ショパンの生涯 パリ時代
1831年:ショパン21歳
◆主な出来事◆
タールベルクの演奏会を聴く。ウィーンで演奏会も開けないまま無為に日々を送るが,ニデツキら,ポーランド人音楽家や,マルファッティ医師らと親交を結ぶ。
4月頃からパリ行きを計画するが,なかなか出国できない。
7月20日,ミュンヘンに向かう。シュトゥットガルトを経て,9月末ないしは10月はじめにパリに到着する。
カルクブレンナー,ロッシーニらの音楽家に会う。
シューマンの主催する「音楽新報」に「ラ・チ・ダレム・ラ・マノによる変奏曲」を絶賛する批評が掲載される。
◆作品◆
バラード ト短調 Op.23エチュード ハ短調『革命』Op.10-12
スケルツォ ロ短調 Op.20
華麗なる大円舞曲 変ホ長調 Op.18
華麗なるワルツ イ短調 Op.34-2
歌曲「悲しみの川」Op.74-3
歌曲「許婚者」Op.74-15
歌曲「リトアニアの歌」Op.74-16
華麗なる大ポロネーズ Op.22 ※アンダンテ・スピアナートの部分は1834年
◆社会的・芸術的な出来事◆
1月,ポーランド議会が独立宣言するも,革命軍はロシア軍に鎮圧され,11月蜂起は挫折する。リヨンをはじめ,ヨーロッパ各地で暴動が起きる。
エジプト軍,シリアに侵入。
ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』
ベリーニ『ノルマ』
マイヤベーア『悪魔のロベール』
ウィーンを出発
1831年7月20日,ショパンは友人クメルスキーとともにウィーンを発ち,まずはミュンヘンへ向かいます。
ショパンは1ヶ月ほどミュンヘンに滞在しました。
自作のホ短調の協奏曲や『ポーランドの旋律による幻想曲』を演奏したりしてパリまでの旅費を稼ぎ,9月にはシュトゥットガルトへ向かいます。
ミュンヘンでの演奏は雑誌に評論が掲載され「高度なテクニックと繊細な魅力」「モチーフの独特な処理が注目された」「見事なでき」「満場の拍手を浴びた」などと称賛する記事となっていました。
9月8日,シュトゥットガルトで,ついにロシア軍による総攻撃にワルシャワが陥落し,蜂起が失敗に終わったことを知ります。
ショパンは家族や友人,知人たちの生死もわからないまま,とりあえずパリを目指します。
ショパンは家族や市民の安全が脅かされることや,女性がロシア兵に乱暴されることなどを憂慮します。
ポーランドの援護に動かなかったフランスを呪い,神がロシア軍の行いを許したことに幻滅しました。
こうした心の叫びは,革命のエチュードOp.10-12やスケルツォOp.20などに昇華されます。
流されるようにパリへ
ショパンは9月中旬にパリへ向けて出発しました。
ロシア軍に蹂躙されているであろうワルシャワに向かうこともできず,たとえウィーンと同じ残酷な運命が待っているとしても,パリ以外に向かうべき先が見つかりませんでした。
両親や友人の生死さえ不明な不安を抱えながら,運命に服従するように流されるようにパリへ向かいます。
途中で友人クメルスキーはベルリンへ向かったため,苦悩と旅に疲れ切っていたショパンは一人孤独でした。
そして9月末には,有力者への紹介状もなく,旅銭も心もとない青年は,不安を胸にパリに到着します。
パリでは,ワルシャワの家族や友人の無事が分かり,ひとまず安心しました。
それから出版社や劇場,音楽家などに挨拶廻りをして演奏会の準備にとりかかります。
パリではロッシーニやケルビーニ,カルクブレンナーに会いました。
中でもカルクブレンナーとの出会いは印象的だったようです。
当時パリで最高の名声を誇っていたカルクブレンナーは,ショパンのパリデビューへ向けて尽力しました。
当時のパリは亡命してきたポーランド人もたくさんおり,大変慰めになったようです。
ポーランドの占領側であったウィーンでは反ポーランドの風潮でしたが,そんなウィーンと対立するバリでは亡命してきたポーランド人に好意的でした。
