もいるでしょう。
運指の技術によるレガートと,ペダルを踏んで音を伸ばしたときでは,まるで違う響きになります。
両者はまったく違う演奏法です。
ダンパーペダルを踏むと,普段は弦を押さえているダンバーが一斉に上がります。
ペダルを踏んで打鍵すると,打鍵していない音の弦も共振(共鳴)します。
ピアノを普段弾く方なら分かると思いますが,ペダルを踏むのと踏まないのとでは音の響きがまるで変わります。
同じ「ド」の音を鳴らすにしても,ペダルを踏むのか踏まないのか,いつペダルを踏むのか,打鍵した指をいつ離すのか,などの組み合わせによって様々な音の響きに変化します。
ペダルを踏み込む深さを,浅くしたり深くしたり,徐々に踏み込み方を変えたりすると,音の響きが変わります。
指による打鍵も,打鍵の速さや深さ,打鍵してから指をすぐに離すのか,しばらく押さえているのか,によって音は変わります。
ダンパーペダルは音の響きを変化させるための機構です。
レガート奏法のため,音を単純に繋げるためにペダルを使用すると,音の響きそのものを変化させてしまうことになります。
普段ピアノを弾かない方は『別れの曲』のような叙情的でメロディアスな作品はペダルを多用する印象があるかもしれませんが,そうとも限りません。
よく訓練された演奏者なら,ペダルをあまり使わずにレガートに演奏することができます。
特に『別れの曲』はレガート奏法の「練習曲」ですので,ペダルを使って誤魔化してレガートっぽく弾いていては訓練になりません。
ショパンは『別れの曲』にはペダル指示をほとんど書いていません。
ショパンはペダル指示にもこだわりがあり,熟慮の上,ペダル指示を書いています。
決してペダル指示を書き忘れたわけではありません。
ショパンが『別れの曲』にペダル指示をほとんど書いていないのは,
暗に「ペダルをあまり使用しないように」と指示していることになります。
音を豊かに響かせるためにペダルを使用する
レガートで演奏しているときに,ペダルの使用が禁止されているわけではありません。
まったくペダルを使わずにピアノを演奏すると乾いた響きになります。
ピアノを豊かに響かせるためにはペダルの使用は必須といえます。
単に音を繋げるためにペダルを使用するのと,
運指の技術でレガート奏法を実現した上で,音を豊かに響かせるためにペダルを使用するのとでは,
奏でられる音楽はまったく違うものになります。
スタジオで小さなピアノで弾くのと,大ホールでフルコンサートピアノで弾くのとでは,音の響きは変わります。
当然ペダルの踏み込み方も変わります。
観客の数や空気の湿度によっても響きは変わります。
耳に届く音を頼りに,その時々の状況によってペダルの踏み込み方を変化させるのは,
美しい演奏のための必須の技術です。
レガート奏法のためにペダルを使ってしまうと,音の響きの繊細な調整にペダルが使えなくなります。
まずはノン・ペダルでレガートに演奏できるようになることが,
『別れの曲』演奏の第一歩といえるでしょう。
Op.10-3『別れの曲』運指
ショパンの運指の研究にもエキエル版が便利!
ショパンの指づかい(運指法)を研究するときにもエキエル版が重宝します。
エキエル版では
- ショパン自身が初版譜に記譜した指づかいは太字
- 編集者(エキエル氏)が追加提案した指づかいは斜体
- ショパンが生徒のレッスン譜に書き込んだ指づかいは(太字)
というふうに明示されていて,めちゃくちゃ便利です!
エキエル版ですが,2021年5月より日本語版が順次発売されています!
2021年秋には,練習曲集の日本語版が発売になるようです!
『別れの曲』にもショパン自身が運指を書き遺しているところがいくつかあります。
6小節目,8小節目
6小節目と8小節目,カミーユ・デュボワのレッスン譜に,ショパンが運指を書き込んでいます。
同じ指を連続で使用する,ショパン独特の運指法です。
38~41小節目
38~40小節目には,フランス初版に運指が印刷されています。
Op.10のフランス初版はショパン自身が最後まで校正に関わっていますので,
この運指はショパン自身が書き込んだものになります。
フランス初版には,41小節目には運指が印刷されていませんが,
ジェーン・スターリングのレッスン譜にショパンが運指を書き込んでいます。
345指どうしでの指越え・指くぐりという,ショパン独特の運指法です。
左手での345指の指越え・指くぐりはショパンのエチュードにもそんなには出てこないので,
貴重な訓練の機会となります。
46小節目~
46小節目から,con bravura(かっこよく上手に弾いてね!)のところは,
フランス初版には運指が印刷されていません。
ショパンは1箇所だけ,カミーユ・デュボワのレッスン譜に運指を書き遺しています。
作曲時に使用していたピアノ
- ショパンがエチュードの作曲で使用したピアノについての詳細な解説は,ショパン エチュード【ショパンが作曲に使用したピアノ】をご覧ください。
- ショパンの使っていたピアノの音域では,ショパンがその生涯で使っていたピアノの音域について解説しています。
『別れの曲』は新しいイギリス式アクションのピアノのための作品
『別れの曲』には2種類の自筆譜が遺されています。
一つはフランス初版のために書いた清書原稿で,もう一つはそれよりも前に書かれたラフ原稿です。
古いラフ原稿の自筆譜には「1832年8月25日」の日付が書き遺されています。
ショパンは1831年の9月ごろパリに到着しており,このときショパンが生涯愛用することとなる,最新のイギリス式アクションを備えたプレイエルのピアノと出会っています。
そして,1832年の2月25日にはプレイエル・ホール (サル・プレイエル) にてパリ・デビュー・リサイタルを成功させています。当然使用されたピアノはイギリス式アクションのプレイエルのピアノです。
このデビュー・リサイタルは,当初は1831年の12月25日に開かれる予定でした。
その頃にはプレイエルのピアノを使用してリサイタルを行う準備を整えていたことでしょう。
『別れの曲』を作曲していた1832年の8月には,イギリス式アクションのプレイエルのピアノに使い慣れていたことになります。
『別れの曲』は間違いなく,新しいイギリス式アクションのピアノのために書かれた作品です。
イギリス式アクションのピアノは,ウィーン式アクションのピアノと比べて,
ハンマーが大きく,鍵盤は深く,タッチは重いですが,深みのある低音が鳴り,重厚な和音を奏でることができました。
備わっている様々な機構が,自転車などのギアのように働き,指の動作が倍加されてハンマーに伝わります。
鍵盤を軽く押さえれば限りなく小さなピアニシモが,肩から体重を鍵盤にのせれば大きなフォルテシモが表現できるようになりました。
いわゆる「重力奏法」が可能になったのです。
ウィーン式アクションのピアノのように指先のコントロールだけでは演奏が難しくなりましたが,
鍵盤への重さのかけ方を変化させることで強弱の変化をつけることができ,
ダイナミックレンジの広い表現力豊かな演奏が可能になりました。
デュナーミク(音量の差による音楽表現法)による表現が可能となり,
ピアノ演奏の表現力が飛躍的に広がりました。
4つ声部による立体的な表現
『別れの曲』の主部は4つの声部が立体的に緻密に組み合わされています。
