この記事では,ショパンがその生涯で居住した住居と旅のすべてを時系列で まとめます。
ショパンの住居 ポーランド時代【誕生から 20才まで】
【ショパンの生家】マゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォーラ村
1810年3月1日,ワルシャワから約46km西にあるマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォーラ村で ショパンは誕生しました。
ショパンの生年月日には 諸説あります。
ショパン誕生当時の建物は消失してしまいましたが,家具や内装など ショパンの生まれた当時のままに復元され,展示・公開されています。
※上に5番目に貼り付けたグーグル・ストリートビューでは室内を散策することができます。
夏季には毎週日曜日にショパンの作品の演奏会が開かれています。
サスキ宮殿【1810年~1817年 ショパン;0才~7才】
1810年10月,ワルシャワの高等中学校の校長だったサミュエル・リンデが 父ニコラスにフランス語を教えないかと持ちかけ,承諾した父とともに家族はワルシャワに移住しました。
高等学校はワルシャワにあるサスキ宮殿内にあり,ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになりました。
父ニコラスが敷地内の高等中学校でフランス語教師を勤めるとともに,
ショパン家は貴族や地主の子弟を自宅に住まわせて,寄宿学校をはじめます。
ショパンは寄宿学校の寮生たちと 幼友達として友情を深めました。
サスキ宮殿は1944年にドイツ軍によって破壊されてしまいました。
再建計画はあるものの,予算不足により計画は保留されています。
カジミェシュ宮殿【1817年~1827年 ショパン;7才~17才】
サスキ宮殿がロシア皇族コンスタンチン・パヴロヴィチによって軍用地として徴収され,サスキ宮殿内にあった高等中学校はカジミェシュ宮殿へ移転することになります。
カジミェシュ宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学も入居していました。
現在もワルシャワ大学の学長事務所が置かれています。
サスキ宮殿の中庭に暮らしていたショパン一家も,カジミェシュ宮殿に引っ越します。
高等学校に隣接する建物の二階で広々と暮らすことになりました。
ショパンもワルシャワ高等学校に1823年(13歳)から1826年(16歳)まで通っています。
ショパン家はカジミェシュ宮殿でも 寄宿学校の経営を続けました。
1827年4月には,妹のエミリアが14才の若さで亡くなっています。
クラジンスキ宮殿(チャプスキ宮殿)【1827年~1830年 ショパン;17才~20才】
1827年,ショパン一家はワルシャワ大学と通りを挟んで丁度向かいにある,クラジンスキ宮殿に移り住みました。
この場所でも,ショパン家はエリート学生のための寄宿塾の経営を続けました。
ショパンは1830年11月2日にワルシャワを旅立つまで,ここに住みました。
ショパンは初めて自分の部屋が与えられ,部屋にはピアノが置かれていました。
ここには詩人のツィプリアン・カミル・ノルヴィトが1837年から1839年まで住んでいて,後に1863年の1月蜂起でロシア兵がショパンのピアノを投げ捨てたことに関して『ショパンのピアノ』という詩を詠んでいます。
ショパンの旅 ポーランド時代
1822年夏 生家 ジェラゾヴァ・ヴォーラを訪れる
1822年夏,12才のショパンは ワルシャワに移って以来初めて,ショパン生誕の地であるジェラゾヴァ・ヴォーラを訪れています。
1824年夏・1825年夏 夏休みをシャファルニアで過ごす
1824年と1825年の夏,14才・15才のショパンは夏休みを利用してシャファルニアでポーランドの田園に親しみました。
シャファルニアはワルシャワからヴィスワ河に添って北西へ200kmほどのところにあります。
