ショパンの練習曲Op.10-8の解説記事です。
ショパンのエチュードの中でも人気曲の一つです。
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-8単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
ショパン 練習曲(エチュード) Op.10-8 概要
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10,Op.25【概要と目次】
- ショパン エチュード(練習曲集)Op.10 Op.25 概要の章に練習曲集全体の概要をまとめています。
- 海外での呼び名の章に練習曲集全曲の海外での呼び名をまとめています。
- 各曲の練習課題の章に練習曲集全曲の練習課題をまとめています。
- ショパンの指づかいにショパンの運指法をまとめています。
- ショパン作品一覧ではショパンの全作品を一覧表にまとめています。
Op.10-8,9,10,11の4曲は1829年,ショパン19才のときに書かれた作品です。
エチュードの中で最初に書かれた4曲の中の1つになります。
英語圏では ‘Sunshine'(陽光) と呼ばれています。
エチュードの中でも比較的演奏される機会の多き作品の一つです。
単独で演奏されることも多いです。
ショパン指定のテンポを守って演奏するには高い技術が必要ですが,
慣習的に遅いテンポで演奏されることも多い作品です。
遅いテンポで演奏しても十分に魅力的な作品です。
ゆっくりと演奏すればアマチュアのピアニストでも十分演奏が可能ですので,
一般のピアノ愛好家でも,この曲を楽しんで演奏している方がたくさんおられると思います。
当サイト管理人も,参考演奏資料として録音した演奏ではショパン指定のテンポを充実に守って演奏しましたが,普段はもっとゆっくり弾いています。
いかにも練習曲らしい作品で,一見するとチェルニーなど教則本に収録されている作品と区別がつきません。
しかし鍵盤を高速に駆け回る高音部のパッセージ,心浮き立つような低音部の旋律,天才的な和声推移など,高い音楽性と芸術性を兼ね備えています。
Op.10-8の練習課題
- ショパンがエチュードの作曲で使用したピアノについての詳細な解説は,ショパン エチュード【ショパンが作曲に使用したピアノ】をご覧ください。
- ショパンの使っていたピアノの音域では,ショパンがその生涯で使っていたピアノの音域について解説しています。
Op.10-4と見かけはそっくり
Op.10-4とOp.10-8は一見よく似ています。
テンポはで同じですし,2分の2拍子なのも同じ。16分音符4個のかたまりが主体のパッセージでつくられていることろも同じです。
2曲とも,ほとんどの出版譜では4分の4拍子になっていますが,ショパンの自筆譜では2分の2拍子になっています。
当サイト管理人は,2分の2拍子の方がこの2曲にはふさわしいと考えています。
中間部などはそっくりすぎて,読譜に慣れていない方だと区別がつかないぐらいではないでしょうか。
しかし,演奏に必要な技術はまるで異なっています。
Op.10-8とOp.10-4の訓練課題はまるで違う
ショパンがポーランド時代に使っていたピアノと,パリに出て以降使っていたピアノとでは,内部の発音機構が違っており,別の楽器と言ってよいほどの違いがあります。
ショパンがポーランドを発ったのは1830年の11月2日,20才のときでした。
その後1831年の10月ごろにパリに到着するまでは,旅中にありましたので,集中して作曲するような環境ではなかったと考えられます。
「ショパンの作品」といっても,1830年以前に作曲された作品と,1831年以降に作曲された作品では,まるで違う楽器によって作られています。
「ショパンの作品」といっても,作曲年代によって演奏表現は変わります。
特に,1830年・1831年を境目にして,奏法そのものが大きく変わります。
ショパンの作品は「重力奏法」が基本ですが,ポーランド時代に作曲されたOp.10-8は「ハイフィンガー奏法」の訓練を想定した練習曲です。
