最終更新;2024.2.21 youtubeに 軍隊ポロネーズ イ長調 Op.40-1 の参考演奏動画を公開しました!

ショパンの生涯 幼少期1810年0歳~1825年15歳

ポロネーズ変イ長調自筆譜 年表
ポロネーズ変イ長調自筆譜
ショパンの生涯 ブックマーク

ショパンの年表 – 略歴詳細な年表
ショパンの生涯 – 幼少期青年期パリ時代サンドとの生活晩年死後
ショパンの手紙 – 8~15才16-17才18-19才20才20-21才 – 以降 鋭意作成中
ショパンの交友関係 – ショパンの弟子たちカルル・フィルチ – 他 鋭意作成中
他 – ショパンのピアノの音域 ショパンの住居と旅の全記録

しょくぱん
しょくぱん

2024年1月 画像やブロックの書式を更新しました。
当サイト誕生直後の記事だったので,読みにくい箇所が多数ありましたが,随分と改善され,今までよりも読みやすくなったと思います!

細部の情報の修正や,新しい情報の追加もしました。
よろしければご覧ください!

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ショパンの生涯 誕生前

1787年

◆主な出来事◆

16歳のニコラス・ショパン,フランスからポーランドへ渡る。

◆社会的・芸術的な出来事◆

モーツァルト『ドン・ジョバンニ』プラハで上演

◆日本の出来事◆

松平定信が寛政の改革に着手
父ニコラス・ショパン

ショパンの父親はニコラス・ショパンといい,フランスのロレーヌ地方からポーランドに移住してきたフランス人でした。

元来外国人でしたが,コシチュシュコの蜂起ではワルシャワ市民兵として戦いに加わるなど,時とともにポーランドに完全に馴染んでいきました。

ポーランドの歴史家ワパチンスキによれば「彼は自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」といいます。

1789年

◆社会的・芸術的な出来事◆

フランス革命おこる。

1790年

◆日本の出来事◆

「古事記伝」の最初の五巻が刊行される

1792年

◆日本の出来事◆

大黒屋光太夫だいこくやこうだゆうと共にロシアのラクスマンが根室に来航,通商を要求する

1793年

◆社会的・芸術的な出来事◆

ポーランド,第二次分割。

1794年

◆社会的・芸術的な出来事◆

コシチュシュコの蜂起

コシチュシュコの蜂起では,ニコラス・ショパンはワルシャワ市民兵として戦いに参加しました

1795年

◆社会的・芸術的な出来事◆

ポーランド,第三次分割。

1802年

◆主な出来事◆

ニコラス・ショパン,ジェラゾヴァ・ボーラに赴き,スカルベック伯爵家の家庭教師となる。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ベートーヴェン「ハイリゲンシュタットの遺書」
ペテルブルグにフィルハーモニー協会が設立される。

ニコラス・ショパンとユスティナの出会い

フランス語が堪能だったニコラスは知られる存在となり,貴族の家庭教師をするようになりました。
その中にはスカルベック伯爵家がありました。

スカルベック家でニコラスは,スカルベック家の遠い親戚であるユスティナ・クジザノフスカと出会います。

ユスティナはシュラフタ(ポーランド貴族)の娘でしたが,地位を失ってスカルベック家に住み込んで侍女をしていました

1806年

◆主な出来事◆

ニコラス・ショパン,ユスティナ・クジザノフスカと結婚する。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ベートーヴェン『交響曲第4番』『ヴァイオリン協奏曲』

ニコラス・ショパンとユスティナの結婚

ニコラスはユスティナ・クジザノフスカと結婚しました

二人の結婚式は聖ロフ教会で,1806年6月2日に執り行われました。

1807年

◆主な出来事◆

長女ルドヴィカ生まれる。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ワルシャワ公国成立。
ベートーヴェン『熱情ソナタ』

◆日本の出来事◆

箱館奉行を廃止し,松前奉行を置く。
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ショパンの生涯 フレデリック・ショパン誕生

1810年:ショパン0歳

◆主な出来事◆

1810年3月1日,フレデリック・フランチシェク(フランソワ)・ショパンは夫妻の2人目の子として,ワルシャワから46km西にあるマゾフシェ県のジェラゾヴァ・ヴォーラ村で生まれた。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ナポレオン,フランツ1世の娘のマリー・ルイーズと結婚。
ロベルト・シューマン生まれる(6月8日)。
ベートーヴェン『エグモント序曲』
ショパンの生年月日