ショパン家が経営する寄宿学校の寮生たちの親は そのほとんどが裕福な大地主で,夏休みをひかえたショパンの元には たくさんの招待状が届きました。
その中の一つ,寄宿生であるドミニク・ジェヴァノフスキの実家のあるシャファルニアで過ごすこととなったのです。
ショパンはポーランドの田園を楽しみながら,その土地の方言で書かれた『シャファルニア新聞』を発行してワルシャワの両親に近況を面白おかしく報告していました。
ポーランドの田園風景でふれた ポーランド土着の農民たちによる民族音楽は,新鮮な魅力をもってショパンを魅了し,生涯にわたってショパンの作品に大きな影響を与えることになりました。
1826年夏 ドゥシニキへ湯治の旅
次第に複雑になる高等中学校の学業とピアノ演奏の上に,作曲に対する欲求はますます激しくなるばかりで,16才のショパンは相当な過労に陥っていました。
このころ,生来虚弱だった末の妹エミリアが,医者から転地を命じられたため,学校が休暇中であったフレデリックも同行することになりました。
母と姉ルドヴィカ,妹エミリア,フレデリックの4人はシレジア地方のライネルツ(現在のドゥシニキ)に出かけます。
ドゥシニキは現在のポーランドの南西部,チェコの国境近くにあります。
この地でショパンは鉱泉を飲み,規則正しい生活を送り,湯治に励みました。
ショパンの滞在中,孤児のためにチャリティー演奏会をいたという逸話が残されています。
これを記念して,この演奏会の会場では毎年 “ドゥシニキ国際ショパン音楽祭” が開かれています。
1828年9月 ベルリンへ 初めての国外旅行
1828年9月,18才のショパンは初めての国外旅行を経験します。
ベルリンに2週間ほど滞在して歌劇を鑑賞して過ごし,その帰途ではポズナン大公国の総督だったラジヴィウ公に客人として招かれました。
1829年夏 ウィーンへ 演奏旅行
1829年夏,19才のショパンは ワルシャワ音楽院での成果を試すべく,友人たちとウィーンへ赴きます。
ウィーンでは2回の演奏会が大好評となり,華やかなデビューを飾りました。
1830年夏 生家 ジェラゾヴァ・ヴォーラへ
1830年夏,20才のショパンは 誕生の地であるジェラゾヴァ・ヴォーラを再び訪れています。
そして,1830年11月2日,祖国ポーランドを旅立ったショパンは,2度と故郷の土を踏むことがありませんでした。
祖国を旅立ち パリに流れ着くまで
- 1830年
ショパン20才11月2日ワルシャワを発ってウィーンに向かう。これを最後に,2度と祖国へ戻ることはなかった。
- 日程不明
カリシュにて親友ティトゥスと落ち合う
- 11月7日~11月10日
ヴロツワフに滞在
*到着したのは 11月6日かもしれない。 - 11月12日~11月18日ごろ
ドレスデンに滞在
- 11月21日ごろ
プラハに滞在
- 11月23日
ウィーンに到着
- 11月29日
11月蜂起勃発。ワルシャワで革命の火の手が上がった。
- 1831年
ショパン21才3月1日ショパンの誕生には諸説あるが,一般的には1810年3月1日生まれとされていて,この日,ショパンは21歳となった。
- 7月20日
ウィーンを出発。バイエルン王国の首都ミュンヘンに向かう。
ミュンヘンでは8月30日に演奏会を開いている。 - 9月
シュトゥットガルトへ向かう。
- 9月8日
シュトゥットガルトにいたショパンは,ロシア軍の総攻撃によってワルシャワが陥落したことを知る。
- 9月中旬
パリへ向けて出発する。
- 9月末ないしは10月初旬
パリに到着
ウィーン,そしてイタリアへ演奏旅行に出発したショパンですが,ワルシャワで蜂起が起こったことにより,運命に翻弄されるようにパリに流れ着きます。
ワルシャワを出発してからパリに流れ着くまでの日程を上にまとめました。
ショパンの旅にティトゥスが同行していなかった,という説もあります。
詳細は次の記事をご覧ください。
ショパンの住居 パリ時代【20才~サンドと出会うまで】
運命の力に流されるようにパリにやってきたショパンですが,その後 その生涯が終わるまでの18年間,パリで暮らすことになります。