古いウィーン式アクションのピアノは,現代ピアノの3分の1程度の軽い力で音が鳴りました。
そして音量の変化をつけるのが難しい楽器でした。逆に言えば,多少打鍵にムラがあったとしても均一な音が鳴ったということです。
イギリス式アクションのピアノで欠かれたOp.10-4は音の強弱による表現(デュナーミク)が重要でしたが,Op.10-8ではデュナーミクは重要ではありません。
指先だけで速いパッセージを素早く演奏する技術を習得することが,Op.10-8の練習課題です。
作品番号,調性,作曲年
ショパンが練習曲集を作曲したときの時代背景は,以下の解説記事をご覧ください。
*ショパンが練習曲集を作曲したのは主にパリ時代になります。
故郷からの旅立ち
Op.10-8,Op.10-9,Op.10-10,Op.10-11の4曲は,1829年の10月~11月に作曲されたと考えられています。
前年1828年の9月には初めての国外旅行を経験しています。このときはベルリンに2週間滞在しました。
1829年,19才の春には,コンスタンツィア・グラドコフスカへのつつましい初恋を経験しています。
奥ゆかしいショパンは,思いを伝えることもなく,ひそかに思い焦がれる日々を送りますが,その思いは作品の中に昇華されています。
その代表がピアノ協奏曲Op.21の第二楽章 Larghetto ,そしてピアノ協奏曲Op.11の第二楽章 Romanze, Larghetto です。
1829年の8月には,芸術の都,憧れのウィーンへ演奏旅行に出ています。
ウィーンでは2回の演奏会を行い,大好評で華やかなデビューを飾りました。
ウィーンの演奏会での成功が自信となり,ショパンは音楽家としての成功を確信しました。
3月にはワルシャワで2回の演奏会を開き,絶賛を浴びます。曲目はピアノ協奏曲第二番ヘ短調Op.21でした。
8月にはジェラゾヴァ・ヴォーラで過ごしています。毎年,夏にはポーランドの田園で過ごし,ポーランドの民族音楽・民族舞踊,ポーランド農民の生活に親しんで来ましたが,それも,これが最後となりました。
10月にはワルシャワで告別演奏会を開きます。曲目はピアノ協奏曲第一番ホ短調Op.11で,コンスタンツィアも賛助出演しています。
そして,11月2日にはワルシャワを発ちウィーンへ向かいます。このときコンスタンツィアに会いにいき,手帳に詩を書いてもらっていますが,最後まで思いを告げることなく旅立っています。
Op.10-8が作曲されたのはちょうどこの時期になります。
音楽の都での成功の確信と意気込みが作品にあらわれています。
ヘ長調
Op.10-8はヘ長調で書かれています。
練習曲集Op.10は奇数番目の曲と偶数番目の曲が平行調で書かれていますが,
Op.10-7ハ長調とOp.10-8ヘ長調のみ平行調になっていません。
平行調にはなっていませんが,ヘ長調はハ長調の下属調なので,強いつながりは感じられます。
また,Op.10-9のヘ短調はOp.10-8ヘ長調の同主調なので,ここもつながりが感じられます。
練習曲集Op.10は調性的に有機的に結び付けられた曲集にしようとした形跡があちこちから感じられます。
バッハを敬愛していたショパンは「平均律クラヴィーア曲集のような」作品を作りたいと思っていたに違いありません。
この試みは,前奏曲集Op.28で見事に成し遂げられることになります。
ショパンはヘ長調の作品を多く書いていますが,演奏機会の少ない作品が多いです。
練習曲Op.10-8はヘ長調の作品の中では屈指の人気曲といって良いでしょう。
Op.10とOp.25,全24曲の調性と作曲年の一覧表
ウィーン式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は青太字に,
イギリス式アクションのピアノで作曲されたであろう作品は緑太字で表示しています。
表のヘッダー「作曲年」または「BI」をクリックして並び替えてご覧いただくと,
ショパンがエチュードを作曲した順番に並び替えることができます!