ショパンの生年月日には諸説あります。

1892年に発見された教区の洗礼記録によると,ショパンの生年月日は1810年2月22日となっています。

しかし,ショパンが1833年1月16日にパリのポーランド文学協会の議長チャルトリスキに宛てた所管には,1810年3月1日生まれと記されています。
ショパンは3月1日には家族で誕生日のお祝いをしていたと言っています。
また,ショパンの妹イザベラは,ショパンの没後に1809年3月1日生まれだと証言しています。

一般的にはショパン自身が記載している,1810年3月1日説が受け入れられています

1810年4月23日の復活祭の日曜日,両親が結婚式を挙げたのと同じ協会で洗礼を受けました。

登記簿には,ショパンの名前はラテン語表記でFridericus Franciscus,ポーランド語表記でFryderyk Franciszekと記されています。

代父となったフレデリック・スカルベクの息子,ヨーゼフ・スカルベクは,一時期ショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジニスカと1841年に結婚しています。

ショパンの家庭環境

フレデリックには後に二人の妹が生まれ,
父ニコラス(ニコラス),母ユスチナ,3歳上の姉ルドヴィカ,1歳下のイザベラ,3歳下のエミリアとの6人家族となります。

エミリア・ショパン

エミリアはショパンが17歳のとき亡くなっています

エミリアは幼少の頃からポーランド語やフランス語で詩や戯曲,小喜劇を創作していました。
フレデリックに続き,ショパン家の2人目の神童して通っていました。

才能豊かなフレデリックとエミリアの二人は「家庭演劇」や「文芸娯楽教会」というクラブを立ち上げて運営していました
このクラブには学校や寄宿舎の友人などが参加していて,芝居を創作して発表したり,文学作品の創作をして読み聞かせ合ったりして楽しんだとのことです。

ショパンが通っていたワルシャワ中等学校の校長リンデのアルバムの中に,エミリアが創作したフランス語の詩が残っています

死ぬことは私の天命

死は少しも怖くはないけれど

怖いのは貴方の

記憶の中で死んでしまうこと

幸福に包まれた少年時代

ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていました

父ニコラスはフルートとヴァイオリンをたしなみました。
母ユスチナはピアノに長けており,ショパン家が営むエリート学生のための寄宿塾の寮生の少年たちに指導していました。
ショパンに初めてピアノを教えたのも,姉のルドヴィカでした

毎週木曜日には友人や近所の人たちがショパン家に集まり,常に音楽で溢れていました。

父ニコラスはフランス人でしたが,ワルシャワ市民兵として従軍するほどポーランドへの愛国心が強く,ポーランドの精神・習慣・言葉はショパンの家庭に染み込んでいました。
ジョルジュ・サンドは「ショパンはポーランドよりもポーランド的」と言っています。

幼少時代のショパンは幸せでした

愛国心の厚い,人格者で教養豊かな父ニコラスは,良心的できわめて徳望の高い人物でした。
ポーランドの貧しい貴族の娘であった母ユスチナの愛情深さは,後年「この世で最も素晴らしい母親だ」と言っているフレデリックの言葉からもわかります。
明るい姉ルドヴィカは病弱なショパンをこの上なく可愛がってくれました。

姉妹3人に囲まれ,騒がしさや乱暴とは無縁の子ども時代を過ごします。

フランス語教授であるニコラスの家庭は決して裕福ではなかったですが,愛情の深い教養ある両親の心遣いに護られたフレデリックの幼少時代は,フレデリックの稀に見る天才を育むに最もふさわしい祝福に満ちていました

素朴なうちにも常に愛情と徳と気品が満ちていたショパン一家の精神的に豊かな生活は,感じやすい少年の人格に大きな影響を及ぼしました。

フレデリックは聡明な両親のもと,天才児にありがちな気まぐれやわがままに陥ることなく,無邪気にすくすくと成長しました。
彼は生涯を通じて自尊心と自身に満ちていましたが,己惚れというものが決してありませんでした。

祖国を去って二十年,幼少のころの家庭の思い出はますます神格化され,病苦に満ちた亡命生活の,唯一の魂の故郷となりました

ワルシャワへ移住

1810年10月,ショパンが7ヶ月の時,ワルシャワ中等学校の校長だったサミュエル・リンデが,父ニコラスにフランス語を教えないかと持ちかけ,承諾した父とともに家族はワルシャワに移住しました。