パートごとの音量の差を明確に表現できるイギリス式アクションのピアノだからこそ演奏可能な作品だといえます。
デュナーミクによる音楽表現
提示部のフォルテシモと再現部のフォルテとの音量の差による表現も,イギリス式アクションだからこその音楽表現です。
重力奏法によるアーティキュレーション
『別れの曲』では,重さをかけたあとで,ふっと重さを抜く,重い→軽いというアーティキュレーションが多用されています。
重力奏法だからこそ表現可能なアーティキュレーションです。
作品番号,調性,作曲年
ショパンが練習曲集を作曲したときの時代背景は,以下の解説記事をご覧ください。
*ショパンが練習曲集を作曲したのは主にパリ時代になります。
2種類遺されている自筆譜のうち,古い自筆譜には1832年8月25日の日付が書き遺されています。
1830年11月2日,ショパンは祖国ポーランドから旅立ちます。
手帳には初恋の人コンスタンツィアに書いてもらった詩を,懐には祖国ポーランドの土が入った銀の杯を携え,旅立ちました。
そしてショパンは2度と祖国ポーランドの土を踏むことにない運命にありました。
ショパンがポーランドを発った直後の11月29日に11月蜂起が起こります。
ロシアからの独立の好機だと信じてポーランド国民たちは武器を手にとりました。
1831年にはポーランド議会がいったんは独立を宣言するものの,ロシア軍の総攻撃によってワルシャワが陥落し,蜂起は失敗に終わります。
このとき一時的に樹立されたポーランドの国民政府の首相だった人物がチャルトリスキ公です。
ショパンがパリに到着したころには,チャルトリスキ公もパリに亡命していました。
パリにはロシアの弾圧から逃れてきたポーランド人が大勢いて,チャルトリスキ公はそんなポーランド人亡命者社会の総帥でした。
ショパンとチャルトリスキ一家は,ショパンが亡くなるまで親しく付き合い,ショパンの葬儀では,チャルトリスキ公が葬列の先頭をつとめています。
1834年にはロシアから「ロシア皇帝付き主席ピアニスト」という地位や様々な特権(自由に祖国に入ることなど)をショパンに与えるかわりに,ロシア大使館へ出頭するように通達がきます。
ショパンはこれを断り,正式に亡命者となりました。
二度とポーランドに入国することはできなくなったのです。
弟子の一人だったアドルフ・グートマンに『別れの曲』をレッスンしていたときに,
ショパンは「ああ,我が故郷よ!」と泣き叫んだと伝えられています。
祖国ポーランドの独立が奪われ,パリでの亡命生活を余儀なくされているショパンの
望郷の念が『別れの曲』には込められています。
Op.10とOp.25,全24曲の調性と作曲年の一覧表
ウィーン式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は青太字に,
イギリス式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は緑太字で表示しています。
No. | Op. | - | BI | 調性 | 作曲年 | 19才 | 20才 | 21才 | 22才 | 24才 | 25才 | 26才 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 10 | 1 | 59 | ハ長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
2 | 10 | 2 | 59 | イ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
3 | 10 | 3 | 74 | ホ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
4 | 10 | 4 | 75 | 嬰ハ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
5 | 10 | 5 | 57 | 変ト長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
6 | 10 | 6 | 57 | 変ホ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
7 | 10 | 7 | 68 | ハ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
8 | 10 | 8 | 42 | ヘ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
9 | 10 | 9 | 42 | ヘ短調 | 1829年 | 19才 | ||||||
10 | 10 | 10 | 42 | 変イ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
11 | 10 | 11 | 42 | 変ホ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
12 | 10 | 12 | 67 | ハ短調 | 1831年 | 21才 | ||||||
13 | 25 | 1 | 104 | 変イ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
14 | 25 | 2 | 97 | ヘ短調 | 1835年 | 25才 | ||||||
15 | 25 | 3 | 99 | ヘ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
16 | 25 | 4 | 78 | イ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
17 | 25 | 5 | 78 | ホ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
18 | 25 | 6 | 78 | 嬰ト短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
19 | 25 | 7 | 98 | 嬰ハ短調 | 1836年 | 26才 | ||||||
20 | 25 | 8 | 78 | 変ニ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
21 | 25 | 9 | 78 | 変ト長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
22 | 25 | 10 | 78 | ロ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
23 | 25 | 11 | 83 | イ短調 | 1834年 | 24才 | ||||||
24 | 25 | 12 | 99 | ハ短調 | 1835年 | 25才 |
ショパンが記譜した発想記号・速度記号
ショパン エチュード【ショパンが記譜した演奏指示】の解説記事では,ショパンが練習曲集に記譜した演奏指示をまとめています。
『別れの曲』に書かれた演奏指示は24箇所!