No. | Op. | - | BI | 調性 | 作曲年 | 19才 | 20才 | 21才 | 22才 | 24才 | 25才 | 26才 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 10 | 1 | 59 | ハ長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
2 | 10 | 2 | 59 | イ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
3 | 10 | 3 | 74 | ホ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
4 | 10 | 4 | 75 | 嬰ハ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
5 | 10 | 5 | 57 | 変ト長調 | 1830年 | 20才 | ||||||
6 | 10 | 6 | 57 | 変ホ短調 | 1830年 | 20才 | ||||||
7 | 10 | 7 | 68 | ハ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
8 | 10 | 8 | 42 | ヘ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
9 | 10 | 9 | 42 | ヘ短調 | 1829年 | 19才 | ||||||
10 | 10 | 10 | 42 | 変イ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
11 | 10 | 11 | 42 | 変ホ長調 | 1829年 | 19才 | ||||||
12 | 10 | 12 | 67 | ハ短調 | 1831年 | 21才 | ||||||
13 | 25 | 1 | 104 | 変イ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
14 | 25 | 2 | 97 | ヘ短調 | 1835年 | 25才 | ||||||
15 | 25 | 3 | 99 | ヘ長調 | 1835年 | 25才 | ||||||
16 | 25 | 4 | 78 | イ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
17 | 25 | 5 | 78 | ホ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
18 | 25 | 6 | 78 | 嬰ト短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
19 | 25 | 7 | 98 | 嬰ハ短調 | 1836年 | 26才 | ||||||
20 | 25 | 8 | 78 | 変ニ長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
21 | 25 | 9 | 78 | 変ト長調 | 1832年 | 22才 | ||||||
22 | 25 | 10 | 78 | ロ短調 | 1832年 | 22才 | ||||||
23 | 25 | 11 | 83 | イ短調 | 1834年 | 24才 | ||||||
24 | 25 | 12 | 99 | ハ短調 | 1835年 | 25才 |
メトロノームによるテンポ指定
ショパン エチュード【ショパンが指定したテンポ】の解説記事では,ショパンが指定したテンポについて詳細をまとめています。
ショパンのエチュードの中でも最も速く演奏される曲の一つ
最終的な決定稿であるフランス初版にはと書かれています。
ということは,1分間あたりに16分音符を704回演奏することになります。
1秒間あたりだと約11.7回。
1小節がたったの約1.36秒で演奏されることになります。
1分間あたりの打鍵回数が700回前後になると,人間の運動能力の限界となります。
ショパンの練習曲を,1分間あたりの打鍵回数の順に並べると下図のようになります。
Op.25-11『木枯らし』のエチュードはショパンの指定テンポ通り演奏するならばダントツの速さになるのですが,このテンポで演奏するのは人間には不可能です。
Op.25-11は世界的に有名な技術のあるピアニストでも前後で演奏しています。
このときの1分間あたりの打鍵回数は696回となり,演奏される速さはOp.10-5と並んで練習曲の中で2位になります。
実質的に,1分間に704回打鍵される,Op.10-1,Op.10-4,Op.10-8の3曲が,ショパンのエチュードの中で最も速く演奏される曲になります。
この3曲は伝統的にショパンの指定テンポ通り演奏されることが多いですが,Op.10-8は遅めのテンポで演奏されることもよくあります。
Op.10-1は訓練音型が音域広く広がるため弾きにくく,しかもショパン指定のテンポ通り演奏することが慣例となっているため,ショパンの練習曲集の中でも屈指の難曲となっています。
