カルル・フィルチの作品から2曲
- マズルカOp.3-3
- ベニスからの別れ。アデュー!
の演奏動画を公開しています。
ぜひ,お聴きになりながら記事をご覧ください。
演奏は当サイト管理人である 林 秀樹 です。
カルル・フィルチ【夭逝の天才】
14歳で夭逝した神童
Carl Filtsch (日本語では カルル・フィルチ や カール・フィルチュ と表記されます) はショパンの多くの弟子たちの中でも 最も才能があると高い評価を受けていた神童です。
1830年5月28日に 現在のルーマニアの中部 トランシルヴァニア地方のアルバ県,セベシュで生まれました。
*セベシュはルーマニア語で Sebeș ,ドイツ語では Mühlbach (ミュールバッハ) と呼ばれています。
1841年11月(11才)からはパリに出て,ショパンの指導を受けるようになり,ショパンのお気に入りの生徒となりました。
多くの音楽家や芸術家から将来を嘱望されましたが,1845年5月11日(14才),15歳の誕生日を迎えることなく イタリアのベネチアで14歳の若さで亡くなっています。
死因は結核とされています。
ショパンは仲の良かった妹エミリアを これも14歳という若さで亡くしています。
幼い頃からの親友で かつてルームメイトでもあったヤン・マトゥシンスキも結核で亡くなっていて,ショパンはその最期を看取っています。
そして,特に可愛がっていた弟子のフィルチも結核で亡くしてしまいました。
ショパンは自身も結核を患い,やがては結核で命を落としています。
ショパンの生涯は まるで結核という病に憑かれているかのような人生でした。
幼少の頃から絶賛された天才
フィルチに最初にピアノを教えたのは セベシュ(ミュールバッハ)のルター派教会の牧師だった フィルチの父で,フィルチが3歳のときでした。
1835年の春(4才)には「私たちの町では,天才少年が並外れた音楽の才能で称賛を集めている」と地元の新聞の記事になっています。
このとき既に フィルチは多くの作品を暗譜していて,正確なテンポで演奏し,完璧な聴音が備わっていたそうです。
1837年(7才)には,Dyonis Bánffy 伯爵夫人の援助を受けて ウィーンへ留学し,音楽教育者として高名だったフリードリヒ・ヴィークから さらに専門的な訓練を受けます。
このとき,後にオーストリア皇帝となるフランツ・ヨーゼフ1世と一緒に音楽教育を受けて学友となっています。
また,1838年(8才)にはフランツ・リストの演奏を初めて聴き,1840年(10才)にはリストと直接会っています。
1841年2月7日(10才)にはウィーンの楽友協会でピアニストとしてデビューを果たし,「高い完成度」「音色,演奏技術,表現,力強さ,ニュアンスが完璧に備わっている」と称賛されました。
1841年の夏(11才)には,プダペストからシビウまでの演奏旅行で大成功を収めました。「トランシルヴァニアのリストになるだろう」と絶賛されています。
1841年11月29日(11才)には より高いレベルでの指導を求めてパリへ行き,ショパンからピアノの指導を受けるようになります。
ショパンはフィルチに週3回のレッスンをすることになりました。
ショパンは子どもにピアノを教えることはほとんどなく,特定の生徒を週1回以上教えることもめったにありませんでしたが,フィルチは特別でした。
パリ行きやショパンのレッスン費用も,Dyonis Bánffy 伯爵夫人が援助しています。
ショパンのレッスン料は1回45分で20フラン(現在の日本円で10万円ほど)になります。
週3回もレッスンを受けるとなると,莫大な費用がかかることになります。
フィルチは,ショパンが特別に評価していただけでなく,以下のような一流の音楽家・演奏家からも高い評価を得ていて,将来を嘱望されていました。
- フランツ・リスト(Franz Liszt)
- タールベルク(Sigismond Thalberg)
19世紀において,リストやショパンと並び称されたピアノの名手。「3本の手」と呼ばれた奏法が有名。 - フリードリヒ・ヴィーク(Friedrich Wieck)
ドイツの音楽家,音楽教育者。ロベルト・シューマンの妻であり高名なピアニストである クララ・シューマン(Clara Schumann,旧姓ヴィーク Wieck)の父親で,ハンス・フォン・ビューロー(Hans Guido Freiherr von Bülow)のピアノ教師だった人物。7歳ごろからカルル・フィルチのピアノを指導している。 - アントン・ルビンシテイン(Anton Rubinstein)