練習曲集Op.10はショパンの他の作品と比べて,多くの演奏指示が書き込まれています。
中でも『別れの曲』は事細かに演奏指示が書き込まれていて,その数はなんと24箇所!
これはOp.10-9と並んで最多です。
stretto,ritenuto,rallentandoなど,速度に関する演奏指示が多数書かれています。
速度に関する指示は抒情的な主部と再現部に特にたくさん書かれています。
これは,ショパンの抒情的な作品を演奏する際の指標となる重要な記譜です。
ショパンはテンポ・ルバート(伴奏をインテンポに保ちながら,旋律のテンポを自由に揺れ動かす奏法)がよく知られています。
ショパンはテンポ・ルバートとは別に,自然なテンポの揺れも大切にしていました。
ショパンがOp.10-3に記譜した演奏指示を忠実に守って繰り返し演奏することで,
ショパンらしい自然なテンポの揺れを体得することができます。
自然に流れるような美しい奏法を習得できる!
発想記号だけでなく,強弱記号(ピアノやフォルテなど)も13箇所に書かれています。
スラーやクレッシェンド,ディミヌエンド,テヌート,アクセントなども綿密に書き込まれています。
ピアノ上級者とそれ以外との差は,指が速く動くとか,複雑なパッセージを上手く弾けるとか,そういったこととは別なところにあります。
デュナーミク(音量の強弱による音楽表現法)とアゴーギク(テンポやリズムの変化による音楽表現法)による,自然で流れるようなアーティキュレーション(フレージング)が備わっているかどうかが,
「良い演奏」と「素人っぽい演奏」を分けます。
ショパンが事細かく書き込んだ数々の演奏指示からは,
自然に流れるような美しい奏法をなんとかして伝えようという思いが伝わってきます。
ショパンが事細かく書き込んだ演奏指示を忠実に守って繰り返し練習することで,
自然に流れるような美しい奏法を見につけることができます。
主部と再現部にも演奏指示の細かな違いが多数
主部と再現部をよく見比べると,細かな演奏指示の違いが多数あります。
このニュアンスの違いをちゃんと弾き分けるのは難易度が高いですが,
同じことをそのまま繰り返すのではなく,ほんのりと淡く変化をつけるのは,いかにもショパンらしいです。
con bravura
45小節目にcon bravuraという珍しい演奏指示が書き込まれています。
ショパンの作品はもちろん,他の作曲家の作品にもあまり見ることのない演奏指示です。
当サイト管理人が不勉強なだけかもしれませんが。
bravura は「上手さ」「器用さ」「熟練」といった意味があるそうで,
con bravuraは「かっこよく上手に演奏してね」という指示になります。
控えめで慎み深いショパンには似つかわしくない演奏指示ですね。
かっこよく弾いてね
ゴドフスキー『ショパンのエチュードによる53の練習曲』
ゴドフスキーは『別れの曲』を,左手だけで演奏する作品に編曲しています。
譜面を見ると,とても左手だけで演奏するようには見えませんが,間違いなく左手のみで演奏する作品です。
左手だけで演奏できるような音の数には見えませんが,細部まで創意工夫が行き届いており,
無理なく左手だけで演奏できるように作られています。
「左手だけ」となると音の数が減ってしまって,スカスカの曲になってしまいそうですが,
ゴドフスキーは左手だけで演奏できるようにしながら,音をしっかりと配置し,分厚く豊かな和声が美しく響く作品に仕上げています。
「左手だけで別れの曲!」と聞くと,ふざけた大道芸かと思われるかもしれませんが,
ゴドフスキーの編曲はショパンらしい詩情にあふれる美しい編曲です。
変ニ長調に転調されていて,ゴドフスキーらしい半音階的な和声が大変美しいです。
特に,主部が終わるところの和声はその美しさに涙が出そうになるほどです。
ショパンが「我が故郷よ!」と泣き叫んだという望郷の思いはしっかりと込められているすばらしい編曲です。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 原典資料
ショパン エチュード【原典資料】の解説記事では,ショパンの練習曲集全体の,初版や自筆譜,写譜などの原典資料について詳細をまとめています。
『別れの曲』は多くの原典資料が遺されている
『別れの曲』は多くの原典資料が遺されていて,貴重な資料となっています。
2種類の自筆譜と,生徒のレッスン譜への書き込みについては「自筆譜を詳しく見てみよう」の章で詳述します。
初版
最も信頼できる原典資料「フランス初版」
パリ,M.Schlesinger(M.シュレサンジュ),1833年6月出版。
練習曲集Op.10のフランス初版は,ショパンがめずらしく校正にしっかりと関わっています。
この頃のショパンは,パリなどヨーロッパの主要都市でデビューしたばかりの新人作曲家でした。
後年のように友人に任せっきりにするのではなく,ショパン自身が校正にちゃんと関わっていました。
Op.10のフランス初版は信頼できる一次資料です。
ショパンの作品では,こういった信頼できる原典資料があるのはめずらしいことです。
ショパン自身が書いた,フランス初版印刷用の清書原稿も遺っています。
フランス初版にもいくつかのミスがありますが,清書原稿と比べることですぐに確認ができます。
数々の間違いを原典として後世に伝えてしまった「ドイツ初版」