中等学校はサスキ宮殿内にあり,ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになりました
ショパンもワルシャワ中等学校に1823年(13歳)から1826年(16歳)まで通っていました

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ショパンの生涯 神童ショパン

1811年:ショパン1歳

◆主な出来事◆

イザベラ(次女)生まれる。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ベネズエラ,独立宣言。
フランツ・リスト生まれる(10月22日)

◆日本の出来事◆

ゴローニン事件

1813年:ショパン3歳

◆主な出来事◆

エミリア(三女)生まれる。

◆社会的・芸術的な出来事◆

プロイセン,ナポレオンに宣戦。
フランクルト会議開かれる。
リヒャルト・ワーグナー生まれる(5月22日)。
ジュゼッペ・ヴェルディ生まれる(10月10日)。

天才の予感

フレデリックは幼少にしてその稀に見る音楽的才能を示しました。

4歳にまだならない頃に,自分からすすんでピアノの椅子によじのぼり,調和の良い和音を鳴らして遊ぶことを好んでいた,とのことです。

また,母が弾くピアノを聴いて感極まって涙を流したといいます。

1814年:ショパン4歳

◆主な出来事◆

姉ルドヴィカにピアノを習い始める。

姉ルドヴィカにピアノを習い始める

フレデリックは耳にした旋律をピアノで再現しようとしたり,新しいメロディーを作ろうとしたりしたといいます。

ある夜のこと,ベッドからそっとぬけだしてピアノの前に座り,母親がいつも弾いてきかす舞曲の旋律を,飽くことなく繰り返しているフレデリックを両親が発見します。

両親は、姉ルドヴィカにピアノの手ほどきをさせることにしました。

1815年:ショパン5歳

◆主な出来事◆

ウィーン会議,ポーランド第四次分割。
ワーテルローの戦い。

1816年:ショパン6歳

◆主な出来事◆

チェコ生まれの音楽家アダルベルト・ジヴニーのもとで,本格的にピアノを習い始める。

◆社会的・芸術的な出来事◆

ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』
シューベルト『交響曲第5番』

ジヴニーのもとで正式にピアノを習い始める

6歳のフレデリックは正式にピアノを習うこととなり,チェコ生まれのヴァイオリニストで,ピアノの先生もしていたジヴニーにピアノを教えてもらうこととなります

ジヴニーは当時60歳で,ピアノの腕前はさほどではなかったそうで,ショパンの天才は,あっという間にジヴニー師匠の腕前をこえてしまいます。

しかし後年,ショパンはジヴニーを高く評価していました

ショパンの最初の先生,ジヴニー

ジヴニーはその頃あまり演奏されなくなっていたJ.S.バッハに深く傾倒しており,少年フレデリックに対位法的作品を丹念に教えました

これが後年,全く独自の演奏法だと人々の讃仰の的となったショパンの演奏技巧の基本となるとともに,フレデリックの健全な音楽精神を養う温床となりました。

ジヴニーはバッハだけでなく,ハイドン,モーツァルトも音楽の基本だとして丁寧にフレデリックを指導しました

フレデリックは生涯,バッハとモーツァルトを敬愛し続けることになります

1817年:ショパン7歳

◆主な出来事◆

最初の作品ポロネーズト短調を完成させる。

◆作品◆

ポロネーズ ト短調 BI.1 KK.IIa-1
ポロネーズ 変ロ長調 BI.3  KK.IVa-1
変奏曲 調性不明
舞曲 調性不明
軍隊行進曲 調性不明 BI.2