弟のニコライ・ルビンシテイン(Nikolai Rubinstein)と共に著名なピアニスト,作曲家,指揮者。なお,現在でも有名な20世紀のピアニスト アルトゥール・ルービンシュタインと血縁関係はない。 - イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles)
チェコ出身の作曲家,ピアニスト。ショパンやメンデルスゾーンと深い交流があった。ショパンが『3つの新しい練習曲』を作曲するきかっけとなった人物。 - ジャコモ・マイヤベーア(Giacomo Meyerbeer)
ドイツ人の歌劇作曲家。ショパンはマイヤベーアの歌劇『悪魔のロベール』の主題をもとに『チェロとピアノのための協奏的大二重奏曲 ホ長調』を作曲している。 - ルートヴィヒ・レルシュタープ(Ludwig Rellstab)
ドイツの詩人,音楽評論家。シューベルトの歌曲集『白鳥の歌』中,7曲の歌詞はレルシュタープの作品。ベートーヴェンのピアノソナタ第14番Op.27-2が『月光』と呼ばれるきっかけとなった評論が有名。パリでデビューした直後のショパンを酷評していたが,後にショパンの信奉者となった。
これだけ多くの名だたる音楽家や芸術家に才能を称えられながら,その才能はつぼみのまま14才の若さで亡くなってしまいました。本当に残念なことです。
もしも,あと30年,せめて20年長く生きていれば,音楽史における重要な人物の一人になっていたことでしょう。
カルル・フィルチ 【ショパンが将来を嘱望していた天才少年】
1841年の年末(11才),ショパンによるフィルチのレッスンが始まります。
ショパンが不在のときには,フランツ・リストが代わりにピアノの指導をしています。
ショパンとリストからピアノの指導を受ける11歳の少年!
まさに神童ですね。
ショパンの作品を,ショパンのモノマネではなく 彼自身の演奏スタイルで ショパンの作品を正しく解釈して見事に弾いてみせる天才で,ショパンにとって期待の星でした。
フランツ・リストも 「この子が世界中を走り回るようになったら,私は自分の店を閉めなければならない」と評価しています。
タールベルクもフィルチを「小さな巨人」と呼びました。
ショパンの指導のおかげで フィルチのレパートリーは広がり,バッハ,ベートーヴェン,ウェーバー,リストなどの作品を演奏するようになります。
11歳でこのレパートリーはスゴイですね。
パリでは頻繁にオペラを観ていますが,これもショパンの影響でしょう。オペラの観劇はフィルチの才能をより豊かに深めました。
演奏会も積極的に行い,パリではサロンの寵児となりました。
社交界での信奉者も多く,エラールのピアノを贈られたりもしています。
1842年11月(11才)には,ロスチャイルド男爵邸のサロンで(ショパンの自宅で,という情報もあり) ショパンのピアノ協奏曲Op.11をショパンと共演し,正式なデビューを果たします。
1843年(13才)には ヨーロッパ・コンサート・ツアーを開始し,ロンドンへと赴きます。イギリスでの演奏会はウィーン,パリ,ロンドンの音楽誌に「ショパンの再来」と評され絶賛されました。
ロンドンではヴィクトリア女王の御前でも演奏をしています。
イギリスでショパンの作品が愛されるようになったのは,このコンサートがきっかけだとも言われています。
その後,ヨーロッパ中を演奏会で回る予定でしたが,1844年(13才)の年初に結核が発覚し 医師はフィルチに ベネチアでの海水浴を処方しました。
当時,医学はまだまだ原始的で,迷信的な通俗療法が行われていました。
結核の治療は瀉血という大量に血液を抜き取る療法が一般的でした。他にも下剤を大量に飲ませ断食させる,水銀を飲ませる,など患者に負担をかける荒療治が多く,結核で弱った体に医師が無茶な治療を行うことで 患者を早死させることになってしまっていたと言われています。
他にも,スイスは結核患者が少ないから 高山で安静にするのが良い,とか,悪いものを吸い込まないようにヒゲを生やすのが良い,などの迷信も広く信じられていました。
海風にあたる,さらには海の水に浸かる,というのも,そういった通俗療法の一つで,当時のフランスでは結核の治療として一般的な療法でした。
海水浴と聞くと優雅に感じますが,肺病で弱った体を冷たい海水に漬けるのですから,患者にとっては辛い治療であったことでしょう。
いったん回復したため 1844年の夏(14才)にはトランシルヴァニアやウィーンで演奏会を開きますが,これが最期の演奏会となります。