ライプツィヒ,F.Kistner(F.キストナー),1833年8月出版。
ショパンの多くの作品を恣意的に勝手な判断で編集して出版し,
しかも「原典」として後世の楽譜に大きな影響力を与えているドイツ初版ですが,
『別れの曲』でも大きな悪影響をのこしています。
『別れの曲』の中間部ですが,大きく間違えた楽譜が広まってしまっています。
その元凶となったのがドイツ初版です。
「出版譜によく見られる間違い」の章で詳述します。
イギリス初版
ロンドン,Wessel & C°(C.ウェッセル),1833年8月出版。
Op.10の12曲を6曲ずつ2冊に分けて出版しています。
フランス初版を元につくられたようですが,原典資料としての価値はあまりありません。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 構成
分かりやすい三部形式
ショパンの練習曲集Op.10,Op.25の24曲はすべて三部形式で書かれています。
崇高な芸術作品でありながら決して難解ではなく,分かりやすい構成で作られているところは,
ショパンの作品の魅力の一つです。
24の練習曲のほとんどは,主部も中間部も同じ音型が繰り返されます。
ただ同じ音型が繰り返されるだけだというのに,ショパンは見事な和声によって明確な三部形式に仕上げています。
24曲のうち,3曲だけは同じ音型を繰り返すのではなく,主部と中間部が違う曲想になっています。
『別れの曲』もそのうちの一つです。
- 主部;1~21小節目
- 中間部;22~61小節目
- 再現部;62~77小節目
主部はショパン自ら「こんなにも美しい旋律は二度と書けないだろう」と語った,郷愁あふれる甘く切ない叙情的な旋律で作られています。
中間部は一転し,3度・4度・6度などの重音奏法により技巧的に作られています。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 出版譜によく見られる間違い
間違いが広く浸透してしまった中間部
中間部の30~31小節目と34~35小節目ですが,間違えた譜面が広く普及してしまっていて,書店に並ぶ楽譜のほとんどが間違えており,レコードやCDに残された録音や,ネット上で流されている録音,コンサートでの演奏など,そのほとんどすべてが間違えています。
信頼できる正しい譜面
今は,エキエル版のおかげで正しい譜面が簡単に手に入ります。
31小節目のC音「ドの音」はC♯「ド♯」が正解で,
34小節目のD音「レの音」はD♮「レ♮」が正解です。
世界中に広く普及しているパデレフスキ版
一昔前まで「パデレフスキ版」がショパンの楽譜の決定版として,あらゆるピアニストがパデレフスキ版を使っていました。
初期の頃のショパンコンクールではパデレフスキ版が推奨されていました。
100年以上にわたって決定版として使われていた楽譜で,
往年の名ピアニストたちがのこした録音はすべてと言って良いほどパデレフスキ版が使われています。
当サイト管理人の学生時代には,音大生はこぞってパデレフスキ版を使っていました。
当時の音大生の多くが今ではピアノ演奏家やピアノ教師になっています。
今でもパデレフスキ版をレッスンで使っている先生は多いのではないでしょうか。
そのパデレフスキ版は音が違っています。
ちょっとした違いに思えるかもしれませんが,実際に音を出してみると,和声がまるで変わります。
2021年のショパンコンクールでもまだまだパデレフスキ版が使われている
先日ショパンコンクールの予備審査がありました。
課題曲としてノクターンを1曲選ぶのですが,代わりに『別れの曲』を選択することもできます。
予備審査では3名のコンテスタントが『別れの曲』を選択していましたが,
3人ともパデレフスキ版を使っているようでした。
ショパンコンクールの予備審査は公式You Tubeにアーカイブされていてすべての演奏が視聴できます。
聴きたい演奏だけを検索・抽出できるデータベースを作りましたので,良ければご利用ください。
「10-3」で検索すれば『別れの曲』を選択した3名の演奏を聴くことができます!
2005年のショパンコンクールから,エキエル版が正式に推奨されているのですが,
2021年の今でも,ショパンコンクールでパデレフスキ版による演奏が行われているというのは驚きです。
それほどパデレフスキ版はクラシックピアノ界に広く深く浸透しています。
パデレフスキ版の元になっているのはミクリ版
カール・ミクリはショパンに直接指導を受けたピアニストで,ショパンの助手も努めた人物です。
「ミクリ版」と呼ばれるショパンの校訂譜を1879年に出版しています。
ミクリ版は,直接ショパンを知る人物が校訂した版ということで,大変な権威がありました。
ミクリ版はパデレフスキ版と同じになっています。
パデレフスキ版は明らかにミクリ版の影響を受けています。
ショパン演奏の第一人者として評価されていたコルトーの手による「コルトー版」もミクリ版やパデレフスキ版と同じになっています。
現代人の耳はパデレフスキ版の音に慣れてしまっている
このようにパデレスキ版やミクリ版,コルトー版という権威あるショパン譜のすべてが同じ間違いを印刷していて,長きにわたって間違えた演奏や録音を大量に生み出し続けてきました。
別れの曲は世界中で流され続けています。
音楽にあまり興味がない人でも『別れの曲』を耳にしたことがない人はいないでしょう。