Op.10-4はOp.10-1と比べれば格段に弾きやすい音型でできていますが,やはりショパン指定のテンポを守って演奏する必要があるため,難曲とされることが多いです。
Op.10-8もOp.10-1と比べれば格段に弾きやすい音型でできていて,ショパン指定のテンポより遅く弾くことも一般に認められているため,ショパンの練習曲集の中では比較的弾きやすい曲だと解説されることが多いです。
しかし,ショパン指定のテンポを守って演奏するならば,Op.10-4に匹敵する難曲といえるでしょう。
ただし,Op.10-4とOp.10-8では演奏に求められる技術が違うため,単純にテンポのみで難易度を比較することはできません。
重力奏法によるデュナーミク(音の強弱による演奏表現)が重要ではなく指先だけで演奏可能なOp.10-8は,デュナーミクが重要なOp.10-4よりも演奏しやすい作品と言えます。
Op.10-4は3つの主題(音型)の組み合わせでできており,それぞれの音型を同じ運指で繰り返せば比較的速く弾きやすいです。
Op.10-8の中間部やコーダはいろいろな音型が出てくるため,指遣いや指のポジションを頻繁に変化させなければなりません。
この点ではOp.10-4の方が弾きやすいといえます。
いずれにせよ,練習曲集の中でも最も速いテンポで演奏されるOp.10-8はいかにも練習曲らしい作品で,「ショパンのエチュード」のイメージにピッタリ合う作品だと思います。
ショパンの自筆譜ではもっとテンポが速かった
ショパン自筆の,フランス初版の清書原稿をワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
この自筆譜にはと書かれています。
自筆の清書原稿は1832年9月から1833年3月の間に書かれたものだと考えられています。
フランス初版の出版は1833年6月ですから,出版直前の3ヶ月ほどのあいだにテンポを大きく修正したことになります。
とですが,聞く人によっては大して差がないように聞こえるかもしれませんが,
メトロノームにあわせてOp.10-8を弾いてみると,その差は歴然です。
はOp.10-8を演奏するにはほぼ限界のテンポです。
で弾くのは不可能です。
ピアノを弾ける方は,一度でOp.10-8を弾こうとしてみてください。
いかに無茶なテンポ指定なのか体感いただけると思います。
そしてというのがギリギリ演奏可能な上限のテンポであることも分かります。
ショパンの作品が机上の産物ではなく,実際に演奏するための作品として,ショパン自身がピアノに触れながら作曲されたものであることを実感することができます。
ショパンが記譜した発想記号・速度記号
ショパン エチュード【ショパンが記譜した演奏指示】の解説記事では,ショパンが練習曲集に記譜した演奏指示をまとめています。
ショパンの他の作品と比べて,練習曲集Op.10には多くの演奏指示が書き込まれています。
Op.10-8にも7個の演奏指示が書かれていますが,小節数の多い作品なので,練習曲集の中では比較的演奏指示の少ない作品です。
- 冒頭 Allegro;快速に。活発に。
冒頭 veloce;敏速に。速く。 - 38小節目 (左手) marcato;1音1音をはっきり奏する。
- 56小節目 poco rall. = poco rallentando;少し,だんだん遅くする。
- 81小節目 sempre legatissimo ;常に,とても滑らかに。
- 85小節目 sempre legatissimo ;常に,とても滑らかに。
- 91小節目 con forza;力を込めて。
冒頭には「veloce;敏速に。速く。」というあまり見かけない演奏指示が書かれています。
英語のVelocityと同じ語源なので「物理量としての速度を速く」という意味になります。
颯爽と駆け抜けていくようなOp.10-8の演奏指示としてはピッタリの言葉ですね。
38小節目には「marcato;1音1音をはっきり奏する。」の演奏指示が書かれていますが,
ショパンの自筆譜を見ると,左手への演奏指示であることがはっきりと分かります。
ほとんどの出版譜が,ミクリ版やコルトー版のように大譜表の真ん中に書かれていることが多いですので,指示を勘違いしないように気をつけましょう。
ここでもエキエル版は左手への指示であることがハッキリわかるようにmarcatoが印刷されています。
さすがです。
強弱記号は15個も書かれてはいますが,基本的にはずっとで,コーダはの指示。
強弱の差異による演奏表現(デュナーミク)はほぼ使われていません。
とが2回ずつ使われていますが,
Op.10-8のようにウィーン式アクションのピアノで書かれた作品では,やはそこまで特別な指示ではありません。
ダイナミックな音量の変化が可能なイギリス式アクションのピアノ(プレイエルやエラール)と出会ってからは,ショパンにとってやは特別な演奏指示になっていきます。
ゴドフスキー『ショパンのエチュードによる53の練習曲』
ゴドフスキーはOp.10-8の編曲を2曲書いています。
1st Study in F major
原曲の左右の役割を入れかえたバージョンです。
『ショパンのエチュードによる53の練習曲』の中でも名曲の一つです。
原曲の光に満ちた楽しげな雰囲気がより膨らんで,喜びの気持ちがあふればかりの幸せな編曲です。