ショパンはこの18年間に,なんと8回も引っ越しをしています。
ちなみにベートーヴェンはウィーンで80回以上も引っ越しをしたといいます。
ポワソニエール大通り27番地【1831年~1832年 ショパン;21才~22才】
ショパンがパリに到着した直後に居を構えたのは,ポワソニエール大通り27番地の5階でした。
小部屋が2つだけと 慎ましい間取りでした。
フランスの “5階” は日本の “6階” にあたります。
パリに到着した1831年の9月末ないしは10月初旬から,1832年の2月まで ここに住みました。
ショパンが友人のクメルスキー宛に書いた 1831年11月18日付けの手紙には,バルコニーからの素晴らしい眺めについて書かれています。
ぼくの5階の部屋は マホガニーの家具で美しく飾られた小さな部屋と 大通りの上に張り出たバルコニーがあって,そこからはモンマルトルからパンテオンまで,パリで一番美しい景色が見渡せます。
この眺望を皆 羨みますが,5階までの階段を羨む人はおりません。
今では建物はなくなり,門だけが現存しています。
門の上にあるプレートには,ショパンが1831年から1832年まで住んでいたことを記されています。
シテ・ベルジェール4番地【1832年~1833年 ショパン;22才~23才】
ショパンの主な収入源は,名家の夫人や令嬢へのレッスンでした。
5階までの階段は,貴婦人がたをレッスンに招くには不都合だったため,
ポワソニエール通りから少し離れた シテ・ベルジェール4番地の2階へ引っ越します。
シテ・ベルジェールは路地(通り抜けができる中庭)になっていて,ショパンが住んでいた4番地は,現在ヴィクトリアという名前のホテルになっています。
ショセ・ダンタン通り5番地【1833年~1836年 ショパン;23才~26才】
※都市計画により,現在 5番地は消失しています。
ショセ・ダンタン通りは当時 ブルジョワ階級が多く住む高級住宅街でした。
その5番地は,エピネー夫人とグリム男爵が1778年にモーツァルトとその母親を半年ほどもてなしたという逸話も残されているほどの高級邸宅でした。
ショセ・ダンタン通り5番地にある高級アパートに住むドイツ人科学者と知り合ったショパンは,度々,この部屋を使わせてもらうようになります。
そして,ドイツ人科学者がアパートを解約することになると,ショパンはワルシャワ時代からの友人,ホフマン医師をルームメイトとして このアパートに正式に引っ越しました。
部屋には洗練された高価な家具や調度品を入れ,ショパンはパリ・セレブの一員となったのです。
そして,ショセ・ダンタン通り5番地には,モーツァルトが滞在したという伝説に加えて,ショパンが住み,リストが頻繁に遊びに来た という新たな伝説が加わったのでした。
やがてホフマン医師はパリを離れますが,代わりにワルシャワ時代からの友人で,医師としてパリに出てきたヤン・マトゥシンスキが同居人となりました。
【1835年夏・1836年夏の旅】マリアとの出会いと婚約
1835年8月,25才のショパンは 湯治で滞在中の両親と会うためにカールスバートへ赴き 3週間滞在しました。
5年ぶりに両親との再会を果たしたショパンですが,これが生涯で最後の邂逅となりました。
パリへの帰途 ドレスデンに滞在中だったヴォジニスキ伯爵を訪ねます。
5年前にポーランドで顔見知りだった娘のマリアは16才になっていました。
芸術に深い理解があり,育ちが良く上品で,何よりもポーランド人であったマリアは,ショパンにとって理想の女性でした。
次にライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ね,さらにメンデルスゾーンの紹介で,クララ・ヴィークとロベルト・シューマンに会っています。
ライプツィヒからの帰途,ハイデルベルクではショパンは人生で初めての喀血を経験しています。
1836年の夏には再びマリアのいるドレスデンを訪れ,1836年9月6日の夕暮れ,ショパンはマリアに求婚し,マリアも求婚を受け入れました。
その後ショパンはライプツィヒを訪れて,再びシューマンと会っています。