そのほとんどすべてがパデレフスキ版です。
現代人が正しい原典の演奏,つまりはエキエル版の演奏を耳にすると,
「あれ,なんか音が違ってるんじゃない?」「演奏をミスしたんじゃない?」と感じてしまいます。
これはピアニストにとっては重要な問題で,
演奏を聴きにきてくれる人が,皆ショパンを深く研究しているわけではありません。
聴衆の多くは原典版のことなんて気にもしたことがない方がほとんどでしょう。
正しい演奏をすると「おかしい」「変だ」「ミスをした」と思われるわけです。
これは,フォンタナ版が広く深く普及してしまっている幻想即興曲も同じ問題を抱えています。
インターネットの普及により,この記事を書いているこの瞬間も間違えた演奏が大量生産,大量消費されています。
せめてショパンコンクールで演奏するときぐらいは,エキエル版を使ってほしいと強く願います。
なお,パデレフスキ版はきちんと校訂報告が掲載されていて,この件についても触れられています。
1973年刊行のスコダ校訂によるウィーン原典版は既にエキエル版と同じ譜面になっていました。
2005年にショパンコンクールがエキエル版を推奨版として正式採用したことで,
少しずつ原典に忠実な演奏が増えてきました。
ショパン演奏において,原典を尊重する風向きにあるのは間違いないです。
この先,ショパンオリジナルの演奏がスタンダードになることを切に願います。
事の発端はフランス初版のミス
フランス初版ですが,1箇所だけD音(レの音)に♮をつけ忘れています。
これは,フランス初版のもとになってショパン自筆の清書原稿の間違いが,訂正されることなく出版されてしまったからです。
ここで間違いがなければ・・・と悔やまれる,痛恨のミスです。
ドイツ初版が勝手な判断で改訂
ドイツ初版はフランス初版の校正刷りを元に作られました。
校正刷りは,校正される前の原稿なので,当然ミスはたくさんあります。
そして,ドイツ初版はいつものように勝手な判断で改訂の手を加えています。
34小節目はフランス初版のように演奏してしまうと,随分と音が濁ってしまいます。
そこでドイツ初版では,勝手な判断で高音部のD音(レの音)の♮を消してしまいました。
ドイツ初版はいつも恣意的に勝手な変更を加えているのですが,
長年「初版」としてフランス初版と同等の権威がありました。
この勝手な変更も,ミクリ版,そしてパデレフスキ版,コルトー版へ受け継がれ,
現代では出版譜のほとんどにドイツ初版の勝手な改訂が受け継がれてしまっています。
フランス版の第二版では修正された
フランス版の第二版では,内声部のD音(レの音)にも♮がつけられ,正しい形に修正されました。
しかし,何故かその隣のG音(ソの音)にまで♮がつけられてしまっています。
フランス版の第二版にはショパン自身が校訂に関わっているため,
G音(ソの音)につけられた♮はショパンの最終的な意志である可能性は否定できません。
カミーユ・デュボワのレッスン譜への書き込み
カミーユ・デュボワがレッスンで使っていた楽譜です。
34小節目が修正済みなので,フランス版の第二版を使っていたことが分かります。
*正確には第三版を使っていたとのことです。
なんと31小節目のC音(ドの音)にショパンは♮を書き入れています。
これがショパンの最終的な意志であると思えますが,
ジェーン・スターリングやショパンの姉ルドヴィカのレッスン譜には同様の書き込みがないため,
この♮が本当に最終的な意志であるかどうかは判断がつきません。
いずれにせよ,このC音(ドの音)への♮の書き込みがミクリ版,そしてパデレフスキ版,コルトー版へと受け継がれることになります。
結論
以上のように原典資料を丁寧に紐解いていくと,上記譜例のような結論に至ります。
エキエル版では脚注にこのことが明記されています。
ここまでの議論をふまえて,改めてパデレフスキ版を見てみましょう。
31小節目のC音(ドの音)に♮がついているのは,ショパンがカミーユ・デュボワの楽譜に♮を書き込んでいる事実があり,間違いとは言い切れません。
34小節のD音(レの音)に♮がついていないのは,ドイツ初版の勝手な校訂を受け継いでしまっており,明らかな間違いということになります。
2021年第18回ショパンコンクールの予備審査で課題曲に『別れの曲』を選択していた3名のコンテスタントですが,3名とも31小節目はC♮(ド♮),34小節目はD♯(レ♯)を弾いていました・・・
その他のよく見られる間違い
18~20小節目,レガート奏法のための符幹
ショパン自筆の清書原稿をよく見ると,符幹が上に伸びています。
これはレガート奏法実現のためには重要な書き込みです。
しかしフランス初版では見逃され,印刷されませんでした。
現在出版されている楽譜でも,この符幹は印刷されていないことが多いです。
32小節目,左手の音
上の譜例の◯で囲った音を間違えている楽譜があるかもしれません。
確かめるようにしましょう。
44小節目,右手和音の音
44小節目の右手和音の音ですが,上の譜例が正解です。
一番下の音がB音(シの音)になっている楽譜が多いです。
55~56小節目,右手のタイ
F♯音(ファ♯)がタイで繋がれているのが正解です。
タイが抜けてしまっている楽譜があるかもしれません。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 自筆譜を詳しく見てみよう!