そんな亡命者をとりまとめていたのがチャルトリスキ公でした。
ワルシャワ蜂起で一時樹立された国民政府の首相だった人間で,蜂起失敗後はパリに亡命していました。
パリにはロシアの弾圧から逃れてきたポーランド人が大勢いたため,チャルトリスキ公はそんなポーランド人亡命者社会の総帥でした。
ショパンとチャルトリスキ一家とは,ショパンが亡くなるまで親しく付き合い,最後にショパンの葬列の先頭をつとめたのも,年老いたチャルトリスキ公でした。
また,後にショパンが愛用することになるプレイエルのピアノとの出会いもありました。
1832年:ショパン22歳
◆主な出来事◆
2月に,パリでデビュー・リサイタルを開く(2月25日)。リスト,メンデルスゾーンらが聴きにくる。経済的に行き詰まり,将来に不安を感じる。アメリカへの移住を考え始める。
ロスチャイルド家の夜会を転機に,演奏会やレッスンの依頼が来はじめ,経済的問題は一挙に解決する。
パリとロンドンで初めて楽譜を出版する。
ベルリオーズ,フィールドに会う。
◆作品◆
エチュード ホ長調「別れの曲」 Op.10-3エチュード 嬰ハ短調 Op.10-4
エチュード ハ長調 Op.10-7
エチュード イ短調 Op.25-4
エチュード ホ短調 Op.25-5
エチュード 嬰ト短調 Op.25-6
エチュード 変ニ長調 Op.25-8
エチュード 変ト長調「蝶々」 Op.25-9
エチュード ロ短調 Op.25-10
マズルカ 変ロ長調 Op.17-1
マズルカ ホ短調 Op.17-2
マズルカ 変イ長調 Op.17-3
マズルカ イ短調 Op.17-4
マズルカ ニ長調 BI.71 KK.IVb-2
マズルカ 変ロ長調 BI.73 KK.IVb-1
ロンド 変ホ長調 Op.16
演奏会用アレグロ イ長調 Op.46 *元々ピアノ協奏曲として作曲されたが,第1楽章のみピアノ独奏曲として1841年に完成。
◆社会的・芸術的な出来事◆
秘密結社「若きイタリア」が結成される。フランス軍,アントワープを占領。
イギリスで選挙法改正。
ゲーテ『ファウスト 第2部』完成。
ゲーテ,ヴァイマールで死す。
バルザック『風流滑稽譚』
サンド『アンディアナ』
メンデルスゾーン『ピアノ協奏曲 ト短調』
パリデビューリサイタル
ショパンのパリデビューリサイタルは様々な障害のため,1831年の12月25日,ついで翌年の1月15日と何度も延期され,ついに実現されたのは1832年2月25日でした。
*長らく2月26日に開催されたと思われていましたが,当日のプログラムが発見されて2月25日に開催された可能性が高くなっています。
プレイエルの好意で準備されたプレイエル・ホール (サル・プレイエル) には亡命のポーランド人や,パリの一流の音楽家や芸術家が集まりました。
その中には,ショパンより1ヶ月遅れで12月にパリに到着し,またたく間に社交界の人気者となったメンデルスゾーン,すでにパリでスーパー・スターとなっていたフランツ・リストもいました。
いつも控えめなメンデルスゾーンが気が狂ったように拍手をおくり,リストもこの演奏会を大絶賛,3ヶ月も間をあけず,5月20日には第二回の演奏会が開催されました。
このとき演奏されたのはホ短調のピアノ協奏曲Op.11で,ホ短調の協奏曲を先に発表したことで,ホ短調が協奏曲「第1番」となり,それより先に作曲されていたヘ短調が協奏曲「第2番」となりました。
残念ながら,このときのショパンの手紙は残っていません。
しかし,ウィーンでの苦い経験や祖国の情勢から,覚悟を持ってこの演奏会に臨んだことが想像されます。
ここには経済的な不安もありました。
革命の最中にある家族へ送金を求めることはできません。
祖国に戻ることもできません。
パリ以外に行き先もなく,どうしてもパリで自活していくしかありませんでした。
パリでの2回の公演は芸術的には大成功でしたが,経済的には失敗でした。
ショパンは絶望のあまり,生活のためにアメリカに移住することも考えていたようです。