◆社会的・芸術的な出来事◆

ヴァルトブルク宣言
バイロン『マンフレッド』
クレメンティ『グラドス・アド・パルナッスム』

引っ越し

サスキ宮殿がロシア皇族コンスタンチン・パヴロヴィチによって軍用地として徴収され,サスキ宮殿内にあった中等学校はカジミェシュ宮殿へ移転することになります

カジミェシュ宮殿には新たに設立されたワルシャワ大学も入居していました。

サスキ宮殿の中庭に暮らしていたショパン一家も,カジミェシュ宮殿に引っ越します
中等学校に隣接する建物の二階で広々と暮らすことになりました。

神童ショパン~最初の作曲~

フレデリックの神童としての名声はやがてワルシャワの貴族社会に知られ,第二のモーツァルトとして未来を嘱望されるようになりました

フレデリックの即興演奏はワルシャワ中で評判になり,コンスタンチン大公爵にもしばしば招かれて演奏しました。

少年ショパンは自身が作曲した作品をコンスタンチン大公へ贈り,大公は軍楽隊用に編曲させて サスキ広場での軍隊行進に使ったとのことです。

7歳の少年フレデリックはト短調と変ロ長調の2つのポロネーズを作曲しました

ト短調のポロネーズは,ポーランドで数少ない出版印刷業を営んでいたジブルスキの印刷工場で印刷され,出版されました

変ロ長調のポロネーズは父ニコラスが清書した原稿の状態で見つかっています。

1818年:ショパン8歳

◆主な出来事◆

最初の公開演奏会。曲目はギロヴェッツの『ピアノ協奏曲』

◆作品◆

ポロネーズ 調性不明

◆社会的・芸術的な出来事◆

アーヘン会議。
バイロン『ドン・ジュアン』

モーツァルトの再来

1818年,ワルシャワの雑誌に,7歳の神童がポロネーズを作曲したと,はじめてショパンの記事が載ります。

また この年に書かれた,劇作家ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチによる劇的な序文『私たちの談話』の中で,「小さなショパン」の人気について書かれています。

2月24日にはラジーヴィウ宮殿で初めての公開演奏を行い,モーツァルトの再来としてサロンの人気者となります

ギロヴェッツ

アダルベルト・マティアス・ギロヴェッツ(Adalbert Matthias Gyrowetz,1763年-1850年)はボヘミア出身の作曲家です。
モーツァルトやハイドンとも親交があり,ウィーン宮廷歌劇場の副楽長を務めました。

1818年に少年ショパンが自作の協奏曲を演奏した際には激励を送っています。

1820年:ショパン10歳

◆主な出来事◆

当時,最も偉大な歌手の一人だった,マダム・カタラーニの前で演奏し,記念に金時計を贈られる。

◆作品◆

マズルカ ニ長調 BI.4 KK.Anh.Ia-1 *ショパンの作品であるか疑わしい

◆社会的・芸術的な出来事◆

フランスで個人の自由が制限される。
ミズーリ協定。
ミロのヴィーナスが発見される。

アンジェリカ・カタラーニ(Angelica Catalani)は1780年生まれ。イタリアのソプラノ歌手で,1828年に引退するまでヨーロッパ各地で成功を収め続け,巨額の富を築き,世界一の歌姫と称されました。

1819年から1820年にかけて,ワルシャワやクラクフを旅行で訪れています。

1820年の1月にワルシャワ公会堂で4回の音楽会を開き,神童ショパンのうわさを聞きつけたカタラーニは,ショパンを呼び寄せて演奏させました。

10歳だった少年ショパン(正確には誕生日直前の9歳だった)の演奏を聴いたカタラーニは感動し,金時計を贈りました。

この金時計にはフランス語で「マダム・カタラーニ,10歳のフレデリック・ショパンに贈る」と彫り込まれていて,ショパンは生涯この時計を手放しませんでした。

現在,この時計はワルシャワのショパン協会が所蔵しています。

幼少期に偉大な歌手から金時計を賜ったことはショパンにとって大切な思い出となりました。

14歳の夏休みに友人の故郷であるシャファルニアを訪れたときには,歌の上手な女性に「カタラーニ」とあだ名をつけ,1824年8月29日付のシャファルニア新聞(ショパンから両親へ宛てた手紙。新聞紙のパロディの形式をとっていた)にそのことが書かれています。

1849年の6月にパリでコレラが大流行した際,カルクブレンナー,そしてマダム・カタラーニが相次いで亡くなります。
想い出深い人々の悲報は,病床に倒れていたショパンを さらに暗く落ち込ませることになります。