「1832年8月25日パリ」のサインが書き遺されている古い自筆譜(ラフ原稿)
ショパン自筆のラフ原稿で,ニューヨークのピアポント・モーガン・ライブラリーが所蔵しています。
冒頭に「Etude Vivace」の書き込みと,「パリ,1832年8月25日」のサインが書かれています。
あーでもない,こーでもないと,書いては消し,推敲を重ねた跡が多数遺っています。
作品を書きはじめた初期段階での天才の推敲跡が確認できて興味深いです。
インクで書いていたからこそ,貴重な訂正跡が遺されています。
鉛筆と消しゴムではこうはいきません。
ましてや,PC上で音楽作成ソフトを使って,となるとこういった貴重な推敲跡は残らないですね。
フランス初版のために書かれたショパン自筆の清書原稿
フランス初版のために書かれたショパン自筆の清書原稿で,ワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
ショパンらしく几帳面に丁寧に記譜されていて,このままコピーすれば出版譜として通用するレベルです。
カミーユ・デュボワのレッスン譜への書き込み
カミーユ・デュボワ(旧姓オメアラ)は元々カルクブレンナーに師事していたプロのピアニストです。
1843年から5年間,ショパンのレッスンを受けていました。
6~8小節目,運指とアルペッジョの書き込み
21小節目,複前打音を拍と同時に弾くようにという指示
複前打音を拍と同時に弾くように,という指示を書き込んでいます。
ショパンの装飾音の奏法が確認できる貴重な資料です。
23小節目,アルペッジョの追加
6,8小節目と同じく,アルペッジョが追加されています。
31小節目,♮の追加
議論の的となる,♮の書き込みです。
47小節目,運指の書き込み
61小節目,ピアニシモの書き込み
中間部の一番最後にpp(ピアニシモ)が書き込まれています
69~70小節目,十分に間を取るようにという指示
小節線の上に,線が書き加えられています。
十分に間をあけて,間を取るようにという指示です。
ジェーン・スターリングのレッスン譜への書き込み
スターリング嬢については,下の記事を参照してください。
32~34小節目,36~53小節目の削除
32~34小節目には大きな×が書き込まれて削除されています。
36小節目と53小節目にも×が書き込まれていて,36~53小節目が削除されています。
ジェーン・スターリング嬢はアマチュアのピアノ愛好家ですから,決してプロのように演奏できたわけではありません。
技術的に難しい箇所をごっそりと削ってしまって,技術がなくても『別れの曲』の演奏を楽しめるように考慮されています。
これは現代のアマチュア・ピアニストも参考になりますね。
ショパンが指定した場所を削ってしまえば,もっとたくさんの人たちが『別れの曲』の演奏を楽しめるのではないでしょうか。
39小節目,運指の追加
2121212と運指が追加されています。
41~42小節目,運指の追加
左手の重音に運指が追加されています。
65,74小節目,音の訂正
フランス初版の音の間違いを訂正しています。
ショパンの姉,ルドヴィカのレッスン譜への書き込み
32~34小節目,36~53小節目の削除
ジェーン・スターリング嬢のレッスン譜と同様に,
技巧的な箇所をごっそりと削除してしまう書き込みです。
65小節目,音の訂正
これもスターリング嬢の楽譜と同じく,フランス初版の音の間違いの訂正です。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 演奏の注意点
初心者でも十分に楽しめる作品
『別れの曲』の中間部は楽譜通り音を鳴らすだけでも難しいです。
ピアノの学習歴が浅いピアニストは,譜読みをするのも大変だと思います。
しかしショパンらしい詩情あふれる叙情的な主部・再現部は,譜面通り音を鳴らすだけなら初心者でも十分演奏が可能です。
ショパンが事細かく書き込んだ演奏指示を忠実に再現しようとすると,主部も決して簡単ではありませんが,難しいことを考えなければ演奏可能です。
ショパンがスターリング嬢や姉ルドヴィカをレッスンした際には,中間部の難しい箇所をごっそり削除してレッスンしていました。
一流のプロの演奏を聴くことはもちろん感動的な体験ですが,
自らの手でピアノを鳴らして奏でるショパンの旋律は,また格別です。
中間部を省略してしまっても,ショパン自身が「生涯で二度とこんな美しい旋律を書くことはできない」と語った音楽を堪能することができます。
ぜひ,難しいことは考えず,気軽な気持ちでショパンの美しい調べを楽しんでいただければと思います。
ここから,本格的にピアノを勉強している方へ向けて,テンポがああだの,ペダルはこうだのと書いていきますが,ピアノ技術の発展途上にある方は気にされず,まずは演奏を楽しんでください。
当サイト管理人は,どんなに下手で間違えた演奏でも,心から楽しんで弾いていることが伝わってくる演奏は大好きです。
テンポ
ショパンが指定したテンポはです。
中間部にはpoco piu animatoの指示がありますが,あくまでもpoco piu animatoですから,あまりにもテンポの差をつけてしまってはいけません。
主部と中間部はただでさえ曲想が大きく変わります。
テンポまで大きく差をつけてしまうと,まるで別々の作品を無理やり並べただけのような,統一感のない演奏になります。
con bravuraの減七の下降が終わった途端,急にテンポが遅くなる演奏も多いですが,
音楽的に説得力がないです。
主部も中間部も一貫してで弾くのが基本です。
その上で,主部は珠玉の旋律を叙情的に歌い上げるために,やや遅いテンポにする必要があるでしょう。
中間部はcon bravuraを表現するために,ややテンポを速めても良いと思います。
主部をねっとりと粘っこくゆっくり演奏して,中間部を快速に弾き飛ばすような演奏は,少なくともショパンのスタイルではありません。
レガート奏法
ショパンの練習曲集は文字通り訓練用の「練習曲」としても科学的によく考えて作られています。
Op.10-3『別れの曲』の訓練課題は「各指の音色的独立」「自然に流れるようなアーティキュレーション(フレージング)」です。
ショパンの指示通りにちゃんと反復訓練を積むことで,大きな恩恵を受け取ることができます。
ショパンは『別れの曲』にlegatiss.=legatissimoを3回,sempre legatoを1回書いています。
ショパンがOp.10-2にsempre legatoと7回も書いたのと同様で,各指の個性を伸ばし音色的独立を体得するためには,レガート奏法が欠かせません。