ピアノ教授で自活
5月の演奏会は慈善音楽会で,社交界の人々が集まっていました。
そしてこの日のフレデリックの上品で好ましい印象は,またたく間にフランス貴族社会で評判となり,上流階級の夜会に招かれるようになります。
ショパンの繊細な演奏は,大きなホールでは「音が貧弱」などと批判されてしまうこともありましたが,サロンの部屋の中でのフレデリックの演奏は上流階級の御婦人方をメロメロに魅了します。
フレデリックは教養ある父ニコラスからしつけられていたおかげで,マナーも良く,紳士的で品を感じさせ,その控えめな性格も相まって一気に社交界の寵児となります。
名家の夫人や令嬢がショパンのレッスンをこぞって求めるようになりました。
貴族たちが取り決めたレッスン料は1回45分で20フランという大変な高給で,ショパンの経済的な問題は一気に解決しました。
生活のための収入をレッスンによって得ることができることを見出したのでした。
ショパンのピアノレッスン
ショパンのピアノ教授法は,手の柔軟性を強調し,フォルテでも叩きつけずにやわらかく演奏することを求めました。
また歌うような演奏を求め,イタリアオペラを聴きに行くように言っています。
さらにはバッハを敬愛し,バッハの平均律で練習するように言い,テンポ・ルバートやペダリング,指遣いやタッチなど,とかく細かな指導をしていたようです。
ショパンの1回のレッスン料は45分で20フラン。
現在の日本円に直すと10万円ほどになります。
レッスンの日は,1日に5,6人を教えていたそうで,それだけで相当の収入になりました。
フレデリックはすぐに社交界での交友関係を楽しむようになります。
生来の上品な振る舞いや容姿もあり,白い手袋をはめて,馬車を乗り回す姿は,あたかも昔から社交界の人間だったかのようでした。
19世紀の1フランが21世紀の日本円でいくらに換算されるのかは,いろいろな計算方法があるそうです。おおよそ,当時の1フラン=現在の約4,000円が標準の計算方法のようです。
このころ,初恋の人コンスタンツィアが結婚したことを知りますが,さほどショックは受けなかったようです。
1833年:ショパン23歳
◆主な出来事◆
ベルリオーズ主催の音楽会でリストと共演し,これを機会に,社交界の有名人らと親交を結び,サロンの人気者となる。ハリエット・スミッソンのための慈善演奏会に出演,リストと共演。
夏はブリュッセルで数日過ごした後,フランショームと共に トゥーレーヌで過ごす。
デルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人のピアノをレッスンする。
◆作品◆
マズルカ ハ長調 BI.82 KK.IVb-3ノクターン ト短調 Op.15-3
華麗なる変奏曲 変ロ長調 Op.12
ボレロ ハ長調 Op.19
チェロとピアノのための,マイヤベーアのオペラ「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲 ホ長調 BI.70 KK.IIb-1 ※チェロパートはフランショーム作
◆社会的・芸術的な出来事◆
イギリスで工場法が制定され,児童の工場での労働が取り締まられるようになる。ヨハネス・ブラームス生まれる(5月7日)。
プーシキン『エフゲニー・オネーギン』
サンド『レリア』
メンデルスゾーン『交響曲 イタリア』
◆日本の出来事◆
天保の大飢饉(1833年-1839年)1833年3月23日の演奏会では,ショパン,リスト,ヒラーがバッハの『3つの鍵盤楽器のための協奏曲」を共演しています。
1834年:ショパン24歳
◆主な出来事◆
F.ヒラーと共に,メンデルスゾーンの招きで,ライン音楽祭へ出かける。ジュネーズ滞在中のヴォジニスキ家より,ショパンあてに招待状が来る。
マリア・ヴォジニスカに,新作のワルツを贈る。
12月,ベルリオーズ主催の音楽会で「ピアノ協奏曲 ホ短調」を演奏。