ただし,やっぱりというか,当然とういうか,演奏はめちゃくちゃ難しいです。
主題をもう一度繰り返すところでは,アルペッジョが両手アルペッジョになります。
キラキラと輝いてまぶしいほどです。
このあたりからアマチュアピアニストには演奏が不可能な難易度になります。
コーダからは,高音声部に対旋律が追加され,より一層美しさが増しています。
原曲の良さをより一層際立てた素晴らしい編曲です。
2nd Study in G♭ major (left hand only)
ゴドフスキーといえば「For the left hand alone」です。
変ト長調に転調され,叙情的に編曲されています。
若くハツラツとしていた楽しい思い出を懐かしんでいるような美しい編曲です。
左手のみで演奏するのですが,アルペッジョにより音が広い音域に広がるため,左手だけとは思えないほど豊かな響きがします。
アルペッジョは偉大な発明だとあらためて感じます。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 原典資料
ショパン エチュード【原典資料】の解説記事では,ショパンの練習曲集全体の,初版や自筆譜,写譜などの原典資料について詳細をまとめています。
ショパンの自筆譜
ショパン自筆の,フランス初版の清書原稿をワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
「自筆譜を詳しく見てみよう」の章で詳しくご紹介します。
信頼できる原典資料~フランス初版~
パリ,M.Schlesinger(M.シュレサンジュ),1833年6月出版。
めずらしく,ショパンは校正にしっかりと関わっています。
この頃のショパンは,パリなどヨーロッパの主要都市でデビューしたばかりの新人作曲家でした。
後年のように友人に任せっきりにするのではなく,ショパン自身が校正にちゃんと関わっていました。
練習曲集Op.10のフランス初版は,信頼できる一次資料です。
他の初版
ドイツ初版
ライプツィヒ,F.Kistner(F.キストナー),1833年8月出版。
フランス初版の校正刷り(ゲラ刷り)をもとに作られています。
いつも勝手な判断で譜面を変えてしまい,しかも「原典版」として後世の出版譜に多大な影響を与えているドイツ初版ですが,Op.10-8でもいくつか勝手な変更を加えています。
最後の和音
特に重大なのは,最後の和音です。
ドイツ初版では中音域のF音を恣意的に付け加えていて,この間違いが後世の多くの出版譜に受け継がれてしまっています。
勝手な判断で臨時記号をつけている
43小節目と51小節目では勝手な判断で♮をつけてしまっています。
幸いこの間違いは後世の出版譜には受け継がれていません。
イギリス初版
ロンドン,Wessel & C°(C.ウェッセル),1833年8月出版。
フランス初版をもとに作られています。
原典資料としてはあまり価値がありません。
ショパンの生徒がレッスンで使用していたフランス初版
ショパンの生徒がレッスンで使用していたフランス初版が3種類現存しています。
- カミーユ・デュボワが使用していたフランス初版(フランス版の第三版)
パリのフランス国立図書館所蔵 - ジェーン・スターリングが使用していたフランス初版(フランス版の第二版)
パリのフランス国立図書館所蔵 - ショパンの姉,ルドヴィカが使用していたフランス初版(フランス版の第三版)
ワルシャワのショパン協会所蔵
カミーユ・デュボワのレッスン譜とジェーンスターリングのレッスン譜には運指や誤植の訂正の書き込みが複数書き遺されています。
ルドヴィカのレッスン譜には書き込みがほとんどありません。
詳細は「自筆譜を詳しく見てみよう!」の項目でご紹介します。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 構成
分かりやすい三部形式
ショパンの練習曲集Op.10,Op.25の24曲はすべて三部形式で書かれています。
崇高な芸術作品でありながら決して難解ではなく,分かりやすい構成で作られているところは,
ショパンの作品の魅力の一つです。
Op.10-8も主部A1–A2–中間部–再現部A3–コーダという分かりやすい構造です。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 出版譜によく見られる間違い
Op.10-8はショパン指定のテンポがかなり速く,音の数も多いので,多少の違いはほとんど聴き取れません。
臨時記号やタイのつけ方が出版譜によって様々な違いがありますが,大きな問題にはならないでしょう。
気をつけなければならないのは最後の和音です。
最後の和音
最後の和音ですが,いつものようにドイツ初版が勝手に音を付け加えてしまっていて,
その間違いが後世の多くの出版譜に受け継がれてしまっています。
この中音域のF音を鳴らすとかなり目立ちます。
ショパンの意図に忠実な音を響かせるのならば,このF音は鳴らしてはいけません。
一般に普及している楽譜や録音のほとんどに,この中音域のF音がつけられてしまっているため,
現代人は間違えた和音のほうに聴き馴染んでしまっています。
エキエル版の普及により,正しい音による演奏が増えていけば良いなと思います。