レガート奏法とは,具体的には上の譜例のように,打鍵した指を長く保持して鍵盤を押さえたままにする奏法です。
右手だけで3つの声部を担当しますから,右手の5本の指は常にどこかの鍵盤を押さえているような状態になります。
レガート奏法が身についていない奏者にはかなり難しいのではないかと思います。
レガート奏法のようなピアノ演奏の基本は一度身についてしまえば,いつでもできるようになります。
『別れの曲』はレガート奏法を訓練するのに最良の教材です。
時間をかけて練習する価値はあります。
レガートのためにペダルを使わない
前述しましたが,ダンパーペダルは音の響きを変化させるための機構です。
大ホールなのか,小さなスタジオなのか,フルコンサートピアノなのか,小さなピアノなのか,観客の数,空気の湿度など,様々な要因で音の響きは変わります。
耳に届く音を頼りに,ペダルの踏み込み方を変化させて音の響きを調整することは,美しい演奏のための必須の技術です。
レガート奏法のためにペダルを使ってしまっては,繊細な音の響きの調整ができなくなります。
ショパンは『別れの曲』にペダルの指示をほとんど記譜していません。
ショパンはペダル指示もよく考えて記譜しています。
ショパンがペダル指示を書いていないというのは,暗に「ペダルの使用を控えめにするように」と指示していることになります。
『別れの曲』は多声部でできているため,実際はペダルの助けがなければ完全なレガート奏法は無理ですが,まずはペダルなしでできるだけレガートに演奏できるように練習を重ねましょう。
ノン・ペダルでレガートに演奏できるようになることが,
『別れの曲』を美しく演奏するための第一歩といえます。
運指
ノン・ペダルでレガート奏法を実現するためには運指が重要となります。
残念ながらショパンは『別れの曲』に運指をほとんど書き入れていません。
ショパンが他の作品に記譜した運指がヒントになります。
- 345指どうしでの指越えと指くぐり
- 鍵盤を滑るように同じ指で連続して音を出す
- 指の置き換え
こういったような,ショパン独特の運指法が重要となります。
ショパンの運指法は別の記事にまとめていますので参考になさってください。
重力奏法による演奏表現
『別れの曲』は当時のニューモデル,イギリス式アクションのピアノで作曲されました。
それまでのウィーン式アクションのピアノとは,発音機構そのものが一新されているため,
別の楽器と言って良いほどの違いがあります。
現代のピアノもイギリス式アクションが使われていますので,
ショパンがパリに移り住んで出会ったピアノは,現代のピアノに限りなく近づいたものということになります。
イギリス式アクション のピアノはハンマーが大きく,鍵盤は深く,タッチは重いですが,深みのある低音が鳴り,重厚な和音を奏でることができました。
備わっている様々な機構が,自転車などのギアのように働き,指の動作が倍加されてハンマーに伝わります。
鍵盤を軽く押さえれば限りなく小さなピアニシモが,体重を鍵盤にのせれば大きなフォルテシモが表現できるようになりました。
いわゆる「重力奏法」が可能になったのです。
ウィーン式アクションのピアノのように指先のコントロールだけでは演奏が難しくなりましたが,
鍵盤への重さのかけ方を変化させることで強弱の変化をつけることができ,
ダイナミックレンジの広い表現力豊かな演奏が可能になりました。
デュナーミク(音量の差による音楽表現法)による表現が可能となり,
ピアノ演奏の表現力が飛躍的に広がりました。
「ピアノ」という楽器名は「グラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(ピアノからフォルテまで自在に出すことができるチェンバロ)」が由来です。
ウィーン式アクションのピアノでは指先の軽い力で簡単に音が出せましたが,
繊細で小さな音を出すことはできませんでした。
イギリス式アクションの発明により,繊細なピアニシモが表現できるようになり,ダイナミックレンジの広い表現力豊かな演奏が可能になりました。
「明確な音量の差」特に「繊細なピアニシモ」が『別れの曲』を美しく演奏するポイントになります。
内声部の音を抑えることに意識を向ける
『別れの曲』は多声部を明確に弾き分けなければなりません。
特に右手は,右手だけで3つの声部を弾き分けることになります。
ピアノは弾き方によって物理的に音の波形(音色)を変えることはできません。
ピアノという楽器では,音色の違いは,音量の違いにほぼ等しいです。
前提として,内声部はメロディラインよりも明確に音量が小さくなければなりません。
その上で各声部に適格なフレージングを与えなければなりません。
ショパンが演奏指示を書き込んでいるように,ときにはメロディーラインをディミヌエンドさせながら,内声部をクレッシェンドさせるような場面も出てきます。
右手全体が同じ用に音量を変化させるのではなくて,
各声部がそれぞれに最適な形でその音量を変化させることで,
各声部が音色的に独立することになります。
音量の変化を与えるために,相対的に音量の大きな声部により大きな音量を与えようとすると,騒々しい演奏になっていきます。
相対的に音量を小さくしたい声部の音量を小さく抑えることに意識を向けると,バランスのとれた美しい演奏に近づきます。
左手伴奏のアクセントは3小節目以降も同様に
ショパンは同じ音型を繰り返すときに,細かなアーティキュレーションは最初の小節にだけ記譜して,以降は省略する場合がよくあります。
3小節目以降は記譜が省略されていますが,1~2小節目と同様にアクセントをつけ続けます。
自然なアーティキュレーションの習得
一流のピアニストは,ちょっとした音階,何気ないフレーズ,なんでもない分散和音を弾いても,
美しい音楽が奏でられます。
まるで魔法のようですが,この魔法にはカラクリがあります。
この魔法が使えるかどうかが,ピアノ上級者かそうでないかの違いです。
指が速く動いて,難しい作品をガンガン弾ける演奏者でも,
子どもでも弾けるような作品を弾くと,まるで子どもの演奏のようになってしまうことがあります。
これは,その魔法が備わっていないからです。
その魔法とは,デュナーミク(音量の強弱による音楽表現法)とアゴーギク(テンポやリズムの変化による音楽表現法)による,自然で流れるようなアーティキュレーション(フレージング)のことです。
ショパンは『別れの曲』の譜面に,発想記号・速度記号や強弱記号,スラーやクレッシェンド,ディミヌエンド,テヌート,アクセントなどの 演奏指示を事細かく書き込んでいます。
ショパンの演奏指示を細部まで忠実に守って反復練習することにより「ショパンの魔法」を授かることができます。