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ショパンの生涯 少年ショパン

1821年:ショパン11歳

◆主な出来事◆

ピアノのテクニックは向上し,既にジヴニーの指導するところではなくなる。
この頃より作曲に対する興味が強くなる。

◆作品◆

ポロネーズ 変イ長調 BI.5 KK.IVa-2

◆社会的・芸術的な出来事◆

ナポレオン死す。
ペルー独立。
ウェーバー『魔弾の射手』ベルリンで上演。
メンデルスゾーン,ゲーテを訪問。

◆日本の出来事◆

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』

本格的な作品の作曲

ポロネーズ変イ長調は聖名祝日の贈り物としてジヴニーに捧げられました。

このポロネーズはショパンの自筆譜が現存する最古の作品で,旋律・和声・ピアノ演奏技巧において斬新な創意工夫がなされており,天賦の才を垣間見ることができます

神童として もてはやされる

8歳で初めての公開演奏会が大成功に終わって以来,神童として度々人前で演奏を披露するようになります。

10歳のときには,当時 最も偉大な歌手の一人だった,マダム・カタラーニの前で演奏し,記念に金時計を贈られています

11歳のときには,セイム(ポーランドの国民会議)の開会のためにワルシャワに来ていたロシア皇帝アレクサンドル1世の御前で演奏を披露しています。

また この頃,ポーランド立憲王国の副王だったコンスタンチン・パヴロヴィチ大公(コンスタンチン1世)の息子の遊び相手としてベルヴェデール宮殿に時々招かれ,コンスタンチン大公のためにピアノを弾きました。

コンスタンチン大公には,ショパンが7歳のころ 軍隊行進曲を作曲して贈っています。

知的好奇心旺盛な少年ショパン

ショパンは神経質で気難しい印象がありますが,少年期のショパンは屈託のない陽気な性格でたくさんの友人に囲まれていました
頭がよく,いきいきとした悪戯っ子で友人仲間の中心人物でした。

知的好奇心旺盛なショパンは,様々なことに興味を持ち,どんどん吸収していきました。

鋭いウイットとユーモアの感性に能力を示し,スケッチ(マンガ)やものまねで周囲を楽しませました
特に,ものまねの才能は,後にバルザックやジョルジュ・サンド,リストらを感嘆させたほどでした。

1824年には父ニコラスの誕生日に,妹エミリアとの合作で,一幕物の韻文の喜劇を披露しましたが,主役をつとめたのはフレデリックでした
フレデリックはエミリアと共同運営していた「家庭演劇」以外にも,演劇に出演しており,フレデリックの演技力はプロの俳優も認めるものだったそうです。

当時両親はまだフレデリックを専門の音楽家にする決心はしておらず,音楽ばかりに熱中せず正規の学業にも励むように言っていました。

ショパンは音楽だけでなく学業も優秀で,ワルシャワ中等学校では賞状を2回もらうほどの好成績でした
特にポーランドの歴史を好んで学んだと伝えられています。

1822年:ショパン12歳

◆主な出来事◆

ワルシャワに移って以来初めて,ショパン生誕の地であるジェラゾヴァ・ヴォーラを訪れる。
初めてエルスナーのレッスンを受ける。

◆作品◆

ポロネーズ 嬰ト短調 BI.6 KK.IVa-3 *1822~1827年ごろの作曲

◆社会的・芸術的な出来事◆

ギリシャ,トルコより独立。
シューベルト『交響曲 未完成』

1823年:ショパン13歳

◆主な出来事◆

ショパン,高等中学校に入学。
本格的にエルスナーの指導を受け,「和声法」「対位法」等を学ぶ。
様々な音楽に触れ,特にオペラを好むようになる。

◆社会的・芸術的な出来事◆

アメリカでモンロー宣言。
シューベルト『美しい水車小屋の娘』

ショパンの名声がワルシャワに広がる

1823年,フレデリックは慈善音楽会に出演し,聴衆を魅了します

当時,1歳年上のフランツ・リストはすでに天才ピアニストとして有名でした。
ワルシャワの新聞雑誌は,この天才少年リストを引き合いにして「リストを凌駕する天才がワルシャワにいる!」「リストのいるウィーンをうらやむ必要はない!」とフレデリックを讃えました。

フレデリックはしだいに,手の中に湧き出した美しい楽想が空しく消えてしまうことを惜しみ,紙の上に書き残したい欲求が熾烈になっていきました。

彼は異常な興味と熱情をもって週に2回,エルスナーのもとに作曲を学びにいくようになります

ショパンの師匠

ジヴニーがショパン唯一のピアノ教師であったように,エルスナーはショパン唯一の作曲の師でした

エルスナーはワルシャワ音楽院入学後のショパンを「顕著な才能」「音楽の天才」と評しています。

リストの「エルスナーは学ぶに最も困難な,そして最も稀にしか知られていないものをショパンに教えた。即ち自己に対して厳格であり,忍耐と勤勉の力によってのみ得られる利益を尊重することである」といった言葉や,