クリスマスには,プレイエル・ホール (サル・プレイエル) で,リストらと共に演奏会を開く。
◆作品◆
エチュード イ短調「木枯らしのエチュード」Op.25-11マズルカ ト短調 Op.24-1
マズルカ ハ長調 Op.24-2
マズルカ 変イ長調 Op.24-3
マズルカ 変ロ短調 Op.24-4
マズルカ 変イ長調 BI.85 KK.IVb-4
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66
ポロネーズ 嬰ハ短調 Op.26-1
ポロネーズ 変ホ短調 Op.26-2
アンダンテ・スピアナート ト長調 Op.22 ※ポロネーズ部分は1831年に作曲
カンタービレ 変ロ長調 BI.84 KK.IVb-6
プレピュード 変イ長調 BI.86 KK.IVb-7
◆社会的・芸術的な出来事◆
スペイン市民戦争。イギリス,植民地での奴隷制廃止。
ミツキェヴィッツ『パン・タデウシュ』
バルザック『ゴリオ爺さん』
シューマン『謝肉祭 Op.9』
ベルリオーズ『イタリアのハロルド』
シューマン「音楽新時報」を創刊。
◆日本の出来事◆
水野忠邦,老中となる。誇り高き決断
フレデリックはワルシャワ蜂起よりも前にポーランドを出国していたので,まだ亡命者ではありませんでした。
そんな中,1834年にロシア皇帝が,フランス領内にいるポーランド人に対して,ロシア大使館に出頭するように命令を下しました。
もしも出頭しなければ亡命者となってしまい,ロシアの支配下にあるワルシャワには二度と帰れなくなってしまいます。
ロシア側は,芸術家として名声を高めていたショパンを手に入れたがっていました。
「ロシア皇帝付き主席ピアニスト」という地位や様々な特権(自由に祖国に入ることなど)をショパンに与えるように準備していました。
父ニコラスからも「頼むからロシア大使館に出頭して手続きをしておくれ」という手紙が届きます。
しかしフレデリックは,たとえ二度と祖国に戻れなくなるとしても,ロシアに忠誠を誓いたくないという思いから,自ら亡命者となる選択をします。
1835年:ショパン25歳
◆主な出来事◆
2月,3月と相次いで,エラールとプレイエルのホールで演奏会を開く。8月,湯治で滞在中の両親に会うため,カールスバートへ赴く。3週間滞在する。
パリへ戻る道すがら,ドレスデンのヴォジニスキ家を訪問する。マリア・ヴォジニスカに魅了される。ドレスデンを発つ日,マリアにワルツを贈る。
ライプツィヒのメンデルスゾーンのもとで,シューマン,クララ・ヴィークに会う。
帰途,ハイデルベルクで喀血。パリではショパン死亡のデマまで流れる。 年末,パリに戻る。
◆作品◆
エチュード 変イ長調『エオリアン・ハープ』Op.25-1エチュード ヘ短調 Op.25-2
エチュード ヘ長調 Op.25-3
エチュード ハ短調『大洋』Op.25-12
マズルカ ト長調 Op.67-1
マズルカ ハ長調 Op.67-3
マズルカ 変ロ長調 KK.Ve-4 *ポーランド国家ドンブロフスキのマズルカの後半部分を編曲したもの。
ノクターン 嬰ハ短調 Op.27-1
ノクターン 変ニ長調 Op.27-2
ワルツ 変イ長調 Op.34-1
ワルツ 変イ長調「別れのワルツ」 Op.69-1
ワルツ 変ト長調 Op.70-1
◆社会的・芸術的な出来事◆
フランスで9月法制定。これによって,不穏な動きや過激な活動が検閲されるようになる。ドニゼッティ『ランメルムーアのルチア』
シューマン『ピアノ・ソナタ 第1番』『交響的練習曲』
両親との生涯最後の再会
ショパンはポーランド愛国主義者でしたが,フランスではフランス式の名前を名乗り,1835年8月1日にはフランスの市民としてフランスの旅券が発行されています。
亡命者となったフレデリックは,ロシア統治下にあるワルシャワの家族とは簡単には会うことができません。