ショセ・ダンタン通り38番地【1836年~1839年 ショパン26才~29才】
※38番地は都市計画により消失しています。
同居人だったヤン・マトゥシンスキが結婚し,ショパンもマリア・ヴォジニスカと婚約を交わしました。
マリアとの新婚生活を思い描きながら,さらに豪奢な38番地のアパートへ引っ越します。
その家賃は425フラン,現在の日本円で200万円ほどという高級アパートでした。
19世紀の1フランが 21世紀の日本円で いくらに換算されるのかは,いろいろな計算方法があります。おおよそ,当時の1フラン≒現在の4000円 が標準の計算方法のようです。
1回のレッスン料が45分で20フランという破格の高級取りだったショパンは,音楽家・芸術家として このような高級アパートに住むことができるほど 経済的に立派に自立していたのです。
ショパンは家具にもこだわり,花を飾り,室内をエレガントに整えて結婚生活を夢見ていました。
しかし病弱であるにもかかわらず,夜会の寵児として不摂生な生活を続けるショパンを見限ったマリアの両親は,一方的に婚約を破棄します。
ロンドンへ傷心旅行
1837年7月には,ピアノ製造業者で友人でもあったプレイエルと一緒にロンドンへ傷心旅行に出かけています。
ショパンとサンド【マジョルカ島への旅】
マリアとの婚約がなくなったことを知ったジョルジュ・サンドの積極的なアプローチにより,1838年の春ごろには ショパンとサンドは急速に親しくなりました。
そして1838年11月,ショパンとサンド,サンドの2人の子どもたち,兄モーリスと妹ソランジュ,そしてサンドの小間使いたちとともにマジョルカ島へと旅立ちました。
ショパンとサンドの一行は1839年の10月11日にパリに戻ってくるまで,凄絶で劇的な1年間を過ごすことになります。
9年間におよぶ 音楽史上最も有名なロマンスの始まりでもありました。
ヴァルデモーザ修道院
ショパンの住居【サンドとの生活】
ノアンにあるサンドの別荘
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By – Own work, CC BY-SA 4.0, Link
ノアンにあるサンドの別荘は,サンドが祖母から相続した大邸宅で 部屋数が20もある瀟洒な建物でした。
ショパンは1839年6月にはじめてノアンで過ごして以降,毎年夏はノアンの別荘でサンドと共に過ごすのが恒例となりました。
気候が良く,田園の静けさに満ちたノアンの別荘で,ショパンは作曲に専念することができました。
ショパンが遺した名曲の数々は,その多くがノアンで作曲されたものになります。
トロンシェ通り5番地【1839年~1841年 ショパン;29才~31才】
サンド親子とのマジョルカ島滞在で瀕死の状態におちいったショパンでしたが,サンドの献身的な看護のおかげで健康を取り戻します。
ノアンにあるサンドの別荘で穏やかに過ごしながら二人は仲を深めていき,パリでの新しい生活を計画し,学生時代からの友人,ユリアン・フォンタナに新居探しを託します。
フォンタナがショパンのために見つけたのはトロンシェ通り5番地にあるアパートの2階でした。
なお,トロンシェ通りはショパンの葬儀が行われたマドレーヌ寺院のすぐ裏手にあります。
1年ぶりにパリへ戻ってきたショパンとサンドは,社交界のゴシップを避けて別々に居を構えます。
サンドはトロンシェ通りからは少し離れたピガール通り16番地に住むことになりました。
トロンシェ通りもピガール通りもショセ・ダンタン通りに比べれば庶民的な街で,社交界から少し距離を置こうとしていたのかもしれません。
ショパンはトロンシェ通りの自宅で貴婦人方へのレッスンを終えると,ピガール通りのサンドのアパートで一緒に過ごすようになります。
フォンタナが苦労して探したトロンシェ通りのアパートは,ピアノのレッスンをするためだけの部屋のようになってしまいました。
やがてトロンシェ通りのアパートはかつてのルームメイトであるヤン・マトゥシンスキに譲ってしまい,結局はピガール通りのサンドのアパートで一緒に暮らすようになりました。