エルスナーがフレデリックについて「彼は勝手にさせておきなさい。彼の天分は異常なものだから,彼は異常な道を歩んでいるのです。彼は伝統的な方法に厳格には従いませんが,それは自己独特の方法を持っているからです。彼は何人の中にも見出しえないほどの独創性をその作品に中に発揮するでしょう」と述べた言葉からは,

エルスナーの”天才の師”としての長所がうかがわれます。

エルスナーは通常ならばオーケストラのみの作曲の課題を出すところを,オーケストラとピアノのための作品を課題にしたりと,フレデリックの独自性を大切にしてその才能を伸ばしてくれました

エルスナーはショパンに将来ポーランド国民歌劇を創ってほしいと願っていましたが,その夢が叶うことはありませんでした。

ジヴニーとエルスナーの二人の師は天才ショパンにとって誠に得がたい良き師でした。

ショパンは生涯,この二人の師を尊敬し感謝を忘れませんでした

すばらしい父とすばらしい家庭環境

神童を授かった両親ですが,慈善活動への出演には積極的でしたが,決して息子の演奏で金儲けをしようとはしませんでした

モーツァルトやベートーヴェンのように,神童は猿回しの猿となって,親の金儲けの道具にされることが世の常でしたが,この点でも父ニコラス,そしてショパン家の,フレデリックへの深い愛情が伝わってきます。

ショパン家は決して裕福ではありませんでしたが,ショパン家には音楽家以外にも,国語学者,詩人,数学者など様々な文化人,知識人が遊びに来ていました

フレデリックは教養あふれる家庭で,教育熱心な父から,音楽以外にも様々な教育の機会を得ます。

そして父ニコラスは,13歳のフレデリックを音楽の専門学校ではなく,ワルシャワ高等中学校へ入学させます

1824年:ショパン14歳

◆主な出来事◆

夏休みを利用し,シャファルニアに向かう。ヴィスワ河に沿って北上し,田園に親しむ。同時に,ポーランドの民族音楽に触れ,強い関心を抱く。

◆作品◆

マズルカ 変イ長調 BI7 ※Op.7-4の第1草稿,1830-31年に加筆。
マズルカ イ短調 BI8 ※Op.17-4の第1草稿,1831-33年に加筆。
ワルツ ハ長調 KK.Vb-8 ※ルドヴィカの作品目録第4ページ第4番

◆社会的・芸術的な出来事◆

ギリシャ戦争起こる。
フランスのルイ18世死亡に伴い,シャルル10世が即位。
ベートーヴェン,ウィーンで『交響曲第9番』初演。

ポーランドの田舎への旅行

14歳のショパンに夏休みがやってきます

父ニコラスが経営する寄宿塾に住む少年たちの親はそのほとんどが裕福な大地主で,たくさんの招待状が届きます。

その中の一つ,シャファルニアで過ごすことになります

ワルシャワから北西に数十キロのところにあるクヤーヴィ地方の村で,フレデリックの同級生の実家の領地でした。

フレデリックから友人への手紙には「ぼくだって馬に乗れるんだ。でも上手いかどうかは聞かないでくれ。そのうち落馬するかもしれない」と書いています。

あの神経質で病弱なショパンも,少年時代には野原で馬に乗るような活動的な少年だったとは驚きです。

ショパンは20歳でポーランドを発つまでに,何度もポーランドの田園へ旅行しています

フレデリックの興味を誘ったのは,農民たちの民族音楽でした

ポーランドの田舎で農民たちがヴァイオリンを弾き,民謡を合唱し,代わる代わる歌い手になったり,踊り手になったりしながら,北欧の夏の長い黄昏を楽しんでいるのを興味を持って眺めていました。

フレデリックは村の居酒屋の音楽に聴き入り,祭りや婚礼にも参加して,歌詞や旋律を記録していきました

演奏に飛び入り参加することもあったそうです。

幼い頃から,ヨーロッパ社交界の中でも,特に教養が高いと定評のあったワルシャワ貴族社会で暮らしてきたフレデリックにとって,ポーランド土着の農民たちの持つ素朴な民族的な音楽に触れ,深く感銘を受けました。