そんな中,8月に,フレデリックの両親がボヘミアのカールスバートへ来ることになりました。
父ニコラスが医者に湯治をすすめられたためでした。
母ユスティナも一緒でした。
なお,このときには姉ルドヴィカも妹イザベラもすでに結婚していたため,カールスバートにきたのは両親だけでした。
カールスバートはロシアの影響下になく,フレデリックもフランス旅券でカールスバートへ向かいます。
こうして,フレデリックは両親との再会を果たします。
5年ぶりに両親との再会を果たしたフレデリックの喜びはどれほどのものだったでしょう。
しかし,これが生涯で最後の再会となりました。
マリア・ヴォジニスカとの出会い
シューマンとの出会い
ドレスデンを発ったショパンは次にライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ねます。
メンデルスゾーンはゲヴァントハウスの指揮者となり栄光に包まれていました。
さらに,メンデルスゾーンの紹介で,ヴィーク家を訪れます。
ヴィーク家では,天才少女ピアニストのクララ・ヴィークと,クララの家に来ていた,後にクララの夫となるロベルト・シューマンに会います。
ショパンを崇拝していたシューマンは,ショパンとの出会いに感激しますが,ショパンはそうでもなかったようです。
このとき,クララ・ヴィークがショパンのエチュードを2曲演奏し,その演奏にショパンはいたく感心したとのことです。
両親との5年ぶりの再会,ドレスデンでの新しい恋,ライプツィヒでのメンデルスゾーンとの再会とシューマンとの出会い。
1835年の夏は,ショパンの短い一生の中でも最も祝福に満ちた楽しい数ヶ月だったと思われます。
マリアの兄アントニ
パリに戻ってくるとマリアからの手紙が届きます。
そこにはフレデリックへの想いがつづられるとともに,マリアの兄でフレデリックの幼友達のアントニの面倒を見てほしい,と書かれていました。
そのアントニはお調子もので金遣いが荒く,フレデリックを連れ回して豪遊したあげく,フレデリックから借金をしまくりました。
この借金は結局踏み倒されています。
ショパン重病説
11月体調を崩したショパンはパリの街にあまり姿を見せなくなり,故郷への手紙も途絶えていました。
12月には「ショパン重病説」「ショパン死亡説」がウワサされ,そのウワサはワルシャワにも届きます。
そんなとき,マリアの父ヴォジニスキ氏がショパンの父ニコラスを訪ねます。
当時マリアたちはドレスデンに住んでいましたが,父ヴォジニスキ氏はポーランドに帰ってきていました。
マリアの母テレサ夫人からマリアとショパンの関係を聞いていたヴォジニスキ氏はショパンの様子を探りに,わざわざ父ニコラスのもとを訪れたのでした。
ステージ恐怖症
パリに来た当初は生活のため何度か舞台に立っていましたが,ピアノ教師としての収入が増え,作品が次々と出版されるようになると,ピアニストとしての活動から身を引いていきます。
自分の繊細な演奏が大きな会場では効果が上がらないことを痛感しており,次第にステージ恐怖症になっていきます。
ティトゥスと疎遠に
ティトゥスから「なぜオラトリオ(宗教音楽)を書かないのだ。オラトリオを作曲したまえ」という手紙が届き,これがフレデリックのカンに触ったようで,しだいにフレデリックはあんなに頼り愛していた友人ティトゥスと疎遠になっていきます。
後にショパンが死の床についたとき,偶然ティトゥスがオランダに出張にきていることを知って,とても会いたがったといいますが,ついに2人が再会することはありませんでした。
「3本の手」奏法の代表曲といえば,
スーザ作曲「星条旗よ永遠なれ」のウラディミール・ホロヴィッツ編曲。
You Tubeで見つけた動画を貼っておきます。
この動画は演奏もホロヴィッツ本人です。
2:15あたりからが特にすごい!です。映像なしで音楽だけ聴いていると,本当にもう1本手があるようにしか思えません。
しかも,これはライブ録音で,会場の驚きのざわめきも収録されいます。