『別れの曲』の主部は,楽譜通り音を鳴らすだけなら簡単なのですが,
ショパンが細部にわたって綿密に演奏指示を書いているため,
ショパンの演奏指示を忠実に守って演奏するのはかなり難しいです。
『別れの曲』の主部は,ちゃんと弾こうと思うと実は非常に難易度が高いです。
特に変なクセがついてしまっている演奏者は,矯正するのが大変だと思います。
『別れの曲』のように自然なアーティキュレーションの奏法を,演奏指示として事細かく記述している譜面はめずらしく,貴重な練習の機会になります。
せっかくですからショパンの演奏指示を忠実に守って反復練習を積み,正しいフレージングを体得しましょう。
重力奏法によるフレージング
『別れの曲』では,重さをかけたあとで,ふっと重さを抜く,重い→軽いというアーティキュレーションが多用されています。
重さのかけ方と抜き方は人それぞれで,自身に合ったスタイルを見つけた方が良いです。
他人のスタイルを真似して,自分も上手くいくとは限りません。
これはイスの高さや肘の高さ,演奏中の姿勢,演奏中の手の形などとも密接に関わっているので,時間をかけて試行錯誤し,自身に最適な演奏スタイルを探してください。
当サイト管理人の場合はイスは低めで,肘は鍵盤より少し下ぐらいになります。
座る位置は鍵盤に近いです。
そして手首をやや下に下げると腕の重さが加わり,手首をやや上げると鍵盤にかかる重さが軽くなります。
過去にはイスを思い切り低くしてみたり,逆に高くしてみたり,椅子を鍵盤に近づけたり,遠ざけたり,色々と試してきました。
今後も試行錯誤を続けますし,スタイルを変えていくことになると思います。
前打音,複前打音は拍と同時に弾きはじめる
『別れの曲』には前打音と複前打音が出てきます。
ショパンが生涯の最高傑作だと自負した美しい旋律を詩情豊かに奏でるためには,装飾音の正しい奏法が必須です。
前打音は拍と同時に演奏する
前打音(短前打音)が何度か出てきますが,全て拍と同時に演奏します。
正しい奏法が少しずつ浸透してきていますが,まだまだ先取りで弾いている演奏の方が多いので,気をつけましょう。
特に往年の名ピアニストの演奏を聞くときは気をつけてください。
ショパンの前打音は,
- 主音の打撃音をやわらげる
- グラデーションのようにゆるやかに段階的に次へ進む
という意義があります。
先取りで弾いてしまうと逆効果になります。
前打音付きアルペッジョとして演奏する場合
ショパンの作品では,和音に前打音が付いている場合は,前打音付きのアルペッジョとして演奏することもできます。
『別れの曲』ではカミーユ・デュボワのレッスン譜にショパン自身がアルペッジョの記号を書き加えています。
これも間違えて演奏される場合がほとんどなので気をつけましょう。
複前打音も拍と同時に演奏する
複前打音も拍と同時に演奏します。
ショパンは生徒のレッスン譜にたびたび「拍と同時に演奏するように」という注意書きを遺しているのですが,それは後世には伝わらず,20世紀には先取りで演奏するのが主流となってしまいました。
21世紀になり「原典に忠実な演奏こそが正しい演奏である」という論調が高まっています。
装飾音の正しい奏法によるショパン演奏が増えていってほしいです。
ショパンの装飾音の演奏で迷ったら,拍と同時に演奏するようにすればだいたい大丈夫です。
しかし先取りで演奏する例もあります。
ショパンの装飾音の奏法については体系的にまとめてありますので,
時間があるときにでもぜひご覧ください。
主部と再現部の違いを表現する
『別れの曲』の再現部は主部の単なる繰り返しではなく,細かな変化が多数つけられています。
このニュアンスの違いを表現するのは大変難しいですが,同じことを繰り返すときに変化をつけるというのはショパンらしいスタイルです。
ショパンが演奏表現の手本として書き込んでくれた演奏指示ですから,
せっかくならば細部まで演奏指示を守って,ショパンの表現法を学びましょう。
特に,フレージングの違い(との違い),そしてとの違いを表現することは重要です。
ショパンの指示をないがしろにしない
ショパンは『別れの曲』に24箇所も!演奏指示を書き込んでいます。
ショパンの演奏指示をまるで無視しているような演奏も多いです。
著作権の切れた楽曲なので,どのように演奏するのも自由ですが,
そんなことをして,成功している例はほとんど(いや,まったく?)ありません。
それはそうです。
ショパンの指示を無視して,より素晴らしい音楽表現ができるのだとしたら,ショパン以上の天才だということになります。
全部の指示を忠実に守ろうとすると大変ですが,
滞りなく自然な演奏をするためには,当たり前の指示ばかりでもあります。
普段なら,そのように演奏するのは当たり前なので,わざわざ記譜しないような演奏指示まで,事細かに書き込まれています。
この指示から外れている演奏をしているなら,それは不自然な演奏である可能性が高いです。
ちゃんとショパンの指示通り演奏ができているか,定期的にチェックしましょう!
特に蔑ろにされているのは中間部のstretto
中間部,con bravuraのところです。
最後はstrettoしてritenutoで終わるように指示があります。
strettoはaccelerandoではないので,加速する必要はありません。
でも,切迫した感じを表現しなければなりません。
ただでさえ減七の和音の連続で緊迫感のある場面なので,strettoはもはや加速することでしか表現ができないと思います。
ところが,楽譜にstrettoと書いてある,ちょうどそのあたりから減速しはじめる演奏が多いです。
ってなります。
楽譜通り音を鳴らすだけでも難しい場面なので,
ミスタッチをしないことにばかり気が向いて,他のことは考えられないのかもしれませんが,
がんばってstrettoからのrienutoを表現しましょう!
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-3『別れの曲』 実際の演奏
当サイト管理人 林 秀樹の演奏です。2021年5月録音
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-3『別れの曲』単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
本来,練習曲集は12曲(もしくは24曲)全曲を通して演奏するべきなのですが,
原典に忠実な録音を残すために,1曲ずつ何回も(ときには100回以上も)録り直して録音しました。
演奏動画を録音したときの苦労話はショパンの意図に忠実な参考演奏動画【練習曲集Op.10】をご覧ください。
今回は以上です!