きわめて単純で,それだけに純粋に保たれているポーランドの民族音楽は,新鮮な魅力を持って少年フレデリックを魅了しました。

哀愁に満ちた旋律,マズルカ,ポロネーズ,クラコヴィアクなど郷土舞踏のリズムは,後年天才ショパンによって,偉大な高い精神性を与えられ,不滅の芸術へと昇華することになります

ロシアの圧政下にあったポーランドの農民は,あたかも奴隷のような悲惨な生活を送っていました。

フレデリックの感じやすい心が,彼らの貧しい生活の有様を見て心を痛めたのは当然のことでした。

あたかも世界の文化の外に取り残されたような農民たちは,わずかに音楽とお酒によってその希望なき明け暮れの苦しさを紛らしているような生活の中,純真さと楽天的な性格を保ち続け,しかも愛国心に溢れていたことは,少年フレデリックの人生観に大きな影響を与えました

シャファルニア新聞

ショパンはポーランドの田園を楽しみながら,その土地の方言で書かれた『シャファルニア新聞』を発行してワルシャワの両親に近況を面白おかしく報告していました

この新聞はクリエル・ヴァウシャフスキ紙というワルシャワの新聞のパロディとして書体や体裁を真似て作られており,「ベッター氏がピアノ演奏を披露。思い入れたっぷりのその演奏は,音符が巨大なお腹から出てくるような迫力があった」など,大変ユーモラスで楽しい内容でした。

この新聞の中にはビジョン氏(ショパンの綴をもじったフレデリックの匿名。ChopinをPichonとひっくり返した。)」がカルクブレンナーのピアノ協奏曲を演奏して,拍手喝采を受けた記事が残っています

また,現地で歌の上手な女性には,幼少の頃金時計を賜った偉大なソプラノ歌手「カタラーニ」のあだ名を付け,1824年8月29日付けで記事を書いています。

農民たちの民族音楽に興味を持ったフレデリックは,祭りや婚礼などたくさんの行事に参加し,大量の民話や民族音楽の歌詞,旋律などをこの「シャファルニア新聞」に記録していきました

1825年:ショパン15歳

◆主な出来事◆

5月と6月に新しい楽器,エアロパンタレオンを演奏。これを聴いたロシア皇帝アレクサンドル1世が,ショパンにダイヤの指輪を与える。
8月に再び旅行に出てシャファルニアをはじめ,グダニスクまで足を伸ばす。
この年作曲したロンドに初めて作品番号をつけ,Op.1として出版する。

◆作品◆

ポロネーズ ニ短調 Op.71-1 *1825~1827年ごろの作曲
ロンド ハ短調 Op.1
マズルカ ハ長調
ワルツ 調性不明

◆社会的・芸術的な出来事◆

ロシア皇帝アレクサンドル1世の死去に伴い,若いニコラス1世が即位。
プーシキン『ポリス・ゴドノフ』

◆日本の出来事◆

異国船打払令(外国船打払令)

音楽家を目指すことを決意

15歳の少年ショパンは,ショパン一家の友人であったヤヴォーレクが主催する慈善演奏会に出演し,モシェレスの協奏曲を弾いて「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛され大成功を収めました

また,ちょうどワルシャワに滞在中だったロシア皇帝アレクサンドル1世がフレデリックの評判を耳にして,彼が弾くエアロパンタレオン(オルガンとピアノの中間のような新楽器)に興味を持ち,フレデリックを招いて演奏を楽しまれました。
そして褒美としてダイヤの指輪を下賜されました

さらには,作品「1」のロンドが,印刷,出版され,自分の作品が印刷され出版される甘美な悦びに心が満たされました

これらの出来事は,フレデリックにとっても,両親にとっても重大な意義をもっていました。

すなわち,フレデリックが将来音楽家になることを,ショパン家の誰一人疑わなくなりました

教会のミサのオルガニストを務める

中等学校の最終学年のときには,教会のミサのオルガニストを務めるようになっていました。

しかし,フレデリックは自分の世界に入り込んだり,延々と即興演奏を続けたりしたため,やめさせられたそうです。

ショパンの生涯 ブックマーク

ショパンの年表 – 略歴詳細な年表
ショパンの生涯 – 幼少期青年期パリ時代サンドとの生活晩年死後
ショパンの手紙 – 8~15才16-17才18-19才20才20-21才 – 以降 鋭意作成中
ショパンの交友関係 – ショパンの弟子たちカルル・フィルチ – 他 鋭意作成中
他 – ショパンのピアノの音域 ショパンの住居と旅の全記録

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