あまり気にしなくても良い間違い
2分の2拍子の方が作品のスタイルにふさわしいと思います。
ほとんどの出版譜で ;4分の4拍子 になっています。
フランス初版も ;4分の4拍子 になっていますから,間違いではありません。
しかし,ショパン自筆の清書原稿では ;2分の2拍子 で書かれています。
当サイト管理人は, ;2分の2拍子 のほうがOp.10-8のスタイルにあっていると思います。
ただ4分の4拍子と2分の2拍子を明確に弾き分けることはできないでしょうから,
大きな問題ではありません。
26小節目,左手はC音のみ全音符
26小節目の左手和音は,最低音のCの音のみ全音符となっているのが正解です。
この小節は,ショパンはペダル指示を書いていないのですが,ペダルを踏んで弾く方が多いと思います。
ペダルを踏んでいたら,大きな問題ではありません。
43小節目,F音にはシャープがついているのが正解
43小節目はF音に♯がついているのが正解です。
フランス初版は1拍目の左手F音に♯をつけ忘れていて,2拍目のF音に♯がついているため,
勘違いを起こしやすい譜面になっています。
ショパンはジェーン・スターリングのレッスン譜に♯を書き込んで,
この間違いを訂正しています。
ドイツ初版では1拍目のF音にわざわざ♮を書き込んで,この間違いをさらに強調する形になっています。
現在出版されているほとんどの出版譜では,間違いが訂正されて正しい譜面になっています。
かなりの高速で16分音符を弾いていて,半音階的に音が混じり合うため,F♯で弾いてもF♮で弾いても大きな問題ではないでしょう。
遅いテンポで弾いているときには,F♮を弾いてしまうとかなり目立つので気をつけましょう。
47小節目,左手オクターブの音価
47小節目,左手のA音のオクターブの上の音ですが,ほとんどの出版譜では2分音符になっていますが,自筆譜では付点2分音符になっています。
付点2分音符で音を持続させるのが,よりショパンの意図に忠実だと言えますが,
ここはペダルを踏んでいますので,どちらでも問題ないでしょう。
49小節目も同様です。
48,50小節目の低音部
48,50小節目の低音部の音価が楽譜によって違いがあります。
ショパン自身はペダル指示を書いていませんが,ほとんどの方はペダルを使用すると思いますので,音価の違いは大きな問題にはなりません。
51小節目,1拍目のC音には♯
51小節目1拍目の右手ですが,C音には♯がつきます。
ほとんどの出版譜は正しくなっていますので大丈夫だと思いますが,
万が一ドイツ初版のようになっていると,かなり響きが変わってしまいますので気をつけましょう。
76小節目,4拍目のE音は♮
76小節目の4拍目のE音ですが,ショパンは♮も♭もつけていません。
臨時記号が何もついていなければ,♮が正解ということになります。
しかしドイツ版の第2版で♭をつけてしまったため,多くの出版譜が♭をつけてしまっています。
ただ,ここは和声的にショパンが♭をつけ忘れていただけ,という可能性もありますし,
ショパン指定のテンポで弾いていると,その違いはほとんど聴き取れません。
E♮でもE♭でも大きな問題にはならないでしょう。
76~78小節目のタイ
楽譜によってタイのつけ方が様々ですが,
ショパン指定のテンポで弾いている場合はあまり大きな問題にはならないでしょう。
80~81小節のタイ
ここも左手のタイのつけかたが,出版譜によって色々と違っていますが,
ショパン指定のテンポで演奏している場合は,聴き取れるほどの違いにはならないでしょう。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 自筆譜を詳しく見てみよう!
ショパン自筆の清書原稿
ショパン自筆の,フランス初版の清書原稿をワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
全景
小節数の多い作品のため,自筆譜も6ページにわたっています。
いつものように丁寧に記譜されていて,アクセントやスラーなどのアーティキュレーションも丁寧に書き込まれています。
修正跡もほとんどありません。
このまま印刷すればそのまま楽譜として使えそうなほどです。
ペダル指示は3箇所しか記譜されていません。
運指は随分書かれていますが,完成版であるフランス初版と比べるとまだ少ないです。
冒頭
削り取って丁寧に書き直した跡
インクで記譜されているため,消しゴムで消して修正することはできません。
ショパンは塗りつぶして書き直すことが多いのですが,Op.10-8ではインクを削り取って書き直している跡が多数遺されています。
清書原稿作成での丁寧な仕事ぶりが分かります。
その他修正箇所
塗りつぶして訂正した跡もいくつか遺されています。
運指
ショパン自身が多くの運指を書き遺しています。
上の譜例ではその一部をご紹介しています。
ショパンの運指の研究にもエキエル版が便利!
ショパンの指づかい(運指法)を研究するときにもエキエル版が重宝します。
エキエル版では
- ショパン自身が初版譜に記譜した指づかいは太字
- 編集者(エキエル氏)が追加提案した指づかいは斜体
- ショパンが生徒のレッスン譜に書き込んだ指づかいは(太字)
というふうに明示されていて,めちゃくちゃ便利です!