ピガール通り16番地【1841年~1842年 ショパン;31才~32才】
※ピガール通り16番地 は,現在のジャン=バプティスト通り20番地 にあたります。
トロンシェ通りからピガール通りのサンドのアパートへ居を移し,ショパンはサンド親子と4人で暮らすようになりました。
現在,門のところには「1839年から1842年まで,ショパンとサンドがここに暮らす」と書かれたプレートが設置されています。
1842年3月には結核で危篤状態だった かつてのルームメイト,ヤン・マトゥシンスキを自宅に迎え入れ,懸命な看護も虚しく帰らぬ人となりました。
苦しみぬいて死んでいくヤンの最期を見守りながら,同じ結核に罹っていることをうすうす分かっていたであろうショパンは,自分にも同じ運命が待っていることを切実に感じたに違いありません。
スクワール・ドルレアン 9 番地【1842年~1849年 ショパン;32才~39才】
※現在のデブー通り80番地にあたります。
スクワール・ドルレアンはロの字型のアパートで,芸術家が集まって暮らしていました。
サンドの親友であったマダム・マルリアニの好意で,ショパンとサンドはスクワール・ドルレアンに居を構えることになります。
ショパンは1842年から1849年までこのアパートに住んでいました。
ショパンがパリで最も長く住居とした場所になります。
1841年に完成したばかりのアパートで,当初は「シテ・デ・トロワ・フレール」と呼ばれていたそうです。
中庭の芝生と噴水は1856年に設置されたもの とのことで,ショパンが暮らしていたころはなかったようです。
現在は銀行の所有となっているとのことです。
ショパンが住んでいたのは南西の角にあたる9番地で,サンドが住んでいたのは北東の角にあたる5番地でした。
二人の部屋の間にはマダム・マルリアニの部屋があり,ショパンは自室で作曲とレッスンに集中し,マルリアニの部屋で揃って食事をする習慣となりました。
このアパートには他にも,作曲家シャルル=ヴァランタン・アルカンやピアニストのカルクブレンナー,歌手ポーリーヌ・ヴィアルド,彫刻家のダンタンなど錚々たる芸術家が暮らしていたそうです。
シャルロット・マルリアニ夫人
マルリアニ夫人は フランス駐在スペイン領事伯爵夫人で,夫の伯爵がイタリア人だったため,亡命ポーランド人であるショパンに 同じ立場として共鳴していました。
サンドより16才年上で,性格はおしゃべりでおせっかい。よくサロンを開き,ショパンを度々招いていました。
ショパンがジョルジュ・サンドと初めて出会ったのは1836年の冬,リストの愛人だったマリー・ダグー伯爵夫人のパーティーでした。
ここでサンドはショパンに一目惚れ。共通の友人であるリストを通して積極的にアプローチしますが,ショパンはマリア・ヴォジニスカと婚約していたこともあり,ショパンがサンドに女性として興味を示すことはありませんでした。
翌年,ショパンはマリアの両親から婚約を一方的に破棄されます。そしてショパンの傷心がやわらいできた1838年の春,サンドとショパンは1年3ヶ月ぶりに再会します。その再会の舞台となったのがマルリアニ夫人のサロンでした。
マルリアニ夫人はショパンとも,サンドとも,長く友人であり続け,その友人関係はショパンとサンドが破局した後も続きました。
1847年の7月にショパンとサンドは破局しますが,その後1度だけ,二人は偶然顔をあわせています。
1848年3月4日,ショパンとサンドが偶然顔をあわせたのは,これもマルリアニ夫人の部屋の玄関の前でした。
そしてこの出会いが二人にとって最後の出会いとなりました。
イギリスへの演奏旅行
1847年7月,ショパンとサンドは訣別します。
1845年の夏をピークにしだいに楽想の枯渇があらわれ始めていたショパンですが,いよいよ何も浮かばず,全く作曲ができなくなってしまいました。
病魔はショパンの身体も精神も蝕み,咳と喀血に苦しみ悩まされるようになります。
そんな死期近いショパンを最期まで支えたのがジェーン・スターリング嬢です。