その後再びベネチアに戻りますが,1845年5月11日(14才),15歳の誕生日を迎える直前にベネチアの地で不治の病に倒れました。
サン・ミケーレ(San Michele)島の venezianischen 墓地に埋葬されています。
【カルル・フィルチの墓】
Von Андрей Романенко – Eigenes Werk, CC BY-SA 3.0, Link
カルル・フィルチ ピアノ・コンペティション
1995年より,フィルチの生誕地であるルーマニアのセベシュで毎年 コンクールが開催されていて,ルーマニア国外からも多数の参加者が集まる国際コンクールとなっています。
2022年は7月14日から20日まで開催されました。
“12才以下” “12才から16才まで” “16才から31才まで” と,3つの年齢別カテゴリーに分けられていて,本格的な国際コンクールにも関わらず,幼少期の子どもたちも参加することができます。
神童であったカルル・フィルチの名を冠したコンクールにふさわしい特徴です。
他にもカルル・フィルチにふさわしく,
- フィルチの作品が必須の課題曲となっている。
- 自由曲では自作の曲を演奏することもできる。
といった特徴があります。
大きなピアノの前に小さな体でちょこんと座って,自身が作曲した作品を流暢に演奏している姿なんて,まさに映画や小説に出てくる神童の姿そのものですね。
コンクールの映像も You Tube で見つけることができました。
本当に便利な世の中になりました。
いくつか動画が見つかったのですが,特にすばらしいと思った演奏を貼り付けます。
録音の音質は良くありませんが,演奏そのものはすばらしいです。
動画の概要欄によると,2017年の12才以下のカテゴリーで準優勝した,8才のコンテスタントの演奏とのこと。
途中で,フィルチの “Op.3-1 Romance sans paroles” を,最期にはショパンのワルツOp.64-2を演奏しています。
8才とは思えない,すばらしい演奏です。
カルル・フィルチ【作品一覧】
フィルチは ピアニストとしてだけでなく,作曲家としても稀な才能を有していました。
1843年(13才)にはロンドンで8つの自作曲が出版されています。
フィルチの楽譜は 全音からも出版されていますので,手軽に入手することができます。
ショパンが好きな方は,フィルチの作品もきっと気に入ると思います。
レパートリーに加えてみてはいがでしょうか。
作品番号のつけられた作品
- Op. 1(1841年)
Andante et Nocturne
『アンダンテとノクターン』- No. 1 Andante
- No. 2 Nocturne
- Op. 2 (1842年)
Introduction et Variations sur un Motif favori de l’Opéra “Norma de V. Bellini” in A major
『ベッリーニのノルマによる序奏と変奏曲』 - Op. 3(1843年)
Premières pensées musicales- No. 1 Romance sans paroles『無言のロマンス』 in E minor
- No. 2 Barcarole『舟歌』 in G♭ major
- No. 3 Mazurka『マズルカ』 in E♭ minor
- Op. 8 – Etude in F major
- Op. 10 – Etude in C minor
作品番号のつけられていない作品
ピアノ作品
- Sechs kleine Präludien『6つの小さな前奏曲』
- Choral 『コラール』(1839年)
- Notturno『ノクターン』
- Präludium und Fuge『前奏曲とフーガ』
- Ouvres postumes (遺作)
- No. 1 Impromptu『即興曲』 (no. 1) in G♭ major
- No. 2 Impromptu『即興曲』 (no. 2) in B♭ minor
- No. 3 Das Lebewohl von Venedig (Adieu!) in C minor (1844年)
『ベニスからの別れ。アデュー!』
ピアノ作品以外
- Mélodies hongroises『ハンガリーのメロディー』(1841年)
- Allegretto con variazioni『変奏曲アレグレット』for violin & piano in D major
- Overture『序曲』 for orchestra in D major (1843年(1841年?))