エキエル版ですが,2021年5月より日本語版が順次発売されています!
2022年には,練習曲集の日本語版が発売になるようです!
生徒の楽譜へのショパン自身の書き込み
カミーユ・デュボワのレッスン譜とジェーンスターリングのレッスン譜には運指や誤植の訂正の書き込みが複数書き遺されています。
ルドヴィカのレッスン譜には書き込みがほとんどありません。
カミーユ・デュボワの使っていたフランス版の第三版
カミーユ・デュボワが使用していたフランス初版(フランス版の第三版)をパリのフランス国立図書館が所蔵しています。
ショパン直筆の運指の書き込み
ショパン直筆の運指が書き遺されています。
エキエル版では,ショパンが生徒の楽譜に書き込んだ運指も( )付きで印刷されているため,作品研究には欠かせない存在となっています。
ショパンによる訂正の書き込み
フランス初版の印刷ミスで抜けていた♯を,ショパン自身が書き込んで訂正しています。
ジェーン・スターリングの使っていたフランス版の第二版
ジェーン・スターリングが使用していたフランス初版(フランス版の第二版)をパリのフランス国立図書館が所蔵しています。
ショパン直筆の運指の書き込み
ショパン直筆の運指が書き遺されています。
83小節目では,カミーユ・デュボワの楽譜よりも入念に「1」を「2」に書き直しています。
ショパンによる訂正の書き込み
フランス初版の印刷ミスで抜けている臨時記号を,ショパン自身が書き込んで修正しています。
フォルテシモ?かな?
22小節目の低音部には,と思われる書き込みが遺されています。
ショパンの姉,ルドヴィカが使っていたフランス版の第三版
ショパンの姉,ルドヴィカが使用していたフランス初版(フランス版の第三版)をワルシャワのショパン協会が所蔵しています。
ルドヴィカが使用していたフランス初版にはショパンの書き込みが見られません。
難易度の高い作品ですので,ルドヴィカはレッスンを受けていないのかもしれません。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 演奏の注意点
ウィーン式アクションのピアノで作曲された作品
デュナーミク不要
ショパンがポーランド時代に書いた作品は,ウィーン式アクションのピアノで作曲されています。
現代ピアノとは内部の発音機構が大きく異なっていて,別の楽器と言ってよいほどの違いがあります。
ウィーン式アクションのピアノは,現代ピアノと比べると3分の1程の力で軽く明るい音の鳴る楽器でした。
速いパッセージや装飾音も,パソコンのキーボードを打つように指先で簡単に演奏することができました。
一方で,低音も高音と同様に軽く,深みのある音は出ませんでした。
また,小さな力で簡単に音が鳴るため,強弱の変化をつけること,特に柔らかく小さな音を出すことが難しい楽器でした。
そのため,ポーランド時代に書かれた作品では,デュナーミク(音量の差による音楽表現)はあまり重要ではありません。
逆にとをダイナミックに変化をつけて表現すると,あるべきスタイルから逸脱してしまいます。
特にOp.10-8は低音部の和音が厚いため,気をつけないと現代ピアノでは大音量が出てしまいます。
低音部をドカン!ドカン!と打ち鳴らすのではなく,軽やかに跳ねるように楽しく旋律を奏でるようにすると良いでしょう。
ハイフィンガー奏法が適する
終始16分音符の速いパッセージを弾き続けることになります。
Op.10-8の速いパッセージは白鍵をたくさん使用するので,指を丸め立てて,いわゆる”ハイフィンガー奏法”で演奏すると均質で粒のそろった音を出しやすくなりすし,
ウィーン式アクションの時代らしい,軽快で明るい音色を出しやすくなります。
また,指をのばして指の腹で演奏する重力奏法ではというテンポで演奏するのが技術的に難しくなります。
ペダルは左手と協働させる
Op.10-8は特に右手の速いパッセージが弾きにくいため,無意識に ”右手をなめらかに演奏すること” を目的にペダルを使用してしまいがちです。
しかしOp.10-8では,ダンパーペダルは左手のニュアンスを表現するために使われるべきです。
具体的には,指越えや指くぐりをするときに不用意にハーフペダルで音をつなげようとすると,そのペダル使用が左手の表現に影響を与えてしまいます。