スターリング嬢はショパンがレッスンをしていた上流階級の令嬢の一人でした。
大変裕福なスコットランドの領主の令嬢でした。
ショパンを崇拝していたスターリング嬢は,献身的に尽くし,物質的な援助も惜しまず 秘書のようなこともこなしました。
スターリング嬢にはキャサリン・アースキン夫人という 金持ちと結婚したものの 夫に先立たれ 未亡人として暮らしていた姉がいました。
アースキン夫人はショパンに熱烈な恋心を抱く妹を応援していました。
1848年の二月革命の騒ぎを避けるため,スターリング嬢はショパンを故郷イギリスへと誘います。
スターリング嬢とアースキン夫人は,旅行に必要な準備から旅費や宿泊先まですべて整え,ショパンとともにイギリスへ出発します。
カルダー邸
ジョンストン城
キア・ハウス
By Andrew Smith, CC BY-SA 2.0, Link
ショパンの住居【サンドとの破局から 亡くなるまで】
シャイヨ通り74番地【1949年5月~9月 ショパン;39才】
※シャイヨ通り74番地は,現在のカンタン・ボシャール通り12番地のあたりだそうです。
エッフェル塔や凱旋門の近くですが,当時は郊外の閑静な区域だったようです。
現在では建物も区画もなくなっています。
1848年の11月の終わりにパリへ戻ってきたショパンですが,パリについたときには 歩くのもままならぬほどのやつれようでした。
パリで出迎えたグジマワやロジエール嬢など友人に抱えられてスクワール・ドルレアンの自宅に戻るとそのまま病床に倒れてしまいます。
1849年の5月から6月に パリではコレラが流行し,田舎へ逃れる人が多くいました。
ショパンも医者のすすめで,郊外のシャイヨに引っ越します。
シャイヨの家は牧場や緑に囲まれた丘の上の2階建ての家で,その家賃も400フランと高額でしたが,
この家を用意した公妃がショパンには内緒で家賃の半額を負担して「200フランで安く借りることができた」と伝えていたそうです。
シャイヨの家だけでなくパリの家も借りたままになっていて,その家賃だけでも大変なものでした。
医者の往診料もかさみます。
このときも経済的な支えとなったのはジェーン・スターリング嬢でした。
スターリング嬢が2万5000フランもの援助を持ちかけ,そんな大金をもらうわけにいかないと言っていたショパンですが,結局は1万5000フランを受け取っています。
シャイヨでの暮らしが体調を回復させると期待されましたが,6月21日にひどい喀血を2度もおこしてしまうなど,病状は悪くなる一方でした。
ヴァンドーム広場12番地【1849年9月~1849年10月17日 ショパン;39才】
医者たちが,この夏は旅行に行かずに日当たりの良い部屋に住んでパリにとどまるべきだと言ったため,9月にはヴァンドーム街12番地にある陽の当たる7部屋もあるきれいなアパートに引っ越します。
その賃料はとてもショパンに払えるものではありませんでしたが,スターリングが肩代わりしました。
引っ越した当初は家具を注文したり,室内コンサートが開けるように計画を立てたりしていましたが,やがて病状は悪化してアパートから一歩も出れなくなってしまいます。
ヴァンドームのアパートには姉のルドヴィカも一緒に住んで看病にあたりましたが,部屋から部屋へ歩くこともままならないほど衰弱していました。
フランショームに宛てた9月17日の手紙が,フレデリックの最後の手紙だとされています。短い手紙で弱々しいながら,相変わらず美しく上品な筆跡だったそうです。
その手紙にはヴァンドーム街12番地に引っ越した顛末が書かれていました。
1849年10月17日,ショパンは ここヴァンドーム街12番地の自宅で,ごく親しい友人や親族数人に囲まれながら,息を引き取りました。
ヴァンドーム街12番地は,現在はショーメという宝石店になっています。
ヴァンドーム広場に面した外壁のプレートには「ポーランドのジェラゾヴァ・ヴォラで生まれたフレデリック・ショパンは1849年10月17日 この館に死す」と刻まれています。
今回は以上です!