- Konzertstück『小協奏曲』 for piano & orchestra in B minor (1843年)
- Cadenza to Beethoven’s Piano Concerto No.3
『ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のカデンツァ』 - Etude héroique『練習曲 “英雄”』
演奏動画へのリンク
なんと,カルル・フィルチの作品などというレアな音源も,You Tubeなどで簡単に試聴できます。
数十年前なら,街中を一日中 足を棒にして探し回っても 音源が一つ見つかるか,見つからないか,だったことでしょう。
この記事を作成するにあたって,当サイト管理人も “マズルカOp.3-3” と “ベニスからの別れ。アデュー!” の演奏動画を公開しました。
今回 当サイト管理人が公開した動画だけでなく,You Tubeで見つけた音源をいくつか貼り付けておきます。
Konzertstück for piano & orchestra in B minor (1843年)
とても13才の少年の作品とは思えません。
ショパンやメンデルスゾーンの未発見の作品だと言われても信じてしまうようなクオリティです。
13才の少年がこの曲を作曲した,というのも驚きですが,13才の少年がこの曲を演奏できた,というのも驚きです。
ピアニストとして既に完成されたテクニックを持っていたことが伺われます。
最近まで失われたと思われていた作品ですが,発見され,2005年に出版されています。
Premières pensées musicales Op.3 (1843年)
No.1 Romance sans paroles『無言のロマンス』 in E minor
メンデスルゾーンの無言歌のような曲想です。
ホ短調からホ長調への転調が鮮やかです。
No.3 Mazurka『マズルカ』 in E♭ minor
*動画の演奏は当サイト管理人 林 秀樹 です。
13才作曲のマズルカ。
変ホ短調という調号の多い調性を選んでいるところがショパンに通じます。
変ホ短調のマズルカというと,ショパンのマズルカOp.6-4が思い出されます。
ショパンのOp.6-4はわずか24小節の小品で印象の薄い作品ですが,フィルチのマズルカは力作です。
ショパンはマズルカにカデンツァ(小音符で書かれた自由な装飾音群)を書くことがあまりありませんが,フィルチはカデンツァを多用していて,ここはショパンのノクターンのようです。
中間部で変ホ長調に転調する和声感覚もショパンに通じるものを感じます。
そして,これが13才の作品だというのがやはり驚きです。
Overture for orchestra in D major (1843年(1841年?))
何かが始まりそうな期待感が高まる秀逸な序曲です。
13才(もしくは11才?!)の作品とのことで,驚きしかないですね。
Ouvres postumes (遺作)No.3 Das Lebewohl von Venedig (Adieu!) in C minor (1844年)
*動画の演奏は当サイト管理人 林 秀樹 です。
『ベニスからの別れ。アデュー!』と題された作品です。
1844年,14才の作品とのことです。フィルチは15才になる直前にベネチアで亡くなっていますから,死の直前の作品になります。
*ベニスはベネチア(Venezia)の英語読み
『遺作』の中の1曲ということですから,フィルチの死後に発見,もしくは出版された作品なのでしょう。
フィルチの死後 この曲に触れた人々は,この劇的な作品に涙を誘われたことでしょう。
今回は以上です!