右手の速いパッセージは,なるべくペダルに頼らずに手指のコントロールでなめらかに演奏できるように訓練を積む必要がありますし,それがOp.10-8の練習課題といえます。
なお,ショパンがペダル指示を書いていない箇所も音を響かせるためにハーフペダルを使用することになると思います。
指越えや指くぐりのときにペダルを踏み込み過ぎて音色が変化してしまっていないか,よく耳で確認しながらペダル操作をしなければなりません。
legato か leggiero か
冒頭には legato や leggiero など,打鍵のタッチや音色に関する演奏指示は一切書かれていません。
しかし曲の終わり頃に sempre legatissimo と2回書き込まれています。
右手の速いパッセージは,冒頭からある程度 legato に演奏されるべきなのだろうと思います。
legato に演奏するためには,本来ならば一つの音を打鍵した後,少なくとも次の音を打鍵するまでは鍵盤を押さえたままにするのが基本です。
しかしOp.10-8のテンポ指定で演奏するならば,上に書いたような基本的な legato 奏法は不可能です。
指定テンポで演奏していれば,ダンパーが響きを消す前に次の音が発音されるので,打鍵の技術に頼らなくても legato に演奏しやすいです。
Op.10-8ではペダルも使用しますし,ペダル指示がない箇所もハーフペダルを使用すると思いますので,この点でも,legato に演奏しやすいでしょう。
ショパンの装飾音の奏法
冒頭トリル
冒頭は印象的なトリルからはじまります。
4分音符の音価しかありませんから,音を長く伸ばし過ぎないように注意しましょう。
また,ショパンの “長いトリル” は補助音(上の音)から弾きはじめるのが正しいとされることがよくありますが,当サイト管理人は主音(下の音)から弾きはじめるのが良いと思っています。
その理由は下の参考記事にまとめてありますのでよろしければご覧ください。
左手短前打音
ショパンの前打音は拍と同時に演奏するのが基本ですが,低音部の前打音は先取りで演奏されることが多いです。
Op.10-8の前打音は旋律につけられていますので,拍と同時に演奏するのがより好ましいと思います。
いずれにせよ,速いテンポの作品では先取りなのか,拍と同時なのか,は聴いていて違いが感じられないため大きな問題にはなりません。
低音部アルペッジョ
Op.10-8では左手低音部でアルペッジョがたくさん使用されています。
左手低音部のアルペッジョは,ショパンの装飾音ではめずらしく先取りで演奏することになります。
和声の根音である最低音を拍よりも先取りで鳴らすことで和声が明確になります。
先取りしなければならないのは根音である最低音だけですので,残りの音はどのタイミングで鳴らしても大丈夫です。
一番上の音が拍の頭に鳴る必要もありません。
最高音を拍の頭にそろえようとして慌てて音を詰め込むと強烈な打撃音が発生してしまいますので,
ショパンらしく,柔らかくアルペッジョの構成音を鳴らします。
根音である最低音が重要な音だからといって,不必要なアクセントをつけてはいけません。
最低音から一番上の音に向かってゆるやかにクレッシェンドするのが基本です。
両手アルペッジョ
ショパンの両手アルペッジョですが,アルペッジョ記号(アルペッジョの波線)が右手・左手で分かれて記譜されていても,左手と右手を同時に弾きはじめることはありません。
当サイト管理人は上の「奏法」のように演奏します。
参考になさってください。
ショパン 練習曲(エチュード)Op.10-8 実際の演奏
当サイト管理人 林 秀樹の演奏です。2021年5月録音
当サイト管理人,林 秀樹の演奏動画です。
自筆譜や写譜,原典版などをご覧いただきながら演奏を楽しんでいただけるようにしています。
できるだけ原典に忠実な演奏を心がけています。
アマチュアピアニストの演奏なので至らぬ点もたくさんあると思いますがご容赦ください!
*2021年5月録音
◇Op.10-8単独再生
◇Op.10 12曲連続再生
◇Op.25 12曲連続再生
本来,練習曲集は12曲(もしくは24曲)全曲を通して演奏するべきなのですが,
原典に忠実な録音を残すために,1曲ずつ何回も(ときには100回以上も)録り直して録音しました。
演奏動画を録音したときの苦労話はショパンの意図に忠実な参考演奏動画【練習曲集Op.10】をご覧ください。
今回は以上です!